お宝映画・番組私的見聞録 -87ページ目

松竹俳優録39 瑳峨三智子 その2

前回の続きである。
松竹の女優となって、あっという間に看板に上り詰めた瑳峨三智子であったが、このころ新東宝から松竹に移った小笠原弘によれば、完全な女帝状態だったという。「私は高田(浩吉)さん以外とはやらない」などと言ったり、宝塚から福田公子や鳳八千代を連れてきても瑳峨がいびるので、すぐに辞めてしまったという。
加賀まりこも、撮影が9時集合の時でも瑳峨は3時ころに現れることがあったと語っていた。
61年は森美樹の死や高田浩吉の東映移籍などで松竹が時代劇を作らなくなったので、「甘い夜の果て」など専ら現代劇に出演するようになっている。しかし、この頃から睡眠薬や精神安定剤の多量服用による障害が表面化し、彼女の健康状態に合わせて行われることも多くなった。この年には不眠症と心臓障害のため入院もしている。
翌62年には、東映の「恋や恋すな恋」で大川橋蔵と共演、大映の「江戸へ百七十里」で市川雷蔵と共演を果たし、松竹との契約も専属から年間三本の優先出演に切り換え、テレビ出演も自由となっている。そのドラマでは永井荷風原作の「裸体」に主演したが、この時も撮影が始まってまもなく倒れてしまい、撮影は二カ月中断している。
この62年末、岡田真澄との婚約が発表されている。64年は早々に松竹を離れフリーとなり、歌舞伎座で初舞台を踏んだり、NHK「赤穂浪士」やTBS「青いサファイア」などに顔を出したが、65年1月に既に同居生活もしていた岡田真澄との婚約破棄が発表された。女優業に専心したいから、というのがその理由であった。
個人的には瑳峨三智子は、いかにも冷たそうで意地の悪そうな悪女顔というイメージで、前述の他の女優をいびったとかいう話も思わず納得してしまうのだが、小笠原弘によれば岡田真澄好みの顔にするために整形したのだという。事実だとすれば、この付き合っていた時代に整形したことになる。
確かに顔は若い頃の美貌が想像できないほどに変わってしまった、とよく言われているのだが、これは晩年のことを言っているのだと思う。瑳峨の顔が60年代に変わったのかどうかは自分には判定できない。
70年代に入ると失踪と芸能界復帰を繰り返し、トラブルメーカーぶりを示した。個人的に彼女を認識したのはおそらく「必殺必中仕事稼業」(75年)のゲスト悪女だったように記憶している。これを見ていた山田五十鈴が「(娘が)大変綺麗に撮れていた」と、自分も「必殺」への出演を希望したという。そして「必殺からくり人」や「必殺仕事人」でレギュラーを務めたのである。
瑳峨三智子は92年にクモ膜下出血で他界した。57歳であったが彼女の若い頃からの病歴を見ると、長生きしたほうなのかもしれない。母である山田五十鈴が亡くなったのはその20年後である。
母はずっと娘のことを気にしていたようだが、娘がその母をずっと憎み続けていたかは定かでない。

 

松竹俳優録39 瑳峨三智子(嵯峨美智子)

前回、話題に出たところで瑳峨三智子である。トラブルまみれでスキャンダラスな人生を送ったことでも知られる。
瑳峨三智子は35年生まれ。知っている人も多いと思うが、俳優・月田一郎と山田五十鈴との間の一人娘である。その母・山田五十鈴との確執でも知られるが、そうなっても仕方がない事情もあった。
40年、月田と山田は離婚し、父のもとに引き取られている。しかし、45年の終戦まもない9月に月田が急性メチルアルコール中毒で急逝してしまう。その後は父方の祖母に引き取られて育ったのである。幼くして母のいない環境で育ち、自分は母に捨てられたのだと、思っても仕方のないことかもしれない。
しかし、52年高校二年のころ、父を知る森岩雄(東宝製作本部長)、マキノ光雄(東映製作本部長)にすすめられ東映に入社し、翌53年「旗本退屈男・八百八町罷り通る」で嵯峨美智子の芸名でデビューしている。
実は東映入社の二月ほど前、山田五十鈴の願いで清川虹子を仲立ちとして美智子との対面を実現している。しかし、美智子は東映入りは自分の意志からで、山田の娘と見られるのを嫌がり、母を「山田さん」と呼んで周囲を驚かせたのは有名な話だ。
53年高校を卒業し、映画に本腰を入れるが東映専属のまま、早くも他社出演の自由を獲得し新東宝作品数本に出演している。私生活の上でも東映京都の演技課員である友田二郎と結婚している(55年に離婚)。
54年になると過労気味で健康がすぐれぬため、心機一転と姓名判断で瑳峨三智子と改名している。実はこのころ、母の五十鈴と親和プロダクションを設立しているが、一年で解消されている。
54~56年にかけては、大映、東京映画と本数契約を結んで、大映では市川雷蔵、東京映画では森繁久彌と共演するなど売れっ子ぶりを発揮していた。しかし、56年6月「女囚と共に」に出演中に疲労で倒れ、強度の神経衰弱のため三カ月の休養を余儀なくされた。既にこのころから、体調を崩すことが多かったのである。
この年末、母・五十鈴と親子の役で東京映画「おしどりの間」で本格的共演を果たしている。実はこの作品は五十鈴が映画化を希望し、本人が主演のはずだったが、瑳峨のために親子対立の話に脚本を直してもらい、瑳峨を主役にして、五十鈴は引き立て役に回ったものであった。山田五十鈴としては、やはり娘に後ろめたい部分があるのか、娘に歩み寄ろうとしていたように思える。
この56年末、瑳峨は松竹京都と専属契約を結んでおり、57~61年にかけては松竹の看板女優として約60本もの映画に出演している。この間はトラブルも多く、週刊誌に「二十一歳の超浪費家」と書かれて名誉棄損で訴えたり、58年には足首を捻挫して、松竹「伊豆の佐太郎」は福田公子、掛け持ちだった大映の「旅は気まぐれ風まかせ」では浦路洋子が代役に立てられたりした。60年の「女の坂」も病気で出られず、ヒロインは岡田茉莉子に変更されたりしている。
そして、60年12月には恋愛関係にあった森美樹のガス中毒死という悲劇が起きる。その居宅は瑳峨から譲りうけたものだったという。
沢山の映画に出演する一方で、病気などで休むことも多く、私生活でも波乱に満ちている人生なのである。

 

松竹俳優録38 安藤 昇(+瑳峨三智子) その3

もう少しだけ安藤昇である。
菅原文太が松竹時代に、安藤昇のところに居候していたという噂があるのだが、それについては安藤は否定している。
安藤は66年頃から、青山でレストラン・バー「アスコット」を経営していた。いわゆるサパー・クラブのはしりで、大変に繁盛していたという。客の中には、作曲家の鈴木淳や松岡きっこの姿もあったという。
文太もほとんど毎日のように「アスコット」に来ていたという。要するに松竹では売れない役者だったので、「アスコット」で暇をつぶしていたんだろうと安藤は語っている。ちなみに、金は払わなかったそうだ。安藤のところに、泊まったりすることもなかったという。
仮釈放と言う身分が終わる直前の66年10月、安藤は太平洋テレビ所属の俳優となっている。太平洋テレビといってもテレビ局ではない。世界各国のテレビ映画などの日本語版製作や配給などを行っていた会社で、芸能局部門があり、約600名の俳優が所属していた。何故かほとんどテレビには出ていない安藤や三國連太郎、瑳峨三智子なども所属していたらしい。60年に大規模な労働争議がおき、この時退社したスタッフや俳優たちが結成したのが、俳協(東京俳優生活共同組合)である。今は声優事務所のイメージが強いか。
太平洋テレビの社長である清水昭も「アスコット」の常連客だったのである。酔っぱらっては、安藤に「俺にマネージャーをやらせろよ」と言ってきたらしい。そこで、実際のマネージャーだった嘉悦義人と共に太平洋テレビに入ることになったという。この嘉悦という人は安藤の法政大学時代の友人で、横井事件で逃げていた時には、嘉悦夫妻が匿ってくれてたのだそうだ。
しかし、この清水と言う人は62年に脱税容疑で逮捕され、64年には起訴されていた(後に無罪)りして、結構大変な時期だったのではないだろうか。
瑳峨三智子といえば、森美樹や岡田真澄との恋愛沙汰は有名だが、安藤とのロマンスが取りざたされたこともある。同じ太平洋テレビ所属ということで知り合ったらしいが、彼女の方からよってきたのだという。森美樹の死や岡田と婚約までしながら結婚に至らなかったことなどから、情緒不安定になっていたと思っていたが、元々の原因は違うようだ。
安藤の話では、彼女は子供のころ馬から落ちて足を痛め、それで痛み止めを継続的に飲んでいたのが高じて依存症になってしまい、それで精神的にもおかしくなっていたんだろう、と語っている。安藤は彼女の病気をなんとか治したいと思い、精神的な支えになってやろうと思い、少し一緒になったのだという。少し一緒というのは他にも女がいたという意味だ。
一日寝たきりだと精神状態も良くないので、何でもいいから映画に出演させたのだという。安藤が主演の映画には、たいした役でなくても彼女が出演しているのはそのためである。
二年ほど一緒に居たというが、安藤が京都の撮影で祇園の芸姑と仲良くなってしまい、京都で借りていた部屋で同棲状態にあったという。ちょうど二人のいない時に瑳峨が訪ねてきたらしく、安藤が戻るとその芸者の三味線の糸は斬られ、着物もズタズタにされていたという。そこまでされて…と安藤は以後瑳峨と会うことはなかったという。

 

松竹俳優録38 安藤 昇 その2 

「血と掟」は大ヒットしたが、実は映画が完成してから東映が松竹よりも早く買い付けに来たという。監督の湯浅は目先の金が欲しいので東映に売ろうと考えたらしいが、安藤が松竹と約束したのだからダメだ、と断らせたという。
松竹は当時の金で二億、今で言えば二十億以上も儲かったので、安藤に一年間の専属契約の話をもってきた。本格的に俳優をやるなど考えていなかったので、湯浅に相談してみると「何でもいいから、ふっかけた方がいいですよ」と言われたという。そこで考えたのが二千万円という値段。当時としてはとんでもない金額で、当然松竹は断るだろうと思い、ふっかけたところ松竹も即答はできなかった。
数日後、松竹の白井製作部長が本当に二千万円の現金を安藤の前に差し出したのであった。それで、安藤も松竹の専属俳優としてやらざるを得なくなってしまったのである。その金の役半分で安藤は六本木に喫茶店を買ったという。
もちろん、出演料は別にあり、それは五百万だったという。これは安藤が松竹で一番高い女優のギャラを聞いてみたところ「今、岩下志麻が二百五十万で一番高い」という返答であった。そこで、「その倍の五百万なら出てもいい」とふっかけてみたところ、OKになったのだという。やはり松竹側も安藤が怖かったということだろうか、彼の言う通りにしてくれたのである。
それにしても、岩下志麻は此のころ(60年代半ば)既に、そんな高額ギャラをもらえるトップ女優になっていたのである。
それからの一年間で、安藤は主役脇役に関わらず。11本の作品に出演している。専属になって最初の作品が「やさぐれの掟」(65年)だが、これは完全に「血と掟」の便乗作品であり、安藤も特別出演的な役柄でちょっと登場するに過ぎなかった。こういう時のギャラはさすがに安かったという。この作品から、製作はCAGとなっているが、これは松竹が作った安藤昇の製作会社だという。こういう子会社を作った背景には、安藤のギャラが破格であり他の役者とのバランスが取れないため、別扱いにする必要があったからだと思われる。
CAGの社長は前回も書いた斎藤芳郎(桑野みゆきの実父)だったという。安藤本人だったかもしれないが、事務的なことは全て斎藤が行っていたという。菅原文太や高宮敬二もCAGの所属になっていた。
最初こそ監督は湯浅浪男が続いたが、その後は野村芳太郎、マキノ雅弘、加藤泰など有名監督がつくようになった。次第に安藤自身も俳優が面白くなっていたという。実際は最初の時から、そう思っていたらしい。当初、東京新聞に偽装で俳優をやっていると書かれたこともあり、「それならばずっとやってやろう」と思い続けた結果、それが癖になってしまったようだ。
66年11月、安藤は仮釈放の身分から解放される。それを受けて松竹では彼の主演作を何本か用意していたのだが、安藤は東映への移籍を選択する。俳優・安藤昇としての評価があがったのは「男の顔は履歴書」(66年)からであるが、その監督が加藤泰。その加藤が安藤を東映に誘ったのがきっかけだった。その時、既に松竹と契約した一年は過ぎていたのである。慣習としては、異議を申し立てない限り、契約は自動延長になっていたらしいが、安藤は「そんなことは知らない」と突っぱねたのである。
当時はまだ五社協定があり、自由に移籍などできなかったのだが、松竹側からは安藤へ異議を申し立てることはせず(というよりできなかった)、あっさりと東映への移籍に成功したのである。安藤はあくまで「五社協定など知らない」と言っただけだったという。その替わりなのだろうか、菅原文太の東映移籍は簡単にはいかず半年もかかったのである。

 

松竹俳優録38 安藤 昇

順番が多少前後するのだが、安藤昇である。たまたま、このタイミングで安藤昇のインタビュー本「映画俳優安藤昇」(古本)を見つけたからである。2002年の発売なので、インタビューは01年あたりに行われたようだ。安藤は当時75歳である。
生い立ちやら安藤組のことやらは、自伝やら映画にもなっているので、ここでは省略する。俳優デビューから松竹時代あたりに絞って書かせてもらう。
安藤昇は横井英樹襲撃事件で収監され、六年二カ月の服役後、64年9月に仮釈放で出獄している。その12月に安藤組を解散し、週刊誌に自伝「激動」の連載を始めていた。それからまもなく映画化の話が来たのである。
高宮敬二の項でも書いたとおり、第7グループの湯浅浪男が映画化の話を持ってきたのである。この時安藤は「俺が見て気に入らなかったら上映させない」と条件をつけたそうだ。
いざ製作の段階になると斎藤芳郎が登場する。桑野みゆきの実父であり、菅原文太や高宮敬二を新東宝から松竹に連れてきたのも彼であった。そして第7グループのプロデューサーである吉原繁子が「主役をやって下さい」と言ってきたのである。高宮の話では、この説得には自分も加わっていたとのことだったが、(インタビューの)この時点でその名は出ていない。
無論、自分が役者で出るなど考えてもいなかった安藤は断ったが、目の前に現金(100万だったらしい)を積まれたのである。刑務所から出たばかりで、金銭的には困っていた安藤は、目が眩んでしまったのだという。
吉原は「安藤さんは、監督の言う通りにしてればいいですから」の一点ばりだったので、「じゃ俺は黙ってればいいんだな」と金を受け取り俳優(らしきもの)を引き受けたのだという。
手始めに「脚本作りに参加してください」と言われ、暇だった安藤は湯浅が籠っている旅館に行ったという。箱書き作りを見ていた安藤は「面白いものだな」と思い、自分も意見を述べたりして参加していたという。
「血の掟」の丹波哲郎、伊沢一郎、菅原文太、高宮敬二、藤岡弘といったキャスティングは湯浅では無理だったと思われるが、どうやら前述の斎藤が連れてきたらしい。以降の安藤がらみの松竹作品に文太や高宮が必ず出ていたのは斎藤の手配だったようだ。
ところで、この「血の掟」公開時点では、安藤はまだ保護観察中の身であった。「謹慎していなければならない身でありながら、映画に出るなどもっての外」という批判的な意見も当然あったが、「映画も生業なんだから、拒否する理由はないでしょう」という意見もあった。安藤も「向こうだって止めようがないだろう」と批判は無視していた。
この作品で裏拳で殴るシーンがあり、安藤は途中で止めたつもりが、相手の顔に本当に入ってしまい、歯が数本飛んでしまったという。ちなみに被害にあったのは、睦五朗だったらしい。
「血と掟」の公開1か月前には、横井英樹から「事件を一方的に見ており、世間から誤解される恐れがあるので、善処してほしい」という要望があった。実は横井は松竹の大株主であったため問題になり、シーンのカットの話があったという。この時、松竹が間に入って、安藤と横井は手打ちをすることになったのである。
横井英樹といえば、82年のホテルニュージャパン火災事件でその安全性無視の合理化が、多くの犠牲者を出したと実刑判決を受けたことが記憶に新しいという人も多いのではないだろうか。もちろん当時は、横井と安藤の間にそんな因縁があったなどと知る由もない。
そんなこんなで公開された「血と掟」だったが、予想を超える大ヒットとなり、65年の松竹の配給収入の一位を記録したのであった。

 

松竹俳優録37 阪東妻三郎

田村高廣が登場したところで、言わずと知れた大スタアの父・阪東妻三郎である。前回でわかった人も多いと思うが、バンツマの最終所属は松竹なのである。バンツマをまともに追っていくと大長編になってしまうので、その松竹時代近辺を中心に取り上げてみたい。
バンツマは1901年生まれで、本名を田村傳吉という。無声映画時代の大スタアだが、トーキーの時代が訪れ、自分の細く甲高い声に自信がなかった彼はサイレントの砦を守ろうとしたという。顔は長男の高廣が一番似ているが、声は三男の正和が一番似ているようだ。
戦前の活躍はそれぞれ調べてもらうとして、42年に片岡千恵蔵、市川右太衛門、嵐寛寿郎、そしてバンツマの4人は大映に顔を揃えていた。翌43年、バンツマは軍徴用に引っかかるが「役者の阪妻がお国の役に立たなくて、田村傳吉に何の用がおます」と啖呵を切り、呼び出しに応じなかったという。
49年当時、大映では現代劇が好調であった。社長の永田雅一は「古ぼけた時代劇のスタアはもういらん」と放言。これに怒った4大スタアは全員大映を退社したのであった。千恵蔵と右太衛門は新しく誕生した東映の重役俳優となり、アラカンはフリーとなったが、やがて新東宝に腰を落ち着ける。そして、バンツマは松竹に移籍したのであった。
バンツマといえば時代劇、チャンバラに終始したイメージがあったが、ちゃんと現代劇もある。その一つが「破れ太鼓」(51年)である。タイトルを聞いただけだと、これも時代劇かと思ってしまうが、あの木下恵介が監督するホームコメディなのである。
田村高廣によれば、バンツマがこの出演依頼を受けてからOKするまでには、かなりの時間がかかったという。本人もチャンバラから脱皮したいという考えもあり、木下からの依頼で嬉しかったに違いないのだが、現代劇でしかもコメディという彼にとっては未知の世界なので、非常にナーバスになっていたそうである。
松竹側から「どうなっているのか?」と問われると、「私は~(省略)~と思っているのですが、一介の時代劇役者が、新進気鋭の監督さんに申し上げていいものかどうか、お返事が遅れたことをお許しいたただきたい」と大スタアらしからぬ低姿勢で答えていたという。
撮影に入ってからは大変に上機嫌だったという。基本的に役者はしからずにのせていくタイプの木下は、もちろんバンツマに対しても何でもOKだったらしい。家でも劇中のセリフである「おいしいおいしいコーヒーを二つ」とか、言っていたという。
この「破れ太鼓」だが、頑固親父とその妻、六人の子供が織りなすホームコメディだ。木下作品でこのシチュエーションといえば、進藤英太郎主演のドラマ「おやじ太鼓」(68~69年)を思い出す人も多いだろう(こちらは子供が七人)。「おやじ太鼓」の原型となっているのが「破れ太鼓」なのである。
「破れ太鼓」での息子役を演じるのは森雅之、大泉滉、小林トシ子、桂木洋子、大塚正義、そして次男を演じるのは木下の実弟・木下忠司である。木下忠司といえば、ご存知のとおり作曲家であり、本作では音楽も担当している。ちなみに、作曲家を志しているという役だ。忠司の映画出演はこれだけだと思われる。大泉滉の役名は又三郎だが、これは彼が「風の又三郎」(37年)でデビューしたから(又三郎役ではない)と思われる。
「破れ太鼓」はその後、何度かテレビドラマ化されているが、阪東妻三郎の十三回忌記念作と銘打たれた65年版では次男の俊麿を含めた田村四兄弟が揃って出演している。おそらく尾上松緑演じる親父の息子役、つまりそのまま兄弟の役であろう。四男の田村亮はこれがテレビドラマデビュー作であった。
53年、阪東妻三郎は「あばれ獅子」の撮影中に倒れ、脳内出血で死亡。51歳の若さであった。バンツマは勝小吉(勝海舟の父)の役であった。映画はスタンドイン、アフレコなどを駆使して何とか完成させたという。対照的に前述の木下忠司は100歳を過ぎた今も健在だという。

 

松竹俳優録36 田村高廣

田村高廣を個人的に認識したのは、必殺シリーズ第3弾「助け人走る」(73年)だったはずである。ただ、普通の刀で相手を斬るだけでなく、とどめをさすには短刀を使い、一時期刀を売った際には、刀の形状をした鉄の棒で撲殺したりという、バラエティに富んだ殺陣が当時小学生ながら好きであった。もちろん、当時はこの人が剣戟スタア阪東妻三郎の息子であるなどとは知るはずもなかったが。
必殺シリーズは松竹の制作だが、田村高廣もスタートは松竹であった。
田村高廣は28年生まれ。大スタアの長男であり、弟は田村正和、田村亮であり、田村三兄弟として有名だった。実際は四兄弟で次男の俊麿も映画出演の経験はあるが、俳優にはならず高廣、正和のマネージャーとなり、後に会社を設立している。
さて高廣は、当初全く俳優になる気はなく、同志社大学を卒業した52年、東京の商事会社に就職しサラリーマンとなっている。しかし、翌53年、父・阪妻が脳出血により51歳の若さで急逝してしまう。それで近親者や木下恵介に俳優になるように強く勧められる。
高廣は、恥ずかしがり屋でシャイだったという阪妻の代理で「破れ太鼓」(49年)の社内試写を見にいき、そこで木下に会っていたのである。
俳優など乗り気ではなかったが、父の残した借金返済のため俳優になることを受け入れたのである。
デビュー作は木下監督の「女の園」(54年)であった。何しろ出演者が高峰三枝子、高峰秀子のW高峰に加え、岸恵子、久我美子といったスタア女優が揃って出演する作品である。その中にずぶの素人が放り込まれたのだから緊張しないわけがない。
しかし、木下は現場では「ああしなさい、こうしなさい」とは一切言わなかったという。また本人が「阪妻二世」と言われることにプレッシャーを感じていたのを悟っていたのか、撮影中に一切阪妻の話題を出すこともなかったという。
続く木下作品「二十四の瞳」(54年)では、成長した生徒の一人磯吉の役だが、戦争で失明しているという役柄である。目を動かしてはいけないのだが、どうしても目が動いてしまったという。
この二作品、54年度のキネマ旬報ベストテンの1,2位を独占、ちなみに3位があの「七人の侍」なのでいかに高評価だったのかがわかろう。スタートからその両作に出演できたのだから幸運なスタートだったともいえる。しかし、地味なタイプで華やかな雰囲気には乏しかったため、しばらくは脇役に回っていた。
阪妻二世と言われることを嫌い、当初時代劇への出演を避けていた田村高廣だったが、元々それを期待されての松竹入りだったたけに、56年の「京洛五人男」でついに剣をとったのである。この作品には「阪東妻三郎追善記念」と銘打たれていたので、その息子が出演いないわけにもいかなかった。しかし、そのチャンバラぶりは初めてとは思えない程うまかったという。
元々京都育ちであったが、59年に松竹京都に移籍し時代劇に挑戦するが、ヒット作はでなかった。62年からは脇役が多くなり、63年には松竹を退社し、フリーとなった。最も彼を印象づけたのは大映で勝新太郎とコンビを組んだ「兵隊やくざ」シリーズであった。この第1作で65年度ブルーリボン男優助演賞を獲得している。
劇団や養成所で演技の勉強をしていない素人が、10年ちょっとでここまでになったのである。その後は映画だけでなくテレビでも活躍。
父は脳出血で急逝したが、田村高廣は06年に脳梗塞で急逝した。プライベートでも素を出さないと言われる弟・正和が葬儀では人目も憚らず号泣したという。

 

松竹俳優録35 藤岡 弘

藤岡弘は、どうしても「仮面ライダー」以降のイメージが強く、それ以前は松竹の俳優だったという印象がとても薄い気がする。
藤岡弘は46年愛媛県の生まれで、本名は藤岡邦弘という。父が警察官であり柔道家だったことから、幼少時より武道を嗜んでいる。しかし小6のとき、その父が突然失踪し極貧生活を経験したという。
高校時代は柔道部の主将を務め、卒業後は地元の石油会社に就職するが、まもなく退社し俳優を目指して上京した。養成所に入ることは決まっていたものの、他にあてはなく当初は上智大学の横にある土手などで野宿していたという。
64年に劇団NLT俳優教室の一期生として入所。この時の同期に後にライダー2号となる佐々木剛がいた。「仮面ライダーV3」でライダーマンを演じた山口暁(豪久)や「特捜最前線」で藤岡と同僚となる夏夕介もここの出身だという。
65年に松竹にニューフェイスとして採用され入社する。同年の香山美子、都はるみ主演の「アンコ椿は恋の花」でデビューを飾っている。ちなみに役名は「猛」であった。続く「若いしぶき」で早くも主演に抜擢されている。相手役は関根ゆり子という女優だが、記録上は本作と他一作のみで姿を消してしまったようである。
その後は、高宮敬二の項でも書いた「血と掟」に始まり「やさぐれの掟」「青雲やくざ」といった松竹やくざ映画路線に立て続けに出演する。それが一段落すると、しばらくは青春路線映画で主演級の役もあったが助演としての出演が多かった。久々の主演は「小さなスナック」(68年)で、翌69年の「落葉とくちづけ」とどちらも尾崎奈々とのコンビ主演で、前者はパープルシャドウズ、後者はヴィレッジシンガースが出演するGS映画であった。また、コント55号が主演のコメディ映画にも立て続けに出演している。
こういった甘い二枚目といった役柄が自分には合っていない思うようになっていたが、基本的に松竹はそういった映画がメインの会社だった。そんな中、東映のアクションドラマ「ゴールドアイ」(70年)へのレギュラー出演が決まった。このドラマは今考えると出演者が豪華で、芥川龍之介の長男・芥川比呂志をリーダーに、高松英郎、吉田輝雄、若林豪、柴俊夫(当時・柴本俊夫)、宮園純子、岩井友見そして5話より参加の渡瀬恒彦がレギュラーだった。柴はこれがデビュー作で、渡瀬もデビュー直後で、本作がテレビ初レギュラーだった。藤岡は12話よりレギュラー入りしたが、もう一人一緒にレギュラー入りしたのが「仮面ライダー」でも一緒になる千葉治郎であった。
これが縁になったかどうかは不明だが、翌71年藤岡は「仮面ライダー」の主役・本郷猛役に抜擢された。この年五社協定も事実上崩壊し、藤岡も正式に松竹を退社したのである。松竹では30本ほどの映画に出演していた。テレビと映画の違いはあったが、東映の現場は松竹のそれとはまったく違う雰囲気だったという。東映の体育会系ともいえる雰囲気は藤岡の気質には合っていたという。
ここから先は知っている人も多いと思うが、藤岡は「仮面ライダー」9話の撮影中にバイク事故で大けがを負った。そこで急遽登場したのが千葉治郎演じるFBIの滝和也だった。そして、仮面ライダー2号として佐々木剛が登場したのであった。偶然のキャスティングと思われるが、共に藤岡とは元々縁のある役者だったのである。
「仮面ライダー」でデビューしたと思っていた人も当初は多かったようだが、これ以前にも約6年の期間があったのである。

 

松竹俳優録34 和崎俊哉(俊也)

松竹は長く続いている映画会社だけあって、短期間ではあるが在籍していたという役者も結構多い。和崎俊哉もその一人である。
和崎俊哉は38年生まれ。広島呉の高校を卒業した57年に東映京都の登録演技者となっている。和崎隆太郎の名でデビューし、多くの東映時代劇に出演している。「真田風雲録」(63年)では真田十勇士の一人(望月六郎)に抜擢されたり、「十三人の刺客」(63年)では、その刺客の一人を演じたりしているが、ポスターにその名が載ることはあまりなかったようだ。
64年には日本電波映画に移籍し、多くのテレビドラマに出演。「坊主拳法」(64~65年)では主演に抜擢されている。この時の芸名は和崎俊也である。ちなみに、当時はあまり知られていなかった少林寺拳法を取り上げた作品であり、和崎は番組で共演した朝倉彩子(晴子)と65年に結婚している。
日本電波といえば、「柔」「柔一筋」など柔道ものを多く手がけたが、和崎もそれらに出演。松竹で配給された映画「続・柔旋風 四天王誕生」(65年)では、主役の姿三四郎を演じたりした。
その縁もあってか、66年には松竹と契約。「燃えよ剣」(66年)では、近藤勇役を抜擢されている。ちなみに土方歳三は栗塚旭、沖田総司は石倉英彦、前回の高宮敬二も新見錦役で出演している。
そして、松竹が手掛けた唯一の怪獣映画「宇宙大怪獣ギララ」(67年)でも主役を演じている。本作には当時は松竹に在籍していた園井啓介や藤岡弘も出演している。監督の二本松嘉瑞は、木下恵介の門下生である。「昆虫大戦争」(68年)の監督も二本松だ。
和崎の松竹在籍期間は非常に短く、どうやら「また逢う日まで 恋人の泉」(67年)を最後にフリーになったようである。つまり、二年足らずという短い期間の在籍だったことになる。
以降はテレビが中心となるのだが、「無用ノ介」(69年)では伊吹吾郎と最後まで主役の座を争ったという(他に村井国夫、地井武男らが候補だった)。ちなみに「木枯し紋次郎」でも紋次郎役の候補だったという。結局どちらも敗れたのだが、どちらの番組にもゲストで出演した。
個人的には、やはり「ミラーマン」(71~72年)の村上チーフ役が印象に深い。当時まだ32~33歳だったはずだが、どうみても40歳は超えている感じに見えた。それほど渋く貫禄があったのである。同じ円谷プロの特撮「ジャンボーグA」(73年)にも、何と同じ村上役で登場。松川勉の後任の隊長に就任している。このころには本名の和崎俊哉名義になっている。
08年には「ギララの逆襲洞爺湖サミット危機一発」に出演。40年前のギララには佐野という役で出ていたが今回も役名は佐野博士である。この作品には、夏木陽介、黒部進、古谷敏、中田博久といった60、70年代特撮ではお馴染みの面々が出演している。しかし、和崎の映画出演は記録上はこれが最後となっている。
ウィキペディアには、和崎は2011年2月に大腸がんで亡くなったとなっているのだが、それ以外に死亡記事などは見当たらない。「墓碑銘」というサイトには、あらゆる俳優、歌手といった芸能人の命日が載っていたりするが、そこにも和崎の名はない。まだ健在であるとの書き込みもあったりする。ウィキ情報が必ず正しいとは限らないが、判断に悩む現象である。

 

松竹俳優録33 高宮敬二 その2

さて、もう少し高宮敬二である。彼は松竹時代から前回のプロデューサー補佐もそうだが、役者以外のことを手掛けることが多くなっていったようである。以前「映画論叢」にその辺のことを書いている。
東京オリンピックの開催中というから、64年のことだろうが赤坂のクラブ経営に携わることになったという。イメージどおり高宮は遊び人で、毎晩のように銀座、赤坂、六本木界隈を飲み歩いていたので客集めには自信があったという。スタッフに松竹の若手役者を起用したり、オープン初日から満席となる繁盛ぶりで、すぐに経営は軌道にのったである。
しかし、当然うまいことばかりではない。常連客にヤクザがいて「シャブを持っているんだがなんとかしてくれないか」と相談をされたという。当然その時はスルーしたのだが、後日別のヤクザの客から「シャブが手に入らないか」という話が出たので、先日のヤクザのことを思い出し紹介したのだという。
すると、まもなく高宮の自宅マンションに数人の刑事が訪れ、家宅捜索が行われたのである。何も出なかったが、任意同行で警視庁に連行され取り調べを受けたのであった。お客同士にシャブの仲介をしたというのが逮捕理由だった。本人からは薬物反応は出ず、仲介料や手数料も受け取っていなかったので釈放されたのである。
本人も軽率な行為だったと反省はしたが、マスコミ報道では「麻薬で高宮敬二逮捕」「映画を地で行く高宮敬二」などの見出しでにぎわい、「日本のヤクザを使い韓国のマフィアと手を組み麻薬の売買をしていた」というような記事が載ったりもしたという。
警視庁から映画会社、芸能関係各所に誤認逮捕の連絡は入れてもらったというが、イメージダウンは免れず、その後しばらく出演依頼はなかったという。そこで、役者の仕事は辞め歌手として再出発を試みたのである。調べると67年~68年にかけて、1年ほど映画出演のない時期があるので、その時のことであろうか。
また、本人は67年頃と言っているのでその時期のことだと思われるが、韓国のグランドホテルの社長として再建を依頼されたことがあったという。高宮が顧問という役職で従事していた会社の社長からの依頼だったが、「韓国語もわからずホテル経営なんかできません」と断っていた。しかし、どうしてもと口説かれ義理もあったため引き受けたという。
こうして韓国ホテルの社長となった高宮は、クラブ経営のノウハウもあったせいか、はたまた元々そういう才能があったのか、ホテル経営も成功させてしまう。社長業は三年ほど行い、基本的には韓国にいて月に一回は日本に帰国するような生活だったという。68~70年あたりも年に数本は映画に出たりしているので、帰国した際に出演していたということになる。
しかし、韓国の観光事業に外国人が携わるには政府の許可が必要とされるようになり、しばらくはホテル経営から撤退することとなった。高宮は70年代に入ると、ドラマのゲストや「仁義なき戦い」(73年)では文太の助演など、また俳優業に精を出し始めたかと思いきや、「大脱獄」(75年)を最後に俳優業からは遠ざかっている。
現役を退いてからは、基本的にはプロデューサー業に従事していたようである。カラオケレッスン教室を開き、そこからプロ歌手をデビューさせたり、Vシネマの制作に携わったりしていたようだ。
02年には吉田輝雄と再会し、二人でデュエット曲を出している。ユニット名は二人ではあったが「ハンサムタワーズ」である。当時、高宮69歳、吉田66歳であった。