お宝映画・番組私的見聞録 -85ページ目

東宝俳優録5 藤原釜足(鶏太)

「七人の侍」繋がりで、今回は藤原釜足である。
日本史において「大化の改新」というのは結構メジャーな出来事だと思うが、その推進人物である藤原(中臣)鎌足、読みはそのまんまな芸名を付けた大胆不敵な役者である。外国人のもじりは、江戸川乱歩(エドガー・アラン・ポー)、谷啓(ダニー・ケイ)、茶風林(チャップリン)等よく聞くが、日本史に出てくる人物のもじりはあまり聞かない気がする。
藤原釜足は1905年生まれ。本名は安恵重男という。16歳のとき、オペラ俳優にあこがれ、コーラスボーイになろうと滝野川俳優養成所に入る。しかし、これがインチキ学校で、授業料を巻き上げられた上に半年後に卒業しても俳優になれるあてもなく「約束が違う、警察に訴えるぞ」と学校側に迫ると、オペラ俳優である黒木憲三を紹介され、弟子入りする。
安恵一夫の芸名で「カルメン」などのオペラにコーラスボーイで出演する傍ら、東洋音楽学校でヴァイオリンを習ったりしていた。
黒木についてドサ回りの旅に出てるが、三度の食事にも困る始末で、23年には黒木と別れ、奇術の松旭斎天栄一座に入り、各地を巡業する。一座の解散後は、習い覚えたヴァイオリンの腕を生かし、川崎の映画館に楽師として入り5年間を過ごしている。生活の安定をエアたので、28年には結婚し翌年には一男をもうけるが、妻は病で亡くなった。
30年、旧知の榎本健一に誘われてカジノフォーリー結成に参加する。この時芸名を藤原秀臣とし、ソロシンガーとしても活躍した。その後、ブペ・ダンサントの結成にも参加するが、文芸部長だったサトウハチローに「秀でた臣なら鎌足だ」と言われ、藤原鎌足をもじって釜足と改名したのである。
33年、PCLがトーキー映画の自主製作を開始し、第1作としてミュージカルコメディ「ほろよひ人生」を撮ることになり、その出演者として藤原も選ばれ、PCLの専属契約俳優に転向したのである。PCLすなわち東宝草創記から大活躍を見せる。
「坊っちゃん」(35年)のうらなり先生や、「吾輩は猫である」の詩人、38年に社名が東宝になってからも「秀子の車掌さん」(41年)や「馬」(41年)などに出演した。「馬」で助監督を務めてるのが黒澤明である。
戦時中は、当局から釜足の芸名は忠臣・鎌足を茶化しているようでけしからんと言われ、「支那の夜」(40年)から芸名を藤原鶏太と改め、終戦までこれを名乗っている。なので、前述の「秀子の車掌さん」や「馬」では鶏太名義である。46年2月に釜足に戻している。
話が前後するが、36年には沢村貞子と二度目の結婚(46年離婚)。黒澤作品などで共演する加東大介とは、一時期義理の兄弟だったわけである。この夫婦は一時期、実演に転じて、松竹劇場など舞台に活躍していた。46年、松竹の「朗らか週間」で映画に復帰し、徐々に映画出演の機会は増え、48年からは映画に専念することになる。
54年半ばから東宝専属となっており、「七人の侍」出演時はその直前で、フリーの立場での出演だったようだ。

 

東宝俳優録4 宮口精二 

次も「七人の侍」繋がりでと思っていたが、木村功も千秋実もあれほど黒澤作品に出ていながら、東宝の所属俳優になったことはないようである(木村は俳優座→劇団青俳、千秋は基本的にはフリー)。
そんなわけで宮口精二だが、宮口も黒澤がバリバリと映画を撮っていた頃は東宝の所属ではなく、その黒澤が東宝との契約を解除された65年になって初めて東宝演劇部に1年ごとの契約で入ることになったのである。
宮口は1913年生まれで、本名は宮口精次。26年に家庭の経済的事情から夜間中学に転じると同時に、福徳生命東京支店に給仕として入社している。31年に夜間中学を卒業後も給仕として勤めていたが、会社の同僚の誘いで歌舞伎や新劇を見るようなる。「同じ貧乏をするなら好きな道で」と、役者を志すようになり、33年に築地座の研究生募集に応じて入団した。
築地座解散後は、37年の文学座結成に杉村春子らと共に参加。44年、国民小劇場における「怒濤」での演技で注目され、黒澤明が「続姿三四郎」(45年)を作るにあたり、同じ文学座の森雅之と共に四天王の一人として抜擢し、映画デビューとなったのである。
太平洋戦争末期は文学座の移動演劇隊に参加し北陸地方を巡演し、旅先で終戦を迎えた。戦後も文学座の一員として舞台に立ち、49年には第一回毎日演劇賞を受賞している。
戦後の映画出演は東宝の「浦島太郎の後裔」(46年)の後、しばらく出演がなかったが、51年に松竹の「善魔」(木下恵介監督)に出演。三國連太郎のデビュー作だが、その上司役が好評で戦後日本映画を代表する監督に次々と起用されるようになった。
小津安二郎の「麦秋」(51年)「早春」(56年)、今井正の「にごりえ」(53年)「純愛物語」(57年)、市川崑の「処刑の部屋」(56年)「破戒」(62年)、小林正樹の「黒い河」(57年)「人間の条件」(59年)、稲垣浩の「無法松の一生」(58年)、成瀬巳喜男の「あらくれ」(57年)、吉村公三郎の「夜の蝶」(57年)、野村芳太郎の「張込み」(58年)、そして黒澤明の「生きる」(52年)「七人の侍」(54年)「蜘蛛巣城」(57年)等である。
本人は小柄な細身で、どちらかといえばひ弱な感じに見えるのだが、何故か黒澤作品では強い役ばかりに起用。「生きる」ではワンカットのみだが、頬に傷のあるヤクザの親分、「七人の侍」では一番腕の立つ剣豪・久蔵といった具合である。これが実際に強そうに見えるから不思議である。まあ「七人の侍」は、三船、志村以外はみんなあまり強そうには見えないが。後「張込み」で、大木実とコンビのベテラン刑事役も有名であろう。
65年に文学座を退団し、前述のとおり東宝演劇部と契約するが、「青春とはなんだ」(65年)に始まる一連の青春シリーズや「東京バイパス指令」(68年)等、60年代後半から70年代の東宝制作のドラマに多く出演している。
85年、肺がんのため71歳で亡くなっている。

 

東宝俳優録3 加東大介

「七人の侍」繋がりで、今回は加東大介である。
加東大介は、1911年生まれで本名は加藤徳之助といい、兄は沢村国太郎、姉は沢村貞子という俳優兄弟である。ちなみに国太郎の息子は長門裕之、津川雅彦なので、加東は彼らの叔父にあたるわけである。
父親の伝太郎は役者ではなく、宮戸座の座付き作家で竹柴伝蔵といった。そんな関係で自分の子供は歌舞伎役者にすると決めており、兄の国太郎に続いて、加東も歌舞伎の世界に入っている。歌舞伎には詳しくないが、あんな丸々とした歌舞伎役者ってあまり見たことがない。33年に前進座に入り、市川莚司を名乗るようになる。同年、「段七しぐれ」で映画デビューしている。以降は、「河内山宋俊」(36年)や「人情紙風船」(37年)、「阿部一族」(39年)に出演する。
43年、陸軍に衛生伍長として応召されニューギニアへ送られる。そこでは、兵士たちを鼓舞するための劇団づくりを命じられたという。後にこの時の体験をつづったものが「南の島に雪が降る」である。46年に復員するが、左傾してしまった前進座に嫌気がさし退団し、兄の国太郎や姉の貞子と神技座を結成して巡業するがうまくいかず映画界入りを決意する。
48年、姉の貞子と共に大映京都し、阪妻主演の「木曾の天狗」を第一回作品とする。次の「五人の目撃者」(48年)が現代劇だったため歌舞伎俳優くさい市川莚司を辞め、本名を生かした加東大介に改めた。50年、黒澤明監督の「羅生門」に八人しかいない出演者の一人に選ばれ注目されるようになり、翌51年には東宝に移籍する。
加東は黒澤作品には「羅生門」の他は、「生きる」(52年)、「七人の侍」(54年)、「用心棒」(61年)に出演し、常連のようなイメージだが、実はこの4作にしか出演していない。しかも「羅生門」や「生きる」では脇役なので、大役は「七人の侍」と「用心棒」だけだといえるのだが、もっと沢山の作品に出演しているイメージが不思議とあったりする。とにかく、東宝では多くの作品に出演しており、スケジュールのとられそうな黒澤作品には物理的にも参加できなかったのかもしれない。
基本的には助演の人だったが、「大番シリーズ」(57~58年)の4作品では主演のギューちゃんこと赤羽丑之助役に抜擢される。このギューちゃんというあだ名はいつしか加東自身のあだ名に定着している。シリーズの合間に作られた「一本刀土俵入」(57年)でも、主役の駒形茂兵衛を演じている。
また東宝の看板でもあるサラリーマンものでも「サラリーマン出世太閤記シリーズ」(57~60年)の全5作や「新・三等重役シリーズ」(59~60年)の全4作、30作を超える「社長シリーズ」(56~70年)のほぼ全作に顔を出している。
75年結腸ガンで入院するが、本人はガンであることを知らずに病院からスタジオに通っていた。75年7月に64歳で亡くなった。遺作は倉本総脚本のドラマ「六羽のかもめ」であった。共演は大番シリーズでその相手役だった淡島千景や甥である長門裕之、「七人の侍」で久蔵を演じた宮口精二もゲスト出演している。

 

東宝俳優録2 土屋嘉男 その2  

前回の続きである。黒澤家に厄介になることになった土屋嘉男だったが、「七人の侍」の撮影中には高堂国典(村の長老役)からは、「養子に来ないか」と誘われたり、ほとんど他人とは接さない左卜全からもよく話しかけられたという。卜全によれば「西式健康法をやっており、その西さんを私は一番尊敬している。西さんは元は甲州は土屋家の人なので、あんたとは血がつながっていると思う」から、土屋とはちゃんとした付き合いをしているのだそうだ。
「七人の侍」の撮影が終わっても、土屋は黒澤家に厄介になっていたが、次作である「生きものの記録」(55年)の撮影が始まる前に、彼は黒澤家を出た。その後もよく訪れはしたというが、通算すると約1年半の間、黒澤家に居候したことになる。
「木下(恵介)君に君を預けようとかなと思ったけど、やっぱり東宝に入れよ」と黒澤に勧められ、土屋はせっかく入った俳優座を退団し、東宝と契約を結ぶことになったのである。それにしても、東宝ではなく松竹の木下の所へ行くプランもあったわけである。しかし、土屋の場合は松竹でもさほど違和感を感じない気がする。
土屋嘉男といえば、黒澤映画だけではなく東宝特撮の顔でもある。これも有名なエピソードだと思うが、「七人の侍」の撮影が終わりに近づいたころ土屋は「ゴジラ」なる作品の噂を耳にする。元々SF好きだった彼は、そっと黒澤組を抜け出し、ゴジラの撮影現場へ見学に行っていたのである。特撮の方の監督はレジェンド円谷英二。当時は特撮現場に足を運ぶ俳優などいなかったので、円谷は喜んでくれたという。土屋がステージに来るのを待ってくれたりして、破壊シーンを生で見ることが出来たという。円谷とはSFについて語り合う仲になったそうだ。
「ゴジラ」本編の監督といえば本多猪四郎。子どもの頃、怪獣映画を見に行くと必ずこの名前を見たイメージがある。黒澤と同じ山本嘉次郎組の出身ということもあり、二人は大変仲が良い。黒澤が「イノさんの映画なら出てもいいよ」と言うので、土屋は東宝特撮にもよく顔を出すことになったのである。土屋で特撮といえば、何となく科学者とか博士のようなイメージがあるが、本人はあまりマトモな役をやりたがらない。
「地球防衛軍」(57年)では、自分から希望して顔の見えないミステリアン(宇宙人)の役をやっている。その「宇宙語」も土屋が自分で考案したものである。「ガス人間第一号」(58年)では、そのガス人間を演じている。「透明人間」(54年)に出演した際、透明人間を演じる河津清三郎が羨ましかったそうで、ずっとそういう役をやりたいと思っていたという。
カナダのロッキー山脈にいった際、たまたま村の映画館で「ガス人間」を上映しており、土屋は街の人に大歓迎されたという。ホテルはタダになり、御馳走まで振る舞われたといい、まさにVIP待遇である。シカゴでも道行く人が土屋を見ると、ミステリアンの手の動作をしたという。アメリカのTVでは、東宝の特撮映画を繰り返して放送していたようで、現地の人は土屋の顔がすぐにわかったようなのである。
そんな土屋嘉男は70年に東宝を退社。以降はフリーとしてTVや映画で活躍した。しかし、つい先日(9月)その死亡が発表された。実は2月に亡くなっており、7カ月たってからの発表で、89歳であった。

 

東宝俳優録2 土屋嘉男

今回は前回、名前の出た土屋嘉男である。文字通り、黒澤明に見いだされた役者である。
土屋嘉男は27年山梨県の生まれ。小学生の時から釣りが好きで、そこである「親父」と知り合う。その親父のうちへ遊びにいくと、一人胡散臭い男がゴロゴロしていたという。親父は「この男の名前は太宰だ」と紹介した。その男こそ当時は戦時疎開で甲府に在住した太宰治で、親父の正体はその師匠である井伏鱒二だったという。正体を知るのに大分時間がかかったらしいが、土屋は少年時代に太宰や井伏と交友があったわけである。
医師になるため旧制山梨医学専門学校に入学するが、真剣に医者になりたいとは思っていなかった土屋に太宰が「君は医者になるより、俳優になったほうがいいよ」と言われたことも俳優を目指すきっかけの一つになったという。
49年に学校を卒業した後、50年に俳優座養成所2期生に合格して上京する。戦後は三鷹に住んでいたという太宰は、すっかり痩せこけて元気を無くしている状態で「俳優座の研究生になりました」と報告できる状態ではなかったという。まもなく太宰は入水自殺したというのだが、自殺は48年の話なので土屋の話とはタイムテーブルがずれていたりする。自殺前の姿を見たというのは嘘ではないだろうが。
とにかく俳優座の研究生となった土屋だが「七人の侍」(54年)がデビュー作と言われるが、正確には「私はシベリヤの捕虜だった」(52年)が映画初出演作である。丹波哲郎のデビュー作である「殺人容疑者」(52年)にも顔を出している。
53年、「七人の侍」という映画の重要な役のオーディションのため黒澤明が俳優座にやってくるので参加希望者は待機せよとの知らせが入った。土屋は黒澤映画の大ファンではあったが、「私ではダメだ」とでも思ったか、オーディションは受けず近くのパチンコ屋にいったという。
ここからは割合有名なエピソードと思われるが、オーディションも終わった頃かと思い劇団に戻って、トイレで用を足していると一人の背の高い男が入ってきて、土屋の隣で用を足し始めた。眼があってしまい、思わずそらしたという土屋だったが、「ひよっとしてこの人…」という彼の予感は当たっていたのである。それが黒澤明との出会いだったのだ。
その後、その重要な役は中々決まらないまま、土屋は劇団員に採用された。同期の研究生は60人余りいて、採用されたのは土屋を含めて4人だけだったらしい。研究生最後のパーティの途中に電話があり「黒澤明が土屋君に会いたいから、東宝撮影所に来てくれ」というものであった。土屋は訳が分からず、「昼飯まだだから」などと言って渋っていると、劇団のプロデューサーが「パーティの折詰弁当あるだろう。持ってって後で喰えばいい、早く行け」と言われ、東宝撮影所に向かった。
「黒澤組」と書かれたスタッフルームを探し当て、ドアを開けると、「トイレの男」がいたのである。「あなたが黒澤明ですか」と土屋は思わず呼び捨てで言ってしまったというが、「そうです、トイレで会った黒澤です」と優しく返してくれた。
こうして、百姓・利吉の役に土屋が採用されることになったのだが、土屋がオーディションに参加していたらどうだったかは不明だが、参加しなかったことが功を奏したといえよう。
そんな土屋がある日、演技課長に自分で作ったスケジュール表を提出した。彼は登山が趣味であり、それはこの日から十日間は山に行くから休むというようなものであった。すぐに黒澤の耳にも入り、「困るんだよ、そいいうことを自分勝手に決めちゃあ」と叱ったのである。それから数日して黒澤は土屋に提案した。「俺の家に来ないか、よければずーっといろよ。旨いもの食わしてやるから」と誘うのである。躊躇する土屋だったが、黒澤は「お前さんは放っといたらどこかへ行ってしまいそうで気が気じゃない」と説得され、土屋の黒澤家への居候が決まったのである。こうして、彼は天下の黒澤家に下宿した俳優第一号(第二号がいたかは知らない)となったのである。

 

東宝俳優録1 志村 喬 その2

東宝に入ってからの志村喬といえば、やはり黒澤映画ということになるが、いろいろなところで書かれているんでここでは省略、というわけにもいかない。65年の「赤ひげ」まで23作ある黒澤作品で志村が出演していないのは「続姿三四郎」(45年)、「素晴らしき日曜日」(47年)、「どん底」(57年)の三作だけである。
「酔いどれ天使」(48年)とか「七人の侍」(54年)など三船敏郎とのダブル主役という感じだが、「生きる」(52年)では単独主演である。意外な感じもするが、「七人の侍」の次作である「生きものの記録」(55年)以降は、脇に回っている。「天国と地獄」(63年)なんかでは出番も台詞もほとんどないが、やはり存在感はある。
三船敏郎とは成城の家は隣だったという。三船は志村夫妻を「おじちゃん、おばちゃん」と呼ぶ。家族ぐるみでの付き合いだったようだ。黒澤も近所で、藤田進や千秋実も成城で、黒澤一家?は成城に固まっていたらしい。これは撮影所のある砧が隣町だったからで、多くの映画人がここに住んでいたのである。
黒澤一家といえば土屋嘉男の名も挙がるが、ある日志村から「私の妹が甲府のあなたの親戚に嫁いでいるんです」と言われ土屋は大変驚いたという。甲府の呉服問屋に遠い親戚があり、そこの奥さんは横浜ゴム社長(島崎敏夫)の妹だということは土屋も知っていたというが、志村もその兄弟ということは知らなかったのである。前回も書いたが、志村の本名は島崎捷爾であり、敏夫は兄であった。
成瀬巳喜男監督の「コタンの口笛」でも、志村と土屋は共演。北海道で長期ロケが行われたが、二人は撮影のない日に登別温泉に行ってもたという。ホテルの食堂で食事を始めると、新婚らしきカップルの男性が二人の写真を撮り始めたという。最初は離れたところにいた男が次第に近づきながらシャッターを押し続けた。すると志村が男に向かって大声で怒鳴ったのである。「あなたは何をしておるんですか!我々には肖像権というものがあるんです。いったい誰にことわりましたか!」。男は小声で「すみません…それでは、写真を撮ってもよろしいでしょうか」というと、志村は「いやでーす!」と返したという。男はそそくさと立ち去った。
普段は温厚だが、そこは明治男。頑固な部分も当然あるのである。
黒澤作品以外で志村が主演だったのが、「男ありて」(55年)である。志村はプロ野球の東京スワローズならぬスパローズの監督役。三船敏郎がチームのキャプテンで一塁手で、新人ピッチャーが藤木悠である。志村は当時50歳だが、全然上に見える。藤木は元々ニューフェイスなので、当時は二枚目感があった。数年で三枚目になってしまうけれども。東京といいながら、撮影は中日球場で行われ、試合場面には中日の2軍(ダイアモンズというらしい)が出演している。当時の中日監督である天知俊一が一部モデルになっていると言われている。ちなみに天知茂という芸名はこの天知監督からきているらしい(茂は当時のエース杉下茂から)。
志村が戦後に出演した映画は約270本にも及ぶ。60年代からはテレビドラマにも顔をだすようになり、数多くの出演作がある。「お荷物小荷物」(70~71年)では主演ともいえる男尊女卑の頑固爺さんを演じた。
77年頃から肺気腫の病状が悪化し、入退院を繰り返していたが、82年に76歳で亡くなっている。

 

東宝俳優録1 志村 喬

さて、今回より東宝俳優録である。誰をトップバッターにしようかと思ったが、無難?なところで志村喬である。
志村喬は1905年生まれ。前回までの笠智衆とは1つしか違わない。なのに、爺さんのイメージが笠よりずっと薄いのは「姿三四郎」(43年)、「七人の侍」(54年)とかの躍動している姿の印象が強いからであろう。本名は島崎捷爾(しょうじ)という。
23年、関西大学予科に入学したが、まみなく父親が退職し学費の援助が得られなくなったことから夜間の専門部英文科に転じると共に大阪市水道局の臨時職員となっている。この時までは、役者や演劇などとは無縁の生活であったが、英文科の講師に劇作家の豊岡佐一郎やシェークスピア研究家の坪内士行がいたことから演劇熱が芽生え、大学の演劇研究会に参加する。
28年にはアマチュア劇団の七月座を結成する。以降の数年間は昼は市役所勤め、夜は大学、その間に芝居という生活が続くが、芝居に熱中しすぎて、市役所はクビになったため、大学も中退して七月座のプロを図って巡業などをするが、大赤字となり失敗した。
30年に豊岡の友人である森田信義(後の東宝撮影所長)の世話で近代座に入り、職業俳優として舞台に出演した。32年に大阪に戻り、進藤英太郎や原健策のいた剣戟団・新声劇に加わったり、翌33年には三好栄子(森田信義夫人)らが旗揚げした新選座に加わったりした。しかし、芝居の世界は景気が悪くなる一方であった。そのころ、日本映画はトーキーへの時代へと移行を始めており、台詞のあるトーキーならこれまでの経験が役に立つのではと思い、映画俳優への転向を決意した。
ここでも、当時は新興キネマのプロデューサーをしていた森田に頼んで、34年に新興キネマ京都撮影所に入社したのである。映画デビューは無声映画の「恋愛街一丁目」(34年)だが、半年くらいは演技も台詞もない通行人程度の仕出し出演が続いた。35年、伊丹万作(十三の父)監督の第1回トーキー作品「忠次売り出す」で初めて台詞のある役をもらい、それ以降は段々といい役がつき始めた。36年には千恵蔵プロに移籍していた伊丹に呼ばれ「赤西蠣汰」に出演。片岡千恵蔵扮する蠣太の友人・角又を演じ、脇役として注目されるようになった。同年、松田定次に請われてマキノトーキーに転じるが、翌年解散したため、日活京都撮影所に移籍する。
日活京都では42年までに約百本もの作品に出演。中でも嵐寛寿郎主演の「右門捕物帖」シリーズでのあばたの敬四郎は戦前の志村の当たり役であった。ちなみに、敬四郎役をテレビシリーズでいえば、69年の中村吉右衛門版では三波伸介、74年の杉良太郎晩では高品格、82年の杉良太郎版では伊東四朗が演じている。
42年の日活と大映の合併を前に退社しているが、与えられれば何でもやるという惰性のような毎日に俳優生命の終わりを感じた、からだそうである。興亜映画(松竹太秦撮影所)に入社し、4本の映画に出演するがその後は仕事がなく、小沢栄太郎、東野英治郎、殿山泰司らと生活を助け合っていたという。
当時、興亜映画では他社に俳優を貸し出しており、志村も東宝のプロデューサーになっていた森田から打診され、黒澤明の監督デビュー作「姿三四郎」への出演を勧められる。黒澤との面接の結果、村井半助という柔道家の役で出演が決まった。43年、興亜とは契約が残っていたが、森田の奔走で東宝に移籍が決まったのである。
森田信義という人物が志村の俳優人生には大きくかかわっていたのである。

 

松竹俳優録50 笠 智衆 その3

もう1回だけ笠智衆である。
小津作品で最も有名といえば「東京物語」(53年)ということになるのだろうか。正直言って小津作品はあまり見ていない自分でも「東京物語」くらいは見ている。
本作で笠は72歳という設定だが、実年齢は48歳であった。小津に何度も「ダメだ、老けてない」とダメ出しされたという。背中に座布団を入れたりしたこともあったそうだ。ちなみに、妻役の東山栄枝子は当時は設定通りの65歳だが、長男役の山村聡は43歳、長女役の杉村春子に至っては46歳で笠とはほとんど変わらない年齢だったのである。
小津という人は、一挙手一投足まで全て指定するタイプの監督で、セリフの上げ下げから動きまで全部指定されるので、笠は「とにかく小津先生の言う通りにやっただけで、自分では何も考えない。ロボットです」と述べている。
こういった完璧主義の監督でありながら、声を荒げたり怒鳴ったりすることはなかったという。小津組のセットへ行くといつもシーンとしており、誰も物を言わないし、咳払いさえしない感じだったので、「小津組ならぬお通夜組だ」と皮肉るものもいたらしい。
当時は撮影所長で後に社長となる城戸四郎は、当初笠のことを「カサ」と呼んでいたというエピソードがあるが、これは愛称とかではなく実際には「リュウ」というのを知らなかったからのようである。笠本人によれば、城戸は笠が小津組に出るのをあまり好きではなかったらしいという。「君は小津に可愛がられすぎて妙なふうになってしまったね」と言われたことがあるという。操り人形のように小津の言うとおりやって、自分の個性が出ていないことを危惧していたらしい。そんな、城戸が笠を褒めたのが山田洋次の「家族」(70年)に出た時のことで、「おい笠君、良かったぞ」と祝賀会か何かで声をかけられたという。既に役柄に近い年齢になっていたこともあろうが、のびのびとやっていたからだろう、と笠は述べている。
そんな笠智衆も家庭では、明治男で九州男児であることを貫いていたという。長男の笠徹は、松竹ではなく東宝に入社し、プロデューサー等を務めた人物だが、彼によれば父の信条は「男は喋るな、泣くな、笑うな」というものであったという。また、笠は撮影現場には車を使わず、いつも電車で訪れていた。松竹側がハイヤーを用意しても、「歩かにゃならん」と断っていたという。倍賞千恵子が車で通りかかって、「お送りしましょう」と声をかけても笠は「足腰のために歩かにゃイカンですよ」とやんわり断っている。
これらについて笠徹は「親父は非常に周りに気を遣う性格なので、運転手と二人っきりではかえって気を遣って疲れたからなんです。付き人を置かなかったのもそうです。気を遣わなかったのはお袋だけです」と述べている。その花観夫人とは大部屋時代の29年に結婚している。夫人が91年に亡くなったときは、前述の信条通り、涙を見せることはなかったという。その2年後、笠智衆も後を追うように亡くなった。88歳であった。

 

とりあえず今回で松竹俳優録は終了。後やっていないのは東宝か日活かということになるが、どちらかをやる予定である。

 

松竹俳優録50 笠 智衆 その2

前回の続きである。
笠智衆は「大学よいとこ」(36年)で、初めて大役をもらったのである。当時32歳だったが、この時はまだ学生の役だ。病気の友達の胸に薬を塗るというシーンで、監督の小津は手の動きに感じが出ていないとNGを30回以上出したが、それでもOKにならなかったという。しかし、出来上がった作品は割合が評判が良かったという。
次の「一人息子」(36年)から、時代はトーキーに突入する。ここまでは、無声映画の時代だったのである。ここで小津は笠に「いっぺん、老けてみい」と提案したのである。とは言っても爺さんとまでは行かず、50代の役だった。逆にもっと高齢の方がやりやすい気がするのだが。30代が50代を演じるというのは難しいのではないだろうか。
ちなみに主演は飯田蝶子で、笠は大久保という教師の役で、共演は吉川満子。ちなみに吉川は松竹俳優研究所時代の同期生であった。子役として以前ここでも紹介した葉山正雄、突貫小僧、爆弾小僧なんかも出ている。爆弾小僧が笠の息子役である。
この役が評判良かったため、笠は以降老け役専門となるのである。中には齢相応の役もあったかもしれないが、本人も老け専門です、と言っている。トーキーになった最初から老け役なのだから、笠に爺さんのイメージしかないのは当然のことなのである。
とにかく一気に名を知られるようになり、11年間で10円しか上がらなかった月給35円の大部屋生活にピリオドを打ったのである。初の主演作は小津作品ではなく、斎藤寅次郎監督の「仰げば尊し」(37年)だったようである。小津作品での初主演は「父ありき」(42年)であった。当時、笠は38歳であったが、息子役の佐野周二は30歳であった。ちなみに、小津安二郎は1903年生まれ。つまり笠とは1歳しか違わないのである。ここで、笠は中学校教師の役なのだが、当時は先生の役が非常に多い。
戦中戦後の製作本数が極端に減った時代にも笠の出演作は続いていた。しかし小津は43年、陸軍報道部映画班員として南方に派遣されたため、しばらく小津作品への出演はお休みとなった。その小津は、46年にシンガポールより帰還し、翌47年に復帰第1作として「長屋紳士録」を撮っている。もちろん、笠も出演、先生は先生でも占いの先生役であった。
笠はこの頃、他社にも招かれるようになり、大映の「手をつなぐ子等」(48年)や新東宝の「生きている画像」(48年)に出演するが、この二本で48年度の毎日映画コンクール男優演技賞を受賞している。
翌49年には20年以上所属していた松竹を退社。この後も、松竹作品には出続けていたので、ずっと所属していたかのようなイメージだが、実は1本ごとの契約だったという。その分、各社に精力的に顔を出すようになったのである。

 

松竹俳優録50 笠 智衆

松竹俳優録の50番目を飾るのは「日本のおじいさん」こと笠智衆である。
笠智衆は1904年熊本生まれ。この難しい名前は本名である。「笠」という苗字は全国に1000世帯はあるようなので、珍しいとは言えないが読み方は、そのまま「カサ」という場合と「リュウ」という場合がある。当初は「リュウ」と読むとは知らないから、「カサチシュウ」と思っていた人も多いかもしれない。
実家はお寺であったため、「智衆」という名前もそれっぽい名前を付けられたということらしい。智衆は次男だが、長男が寺を継がずに台湾に行ってしまったため、父の期待は智衆にかけられることになる。しかし、智衆も父の厳格さから僧侶になるのが嫌になり、竜谷大に入学させられるも、ろくに出席もしなかったという。その後、東洋大学印度哲学科に転校したが、やはり学業には身が入らなかったという。
そんな時、下宿の友人が松竹蒲田の研究生募集の広告を見つけ、智衆に勧めたのだという。俳優になる気など全くなかった智衆だったが、坊さん以外なら何でもいいという気持ちもあった。友人が電車賃までくれたので、冷やかしでもいいかと蒲田まで受けに行くと合格してしまったのである。後に聞いた話では、審査員だった英百合子が彼に最高点をつけたのだという。
25年2月に研究所の一期生として入所したが、無論父には内緒であった。しかし、その父が急死してやむなく帰郷し、その年の末まで住職を務めるが嫌でたまらず、台湾にいる兄を呼び戻し「やはり長男が継ぐべきだ」と無理に押し付け、周囲が止めるのも聞かず、26年に蒲田へ戻ったのである。そして、月給25円の大部屋俳優となったのである。当時の25円と言ってもピンとこないと思うが、智衆本人によれば、友人と二人で15円の家を借りて、米、みそ、醤油を買うとなくなってしまったという。それでも、8年間くらい上がることもなかったという。当時はタダでもいいから使ってくれという役者や5円や15円の人も大部屋にはおり、25円というのはマシな方だったのである。
与太者が多かったという大部屋の中では、マジメ人間だった彼は場違いな存在ともいえた。出演は通行人や学生、兵隊の一人といった役がほとんどで、アピールすることが苦手な彼は10年以上も大部屋生活を続けることになる。
智衆が大部屋に入った翌27年に監督デビューしたのが小津安二郎である。その第2作である「若人の夢」から、智衆は顔を出すようになっている。三作目の「女房紛失」(28年)では車に轢かれる役をやり、身体にタイヤの跡を書いて出て、小津が「あんな熱心な役はいない」と言ったという。小津作品には出る場面がなくても撮影現場には顔を出すようになり、そうした熱心さが小津に認められ、「落第はしたけれど」(30年)で、初めてタイトルに役の名前つきで紹介されたのである。
しかし、その後はチョイ役ばかりとなり、清水宏監督の「満州行進曲」(34年)に準主役級で起用された以外は、小津作品でもたいした役はつなかった。
松竹が蒲田から大船に移った36年、小津は「大学よいとこ」で主役級である学生の一人の役を彼に与えたのである。
次回に続く。