東映俳優録5 山本麟一
「警視庁物語」(56~64年)は、24作も続いた人気シリーズだが、「七人の刑事」でもお馴染みの堀雄二や花沢徳衛、南廣、波島進、千葉真一などは、刑事役が当然というような感じだが、主任が神田隆で、山本麟一や南原宏治、今井健二などが刑事役だと当初は驚くかもしれない。
しかし、元々は南原も今井も山麟も東映ニューフェーイスである。若い頃はそれなりに二枚目といえたのである。このシリーズ全作に刑事役で登場したのが堀雄二(長田部長刑事)、神田隆(戸川捜査主任=戸川という名はシリーズの最後で初めて明らかになる)、そして山本麟一(金子刑事、当初は林刑事)である。
山本麟一は27年、北海道旭川市生まれ。目黒高等無線学校を中退し明大に入学、ラグビー部で活躍し、53年に卒業後は名古屋で会社員となっていた。名の知れた選手だったらしく、大映から誘いがあったという。
その53年に東映第1期のニューフェイス募集があり、大学の同窓生が応募。付き添いのつもりだったが、同窓生が彼の願書も出しため、山本も面接を受けたところ、山本は合格し、その同窓生は落ちるという、アイドルのオーディション話でよく聞くような経緯で東映入りしたのである。
デビュー作は「学生五人男」(54年)で、その五人の中の一人なのだから、順調な出だしだったといえる。ちなみに五人男とは波島進、杉義一、船山汎、福岡正剛、そして山本麟一である。学生といいながら、全員25歳を過ぎていた。
「警視庁物語」の原型となった映画と言われる「終電車の死美人」(55年)にも山麟は刑事役ではないが出演していた。ここで刑事役を演じたのは「警視庁物語」でも刑事役となる堀雄二、花沢徳衛、佐原広二、松本克平らに加え、伊藤久哉、菅沼正らで、南原宏治(伸二)、中原ひとみ、南川直なども出ている。「警視庁物語」の初期4作では若手刑事を演じる南原だが、本作では犯人役だ。
「喧嘩社員」(57年)では高倉健と大学野球部のバッテリーを演じている。高倉健は同じ明大出身の後輩ということもあり、つながりは深かったようである。ちなみに、今井健二、八名信夫も明大出身であり、彼らからの信頼も厚かったようだ。
テレビでもよく見かけた山麟だが、映画出演は250本以上を数える。そんな中、生まれ故郷である旭川に家を持ち続け、そちらにいることも多かったようだ。実際、「日本映画俳優全集」に載っている連絡先住所が旭川になっているのである(当時はこういった住所や電話番号が載っていたりしたのである)。
東映は70年に退社しているが、その東映ではアクターズバンドに所属していた(担当はベース)。大川社長直の命令で東京撮影所の結成されたのである。メンバーは杉義一、大東良、潮健児、高原秀麿、都健二、牧野狂介など主に大部屋の面々であり、ニューフェイス出身は山麟くらいであった。実際、楽器を演奏するのは好きだったらしい。
亡くなったのは80年。もう35年も経過しているのである。普段からトレーニングを欠かさず、体力にも自信を持っていたため、病気(悪性腫瘍)の発見が遅れ、入院から早いうちに急死してしまったという。53歳の若さであった。
しかし、元々は南原も今井も山麟も東映ニューフェーイスである。若い頃はそれなりに二枚目といえたのである。このシリーズ全作に刑事役で登場したのが堀雄二(長田部長刑事)、神田隆(戸川捜査主任=戸川という名はシリーズの最後で初めて明らかになる)、そして山本麟一(金子刑事、当初は林刑事)である。
山本麟一は27年、北海道旭川市生まれ。目黒高等無線学校を中退し明大に入学、ラグビー部で活躍し、53年に卒業後は名古屋で会社員となっていた。名の知れた選手だったらしく、大映から誘いがあったという。
その53年に東映第1期のニューフェイス募集があり、大学の同窓生が応募。付き添いのつもりだったが、同窓生が彼の願書も出しため、山本も面接を受けたところ、山本は合格し、その同窓生は落ちるという、アイドルのオーディション話でよく聞くような経緯で東映入りしたのである。
デビュー作は「学生五人男」(54年)で、その五人の中の一人なのだから、順調な出だしだったといえる。ちなみに五人男とは波島進、杉義一、船山汎、福岡正剛、そして山本麟一である。学生といいながら、全員25歳を過ぎていた。
「警視庁物語」の原型となった映画と言われる「終電車の死美人」(55年)にも山麟は刑事役ではないが出演していた。ここで刑事役を演じたのは「警視庁物語」でも刑事役となる堀雄二、花沢徳衛、佐原広二、松本克平らに加え、伊藤久哉、菅沼正らで、南原宏治(伸二)、中原ひとみ、南川直なども出ている。「警視庁物語」の初期4作では若手刑事を演じる南原だが、本作では犯人役だ。
「喧嘩社員」(57年)では高倉健と大学野球部のバッテリーを演じている。高倉健は同じ明大出身の後輩ということもあり、つながりは深かったようである。ちなみに、今井健二、八名信夫も明大出身であり、彼らからの信頼も厚かったようだ。
テレビでもよく見かけた山麟だが、映画出演は250本以上を数える。そんな中、生まれ故郷である旭川に家を持ち続け、そちらにいることも多かったようだ。実際、「日本映画俳優全集」に載っている連絡先住所が旭川になっているのである(当時はこういった住所や電話番号が載っていたりしたのである)。
東映は70年に退社しているが、その東映ではアクターズバンドに所属していた(担当はベース)。大川社長直の命令で東京撮影所の結成されたのである。メンバーは杉義一、大東良、潮健児、高原秀麿、都健二、牧野狂介など主に大部屋の面々であり、ニューフェイス出身は山麟くらいであった。実際、楽器を演奏するのは好きだったらしい。
亡くなったのは80年。もう35年も経過しているのである。普段からトレーニングを欠かさず、体力にも自信を持っていたため、病気(悪性腫瘍)の発見が遅れ、入院から早いうちに急死してしまったという。53歳の若さであった。