お宝映画・番組私的見聞録 -101ページ目

東映俳優録13 金子明雄、山口洋子(+第4期ニューフェイス)

今回は第4期東映ニューフェイスである。57年に合格し、大体が58年にデビューしている。
その顔ぶれは、山城新伍、室田日出男、曽根晴美、水木襄、北川恵一、木川哲也、大源寺英介、金子明雄、安西広人、佐久間良子、花園ひろみ、山口洋子、香山光子、高島淳子、塩川由美子、内藤瑠美子、井本美恵子、竹淵雅子、市原かおる、金井孝子、乾貞子、深沢美代子、白河道子、安井信世、陶山多美恵となっている。
ここは、山城新伍、室田日出男、曽根晴美、水木襄、佐久間良子、花園ひろみなど長く活躍した面々も多い。役者としてではないが、山口洋子は作家、作詞家として活躍した。中でも一番のスターといえば、佐久間良子ということになるのだろう。有名な話だが、彼女の場合水着審査を拒否。そのためか名目上は補欠合格であったが、扱いは一番であった。
小宮光江が高校の先輩で、56年に彼女に連れられて東京撮影所にいった際に映画界入りを勧誘され、翌57年に高校卒業と同時に形式的にニューフェイス試験を受けたのである。
会社から「佐久間のボディーガードをやれ」と言われていたのが同期ニューフェイスの金子明雄である。金子は学習院大学に在学中で、真面目そうに見えたようだ。当初、佐久間と映画でコンビを組むことが多かったのは、やはり生真面目そうな水木襄であった。
そういえば、小宮光江も水木襄も後に自殺してしまうのだけれども。
さて、金子明雄だが役者としての彼の名を知っている人はほとんどいないだろう。59年に大学を卒業したが、たまたま日本テレビのドラマに出演する機会があったという。そのとき「これからはテレビの時代が来る」と直感し、60年には東映を退社して、テレビタレントではなく、TBSでADとして働き始めたのである。
TBSで正社員になることを目指したが不合格となり、新たにテレビ局(東京12チャンネル)開設の準備を進めていた日本科学技術振興財団の試験に合格し、64年に入社している。
12チャンネル(テレビ東京)では、「演歌の花道」や「年忘れにっぽんの歌」など音楽番組のプロデューサーを務めることが多かった。82年には同局の編成部長に就任、92年からはテレビ東京ミュージックの社長を務めた。
前述の山口洋子も二年で女優に見切りをつけ、銀座にクラブを開店したのである。68年頃から作詞家活動を始め、五木ひろし、中条きよし、八代亜紀、クールファイブなどの詞を書いていたので、金子の番組で山口が書いた詞の歌が歌われることもよくあったはずである。
山口洋子は東映時代に俳優課の主任から「お前たちの中から、たった一人スターが出れば、それで会社は元がとれるのだ」と言われたという。そのスターとはもちろん佐久間のことである。実はこの4期でトップ入社だったのは、5つのミスのタイトルを持つM子だったといい、山口は2位だったらしい。M子に該当するのは上記では5人おり正解は不明だが、誰ににしろ聞き覚えのない名前ばかりで、あまり活躍できなかったことは確かだろう。
金子も山口もすぐに俳優に見切りをつけたことで成功したといえるだろう。

東映俳優録12 大川恵子、桜町弘子

前回、少しだけ触れた大川恵子と桜町弘子について改めて書く。

大川恵子は、36年名古屋生まれで本名は加古啓子という。高校卒業後は名鉄デパートに勤務していたが、55年にミス平凡に選ばれ、翌56年に東映第3期ニューフェイスに合格した。東映東京の所属だったが、デビューはエノケン主演の捕物帳「とんちんかん八百八町」(57年)であった。
古典的な美貌は時代劇向きと判断され、同年のうちに京都撮影所に移籍となったのである。お姫様女優と言われているように基本は主役の相手役だが、「姫君一刀流」(59年)は、唯一彼女が主役の映画である。「新吾十番勝負」では第2部からお縫役で出演し、大川橋蔵との大川共演が見られた。ちなみに第1部お縫は桜町弘子であったが、病気で倒れたため変更になったのである。

六年間で100本近くの時代劇に出演したが、本人は女優で大成することにこだわりはなかったようで、時代劇の衰退が見え始めた「きさらぎ無双剣」(62年)を最後に結婚して女優を引退した。相手は一般のサラリーマンで、以降マスコミの前に出たことはないという。
同期の桜町弘子は37年静岡県生まれ。本名は臼井真琴という。デビュー時は松原千浪という芸名だったが、半年程度で桜町弘子と改めた。65年までに120~130本の映画(ほぼ時代劇)に出演。東映が任侠路線を主軸にするようになると、彼女もやくざの姐さんやら芸者やらを演じるようになった。とかく時代劇イメージが強い彼女だが、アクションドラマにレギュラー出演していたことがある。
「特命捜査室」(69年)がそれで、主演は中山仁、高城丈二で、他のレギュラーは賀川雪絵、千葉治郎、大橋一元、そして桜町であった。元々「ブラックチェンバー」という中山と内田良平が主演の暗い雰囲気のアクションドラマをやっていたのを1クールでやめ、高城、大橋、桜町を新レギュラーにして明るい雰囲気に方向転換したものである。中山、千葉、賀川は前作から同じ役名で登場している。その関係でこの「特命捜査室」も1クールで終了している。
ちなみに千葉治郎は「ブラックチェンバー」がデビュー作。「特命捜査室」には、兄である千葉真一もゲスト出演した。
ところで、この1クールのドラマで共演した桜町と大橋は翌70年に結婚しているのである。この共演が縁なのは間違いあるまい。しかし、73年には離婚している。そもそも大橋一元って誰だよ、という意見も多いかもしれないが、詳しいプロフィールは不明であり、60年後半から70年代前半に活躍?していた役者であるとしか言いようがない。特撮ファンには「ウルトラセブン」の32話に出てきたヒロタ隊員だよとか、「ジャンボーグA」の岸隊長だよといえばわかるかもしれない。
大川恵子は早々と引退したが、桜町弘子はずっと女優生活を続け引退した形跡はない。とはいっても、記録上見つかったのは03年が最後であり、事実上は引退しているのかもしれない。
第2期ニューフェイスでちょっと取り上げた古賀京子に追加情報。彼女もミスコン出身で、長崎の「ミス観光」であったようだ。雑誌「映画論叢」によれば、彼女は「女蕩し」、「殺られた女」(64年)等のピンク映画にも出演していたという。どんな役かは不明だが、出演していたイコール脱いだということにはならない。念のため。

東映俳優録11 大村文武(+第3期ニューフェイス)

今回は第3期東映ニューフェイスである。56年に合格し、大体が57年にデビューしている。
その顔ぶれは、里見浩太朗、大村文武、末広恵二郎、立花良文、松本幸治、野沢哲男、矢代伸二、三原博、桜町弘子、大川恵子、春丘典子、森美代志、横田真佐子、品路京子、海野治子、江端朱美、西辻利々子、浅岡すみ恵、高山道子、鈴木朝子、山中藤子、滝千江子、田中和子、竹原秀子、重本あき子、伊妻俊子、谷邦子となっている。
知らない名前がほとんどだが、この期では何といっても里見浩太朗である。現在でも活躍するスターだが、デビュー時は鏡小五郎、富士川一夫と芸名を変えている。東映ニューフェイス初といえる甘いマスクの二枚目である。今までの南原宏治、山本麟一、今井健二などはどこか悪役顔のというか、実際後に悪役に転じるわけだが、そういうタイプばかりであった。高倉健は悪役顔ではないが、「甘い」という表現は似合わない二枚目だと思う。
2期の丘さとみと共に、「東映城の三人娘」と言われる大川恵子、桜町弘子もこの3期である。大川恵子は大川博社長が名付けた芸名である。
そして、大村文武である。彼も山本麟一、今井健二、高倉健と同じ明治大学の出身なのだ。偶然なのか東映が明大生を好んで採っていたのかは不明だ。今までの三人は商学部の出身だが、大村は文学部演劇科の出身である。明大に演劇学科なんてあったけ、と調べると、現在「演劇学科」を名乗るのは日大芸術部にあるのみで、明大では文学部文学科演劇学専攻が正確な名称のようだ。ちなみに、唐十郎や柴田理恵、福留功男などが出身者である。
さて大村だが、入社当初は中々役がつかなかったという。ある日、撮影所のベンチで胃痛に苦しんでいたところ、美空ひばりが通りがかり、胃薬をくれたのだという。それが縁となり、ひばり主演の「青い海原」(57年)でデビューできたのだという。ちなみにチンピラの役だ。その後も、「娘十八御意見無用」「べらんめえ芸者」といった、ひばり映画に顔を出している。
「警視庁物語」シリーズにも当初はチンピラ役で出演したが、「七人の追跡者」「魔の伝言板」(58年)では刑事役に抜擢されている。そして「月光仮面」シリーズ(58~59年)である。人気を呼んでいたテレビ版の「月光仮面」は大瀬康一が演じたが、彼も東映の大部屋にいたので、大村とも顔見知りだったらしい。
映画とテレビでキャストが違うというのはよくあるが、当時はテレビの普及率がまだ低かったので、映画で月光仮面を初めて見た人も少なからずいたようだ。
ヒーローを演じた役者は、その後一切悪役をやらないケースもあるが、大村の場合、「月光仮面」シリ-ズが終わった次の出演作(「高度7000米恐怖の4時間」)でいきなり殺人犯を演じたりしている。東映を66年に退社した以降は、ほぼテレビで悪役を演じていた。
85年に行われているインタビューでは、大村は群馬県の前橋でレストランのマスターをしていた。「役者は休業中で辞めたつもりはない」「波島進も群馬の桐生にいるらしいよ」「伊丹十三のように映画も作ってみたい」などと語っていた。
89年頃は映画監督ではなく、ダイヤモンド映像のAV監督として活動していたらしいが、現在は消息不明である。役者としての出演記録も80年代以降は見当たらない。

東映俳優録10 チャンバラトリオ その2

チャンバラトリオといいながら、4人組だったという印象を持っている人は多いと思う。それも当然で、4人だった期間の方がずっと長かったのである。
トリオがカルテットになるきっかけは、67年の暮れカシラこと南方英二が病気で倒れたことである。急遽、東映に助っ人を求めたが、目当てにしていた人材は全て多忙で都合がつかなかったという。そこで演技係長に「手のすいている者はおりませんか」と言ったところ、「そういえば、哲が休んでいるわ。徹マンでずぼら休みに決まっておる。電話してみ」との返事。
「哲」こと結城哲也が東映に入社したのは60年のこと。誰にでも物おじせず話しかけてくる調子のいい男だったという。剣会のメンバーではなかったが、山根などとも親しくしていたという。
尻込みしていた結城を正月番組だけでもと無理矢理参加させ、山根がリーダーに就任し、その場を乗り切ったのである。その後、南方は復帰したが結城もそのまま残ることになり、4人組のトリオが誕生することになったのである。名前を変える気はなかったらしい。クレージーキャッツの石橋エータローが病気で、代わりに桜井センリが参加したが、石橋が復帰後も桜井が残ったのと同じパターンである。
つまり、結城はその日たまたま空いていたからメンバーになれたということになる。
さて、話は東映時代に戻るが、古い東映時代劇とかを見ていると「南方英二」「伊吹幾太郎」の名はよく見かける。わかると思うが、伊吹幾太郎というのが伊吹太郎の本名であり、東映時代の芸名である。山根は東映時代、「高根利夫」という芸名だったらしいが、これは見た記憶がない。と思ったら、先日東映チャンネルでTV初放送だという「風小僧」の劇場上映版が放送された。子役の目黒祐樹(当時ユウキ)や、悪役でない五味龍太郎(当時勝之介)など珍しいものも見れたが、キャストの中に南方、伊吹はもちろん、高根利夫の名も見つけることができた。
検索すると、高根利夫でも18本ほど見つけることができたが、伊吹幾太郎はその倍近い34本、南方英二に至っては80本も出演作が見つかった。まあ、南方は東映時代とチャントリでの芸名は同じなので当然かもしれないが、一番本数が多いのは確かだろう。
さて、その後のチャンバラトリオだが、結城の脱退、再加入などがあったが、この4人での体制は94年まで続いた。しかし、その94年に伊吹と結城が不祥事などで吉本を解雇され、代わりに加入したのが弟子だった前田竹千代と、東映のピラニア軍団にいた志茂山高也であった。
08年に一番若い前田が55歳で他界、10年に最年長の南方が77歳で他界した。山根と志茂山の二人でチャンバラトリオを続けたが、昨年5月に山根が癌であることを公表し、解散を発表した。その半年後、山根は78歳で他界した。52年続いた「トリオ」は、ひっそりと幕を閉じたのである。

東映俳優録10 チャンバラトリオ

チャンバラトリオといえば、吉本の芸人だが、元は東映の斬られ役俳優だったことは知られている。トリオといいながら、4人組ではないかと不思議に思っていた人もいたのではないだろうか。
そのリーダーであった山根伸介が、81年に「私を斬った100人」という本を出していた。大スターとのエピソードを中心に書かれたものだが、もちろんチャンバラトリオ結成の経緯についても書かれている。
山根伸介は56年3月にに日大芸術学部を中退して東映京都に入社。元から斬られ役志望で、東映剣会に入ることを目指していたという。剣会のメンバーになれば斬られ役として一人前と認められるのである。2年後の58年に入会できたという。
その山根が入社して、すぐに意識したというのが南方英二であった。後の「カシラ」である。チャンバラトリオのイメージといえば、この人を思い出す人が多いのではないだろうか。年齢は山根より5歳上だが、入社は55年9月で半年ほど先輩である。本名を楠本喜八郎といい、兄の楠本健二が東映の俳優でそのつてで東映に入社したのである。
南方はとにかく、立廻りがうまかったのだという。入社してまもない南方が、先輩たちを追い抜き、若手ナンバーワンにのしあがるまでには、さほど時間はかからなかったという。剣会の上手な剣士にはスターから指名で仕事が入ってくるのである。
62年に行われた東映歌舞伎旗揚げ公演で、南方の立ち廻りが評判となり、それを見ていた池波正太郎が南方をモデルに「剣一筋に」という文を書いたという。
この南方とほぼ同時期に東映に入社していたのが伊吹太郎である。主にハリセンで叩かれる役の人といえばわかりやすいだろうか。自らのつてで大友柳太朗の門を叩き、その弟子となっていたのだ。山根と同じ37年生まれで、こちらは南方と反対で立廻りを苦手としていた、というか嫌っていたらしい。
その原因は、温和そうな顔にあった。迫力のない顔立ちは斬られ役ではサマにならず、殺陣師や監督に後ろに下がってろと言われる始末。伊吹に振られる役といえば、町人とか下っ引きとか、ヤクザの三下のようなものばかりだったという。つまり彼は剣会のメンバーではなく、「剣会反抗会」のような立場だったと山根は書いている。
「日本一の斬られ役」を目指していた山根だが、次第に欲が出てきて、日陰でいるよりスポットを浴びたくなってきたのだという。それにはお笑いのチームを作ればいいのではと考えたのである。
そこで、漫才好きだった伊吹と二人で、素人が応募するラジオの公開番組に銀行員と偽って、数回出演し漫才をやったという。順次合格していたのだが、ゲスト審査委員だったミスワカサに「東映の俳優さんや」とばれてしまい、以後は出演しなかったという。
しかし、これがもとで東映で催事があると二人で司会をするようになったという。そこに、殺陣師の谷明憲(俊夫)が加わり、お笑い殺陣を余興で見せようと試みたのがチャンバラトリオの原型である。こうなると、立廻り嫌いの伊吹も稽古せざるを得なくなり、次第に上達していったという。
谷は殺陣師の方が忙しく、あまり参加できないので、そこで目をつけていた南方を山根と谷でくどいて、強引に加入させたのである。なぜ南方だったのかといえば、コミック剣劇でも立廻りの上手な人がいなければ、売りにならないという考えからであった。
こうして、山根、伊吹、南方によるチャンバラトリオが結成され、三人は63年に東映を退社したのである。次回に続く。

東映俳優録9 第2期ニューフェイス(岡田敏子、古賀京子、土山登志幸)

前回で第2期ニューフェイスの有名どころを紹介したが、今回はそうでない人たちが、どれくらいの期間活動し、何本くらい映画でに出演したのかを調べてみた。
まあノンクレジット出演とかもあるかもしれないし、あくまでもネット上でわかる範囲なので、正確性はないかもしれんが、ある程度の目安にはなるだろう。
女優陣で、丘さとみの次に頑張ったのはおそらく岡田敏子であろう。「Movie Walker」では、56~63年にかけて映画出演本数は40本と出てくる。キネマ旬報の「映画俳優全集・女優編」にも岡田敏子はちゃんと掲載されているのだ。高校卒業後、SKDを経て東映第2期ニューフェイスに合格。
デビューは「夕日と拳銃」(56年)で、主演の東千代之介扮する馬賊の英雄を慕う男装の娘という大役であった。
キネマ旬報ベストテンで1位になった「米」(57年)でも江原真二郎に思いを寄せて振られる娘を好演し、脚光を浴び期待の新人女優の一人であったのだが、中原ひとみなどのように役には恵まれず、脇に追いやられるようになり、最後の方は女中、ストリッパー、若い女と、まさに端役という感じになり「警視庁物語・十代の足取り」(63年)を最後に姿を消した。
古賀京子は、映画出演本数は17本と少ないが、活動期間は56~65年という結果が出た。おそらくもっと出演していると思われるが、記録上はこれだけのようだ。「少年探偵団」シリーズへの出演が目立つ。テレビでは「七色仮面」などにも出ていたようだが、「男の償い」(65年)という昼メロのヒロインが古賀京子となっている。同一人物であろうか。映画出演は62年の後、この65年に飛び「秩父水滸伝必殺剣」にその名がある。ただし東映ではなく日活の映画である。これが記録上最後の映画になっている。
稲植徳子は、珍しい名前なので目立ちそうだが、この名のクレジットを見た記憶はない。56~60年にかけて16映画という結果が出た。
萩原利子は、56~57年にかけて6映画という結果が出た。「喧嘩社員」では、萩原が若い女A、稲植が若い女Bである。いずれにしろ早くに引退したと思われる。
高倉健や今井健二以外の第2期ニューフェイスの男優に目を向けると土山登志幸の名がある。この人を「Movie Walker」で検索すると、出演映画本数は46本と結構な数が出てくるのだが、何故か時代が66~78年となっており、それ以前10年近くの記録が出てこない。
テレビでこの名前は見たことがあると思い、ドラマデータベースで調べるとやはり60年代後半からしか見つからなかった。その一つが「ジャイアントロボ」(67年)なのだが、そのロボの中に入っていたのが土山登志幸だったのである。謎の10年間は、東宝の中島春雄のようにスーツアクターみたいな仕事ばかりしていたとか、違う芸名だったとか、ノンクレジットの役ばかりだったとか、いろんな可能性はあるがわからなかった。

東映俳優録8 第2期ニューフェイス(高倉健、今井健二、丘さとみ)

東映の第2期ニューフェイスと言えば、いわずと知れた高倉健がいるが、とりあえずその他の名前を挙げておこう。
今井健二(俊二)、五味龍太郎(勝之介)、土山登志幸、友野博司、林宏、田口耕平、丘さとみ、古賀京子、岡田敏子、高橋京子、宮島智恵子、萩原利子、稲植徳子、北村曙美、藤井八千代、佐渡谷きぬ子、田中しず子、山本幸子。
まあ、一般的に知られているのは、今健と五味龍、後は丘さとみくらいであろう。
まあ、高倉健のことは改めてここで書くこともないと思うのだが、入社の経緯だけは書いておこう。2期ニューフェイスとなっているが、ニューフェイス試験を受けたわけではない。明治大学を54年3月に卒業したが空前の就職難で、一度故郷の福岡に帰郷し、家業の採石業を手伝っていたという。しかし、半年後に再び上京。学生時代からの彼女との結婚を反対されたからというのが理由らしい。
後輩の下宿に転がり込みながら職探しを行っていたところ、新芸プロのマネージャー見習いの口を見つけた。新芸プロは当時、美空ひばりや中村錦之助が所属しており、東映との関係が深く、面接も東映本社階下の喫茶店で行われたのである。
そこを居合わせた東映専務のマキノ光雄にスカウトされたわけである。偶然には違いないが、東映のあるビルなので不思議ではない。役者になることなど考えていなかったが、食うために承諾し、第2期ニューフェイスに補充編入されたのである。それにしても、芸能プロマネージャーの高倉健というのは想像しにくい。
本来、ニューフェイスは1年にわたる研修を受ける規定だったが、高倉健は2カ月足らずで「電光空手打ち」(56年)の主役に抜擢されたのである。
同期となった今井健二も明治大学の出身だが、大学では高倉が1期上だったわけである。学部はともに商学部だった。デビュー時は、本名の今井俊一だったようだが、すぐに俊二になる。やはり当時は「二」のつく名前にスターが多かったからであろうか。健二になった時期ははっきりしないが、60年代の前半だと思われる。
後の悪役姿からは想像しにくいが、当初は二枚目役であった。ドラマ「第7の男」(64年)では主役の探偵?を演じているし、「警視庁物語」でも刑事の一人を演じている。東映の俳優だったのは62年までで、以降はフリーとなったらしいが、その後も頻繁に東映作品には登場している。
悪役専門のきっかけとなったのは、緑魔子主演の「続・おんな番外地」(66年)だったと言われ、これ以降悪役が増えたという。
第2期の女優で一番成功したのは丘さとみであろうが、どうやら彼女も高倉健同様、スカウト入社のようである。
高校在学中の53年、日本シンデレラ姫コンテストに応募し、「ミス・シンデレラ」に輝いている。しかし、ここでスカウトされたわけではない。翌54年に高校を卒業し、RKOラヂオ映画社日本支社に入社しているのである。ちなみに同社はコンテストの主催でもあった。社長秘書となったが、同社に出入りしていた東映館主の眼にとまり、翌55年に東映入りしたのである。

デビューは同年の「御存知怪傑黒頭巾・新選組追撃」で、65年まで東映では150本の映画(ほとんどが時代劇)に出演した。
今井と同じく、彼女も62年に東映を退社しフリーになっていた。東映映画出演は続けていたが、テレビの現代劇に出演するようになり、「ただいま11人」(64年)などにでレギュラーを務めた。65年にサンフランシスコ在住のデザイナーと結婚し渡米し引退していたが、75年に別居して帰国。同年、高橋英樹主演のテレビ時代劇「十手無用・九丁堀事件帖」で芸能界に復帰した。制作は東映で、映画でよく共演していた片岡千恵蔵がレギュラー出演していた。
このドラマは必殺の亜流作品で、個人的にも見ており、丘さとみもこのドラマで知った。当時は昔の姿を知らなかったが、かつてよりふくよかになっていた。

東映俳優録7 杉義一

山本麟一の項で、東映アクターズバンドにちょっと触れたが、都健二の「懐かしの東映東撮物語」によれば、大川社長が杉義一と大東良に「バンドでも作って、スターの売り出しに協力しろ」と命じて作らせたものである。
なので、バンマスは杉(テナーサックス)と大東(トロンボーン)が交代で務めたという。他のメンバーをここで紹介しておくと、高原秀麿、豊野弥八郎(アルトサックス)、清見淳(トランペット)、藤沢弘、賀川晴男(ギター)、牧野狂介(ピアノ)、都健二(ボーカル、アコーディオン)、そして潮健児(ドラム)、山本麟一(ベース)という面々である。
まあ、一般的にはわかるのは山麟と潮くらいで、後のメンバーは東映通でもなければわからないかもしれない。そういう自分も名前は大体知っているのだが、顔まで一致するのは杉義一くらいだろうか。
杉義一は本名は「よしかず」だが、芸名は「ぎいち」である。「すぎぎいち」って発音しにくいと思うのだが、どうであろうか。ちなみに大東良は「おおひがし」ではなく「だいとう」である。続けてよめば「だいとうりょう」だ。
杉義一は戦前から戦後にかけて活躍した俳優杉狂児の長男である。薄い髪とギョロ眼がトレードマーク。江幡高志を善良にした感じといえばわかりやすいだろうか。スタートは14歳の時で、41年児童劇団かもしか座に入団。翌年NHKラジオ「潜水飛行艇とびうお号」にレギュラー出演している。
波島進や南川直は太泉映画出身と書いたが、杉は47年の東横映画の創立と共に入社し、その第1回作である「こころ月の如く」で映画デビューを飾っている。51年、3社合併の東映誕生により、そのまま東映東京の専属となったのである。
当初は「大学五人男」の一人を演じるなど、メイン格の役もあったようだが、まもなく脇に回るようになり、市井の人、みたいな役が多くなる。しかし、セリフが一言二言でも、その容姿とよく通る声でとにかく目立つのである。
67年フリーとなり、73~75年にかけては、あのJAC(ジャパアクションクラブ)の代表を務めていたのである。千葉真一とは、同じ東映で共演もあったであろうが、こういっては何だが杉とアクションが全くつながらない。77年に役者を引退し、東京宝映の芸能部長に就任したという。
弟の杉裕之、杉幸彦も俳優だったが、どちらも東映所属ではない。裕之は文学座、劇団昴に所属し舞台中心の活動であり、幸彦は日活の俳優であった。長男の義一と四男の幸彦とは5歳しか違わないようだが、どう見ても似ておらず、兄弟というよりは親子にしか見えない。義一は実年齢よりもかなり老けて見えるタイプで、幸彦は逆にかなり若く見えるタイプである。ちなみに、裕之も幸彦も70年代までには、役者を引退している。

東映俳優録6 高田敏江、中原ひとみ

東映というのは男優中心の会社である。製作される映画が時代劇、アクション物、任侠物と男性ターゲットのものばかりで、女優主役の作品はほとんどない。そのためか、東映に長く在籍したスター女優というのは少ない気がする。せいぜい、藤純子、三田佳子、佐久間良子くらいであろうか。
第1期ニューフェイスでいえば、高田敏江などは女優としては長く活動しているが、この「東映俳優録」に載せるにはふさわしくないのである。なぜなら半年足らずで東映を退社しているからだ。デビュー作は「二挺拳銃の竜」(54年)に端役で出演。当時の芸名は高原紀子であった。
この東映在籍中に劇団民藝の水品演劇研究所に入所し初舞台を踏み、そのまま民藝に入団し、東映は退社してしまうのである。つまり、東映は水が合わなかったということなのだろう。民藝といえば日活なので、契約し戦後日活の初期作品に出演するようになる。「花の運河」(56年)では、初のメインヒロインとなり、以後「私は前科者である」「愛ちゃんはお嫁に」(57年)など主演が続いたので、日活女優として認識している人も多いかもしれない。
しかし、日活も石原裕次郎や小林旭の登場で、次第に男性路線が中心となり彼女も脇にまわるようになる。64年に日活は退社し、舞台とテレビが活動の中心となっていく。
個人的には上品な母親の役といったイメージが強い。有名なところでは「三年B組金八先生」での鶴見辰吾の母親役であろうか。ちなみに、80歳を過ぎた現在も現役で活動している。
第1期ニューフェイスの女優では、最も知名度が高いと思われるのが中原ひとみだが、彼女も男優中心の東映では自分に合う映画がないと感じ、55年末契約切れを機に東映を去ろうとしていたのである。出世作と言われる野添ひとみとのひとみコンビで姉妹を演じた「姉妹」(54年)は独立プロ製作の作品であった。
移籍先は高田敏江と同じ日活であり、実際契約も結ばれていたという。しかし、彼女が出演を希望した「姉妹」の続編「こぶしの花の咲くころ」の配給は松竹であり、五社協定(日活は含まれていない)を破って日活専属となれば出演不能となることが予想されたため、日活との契約を破棄し東映残留となったのである。この結果「こぶし花の咲くころ」への出演が叶ったのである。
翌57年には、東映ではたまに存在する社会派の作品「米」に出演し、後に夫となる江原真二郎と出会うのである(60年結婚)。
結局、63年「警視庁物語 全国縦断捜査」まで数多くの東映作品に出演することになる。その後は、テレビ中心の活動となっている。中原ひとみも冒頭の東映育ちのスター女優に加えてもいいかもしれない。

東映俳優録5 山本麟一

「警視庁物語」(56~64年)は、24作も続いた人気シリーズだが、「七人の刑事」でもお馴染みの堀雄二や花沢徳衛、南廣、波島進、千葉真一などは、刑事役が当然というような感じだが、主任が神田隆で、山本麟一や南原宏治、今井健二などが刑事役だと当初は驚くかもしれない。
しかし、元々は南原も今井も山麟も東映ニューフェーイスである。若い頃はそれなりに二枚目といえたのである。このシリーズ全作に刑事役で登場したのが堀雄二(長田部長刑事)、神田隆(戸川捜査主任=戸川という名はシリーズの最後で初めて明らかになる)、そして山本麟一(金子刑事、当初は林刑事)である。
山本麟一は27年、北海道旭川市生まれ。目黒高等無線学校を中退し明大に入学、ラグビー部で活躍し、53年に卒業後は名古屋で会社員となっていた。名の知れた選手だったらしく、大映から誘いがあったという。
その53年に東映第1期のニューフェイス募集があり、大学の同窓生が応募。付き添いのつもりだったが、同窓生が彼の願書も出しため、山本も面接を受けたところ、山本は合格し、その同窓生は落ちるという、アイドルのオーディション話でよく聞くような経緯で東映入りしたのである。
デビュー作は「学生五人男」(54年)で、その五人の中の一人なのだから、順調な出だしだったといえる。ちなみに五人男とは波島進、杉義一、船山汎、福岡正剛、そして山本麟一である。学生といいながら、全員25歳を過ぎていた。
「警視庁物語」の原型となった映画と言われる「終電車の死美人」(55年)にも山麟は刑事役ではないが出演していた。ここで刑事役を演じたのは「警視庁物語」でも刑事役となる堀雄二、花沢徳衛、佐原広二、松本克平らに加え、伊藤久哉、菅沼正らで、南原宏治(伸二)、中原ひとみ、南川直なども出ている。「警視庁物語」の初期4作では若手刑事を演じる南原だが、本作では犯人役だ。
「喧嘩社員」(57年)では高倉健と大学野球部のバッテリーを演じている。高倉健は同じ明大出身の後輩ということもあり、つながりは深かったようである。ちなみに、今井健二、八名信夫も明大出身であり、彼らからの信頼も厚かったようだ。
テレビでもよく見かけた山麟だが、映画出演は250本以上を数える。そんな中、生まれ故郷である旭川に家を持ち続け、そちらにいることも多かったようだ。実際、「日本映画俳優全集」に載っている連絡先住所が旭川になっているのである(当時はこういった住所や電話番号が載っていたりしたのである)。
東映は70年に退社しているが、その東映ではアクターズバンドに所属していた(担当はベース)。大川社長直の命令で東京撮影所の結成されたのである。メンバーは杉義一、大東良、潮健児、高原秀麿、都健二、牧野狂介など主に大部屋の面々であり、ニューフェイス出身は山麟くらいであった。実際、楽器を演奏するのは好きだったらしい。
亡くなったのは80年。もう35年も経過しているのである。普段からトレーニングを欠かさず、体力にも自信を持っていたため、病気(悪性腫瘍)の発見が遅れ、入院から早いうちに急死してしまったという。53歳の若さであった。