お宝映画・番組私的見聞録 -86ページ目

松竹俳優録49 牧 紀子

リクエストが来て思い出したのだが、やろうと思って忘れていた牧紀子を取り上げようと思う。
牧紀子は40年生まれで、本名は牧野紀子という。高校生だった57年に、駒沢球場で行われた映画人野球大会を観戦中に松竹の宣伝マンにスカウトされた。翌58年に松竹音楽舞踏学校付属演技者養成所に入り、59年の高校卒業と同時に松竹に入社している。
デビュー作は同59年の皇太子御成婚慶祝映画「花嫁雲にのる」で、ここでは端役であった。しかし、二作目の「どんと行こうぜ」では、主役に抜擢される。相手役は津川雅彦であった。戦後の松竹では、2本目で主演というのは岸恵子以来ということなので、彼女にかけられた期待は大きかったのである。何といっても明確に美女であった。
その後も、「愛に誓いし君なれば」や「ここに男あり」(59年)、「白い牙」(60年)などでヒロインや主演に抜擢されているが、60年に岩下志麻、61年に倍賞千恵子が入社する。同世代で(牧が1つ上)ドラマ「バス通り裏」で既に人気のあった岩下や親しみやすいルックスの倍賞に抜かれる形になり、牧は脇に回ることも多くなった。
63年にはNHKのドラマ「東京の人」に主演し、テレビにも進出したが、64年に実業家の今井勇輔と結婚し、松竹を退社。映画界を退いている。しかし、66年「特別機動捜査隊」にゲスト出演し女優に復帰している。5回ほど、ミステリアスな美女として登場しているが、たいてい彼女が犯人だったと思う。確かこの番組の初のカラー回のゲストが彼女だったと思うのだが、改めて美人であると認識を深めた。映画の方も東映「昭和残侠伝・血染めの唐獅子」(67年)で復帰し、日活の小林旭主演「女の警察」シリーズ(69~70年)の全作に顔をだしたりしていた。しかし、73年に「太陽にほえろ」「荒野の用心棒」へのゲスト出演を最後に姿を消してしまったのである。
話は飛ぶが、09年読売新聞にこんな記事が載った。あの世界のホームラン王・王貞治が早実高時代に同い年の女性に沢山のラブレターを送っていたという。一方通行ではなく、彼女から返信もあったようである。彼女の妹はその何通かを保管していたといい、記者が王本人に紹介してもいいかと確認したところ、快諾してくれたという。おわかりと思うが、その女性こそ東京女学館高に通っていた牧野紀子、後の牧紀子だったのである。そういえば、彼女がスカウトされたのも野球場であった。
互いに東京人だし、「文通」だけだったということはないだろうが、「潔い交際」だったようなイメージがする。高校卒業後は、片や野球界、片や映画界でスターになってしまい次第に疎遠になっていったのかもしれない。しかし、60年の「明星」で王と牧も参加した対談が行われている。いずれも当時20歳で二人のほか後の大横綱・大鵬や山本豊三、清水まゆみ、浅丘ルリ子などが出席していた。さすがに高校時代の二人の関係の話などはしなかったようだが、二人は隣に並び微笑んでいる写真が掲載されている。
さて、牧紀子だがこの記事が出た時点で既に亡くなっているとのことであった。いつ、亡くなったとか詳しいことは不明である。

 

松竹俳優録48 草笛光子

松竹歌劇団(SKD)から松竹の女優になった人は結構多いが、草笛光子もそのパターンである。
草笛光子は33年生まれで、本名は栗田光子(旧姓・富田)という。49年に横浜第一女子高(横浜平沼高)に入学。以前書いたが、一学年上に松竹女優となる岸恵子、小園蓉子、新東宝女優となる日比野恵子がいた。同年11月、高校を中退して松竹少女歌劇学校に入り、翌50年に松竹歌劇団に5期生として入った。この時の同期には紙京子がいる。
52年に歌劇団始まって以来という異例の抜擢で、「リオ・グランデ」の歌姫ビアトリスに起用され、その豊かな歌唱力が注目される。同年、深草笙子、淡路恵子の三人でスリー・パールズを編成し、好評を博した。
翌53年、その高まる人気に眼をつけた親会社の松竹が「純潔革命」(川島雄三監督)の主役に起用することにしたのである。脇を同期の穂高紀子、日劇ダンシングチーム出身の小林トシ子、宝塚歌劇団出身の高千穂ひづるが固めていた点も話題になっている。
前後して、新東宝と東映から映画界入りを誘われたが、結局松竹と一年間の映画出演契約、同時に歌劇団とも一年間の契約を結んでいる。ついで、コロムビアレコードから「赤い恋の花」で歌手としてもデビューしている。
歌劇団は54年5月に退団し、その後は松竹大船のメロドラマ、青春明朗喜劇に出演した。松竹は56年7月をもって退社し、10月に東宝との専属契約を結んでいる。森繁久彌主演の「社長」シリーズには、多彩な役柄で数多く出演していたので、東宝女優のイメージが強い人も多いかもしれない。
58年5月からは日本テレビ「光子の窓」のホステスとなり、ゲストを迎えてトークをして、歌って踊るというバエティショーの原型を確立した。私生活では、60年に作曲家の芥川也寸志(芥川龍之介の三男)と結婚するも2年で離婚している。
当時の彼女は歌唱力が一番の売りだったようだが、正直なことを言えば、自分はこの人の歌っている姿を見た記憶がない。印象に残っているのは、やはり70年代以降、40代になったあたりの姿である。必殺シリーズ好きだった自分には「必殺必中仕事屋稼業」(75年)等の女元締の役が印象に深い。ただ若い頃の映像を見ても、それほど変わっていないように見える。若い頃に顔が完成され、年齢の方が後から追いついた感じに思える。
妹は女優の富田恵子。名前を言ってもピンと来ない人も多いかもしれないが、黒澤明監督作品「天国と地獄」(63年)の終盤で、犯人役の山崎努が夜の怪しげな街を徘徊するが、そこで麻薬中毒の女を殺害する。その殺された女を演じているのが富田恵子である。ちなみに当時27歳であった。ひょっとしたらこれが一番有名な役といえるかもしれない。姉との共演は、東宝「悪魔の手毬唄」(77年)や、草笛がレギュラーの「必殺商売人」(78年)に富田がゲスト出演した記録があるくらいしかわからないが、他にもあるかもしれない。
ちなみに、80代になった現在も姉妹揃って現役である。

 

松竹俳優録47 芦川いづみ、野添ひとみ

あまり松竹のイメージはないが、スタートは松竹だったという女優は結構おり、芦川いづみと野添ひとみもその範疇に入るのではないだろうか。芦川は日活、野添は大映のイメージが強いと思われる。何故、この二人を並べているのかというと、松竹歌劇団(SKD)付属音楽舞踏学校の同期生だからである。
芦川いづみは35年生まれ。本名は芦川幸子で、52年高校を中退して、松竹音楽舞踏学校に入学している。53年、ファッションショーに出演中、居合わせた松竹の川島雄三監督に認められ、同監督の「東京マダムと大阪夫人」で月丘夢路の妹役でデビューした。翌54年は、鶴田浩二主演の「蛮から社員」、美空ひばり主演の「若き日は悲し」に端役で出演している。
この54年、日活が製作を再開すると同時に松竹から引き抜かれたのが北原三枝であった。まだ手薄な女優陣の強化のために、日活に移籍してきた川島の推薦もあり、55年芦川はSKDを退団し、日活に入社したのである。同期の野添ひとみが既に松竹のホープとして活躍していたことにも刺激を受けたという。
日活に移ってからは、前述の北原三枝と共に石原裕次郎の相手役を務めることが多かった。私生活では葉山良二とのロマンスが噂されたこともあったが、結局は68年に藤竜也と結婚して引退してしまった。ちなみに、藤竜也は6歳年下で、俳優としてもずっと後輩である。きっかけといえるのは初共演の「四つの恋の物語」(65年)で、翌66年「嵐を呼ぶ男」などで共演している。現在、芦川は81歳となっているが、最近公開された画像を見ると、50代でも通りそうな美貌を保っている。
野添ひとみは37年生まれ。52年中学卒業と同時に松竹音楽舞踏学校に入学したが、すぐに松竹から声がかかり「うず潮」で佐田啓二の相手役として本名の野添元子で15歳にしてデビューした。翌53年に野添ひとみと改名し、同年SKDを退団し、松竹に入社している。しかし、松竹では妹役のような助演が多く「体の中を風が吹く」(57年)を最後にフリーとなった。次に大映の「くちづけ」に出演するが、ここで川口浩と初共演する。川口とは「地上」(57年)や「巨人と玩具」(58年)でも共演するが、それが交際へと発展していったかと思えば、実はそれ以前から交際していたらしい。。川口は父であり大映重役でもある川口松太郎に頼み込み、58年に野添は大映と専属契約を結んでいる。二人は60年に結婚し、62年に揃って大映を退社し芸能界を引退、実業家へ転身を図った(67年に復帰)。
若い頃はかかなりの問題児だったという浩だが、結婚してからは一変したようである。順調な結婚生活を送っていた二人だったが、78年に義弟の恒と厚、義妹の晶が大麻、LSDで逮捕されてから暗雲が立ち込める。82年に義母である三益愛子が、83年には17歳の次女が、85年には義父の松太郎が相次いで病気のため亡くなる。そして、87年には夫・川口浩も51歳の若さで癌のため亡くなった。残された野添も95年、58歳の若さで癌のため亡くなっている。ちなみに、義弟の厚も08年に脳出血のため57歳で亡くなったのである。
現在も元気そうな藤・芦川夫妻に比べ、共に50代で亡くなった川口・野添夫妻。非常に対照的な人生になってしまったのである。
ところで、野添の本名がだいたいの資料では「元子」となっているのだが、ウィキペディアでは「元(もと)」になっている。双子の姉が和子(大映プロデューサー)なので、普通は元子になると思うのだが、必ずしも双子の名前が対のようになるとは限らない。どちらが正しいのだろうか。

 

松竹俳優録46 中村賀津雄(嘉葎雄)

あまりイメージはないが、スタートは松竹だったという役者は結構多いのである。
萬屋錦之介(中村錦之助)の弟として知られる中村嘉葎雄も、兄との共演が多かったこともあって東映のイメージが強いと思うが、スタートは松竹である。
中村嘉葎雄は38年生まれで、本名は小川賀津雄。三代目中村時蔵の五男である。ちなみに、男五人女五人の十人兄弟の第九子である。長兄は二代目中村歌昇(本名・貴智雄)、次兄が四代目中村時蔵(本名・茂雄)、三兄が初代中村獅童(本名・三喜雄)、四兄が錦之介(本名・錦一)である。錦之介のみ何故か本名に「雄」がつかない。
まず、錦之助が54年に東映から映画デビューすると、翌55年高校二年だった賀津雄が松竹入りする。舞台でも本名のままの賀津雄を名乗っており、その肩書に「歌舞伎役者」はないようである。初代の獅童は現在の獅童の父親だが、ある日先輩役者とケンカして役者を辞めてしまい銀行員に転身、その後東映プロデューサーとなり、弟二人をサポートした。長兄の歌昇も病気で舞台に立てなくなり、役者を廃業して映画・テレビの監督・脚本家に転身している。一人残った次兄の茂雄が父の死の翌60年に4代目時蔵の名を継ぐことになったのである。しかし、62年睡眠薬の過剰摂取によって34歳の若さで他界してしまう。常用していたということもあり、事故だと思われる。こうして、十年足らずの間に五兄弟全員が歌舞伎界からいなくなってしまったのである。
さて、松竹入りした賀津雄だが「振袖剣法」(55年)で主演デビューを果たす。「涙の花道」や「紀州の暴れん坊」(56年)では、当時芝雀を名乗っていた次兄の茂雄と共演している。
さらに時代劇だけではなく、木下恵介が監督した「太陽とバラ」(56年)では主人公の少年を演じ、やはり木下の「喜びも悲しみも幾年月」(57年)に出演したところで、錦之助のいる東映に移った。東映に移ったのはただ「行きなさい」と言われたからだ、と彼は語っている。その背景は不明だが、兄たちの力が働いていたのかもしれない。
移籍第1作は、既にトップスターだった錦之助が主演の「おしどり駕籠」(58年)であった。東映京都では衣装から小道具まで全て錦之助が決めてきたという。便利ではあったが、「これでいいのか」と思うようになったという。京都では、みんなが錦之助の子分であり、彼を「若旦那」と呼んでいた。自分のこともついでに「賀津雄さん」と呼ばれていたので、それが嫌だったと賀津雄は語っている。そこで、大泉に移ったのだという。元々現代劇にも顔を出していたが、61年半ばからは完全に現代劇のみとなったので、この辺りで東映東京の所属になったのかもしれない。63年の「陸軍残酷物語」を最後に、フリーとなっている。76年の結婚を機に、中村嘉葎雄に改名している。
錦之助が主演のドラマには必ずと言っていいほど、ゲストとして顔を出しており、進んで共演しているかのように見えたが、錦之助と似ていると言われるのは嫌で、それで汚れ役を好んでやるようにしていた、とも語っている。
五兄弟では唯一健在であり、中村獅童(二代目)の叔父として登場することも多い。

 

松竹俳優録45 鰐淵晴子

今回は鰐淵晴子である。やはり名前にインパクトがある。わざわざこんな芸名はつけないだろうと思ったが、やはり本名であった。名前だけ聞くと美女を想像しにくいのではないだろうか。「鰐淵」を調べてみると国内に110世帯ほど存在しているようなので、そこまで希少とは言えないが、珍しいことに変わりはない。そういえば、鰐が馬になった馬渕晴子という女優もいることを思い出す。鰐淵はキネマ旬報の「日本映画俳優全集・女優編」では、最後から二番目にその項目がある。ちなみに、一番最後は中国人女優の汪洋(わん・やん)であった。
鰐淵晴子は終戦直前の45年4月生まれ。父はヴァイオリニストの鰐淵賢舟で、母はドイツ人(オーストリア人という説もある)のピアニストである。個人的には、その顔だちから勝手にインド系だとずっと思っていた。インドとのハーフといえば真理アンヌ、プラバー・シェス、久万里由香の姉妹が有名だが、日本人っぽさは真理姉妹の方が強いように思う。
さて晴子も親の影響か強制的かは不明だが、3歳のころよりヴァイオリン、ピアノ、バレエのレッスンを受けている。8歳のころには全国を演奏旅行して、天才少女ヴァイオリニストと騒がれている。52年、ヴァイオリンを弾かせてくれるならという条件で大映の「母子鶴」で映画初出演を果たしている。
本格的なデビューは55年で、新東宝の「ノンちゃん雲にのる」であり、タイトルの「ノンちゃん」つまり主演である。このころの姿だと西洋人とのハーフだというのがわかる。これにより、邦画各社が彼女の映画界入りを迫ったが、父の賢舟が反対した。
58年には演奏活動に終止符をうち、翌59年に佐分利信が監督した松竹「乙女の祈り」に主演し、この後で松竹と専属契約を結んでいる。「わかれ」(59年)では、当時14歳ながら20歳の娘を演じている。大人になって高校生の役を演じるというようなパターンはよくあるが、彼女はその逆で、既に165cmあり顔も大人びていたため二十歳でも通じたようである。
「ノンちゃん」で彼女の母親役を演じたのは原節子であったが、当時の彼女はその原節子の再来とまで言われていた。60年にはオリンピックのアルペン三冠王であるオーストリア人、トニー・ザイラーを主演にした「銀嶺の王者」では、その相手役に選ばれている。英語やドイツ語もできるとあって、テレビの企画である「世界一周空の旅」(60年)のホステス役を務めたりもした。
映画では「伊豆の踊り子」「あんみつ姫」などお馴染みの作品のヒロインをやったりもしたが、どちらかといえば外国人色の強い容姿ということもあってか、役柄が限定されてしまうのか、これといった代表作、ヒット作のないまま「ウナ・セラ・ディ東京」(65年)を最後に松竹を離れ、フリーとなっている。
フリーになってからは東映の「花札渡世」(67年)や大映の「眠狂四郎無頼控・魔性の肌」(67年)などで濡れ場を演じたりしたが、花を咲かすこともでいないまま、68年に服部時計店(SEIKO)の御曹司・敲(のぼる)と結婚し芸能界を引退した。しかし、翌69年にはスピード離婚し、妹のいるアメリカに渡った。そこでカメラマンのタッド若松(若松忠久)と知り合い、70年に二人で帰国。「晴子のイッピーの世界」なる写真展を開催する。そこには、彼女のヌードがずらりと陳列されていた。
72年に若松と正式に結婚し、再び芸能界に復帰したのである(86年に離婚)。

 

松竹俳優録44 堺 駿二

清水金一の項で書いたが、シミキンが浅草オペラ館時代にコンビを組んでいたのが堺駿二である。若い人でも堺正章の父親として、知っている人も多いかもしれない。そういう意味では、名前をタイトルにした映画が作られたシミキンよりも、現在では知名度は高いのではないだろうか。
堺駿二は1913年生まれで、本名は栗原正至という。役者としてのスタートは中学を中退して新派の伊村義雄一座に入ったことである。子役ながら剣戟はもちろん、女形も起用にこなすという、当時から芸達者な面があった。
32年、浅草で帰国していたハリウッドスター早川雪洲の舞台を見て、そのまま雪洲一座に飛び込んだ。そこで直にもらった芸名が堺駿二である。由来は雪洲と栗原の間に境をつける、駿二はセッシュウの「シュ」からだそうだが、ちょっとよくわからない。いずれにしろ、住む世界が違ってそうな早川雪洲がその名づけ親というのは意外な気がする。
35年に雪洲が渡仏すると、堺は浅草オペラ館に入っている。そこで、清水金一と出会いコンビを組むことになる。余談だが、シミキンの師匠は清水金太郎だったが、堺が師事していた雪洲の本名も早川金太郎である。
40年にシミキンが東宝専属となると、堺は俳優を辞めて、熱海のホテルにクローク係として就職してしまう。二年後、甲府へ移り文房具店を開業する。しかし、東宝との契約が終了したシミキンが堺を口説き軽演劇界に復帰させたのである。42年、二人は田崎潤を加え新生喜劇座を結成する。一座は人気を得るがシミキンのワンマンぶりから長続きせず、43年には堺は田崎と共に喜劇座を脱退し、水の江滝子の劇団たんぽぽに参加している。
戦後は、46年に松竹に入社。初の映画出演は「破られた手風琴」で、いきなりの主演であった。48年からは「シミキンの結婚選手」を皮切りに、かつての相方であったシミキン主演作品で立て続けに助演した。そんな中、次男の正章が「東京騎士伝」(52年)で映画デビュー、6歳であった。「ハワイ珍道中」(54年)では、親子共演も果たしている。
52年からはフリーになっているが、年に十数本のペースで映画に出演し、ほとんどは助演であるが、出演本数は20年足らずで200本を超えている。特に斎藤寅次郎監督の喜劇には常連のように40本ほどに出演している。
68年にはスパイダースのヴォーカルとなった息子・正章が出演している「スパイダースの大進撃」「スパイダースの大騒動」にも出演しているが、その8月新宿コマでの舞台で脳溢血で倒れ、そのまま急死した。奇しくも、相方だったシミキンが亡くなったのと同じ54歳という若さであった。その死後に公開されたスパイダース映画「にっぽん親不孝時代」が遺作となっている。本作で堺駿二は正章ではなく井上順の父親役であった。直接的な絡みはなかったと思うが、最後の親子共演となってしまった。
正章ら二男二女を設けた前夫人とは死別し、67年に再婚したばかりであった。

 

松竹俳優録43 朝霧鏡子(+清水金一)

二十数年前に発売された「ノーサイド」という雑誌で、藤子不二雄Ⓐが朝霧鏡子について一文を書いている。説明の必要はないと思うが、「ドラえもん」とか「パーマン」とかを書いていたのは藤子・F・不二雄で、「魔太郎が来る」とか「笑ウせぇるすまん」とか、どちらかといえばダークなものを書いているのが藤子不二雄Ⓐである。
まだ、富山の高校生だった彼が「シミキンの結婚選手」(48年)見て、スクリーンの中の朝霧鏡子にシビレてしまったという。それからというものシミキンの映画があると必ず見に行ったという。目的はシミキンではなくて、朝霧鏡子だったのである。
そんな彼が上京して十年、漫画家として軌道にのったある日の夜、新宿に映画を見にいったという。その帰りに「朝霧」というBARの看板を見かけ、ふらりと立ち寄ってみた。「いらっしゃいませ」と和服姿の美しいママが彼を迎えた。彼は目を疑った。そのママこそが朝霧鏡子だったのである。
それから何度か「朝霧」に通ったが、根がシャイなのでママとは一言も話せなかったという。そのうち、カウンターのはじでいつもうつむいて酒を飲んでいる男がいるのに気が付いた。その男がふと顔を上げた瞬間、Ⓐは思わず「アッ」と声を上げた。その人こそ、かつての喜劇王シミキンこと清水金一だったのである。「そういうことか」とつぶやいたⒶは二度と「朝霧」に行くことはなかった、というような一文である。彼は二人が一緒になっていたことを知らなかったのである。
さて、朝霧鏡子は21年生まれ。本名は水谷小夜子という。33年、小学校を卒業して松竹少女歌劇部に入る。その7月の組織改革により松竹少女歌劇学校の1期生となる。40年に退団し、松竹大船に入社。映画女優に転身した。
「女人転心」(40年)でデビューしたが、基本的には助演が続く。43年からは病気のため、約2年間休養する。終戦の2か月前に封切られた「ことぶき座」(45年)で復帰したが、やはり助演が続いていた。
そんな時に転機となったのは、前述の「シミキンの結婚選手」だったのである(結婚選手ってよく意味がわからんが)。そのあと、「弥次喜多凸凹道中」「シミキンの探偵王」「オオ!市民諸君」(いずれも48年)と立て続けに共演した。「頓珍漢桃色騒動」(50年)でシミキンと共演した後、松竹を退社し、彼と結婚したのである。
結婚後はフリーとして、年二本くらいのペースで映画に出演していた。57年からは舞台に復帰したシミキンと共に舞台にたち、61年からは新宿にBARを経営したりしていた。それこそが藤子不二雄Ⓐも訪れた「朝霧」だったのである。
夫の度重なる挫折からの再起を助けたが、芽が出ることなく66年にシミキンと死別してしまった(それまでの献身ぶりは美談として話題になったという)。
何度も復帰の話があったというが、断り続け、95年新藤兼人の「午後の遺言状」で復帰した。実に74歳であった。ウィキペディアには45年ぶりと書いてあるが、57年まで映画には出ていたし、テレビドラマ出演も63年まで出演記録があるので、32年ぶりの映像出演といったほうが正しいのではないだろうか。その後も。「東京夜曲」(97年)、「のど自慢」(99年)等に出演したが、99年に肝臓がんのため亡くなった。78歳であった。

 

松竹俳優録42 清水金一

時代が遡って清水金一である。戦後まもなくシミキンの愛称で人気のあった人である。
清水金一は1912年生まれ。28年、16歳のときに浅草オペラの一座を開いていた清水金太郎の弟子となり、清水金一を名乗る。ちなみに本名は清水雄三(武雄)であり、苗字は元々清水だったようである。師匠の金太郎は34年に亡くなり、金一は森川信らが大阪に結成したレビュー劇団「ピエル・ボーイズ」に参加した。なお、この金太郎の弟子時代に一座の女優・嶺レイ子との間に一児を設けている。
35年には帰京し、浅草オペラ館で堺駿二(堺正章の父)とのコンビで活躍し、軽演劇界のスターとなり「シミキン」の愛称もこのころについたという。また、元オペラ館の女優・柴野治子と結婚し、後に3女を設けている。
40年2月に東宝と専属契約し、「豪傑人形」で映画デビューし、「だんだら絵巻」「電撃息子」の3本に主演した。助演はいずれも高瀬実乗であった。堺駿二は金一の東宝入りと共に廃業していたのだが、42年金一の東宝との契約が切れ、金一は堺を連れ戻している。これに田崎潤(当時・田中実)を加えて新生喜劇座を結成している。
空襲のさなかにも舞台を辞めず、45年6月まで公演を続けていたという。無論、時局にふさわしくないと官憲にマークされていた。
終戦直後の45年9月には、新生喜劇座を再開し、11月には「清水金一一座」と改称した。46年5月に一座を解散し、8月には松竹と専属契約を結んでいる。
「金ちゃんのマラソン選手」(46年)を皮切りに、金一が主演の映画が立て続けに作られた。「シミキンの結婚選手」「シミキンの探偵王」「シミキンの拳闘王」(48年)、「シミキンのスポーツ王」「シミキンの忍術凸凹道中」(49年)とタイトルに「シミキン」が冠されているもの以外にも「浅草の坊っちゃん」「恥ずかしい頃」(47年)などで主演を務めた。
しかし、50年途中にフリーとなり、東横映画「シミキンの無敵競輪王」を最後に脇に回るようになった。松竹での終盤も単独主演というよりは、「恋愛三羽烏」(49年)では、灰田勝彦と鶴田浩二、「頓珍漢桃色騒動」(50年)では、森川信と岸井明、「らくだの馬さん」(50年)では、榎本健一と共演と、単独主役としては線が細いという評価もあったようである。
この松竹での約4年間が人気のピークだったといえる。私生活では、51年に柴野と離婚し、「シミキンの結婚選手」から数本で共演した朝霧鏡子と結婚している。三人の女優と結婚しているのだから、中々の共演者キラーであったようだ。
しかし、人気は下降していき、61年には睡眠薬による自殺未遂事件を起こしたが、同年再起してテレビ界に進出した。詳細は不明だが「べらんめえ先生西へ行く」では主演を務めた。ちなみに、共演は妻の朝霧だったようだ。また、翌62年には「テレビ笑科大学」で司会を務めたりもしている。
66年、心臓麻痺のため亡くなっている。54歳の若さであった。一度主演まで行ってしまい落ち始めると、元に戻るというのは今も昔も困難なことなのである。

 

松竹俳優録41 小山明子

いきなりだが、小山明子である。大島渚夫人として知られる彼女だが、その活躍期での見た目はセレブ風に見える。何一つ不自由なく育った感じに見えるのだが、その生い立ちを見ると結構苦労しているのである。
小山明子は35年生まれで、本名は臼井明子(旧姓)といった。四男二女の末っ子。東京の本郷で育つが、41年空襲で家を焼かれ、母の実家である大阪府池田に疎開する。その母方の伯父に社会思想研究家の小山弘健がいる。芸名の小山はこの辺りからきているようだ。
戦後すぐに横浜に移り住むが、46年に母が死去。末子ながら家事一切の面倒を見ることになったという。
53年に高校を卒業し、ファッションデザイナーを志して、洋裁の名門校として有名な大谷学園に入学した。54年、学内のファッションショーに出演したところ、その美貌が評判となり、「家庭よみうり」のカヴァーガールに起用され、これが松竹の眼にとまった。
実は小山の父・牧之助は一高-東大を通じて松竹社長・城戸四郎とは友人関係にあったといい、その機縁もあって55年、彼女は松竹大船に入社したのである。
デビュー作は中村メイコ主演の「ママ横を向いてて」(55年)で、メイコの親友という役柄であった。入社してまだ2カ月というスピードでのデビューであった。55~56年はほぼ準主演級で、メロドラマが似合うお嬢さん女優として順調に売り出された。
56年松竹では、草笛光子、淡路恵子、淡島千景、藤乃高子が相次いで退社し、57年には野添ひとみ、岸恵子も退社し、主演女優となるチャンスと思いきや、小山が入社した3カ月後に入社してきた有馬稲子や、56年入社の杉田弘子が活躍するようになり、なかなか主演となることができなかったのである。
57年「家庭教師と女生徒」で主演を得てからは「花は嘆かず」などでも主演となり、有馬稲子、岡田茉莉子に次ぐ松竹の中心女優の一人となったが、ほとんどがお人形さんのような役柄で、主演作も個性に乏しく印象も薄かったと評されている。そんな彼女を一気に飛躍させたのが大島渚だったのである。
その出会いは、彼女のデビュー二作目「新婚白書」(55年)に遡のぼる。同作で大島は助監督を務めていたが、続く「振袖剣法」でも大島は助監督。この辺りから既に二人の秘めた付き合いは進行していたようだ。監督昇進した大島との初仕事は「日本の夜と霧」(60年)であったが、この頃二人の間でやり取りされた手紙は350通にも及んでいたという。「日本の夜と霧」は、浅沼稲次郎刺殺事件の影響からかわずか4日で上映中止となったのだが、その直後に二人は結婚したのである。
しかし、翌61年には大島の退社にともない小山も松竹を連袂退社したのである。同年、渡辺文雄、小松方正、戸浦六宏と創造社を設立し、大島が代表となった。小山は「飼育」(61年)で、汚れ役に挑んだのをはじめ、「白昼の通り魔」(66年)、「絞首刑」(68年)といった大島作品で単なる美人スターから脱皮した役柄で熱演した。
個人的に小山を認識したのは田村高廣と同じ「助け人走る」(73年)だったと記憶している。松竹時代、小山は田村との共演も多かったのだが、「助け人」で二人の絡みはなかったはずである。小山は準レギュラーで中谷一郎の別居中の妻という役柄上、田村との絡みはなかったのである。
95年に大島は脳出血に倒れ、以来17年小山は献身的な介護を続けた。大島は13年に亡くなったが、小山はその介護生活を嫌だと思ったことは一度もなかった、と言い切っている。

 

松竹俳優録40 高千穂ひづる

話題はガラリと変わって、高千穂ひづるである。高千穂ひづるといえば、東映のイメージが強いかもしれないが、その前後は松竹女優だったのである。
高千穂は32年生まれで、本名は二出川郁恵(旧姓)という。二出川といえば、「俺がルールブックだ」「気持ちがこもってないからボール」などの名言で知られるプロ野球審判の二出川延明を思い出す人もいるかもしれないが、彼女はその娘である。ちなみに周囲にいた人によれば実際には「俺がルールブックだ」とは言っていないらしいが、その記事が出た後は、本人はそう発言したと言っているらしい。
話が横にそれたが、高千穂は48年に宝塚歌劇団35期生として入団、同期には寿美花代などがいた。51年に宝塚在籍のまま東宝の「ホープさん」で映画初出演し、翌52年8月宝塚を退団し松竹に入社している。
北上弥太郎主演の「若君罷り通る」や鶴田浩二主演の「闘魂」など10本に出演するが、53年末に東映に移籍した。つまり松竹在籍は1年ほどであった。その53年「憧れの星座」で初主演する。
翌54年「笛吹童子」3部作に東千代之介、中村錦之助兄弟を助ける妖術師の役に扮した。映画は大ヒットし、彼女自身も人気を得た。これから56年にかけて40本もの映画に出演しているが、そのほとんどが時代劇。この頃の東映時代劇は、高千穂、千原しのぶ、田代百合子の三人がローテーションのようにお姫様として出演しており、いつの間にか「お姫さま女優」にされていたという。
57年1月、お姫様役から脱皮しようと東映を退社するが、五社協定にふれる結果となり、半年間干されることになる。その間はフリーで独立プロの作品などに助演していたが、7月に松竹に復帰し、「抱かれた花嫁」で再スタートする。61年には、出演した「ゼロの焦点」「背徳のメス」の2本でブルーリボン賞助演女優賞を受賞している。翌62年には松竹を離れフリーとなり、テレビドラマを含め各社に出演するようになった。
64年「月光仮面」で知られる5才年下の大瀬康一と結婚した。大瀬は元々は東映の大部屋出身だが、おそらく高千穂とは入れ替わりのようなタイミングで、東映に入ったと思われる。二人がどこで出会ったかは、はっきりしないが高千穂が松竹を離れ、フリーになってからではないかと予想する。大瀬は「月光仮面」のあとも「隠密剣士」などテレビ主演を続けていたが、映画の方も大映と契約し出演していた。高千穂もフリー後は、大映作品によく出演するようになっていたので、その辺りではないだろうか。
69年に大瀬と高千穂は企画会社「OT企画」を設立し、芸能マネージメントや番組制作を手掛けるようになっている。両者とも俳優活動は続けていたのだが、前述の父・二出川延明に懇願され芸能界から遠のき、共に72年ころ完全引退した。二出川は球界を離れ、事業に専念していたのである。二出川の死後は、二人が中心となり社業を守っていたという。
大瀬は現在も元気なようだが、高千穂は16年2月に83歳で亡くなっていたことが、今年になって明らかになっている。