新東宝俳優録46 川部修詩(川部守一)
戦時中は、特攻隊員だった江見俊太郎のような人もいれば、井上梅次のように糧秣部の仲仕部隊の士官、大さっばに言うと食料調達部隊で指揮をとっていた人もいる。井上梅次は日活のイメージが強いが、スタートは新東宝である。
そして、以前ここでも紹介したが川部修詩のように慰問映画班、つまりリヤカーに機材を積んで各地で映画を上映して廻るという仕事をしていた者もいる。
川部修詩は22年生まれ。日大文学部芸術科映画美学専攻に在学中の43年の応召され無線暗号部隊に配属されるが後に、前述の慰問映画班に転属となる。44年学徒動員により大学は繰り上げ卒業となっている。
川部は終戦まもない45年10月には東宝に入社、江見も12月に入社しているという。初出演は池部良主演の「破戒」(46年)で川部守一の名で出演したが、東宝争議により公開は見送られている。
47年「十人の旗の会」らと共に新東宝に移る。つまり、新東宝誕生時からのメンバーである。市川崑がアーカイブを再編集した「東宝千一夜」(47年)には助監督の役で出演いている。
50年代には「キネマ旬報」の新人論壇に投稿を始め、それが掲載されたため、仕事を干されたという。元々脇役ではあったが、学生とか新聞記者とかの端役が続いた。56年の「ノイローゼ兄さんカッチリ娘」から守一を修詩に改称したが、執筆活動は辞めず「キネマ旬報」に川部の作品批評が掲載されていた。
以前紹介した川部の著書である「活狂エイガ学校」では、「怒濤の兄弟」(57年)の撮影で監督の志村敏夫と口ゲンカをして、しばらく干されたと書かれているが、記録上はこの時期に干された形跡はない。逆に志村の方が前田通子の騒動で、この時期に新東宝を去ることになっている。志村作品では「女真珠王の復讐」(56年)の後に、出演記録のない時期があるので、そちらとの記憶違いの可能性もある。
新東宝には、61年の倒産時まで在籍していたので、つまり最初から最後までいたわけである。しかし、端役脇役に終始したため、そのネームバリューは高くない。
倒産後はフリーとなり、テレビ出演が主となったが、大蔵映画制作などの成人映画にも出演。「0歳の女」(64年)や「艶説四谷怪談」(65年)では、初の主演も経験している。
70年には、出版社サンデーアートに入社し編集者に転向したが、73年には俳優業に復帰し、NHKの大河ドラマにも出演した。
83年には、初の著書である「B級巨匠論 中川信夫研究」を出しており、87年に出したのが前述の「活狂エイガ学校」である。
記録上は、92年頃までドラマ出演を続けており、06年に83歳で亡くなっている
そして、以前ここでも紹介したが川部修詩のように慰問映画班、つまりリヤカーに機材を積んで各地で映画を上映して廻るという仕事をしていた者もいる。
川部修詩は22年生まれ。日大文学部芸術科映画美学専攻に在学中の43年の応召され無線暗号部隊に配属されるが後に、前述の慰問映画班に転属となる。44年学徒動員により大学は繰り上げ卒業となっている。
川部は終戦まもない45年10月には東宝に入社、江見も12月に入社しているという。初出演は池部良主演の「破戒」(46年)で川部守一の名で出演したが、東宝争議により公開は見送られている。
47年「十人の旗の会」らと共に新東宝に移る。つまり、新東宝誕生時からのメンバーである。市川崑がアーカイブを再編集した「東宝千一夜」(47年)には助監督の役で出演いている。
50年代には「キネマ旬報」の新人論壇に投稿を始め、それが掲載されたため、仕事を干されたという。元々脇役ではあったが、学生とか新聞記者とかの端役が続いた。56年の「ノイローゼ兄さんカッチリ娘」から守一を修詩に改称したが、執筆活動は辞めず「キネマ旬報」に川部の作品批評が掲載されていた。
以前紹介した川部の著書である「活狂エイガ学校」では、「怒濤の兄弟」(57年)の撮影で監督の志村敏夫と口ゲンカをして、しばらく干されたと書かれているが、記録上はこの時期に干された形跡はない。逆に志村の方が前田通子の騒動で、この時期に新東宝を去ることになっている。志村作品では「女真珠王の復讐」(56年)の後に、出演記録のない時期があるので、そちらとの記憶違いの可能性もある。
新東宝には、61年の倒産時まで在籍していたので、つまり最初から最後までいたわけである。しかし、端役脇役に終始したため、そのネームバリューは高くない。
倒産後はフリーとなり、テレビ出演が主となったが、大蔵映画制作などの成人映画にも出演。「0歳の女」(64年)や「艶説四谷怪談」(65年)では、初の主演も経験している。
70年には、出版社サンデーアートに入社し編集者に転向したが、73年には俳優業に復帰し、NHKの大河ドラマにも出演した。
83年には、初の著書である「B級巨匠論 中川信夫研究」を出しており、87年に出したのが前述の「活狂エイガ学校」である。
記録上は、92年頃までドラマ出演を続けており、06年に83歳で亡くなっている