お宝映画・番組私的見聞録 -99ページ目

東映俳優録33 松川純子(立川さゆり)

東映第9期ニューフェイスの顔ぶれだが、守屋穣、高木健雄、井出祐一郎、福西紙人、松川純子(立川さゆり)、暁冴子、勝山まゆみ、赤尾静子、杉山枝美子となっている。この中で活躍したといえるのは松川純子くらいで、後は見事にわからない。
8期は60年入社で61年デビューと書いたが、9期の松川純子は61年にはデビューしているのである。続く10期は61年に入社し、62年にデビューしているようなので、ひょっとしたら、ここは1年区切りではなく半年区切りで募集したのではないだろうか。
60、61年といえば第二東映(ニュー東映)が存在した時代であり、役者も大勢必要とされていた頃なので、そういうことがあっても不思議ではない。だから9期は人数も少ないのかもしれない。
唯一活躍した松川純子についても詳しい情報はない。立川さゆりの名でデビューし、松川純子に改名したと思っていたのだが、Movie Walkerで検索すると松川純子の名では61~62年にかけて5作品あり、立川さゆりだと62~64年にかけて13作品が検索される。これを信用すれば、松川純子でデビューし立川さゆりに改名し、再び松川純子に戻したと思われる。
彼女がデビューしてまもなくニュー東映が消滅してしまった影響もあるのか、いずれにしろ映画出演は少ない。立川さゆり時代では「唄祭り赤城山」(62年)、「無法の宿場」(63年)あたりでヒロイン級の役を演じている。前者の主演は近衛十四郎、品川隆二という後に素浪人シリーズでお馴染みとなるコンビであった。
64年に東映京都テレビプロが番組制作を開始し、その第1回作品が「忍びの者」であり、主演は品川隆二で以下、里見浩太朗、山城新伍、東千代之介、高田浩吉、栗塚旭、坂口祐三郎という豪華な面々である。立川さゆりも出演したのだが、ここで事件が起きる。彼女が火あぶりになるシーンがあったのだが、そこで脚に全治1カ月という火傷をおってしまったのである。当時それがすぐに明らかになったかは不明だが、番組は予定通り1年間放送された。現在なら放送中止もありえた。
そのせいかは不明だが、翌65年には芸名を松川純子に戻し、テレビが中心の活動となっている。ここで良く名前の登場する「特別機動捜査隊」にも何回もゲスト出演しているのだが、個人的にはあまり印象に残っていない。円谷プロ製作の「怪奇大作戦」(69年)で実相寺昭雄が監督した「呪いの壺」というエピソードでの彼女が印象に強いという意見も見られる。
記録上最後となっているのは田村正和主演の「若さま侍捕物帳」(78年)へのゲスト出演となっている。

東映俳優録32 嶋田景一郎、小川守

再び、第8期東映ニューフェイスの話に戻るのだが、坂口祐三郎と藤江リカ以外にも短期間ではあるが、活躍したといえるのが嶋田(島田)景一郎と小川守である。
両名とも「日本映画俳優全集」にもウィキペディアにも項目がない人なので、詳しいことはよくわからない。
デビューは61年のはずだが、嶋田に関しては64年以降の記録しか出てこない。本名(島田元文?)か、違う芸名で活動していたのかもしれない。
記録上最初に出てくる「走れ!左源太」(64年)というドラマで、同期の坂口と共演。そして、「仮面の忍者赤影」(67~68年)でも第3部に織田信長役で出演している。信長は第2部では倉丘伸太郎が演じていたのだが、特に違和感はない。倉丘と嶋田は結構似ているのである。この信長役が結局彼の代表作といえるかもしれない(出番も多かったし)。
坂口は著書で「嶋田君はこれを最後に役者を引退してしまった」と書いているが、それは間違いで、少なくとも72年頃までは活動していたようである。映画出演を調べても7本くらいしか出てこないが、最後となっているのは「男の代紋」(72年)という作品になっている。テレビの方も時代劇オンリーかと思いきや「プレイガール」の初期にゲスト出演しているようである。
未確認ではあるが70~71年には島田景二郎を名乗っていたこともあるようだ。あと「隼人が来る」(72年)には島田元文の名が見られる。同一人物かどうか確認はできないが、その可能性は高い。
その後はどうしていたか不明だが、09年に青影役の金子吉延が嶋田とばったり出会ったという。「青影?信長だよ」と声を掛けられたという(二人が一緒の場面が多かったのである)。ちなみにそれは「宮本武蔵巌流島の決闘」(65年)の上映会で、嶋田は錦之助の殺陣師として知られる尾形伸之介と一緒だったという。嶋田も尾形もその映画に出演していたのだ。
小川守は61~65年にかけて30本もの映画に出演している。主役級の役も多く、期待されていた存在だったことがわかる。梅宮辰夫主演作品への出演が多く「赤いネオンに霧が降る」(61年)では準主役だし、高倉健主演の「花と嵐とギャング」(61年)では高倉と義理の兄弟を演じている。

そこでも共演した新井茂子との絡みが多く「特別機動捜査隊東京駅に張り込め」(63年)は、新井のためにその姉を殺すという役だし、二か月後の「警視庁物語十代の足取り」では、小川と新井は恋人同士だが、こちらではその妹を殺してしまうという役を演じているのである。つまり、どちらも小川が犯人で被害者はどちらも新井の姉妹なのである。
このように重要な役どころお多かった小川だが、66年以降はパッタリと映画出演がなくなり、ドラマの方も「特別機動捜査隊」のゲストに顔を見せる程度になってしまう。記録上最後になっているのは「ふたつの花」(69年)という有川由紀主演の昼メロである。
何が起こったかは不明だが、突然映画出演がなくなり、ひっそりと姿を消してしまったのである。

東映俳優録31 西田良(+川谷拓三)

「仮面の忍者赤影」(67~68年)では東映大部屋役者が大活躍していたが、もちろんこの番組においてもセリフもなく、名前もクレジットされない役者たちはいた。
今では結構知られている話なのだが、あの川谷拓三もその一人である。敵の下忍の役で忍者装束で目だけ見えているというスタイル。セリフもなく要するに斬られ役なわけだが、意外とこれがわかるのである。第何話とかは忘れたが眼だけしか見えていないくてもアップになるので、「今の川谷拓三だ」と判別できるのだ(他にも侍役などで何回か出演している)。
それと同じ役で出ていたと思われるのが西田良である。思われると書いたのは特にそういった確定情報がないからなのだが、川谷の次に眼だけ見えるアップが西田であると思われる。
実はこの二人、60年4月に京都撮影所に入社している同期なのである。ニューフェイスでいえば、第7期が同期にあたる。だから、同じような役をやっていたとしても不思議ではないのだ。もちろん、その顔や目に特徴があるから(猿顔)、隠していてもわかりやすいのである。
西田良は39年生まれ。高校在学中に太秦演技研究所に入所。卒業後には研究所仲間と劇団「現俳」を結成し、開局まもない関西テレビのスタジオ生ドラマ等に出演していた。そして、前述のとおり60年4月に東映京都撮影所に入社した。
当初は本名の西田良明として活動。モブやエキストラ、斬られ役などをやっていたが、チャンバラトリオの項でも書いた東映剣会のメンバーに合格してから目立つ役も増え始めた。
「赤影」では名もなき役を演じていた一方で、ほぼ同時期にスタートした「俺は用心棒」(67年)では、坂口祐三郎が「新選組血風録」で演じた山崎烝の役を西田が演じていたのである。実は坂口も「赤影」との二択を迫られ「赤影」を選んだわけだが、「俺は用心棒」への出演を選んでいたら俳優人生も変わっていただろう、とその後も考えることがあったようだ。
これ以降の用心棒シリーズにも西田は小田部通麿、香月涼二と共にレギュラーとして出演した。
「燃えよ剣」(70年)では、新選組の原田左之助役を演じているが、これには前回の有川正治が関係している。有川は「燃えよ剣」では「新選組血風録」(65年)でも演じた永倉新八役を依頼されたが、あの名プロデューサー俊藤浩滋から映画を優先するように言われ、「燃えよ剣」の河野寿一監督に西田を伴って謝罪に行き、「西田を何かで使ってください」とお願いしたという。
元々、西田は栗塚旭主演の時代劇シリーズ常連であったので、黙っていても何かの役には抜擢されたと思われるが、原田左之助役だったかはわからない。有川の進言が関係したのかもしれない。
その後、西田は舞台でも原田左之助役を演じたりしており、プロフィールにも自身の代表作として挙げている。
川谷拓三も「燃えよ剣」には何度か出演しているが役柄は「新選組隊士」であった。後に誰もが知る役者となる川谷だが、当時は西田の方がずっと名が知れていたと思われる。

東映俳優録30 小田部通麿、有川正治

前回に引き続き「仮面の忍者赤影」で活躍した東映大部屋役者をピックアップしてみたい。
今回は第2部卍党編に登場した不知火典馬役の小田部通麿と魚鱗流伯役の有川正治を取り上げてみたい。二人は卍党編開始の第14話にコンビで登場。時代劇なのに防毒マスクとウェットスーツといういで立ち。「ファイヤー」と叫んで火を放つ典馬と「ウオーター」と叫んで水鉄砲を撃つ流伯に衝撃を受けた人は多いのではないか。
小田部通麿は26年生まれ。通麿とはあの顔に似合わぬ名前だが、寺の息子であり本名のようだ。拓殖大学を卒業後は法務省教官となっている。わかりやすく言えば、少年院の教官である。戦災孤児のために何かをしてやりたいというのが動機であった。
しかし、55年たまたま東映京都撮影所を訪れた際、その強面の顔を見込まれ?俳優の道を勧められたことから、東映に入社したのである。29歳という遅い俳優スタートであった。しかし、映画出演もテレビ出演も非常に多く、時代劇を中心に悪役として活躍。
「赤影」とほぼ同時にスタートした栗塚旭主演の「俺は用心棒」(67年)に目明し役で準レギュラー出演。同シリーズの「待っていた用心棒」「帰ってきた用心棒」にも準レギュラーとして出演した。
京都の誠心寺に婿養子といて入り、俳優と住職の二束の草鞋を踏んでいた。このため、本名は釈(とき)通麿となった。前述の作品の脚本を書いた結束信二が亡くなった時のお経は結束の遺言もあって、小田部が読んたという。
小田部本人は04年に77歳で亡くなっている。
有川正治は30年生まれ。立命館大学を中退し、養父の牧場で働いていたが、59年に俳優志望だった甥のマネージャーになるつもりで、東映京都撮影所の入社したという。くしくも小田部と同じ29歳での俳優スタートであった。小田部同様、大柄な体格と強面の風貌を生かして時代劇や任侠映画中心に出演した。
テレビでの初レギュラーは、栗塚旭主演、結束信二脚本の「新選組血風録」(65年)で、有川は永倉新八を演じた。ちなみに坂口祐三郎は山崎烝を演じていた。ほぼ同じスタッフによる「われら九人の戦鬼」(66年)でも、坂口も有川も九人の中の一人を演じている。
前回、汐路章の項で書いた「十三人の刺客」(63年)では、小田部、有川共に刺客たちと戦う明石藩士を演じている。
実兄は漫画家の有川旭一。原作の福井英一亡き後も連載が続いていた「イガグリくん」を執筆したうちの一人である。
有川正治は存命と思われるが、出演記録で確認できているのは04年までである。
「赤影」では、小田部は第3部で魔風刑部、有川は第4部で花粉道伯と別の敵忍者を演じている。

東映俳優録29 阿波地大輔、汐路章

坂口祐三郎が主演した「仮面の忍者赤影」(67~68年)は東映大部屋役者の宝庫のような番組である。普段目立たない彼らが、敵忍者としてだが、ここぞとばかりに大活躍していた。
今回は、第一部に登場した霞谷七人衆の中から朧一寛役の阿波地大輔と夢堂一ツ目役の汐路章をピックアップする。
阿波地大輔は32年生まれ。当初は本名の南修で活動していた。阿波という字面から四国の人かと思いきや淡路島出身なので阿波地という芸名なのである。同志社大学を卒業したが就職難で、東映京都撮影所のエキストラを世話するアルバイトの責任者をしているうちに自分も大部屋俳優になったという。
当初はセリフもない斬られ役の日々が続いていたが、61年に師匠にあたるという近衛十四郎の指名で「柳生武芸帳・夜さくら秘剣」で役らしき役とまともな台詞を与えられたという。
一度見たら忘れないであろう強烈な容姿もあり、主に悪役として順調に活動を続けた。「赤影」の出演はおそらく「大忍術映画ワタリ」(66年)に阿波地も伊ケ崎六人衆の一人ヨサメ役で出演していた流れと思われる。
汐路章は28年生まれ。「蒲田行進曲」でヤスのモデルになった人物としても有名であろう。
戦後職を得られなかったことから、47年に小劇団の事務見習いとなり、後に大友柳太朗の新星座に入って俳優となったのである。53年頃から映画各社に斬られ役として出演。初クレジット作品は新東宝の「紋三郎の秀」(55年)ということになるらしい。
東映入社は57年のことで、以降時代劇だけでなく現代劇にも悪役として登場している。悪役だけでなく「十三人の刺客」(63年)では、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎らの大スターに混じって刺客の一人を演じたりしている。75年に東映を離れフリーとなったが、翌76年から太秦村で自作の寸劇に出演していたという。
「赤影」には一ツ目という子供が見たら泣きそうな怖いメイクで出演していたが、第3部は夕里弾正、第4部は魔風雷丸と違った役で出演し、見た目はコミカルな感じになっていった。阿波地も第4部では血汐将監という敵の役で出演した。
この二人を並べて紹介したのにはわけがある。実は二人そろって94年10月29日に亡くなっているのである。阿波地は62歳、汐路は66歳であった。阿波地は「急死」という感じだったようだ。この日はもう一人、大映時代劇の脇役だった堀北幸夫も亡くなっている。
阿波地も汐路も60代だっただけにまだ活躍が見込まれたであろう。ちなみに汐路の映画出演本数は2千本を超えていると言われている。

東映俳優録28 坂口祐三郎(+第8期ニューフェイス)

東映第8期ニューフェイスの顔ぶれは次のとおりである。主に60年に合格し、翌61年にデビューした面々である。
坂口祐三郎、嶋田景一郎、小川守、長谷川剛、池山浩史、九十九茂世、植木直一、愛川かおる、堀口由紀子、森美千代、梅野邦子、山路文子、三笠乃理子、笹みゆき、波多美知、藤江リカ(五十嵐藤江)となっている。
この中で名の知れているのは坂口祐三郎と藤江リカくらいであろうか。嶋田景一郎と小川守も60年代はそれなりに活躍していたといえるが、後は中々わからないと思う。この中で三笠乃理子は、チャンバラトリオのリーダー山根伸介と結婚したそうだ。
坂口祐三郎は、前々回に書いたとおり前回7期の合格者だったが、1年先送りでの入社となったのである。
坂口は、著書「赤影参上」によれば、福岡の高校時代はその美少年っぷりで女生徒には人気があり親衛隊のようなものがあったという。本人は役者になる気などまるでなかったというが、彼の親衛隊長だった女子が「あなたはこんな田舎で過ごしているような人じゃない」と東映ニューフェイスに彼の写真を勝手に送ったのだという。彼女は悪びれることもなく「あなたのもとに合格通知が届くわ」と言ったという。
彼女の予言?のとおり、面接通知が届き、坂口も軽い気持ちで「ちょっと行ってみるか」と、生まれて初めて東京に出てきたのである。東映本社で彼を迎えた演技課長は「君は何かが違う」といい、試験の最中だったにもかかわらず「君は大丈夫だから」とニューフェイスの集まるパーティに彼を連れていったりしたという。
以上のように期待値の高い中での入社だったわけである。デビュー作は里見浩太朗、山城新伍主演の「新黄金孔雀城 七人の騎士」の第2部(61年)であり、地底の王子という役であった。前述の著書ではさも「坂口祐三郎」としてデビューしたかのように書かれているが、デビュー時の芸名は「牧口徹」である。何故か著書にはその名は書かれていない。ちなみに、本名は中村徹である。そのままだったら仲村トオルとかぶってしまうところだったのだ。
64年のドラマ「走れ左源太」に出演した時から、撮影所長に名付られた坂口祐三郎となったのである。当初の期待とは裏腹に準主役どまりだったところに、「仮面の忍者赤影」(67~68年)の主演が決まったのである。赤影は大ヒットし、坂口も人気ものとなったが、逆にそれが弊害になってしまう。赤影のイメージが強くなりすぎたのである。似合った役がみつからず仕事があまり来なくなったのだ。
そのため芸名も坂口徹郎とか坂口徹に変えたり、東スポにライターとして風俗記事を書いたりと試行錯誤が続いたが、89年に日光江戸村に招かれる。その後、九州に戻り俳優養成学校で後進育成にあたっていた。
しかし03年突然倒れ、脳幹出血のため帰らぬ人となった。61歳の若さであった。

東映俳優録27 結城美栄子、三島ゆり子

結城美栄子は43年生まれ。7~16歳までを海外で過ごしバレエの道を目指していたが、怪我のため断念。帰国後、女優を目指すようになり60年に第7期東映ニューフェイスに合格した。
結城美栄子のデビュー作は「続ずべ公天使 七色の花嫁」(60年)で、小宮光江、山東昭子、星美智子、小林裕子なんかがタイトルのズベ公役で出演しており、結城もそんな中の一人という役柄であった。しかし、東映女優としての出演はこの1本だけのようで、翌61年には俳優座養成所に第13期生として入所している。ちなみに同期には石立鉄男、細川俊之、横内正、佐藤友美、佐藤オリエなどがいた。
東映にいたのは1年足らずだったようで、ずべ公役なんぞやってられないという感じだったのだろうか。
キネマ旬報の「日本映画俳優全集・女優編」を見ても、結城の項に東映ニューフェイスだったことは書かれていない。俳優座養成所を卒業した後は、渡米してステラ・アドラー演劇学校で学ぶなど志の高い人だったのである。注目されるようになったのは竜雷太主演の青春ドラマ「これが青春だ」(66~67年)に出演してからである。
現在は女優業を控え、80年代から始めた陶芸家としての活動が主となっているという。
三島ゆり子は40年生まれ。出身は神奈川県だが京都撮影所に所属したため。時代劇中心の活動となった。デビュー当時は本名である木内三枝子名義であった。こちらもミエコである。デビュー作は、大友柳太朗主演の「危うし!快傑黒頭巾」(60年)と思われる。木内三枝子でも20本近い作品に出演しているが、これといった大役はなく63年より三島ゆり子を芸名としている。
「くノ一忍法」(64年)あたりから、汚れ役にも挑むようになり、存在感を示すようになってきた。時代劇だけでなくヤクザものにも多く顔を出し、菅原文太主演の「まむしの兄弟」シリーズ全9作などに三島は出演している。
個人的にこの人を知ったのは、東映の映画ではなく、必殺シリーズ第4作「暗闇仕留人」(74年)の妙心尼役によってである。結構そういう人も多いのではないだろうか。妙心尼が放つ「なりませぬ~」というセリフは当時、結構流行ったような記憶がある。
現在、拠点は近畿らしいが、70代半ばを迎えた現在も現役で活躍中である。

東映俳優録26 三沢あけみ(+第7期ニューフェイス)

東映第7期ニューフェイスの顔ぶれは次のとおりである。59年に合格し、翌60年にデビューした面々である。
宮園純子、三沢あけみ、三島ゆり子、結城美栄子、安城由貴、弥生弘子、矢島由起子、高根黎子、岡田悦子、片岡昭子、大野京子、高山美代子、塩沢あき子となっている。
見ての通り女性だけである。そのせいか、前回まで20人前後いた合格者も13人と数が減っている。
実は男性の合格者は一人だけいたのである。「赤影」で知られる坂口祐三郎である。詳しくは坂口の時に書くが、高校2年だった彼は卒業するのが当然と思っていたため、「来年だったら来れるので、次の期に入れてください」と大川社長に言い放ったのである。宮園や三島が高校を中退して東映入りしているのだが、大川は坂口の申し出を認め、坂口は第8期のニューフェイスとなったのである。
さて、第7期に話を戻すと、この中で一般的に知られているのは宮園、三沢、三島、結城の4人であろう。しかも、東映の女優として認知されているのは宮園と三島だけではないだろうか。
だいたい、三沢あけみって歌手だろって思う人も多いだろうが、スタートは女優だったのである。あの小林幸子だって元々は東映児童劇団に所属しており、長いこと女優業もやっていたのである。
三沢あけみは終戦直前の45年6月生まれ。ということは当時14歳、つまり中学生にして東映入りしたのである。デビュー作はドラマ版の「笛吹童子」(60年)で、主演は当時17歳の北大路欣也である。
映画の方は「新黄金孔雀城・七人の騎士」(61年)が初出演。「港祭りに来た男」「千姫と秀頼」(62年)などの時代劇に出演する。翌63年には「ふられ上手に惚れ上手」で歌手としてもデビューする。しかし、この歌は色気がありすぎるという理由で放送中止となってしまったのである。しかし、めげずに出した2枚目の「島のブルース」がヒットし、同年のレコード大賞新人賞を受賞する。これを機会に活動を歌手一本にしぼり、東映を退社したのである。
とはいいながらも、日活「006は浮気の番号」(63年)、東宝「喜劇駅前桟橋」(68年)など映画に出演することもあり、80年代以降も「水戸黄門」など、歌手活動の傍らドラマに顔を出すことも多い。
話は変わるが、大映に矢島ひろ子という女優がいたが、本名は矢島由起子というらしい。上記のニューフェイスに同姓同名がいるが、矢島ひろ子は61年までは大映の映画に出演していたので、まあ年齢(33年生まれ)からいっても別人であろう。

東映俳優録25 八名信夫

東映第6期ニューフェイスとほぼ同時期に東映に入社しているのが、八名信夫である。彼が元プロ野球選手であったことは有名な話だろう。
八名は岡山東商のエースだったが甲子園には出られなかった。三年先輩に秋山登と土井淳がいて、その誘いで明治大学商学部に入学したのである。秋山と土井は高校、大学、そしてプロ(大洋ホエールズ)と20年近くバッテリーを組み続けたことで知られる。八名の同級生には、やはり大洋で独特の天秤打法で活躍する近藤和彦がいた。
それにしても、明大商学部。偶然にも高倉健、今井健二、山本麟一などの後輩になったわけである。
当時の風潮かもしれないが、明大野球部は体育会系の極致で、上級生が下級生を殴るのは日常茶飯事。八名は二年になって百名以上いた部員の中からベンチ入りできる25人に選ばれたこともあり、レギュラーになれなかった上級生の反感を買い、言いがかりを付けられては殴られたという。先輩である秋山にも殴られたことがあったという。
近藤和彦からは「このままじゃ殺されてしまう。脱走してプロに入ろうよ」と持ちかけられ、合宿からの脱走を図ったが失敗に終わっている。結局、近藤は明大で4年間頑張ってプロ入りしたが、八名は3年になって退学退部し、56年に東映フライヤーズに入団した。ちなみに、1年早くやはり投手として入団していたのが後に新東宝で活躍する寺島達夫(本名・寺島達)であった。
入団3年目の58年、対近鉄戦に登板した八名は割れていたマウンドにスパイクがはまり、腰を骨折し選手生命を絶たれた。プロでの通算成績は15試合出場で0勝1敗である。
これからどうするか途方に暮れていた八名に、東映の大川博社長が救いの手を差し伸べた。「自分が保証人になるから、役者として東映で働かないか」というものである。

こうして、59年5月、第6期ニューフェイス入社から1カ月ほど遅れて八名は東映に入社したのである。東映では新人はまず半年間、俳優座で演技の勉強をすることにっているが、そこで八名が見たのはタイツ姿でダンスをしている役者の姿であった。
これはついていけぬと八名は「何とかしてください」と社長夫人に訴えたところ、社長が保証人ということもあり、現場で小さな役をもらいながら演技の勉強をしていくということにしてくれたのである。もし、この時に俳優座で研修を受けていれば第6期ニューフェイス扱いになっていたのかもれない。
最初に役をもらったのは梅宮辰夫主演の「遊星王子」(59年)で、宇宙人ギャングの役だった。宇宙服姿で眼だけしか見えない。梅宮に撃たれて死ぬ前の一言が「今に見てろよ」であったという。それ以来ずっと「今に見てろよ」と思いながら役者を続けていたという。つまり当初は「主役になって見返してやる」と思っていたのである。

東映俳優録24 倉丘伸太郎(倉岡伸太朗)

倉丘伸太郎は一時期かなり人気のあった俳優なのだが、柔道もののイメージが強く、東映の役者というイメージを持っている人は少ないのではないだろうか。
倉丘は41年生まれで、59年高校在学中に東映第6期ニューフェイスに合格し、高校(兵庫高)を中退して東映入りしている。デビュー作は「右門捕物帖 地獄の風車」(60年)で、その後も「幽霊五十三次」(61年)、「源九郎義経」(62年)といった時代劇に脇役出演したが芽が出ず、「髑髏船」(62年)を最後に作品のないまま、63年東映を退社している。倉丘も東映時代は全くいいところがなかったわけである。
この63年に、京都のテレビ制作プロである日本電波映画に入社したことで転機が訪れる。同社制作の「姿三四郎」(63~64年)で主役の三四郎に抜擢され人気を得たのである。何と65年度のブロマイド売り上げ男性俳優部門で2位になったという。以降、「柔道水滸伝」「続・柔」など柔道ものに立て続けに出演した。
「里見八犬伝」(64年)も主演で犬塚志乃役。ちなみに他の八犬士は平井昌一、高倉一郎、中岡慎太郎、上杉高也らが演じている。
「武田信玄」(66~67年)でも主役の信玄を演じており、高田浩吉や西村晃、花園ひろみ、徳大寺伸といった豪華キャストが共演した。この番組にはゲストと思われるが、菅原文太、待田京介、山下洵一郎、近藤正臣なども出演したようだ。
このように大人気だった倉丘だが67年に日本電波映画が撮影所を閉鎖(会社自体は存続)。以降の倉丘は「銭形平次」「素浪人花山大吉」「水戸黄門」など古巣である東映制作のドラマにも顔をだすようになる。
芸名が倉岡伸太朗となったのは、はっきりしないが73年頃のようである。「特別機動捜査隊」にそのまんま倉岡刑事としてレギュラー出演したが、さほど長い期間ではなかったようだ(1年弱と思われる)。東映ニューフェイスの同期であった亀石征一郎が、5番目の主任である矢崎警部補として里見浩太朗に代わって登場した時には降板していたようである。
その後の倉岡の目立った活動といえば、「どてらい男」や「あかんたれ」への出演であろうか。60年代のような人気や勢いはなくなった倉岡だが、70年代もそれなりに堅実に仕事をしていた。しかし、80年代に入るとピタッとその姿が見えなくなる。引退してしまったようなのである。記録上では東宝映画「炎のごとく」(81年)が最後の俳優活動となっている。