東宝俳優録13 塩沢とき(塩沢登代路)
第2期東宝ニューフェイスで、杉葉子に次いで活躍したといえば、塩沢ときであろうか。
塩沢ときといえば、巨大な髪形と豪快なイメージのおばさんといったイメージだが、実に4度もガンに冒されていたのをご存知であろうか。
彼女は28年生まれで、本名は塩沢登代路といい、デビューからしばらくはこの本名を名乗っていた。このころは「美人女優」だったといえる。女学校卒業後は、疎開先であった食糧営団下伊那出張所に勤務していたが、47年に東宝ニューフェイスに合格した。
映画デビューは50年の「女三四郎」での端役だったといい、入社からデビューまで随分間があるのだが、これは東宝争議の影響によるものであろう。ストライキで撮影がない状態だったので、1期も含むニューフェイスたちは、芝居で全国を廻っていたのである。映画俳優が旅回りの一座となっていたわけである。石井一雄によれば、当時は景気の良かった炭鉱などに行くことが多かったようだ。
以後は「武蔵野夫人」(51年)、「亭主の祭典」(53年)などに助演し、「うれし恥かし看板娘」(54年)では主演を得ているのである。柳家金語楼、三木のり平、森川信などお馴染みの面々も出ているが、塩沢と姉妹役の北川町子、森啓子や当時の歌手である高倉敏などちょっとわからない人もいる。石原忠(当時の芸名)こと佐原健二のデビュー作でもある。
基本的には助演がほとんどで、芸者、女中、ホステスといった役柄が多かったが順調な女優生活であった。しかし、58年に舌癌を病み、その手術の際に総入れ歯となってしまったのである。このことは50歳を過ぎるまで語られることはなかった。
そのせいかどうかは不明だが、翌59年「大学のお姐ちゃん」より芸名を塩沢ときに改めている。この人の場合は、映画よりもやはりテレビでの活躍が目立っていた。
「ケンちゃん」シリーズ(69年~)での教育ママ役や「愛の戦士レインボーマン」(72年)での魔女イグアナ役などが有名であるが、特に後者は本人も気に入っており、衣装やメイクなども自分で考えたものだという。あの独特の髪形は84年頃からで、発泡スチロールの芯を入れた特注だという。それで人気を呼んだのもつかの間、85年に右乳癌を患ってしまうが、手術に成功し、女優業も続けていた。
70歳を過ぎて骨粗鬆症となり、それが完治すると今度は左乳癌に。3度目の癌も克服したが、07年にスキルス性胃癌のため79歳で亡くなっている。4度目の克服はならなかったのである。何度も病に倒れていたイメージがなかったので、改めて書くと意外な気がした。
生涯独身であったが、平田昭彦は憧れであったという。東宝では平田が後輩になるが、実は小学校の同級生であり、共演も多かった。
東宝俳優録12 伊藤久哉
前回、杉葉子のところで名前が出た伊藤久哉について今回は取り上げたい。
伊藤久哉は24年生まれで、本名は伊東尚也(読みは同じ)という。47年に法政大学を卒業し、友人と電機店を経営したが、俳優を志して青山杉作の内弟子となった。青山は俳優座の創立に参加した人でもあり、伊藤も俳優座養成所に進み53年に五期生として卒業している。
東映の「ひめゆりの塔」(53年)で映画デビューし、54年に東映に入社した。入社してまもなく「悪の愉しみ」で主演に抜擢される。東映の作品なのだが、共演者には杉葉子、久我美子、伊豆肇といった東宝ニューフェイス出身者が顔を揃えている。翌55年にも「殺人現行犯」で主演に抜擢され、無実の殺人犯人として追われる男を演じた。
二枚目の理知的な顔立ちで、悪人顔には見えないが、東映時代は主演もあったが悪役も多かった。24作が作られることになる「警視庁物語」シリーズの記念すべき第1作「逃亡五分前」(56年)で、犯人を演じたのも伊藤であった。
56年いっぱいで東映を退社し、57年から東宝に移っている。その移籍第1作となる「早く帰ってコ」(57年)では主演に抜擢。これは当時の流行歌手である青木光一のヒット曲「早く帰ってコ」を映画化した歌謡メロドラマである。青木本人に加え、島倉千代子も出演している。最初こそ主演であったが、以降は助演が続くことになる。「地球防衛軍」(57年)に出演してからは、「美女と液体人間」「大怪獣バラン」(58年)、「宇宙大戦争」(59年)、「ガス人間第1号」(60年)といった、いずれも本多猪四郎が監督した東宝SF作品群に常連のように顔を出した。防衛軍の隊長なども演じたが、イメージではやはり博士(学者)役が強いだろうか。
東宝SF作品と言えば土屋嘉男だが、二人は共に俳優座の出身。年齢は伊藤が上だが、俳優座に入ったのは土屋が先であった。そんな二人が、SF特撮以外の作品で激突したのが松本清張原作の「黒い画集 ある遭難」(61年)である。本作では伊藤久哉が久々に主役を演じている。伊藤と一緒に登山した児玉清が転落死。その死に疑問を抱いた従兄である土屋嘉男が、「現場に行ってみたい」と伊藤と二人で登山し、彼を追及するというものである。
土屋によれば、ゴーグルをしていなかったため、雪目で景色が見えない状態になったという。それで包帯をして山を降り、近くの病院で診察を受けて新宿駅に着くまで、全部伊藤が手を引いてくれたという。
これ以降は、助演が主となり68年に東宝を退社し、フリーとなり活躍の場をテレビに移した。テレビでも特撮ものに多く出演し、博士の役を演じることが多かった。引退時期ははっきりしないが、記録上では松方弘樹版の「人形佐七捕物帳」(77年)へのゲスト出演が最後となっており、その頃に引退したようである。引退後は、割烹料理屋のオーナーをしていたらしい。亡くなった時期もはっきりしないが、05年頃ではないかと言われている。遺族の意向もあろうが、数年間そのことが明らかにならなかったのは寂しい気もする。
東宝俳優録11 杉 葉子
第2期東宝ニューフェイスで、活躍したといえば石井一雄(東宮秀樹)、塩沢とき、そして杉葉子といったところであろうか。
杉葉子は28年生まれ。東京生まれだが、高校は上海の日本第二高等女高を卒業し、終戦で帰国している。47年に東宝の2期ニューフェイスに合格し、入社する。
翌48年早々に「青い山脈」の配役選考で、主役の女学生・寺沢新子役に抜擢される。しかし、東宝第三次争議のために製作に入ることができず、同年10月に争議解決後、この作品のプロデューサーである藤本真澄が独立し、組織した藤本プロが東宝から請け負って製作することになった。彼女も藤本プロに参加して出演することになったのである。
49年になって前後編で封切られると映画は大ヒットする。彼女はあごのとがった長顔ではあるが、美人であるといえる。映画の中で水着姿を披露しているが、当時としてはその抜群なプロポーションが評判となっている。
相手役だった池部良とは、「石中先生行状記」や「白昼の決闘」「暁の追跡」(いずれも49年)でもコンビを組んでいる。51年に藤本が東宝へ復帰すると彼女も東宝に戻っている。その復帰作も池部良との共演である「若い娘たち」であった。他社にも借りられ、大映の「現代処女」(53年)や新東宝の「純情社員」(53年)などの出演している。
しかし、この53年あたりから東宝の女優陣が整備されるに伴い、「プーサン」「山の音」(53年)など彼女は脇役に回ることも多くなった。他社では、東映の「悪魔が来たりで笛を吹く」(54年)では片岡千恵蔵と共演、同じく東映の「悪の愉しさ」(54年)「まごころの花開く 女給」(55年)では、いずれも伊藤久哉を相手役にエゴイスティックな女を演じたりしていた。また、田中絹代が監督した日活の「月は上りぬ」「乳房よ永遠なれ」(55年)にも出演し、演技者としての厚みを加えたが、東宝では脇役が続き、役にも恵まれなくなっていった。60年に東宝を退社し、翌61年の「九千万の明るい瞳」を最後に引退している。62年には米国人のロバート・タフツと結婚して渡米した。何をやっていた人なのかは不明である。住まいはカリフォルニアだが、彼女はロスのホテルニューオータニに勤務したりしていたらしい。
引退したと書いたが、帰国した際にはドラマ「気になる嫁さん」(72年)や。東宝映画「恍惚の人」(73年)に出演したりしている。最近でも、帰国すると何らかのイベントに参加。最新情報では、2016年に「昭和と映画全盛期」という公演を行っており、90歳目前であるが元気なようである。
東宝俳優録10 吉峰幸子(+三船敏郎)
第一期東宝ニューフェイスには吉峰幸子という人がいるが、名前を聞いただけではピンと来る人は少ないかもしれない。しかし、三船敏郎夫人だといえば、「ああ」と思う人も多いだろう。
第一期ニューフェイスたちは、男女の区別なく仲は良かったといい、同期から見ていて、三船と吉峰が特別仲が良かったという印象はなかったという。実は、吉峰幸子は女優としてデビューはしていない。家が医者で厳格なのに、内緒でニューフェイス試験を受けて合格していたのである。しかし、それはいずれ父親にばれ、半年の訓練は最後まで受けたのだが、東宝と本契約を交わす際に女優の道を諦めていたのである。であるから、本来はここ(東宝俳優録)に入れるべきではないのだろうが、そこは大目に。
三船はデビュー作の「銀嶺の果て」(47年)の北アプルプスロケで、白馬山麓のヒュッテに泊まり込んでいたが、三日とあけずにラブレター攻勢をかけたという。どのようにして、会っていたとかは明らかでないが、ともかく二人は50年の年明けに結婚式を挙げたのである。媒酌人は黒澤の師匠である山本嘉次郎監督であった。
新居は成城で、知り合い宅の八畳の応接間だったという。三船もある程度のスターにはなっていたが、新婚当初はまだまだ貧しく月末になると質屋に通ったりしていたという。
二人の男子を設け、70年くらいまでは順調な夫婦関係だったようだが、その後喜多川美佳との愛人騒動が起きる。それが原因で幸子夫人と離婚した、と思っている人もいるかもしれないが、実は離婚はしていない。
三船は家族想いではあったが、酒乱の傾向があり、夫婦仲も冷えてきた70年代に幸子が三船を家から追い出したのである。三船プロに所属していた喜多川美佳と愛人関係となったのは、そのあとの話である。三船が離婚しようとしても、幸子は首を縦に振らず、離婚訴訟にまで及んでいる。
74年にフォード米大統領が来日した際の晩餐会に招待された三船は喜多川を「妻」として同伴しているし、82年に喜多川との間に娘が誕生すると、彼女の芸名である美佳をそのまま娘に名付けている。三船が62歳の時の子供であり、後に三船美佳が24歳上の高橋ジョージと結婚したのはその影響があったのかもしれない。
そのようなことがありながらも、幸子が決して離婚に応じなかったのは意地もあったかもしれないが、三船との関係修復をずっと望んでいたからだと言われる。92年に三船が心筋梗塞で倒れたのをきっかけに、喜多川との関係は解消され、20年以上別居していた幸子との夫婦生活が復活したのである。幸子も明るさを取り戻し、体調を崩した三船を支えながら散歩する姿がよく見られたという。しかし、それもつかの間、95年になると逆に幸子の体調に異変が起きる。末期ガンであることが分かり、三船より先に逝ってしまうのである。最後まで「(三船に)おいしものを作ってあげたい」と言っていたという。
三船はその2年後(97年)に後を追うように亡くなっている。
東宝俳優録9 若山セツ子
第1期東宝ニューフェイスの女優陣で、当初は久我美子以上に活躍していたのが若山セツ子である。
若山セツ子は29年生まれ。本名は坂爪セツ子という。実践高等女学校を卒業後、東宝ニューフェイスとなっている。久我美子の項でも書いたとおり、研修が終了した後も、中々役がつかなかったという若山だったが、デビューは久我と同じ「四つの恋の物語」(47年)の第三話「恋はやさし」で、相手役はあのエノケンこと榎本健一であった。そして、次に出演したのが「銀嶺の果て」(47年)である。三船敏郎のデビュー作としても知れられるが、若山にとっては監督の谷口千吉と出会った作品なのであった。
それはされおき、若山は「おスミの持参金」(47年)でヒロインのおスミを好演して、毎日映画コンクールの新人演技賞を受賞した。そして、あの有名な「青い山脈」(49年)に出演。丸眼鏡の女学生役が人気をよんだ。メガネっ子萌えの元祖だったかもしれない。しかし、この49年に若山は前述の谷口と電撃結婚してしまう。
谷口千吉は黒澤明、本多猪四郎と共に山本嘉次郎の助監督を務めていた人物で、この三者は大変仲が良い。「銀嶺の果て」の編集は黒澤が担当しており、すっかり三船を気に入り、自分の作品でも使うことにしたのである。谷口はこれが二度目の結婚で、38年に脚本家の水木洋子と結婚しているが、翌年には離婚という過去があった。
若山はその後も女優として活躍、「次郎長三国志」シリーズでは、次郎長(小堀明男)の女房お蝶を演じたりしていたのである。しかし、56年谷口は八千草薫と知り合い男女の関係となり、若山と離婚したのである。いきなり捨てられた形の若山は精神が不安定な状態に陥いったといい、体調に影響を及ぼしたらしく、61年に胆のう炎と脊髄過敏症のため女優を引退しているのである。
不倫は今の時代も大きく叩かれるが、当時も例外ではなく谷口はここから約3年の間、監督を干されている。相次いで女優に手を出したことも一因であろう。
一方の若山は、引退から10年たった71年、週刊誌に取り上げられたことがきっかけで、女優復帰を果たした。この年の「特別機動捜査隊」にも二度ほどゲスト出演している。数年前にCSで見たのだが、エンドクレジットで初めて若山セツ子だったことを知ったぐらいである。「お祭り銀次捕物帳」(72年)にも主演のあおい輝彦の母親役でレギュラー出演したりもしたが、次第に奇行が見られるようになり、73年に再び姿を消している。
84年に同居の母が亡くなってから、精神状態が悪化して強制入院させられたが、85年にその病院で首つり自殺してしまったのである。55歳であったが、老婆のようにやつれていたと伝えられている。
谷口は60年代に監督復帰したが、本数は徐々に減っていき、「アサンテサーナ」(75年)を最後に、映画を撮ることはなかった。谷口は若山とは対照的に長生きし、07年に95歳で亡くなった。映画を撮らなくなり30年もの間何をしていたか不明だが、八千草との仲は最後まで円満だったようである。
東宝俳優録8 久我美子 その2
前回の続きである。久我美子3本目は成瀬巳喜男監督の「春のめざめ」(47年)で、主演の女学生役に起用された。長野県で2か月近いロケを行ったが、彼女は桃の食べ過ぎと川で泳いだのがたたって大腸カタルになり、すっかり痩せてしまい、それ以来は小柄で痩身というイメージがついた。
翌48年には黒澤明監督の「酔いどれ天使」に出演。セーラー服の少女と言う名もない役ではあったが、存在感は示せたようである。この年、東宝は第三次争議に入り、映画制作はストップしたため、俳優は新たに組織されたいくつかの演技者集団に編入されることになる。彼女は黒澤作品初期のプロデューサーであった本木荘二郎を中心とした中心とする自立俳優クラブに加わり、「酔いどれ天使」を舞台化した出し物に出演したりしていた。大阪では前日まで、ストリップをやっていたような劇場で、客が飽きてしまうので、どんどん間がない芝居になり、2時間だったものが1時間半になっていたという。
他社出演も経験し、東横映画「不良少女」(49年)では、主役の不良少女を演じるが、生来の育ちの良さがつきまとい成功作とは言えなかった。松竹の「朱唇いまだ消えず」(49年)では、監督の渋谷実に「それが芝居かい?」と怒鳴られたりもしたという。
そんな彼女が注目されるようになったのは今井正監督の「また逢う日まで」(50年)に主演してからで、岡田英次との窓越しのキスシーンは当時としては刺激的で、大きな話題となった。この50年、彼女は12本の映画に出演するという多忙ぶりであった。
そして、黒澤作品である「白痴」(51年)への出演。これは松竹配給である。黒澤にはドストエフスキーの原作を読んでおくように言われたが、忙しくて自分の役のみ拾い読みしたという。ロケは北海道で行われ、相手がいないと稽古ができないと彼女が言うと、志村喬が森雅之の代わりに付き合ってくれたという。憧れだった原節子との絡みは、森雅之を取り合う対決の場だけだが、原節子の眼から涙が流れるのではなく、飛んだのだと証言している。とにかく圧倒されたという。
これを最後に東宝を離れ、51年4月からは大映の専属となっている。大映では主演級の作品は多かったが、本人的にはメロドラマばかりで嫌だったそうである。そして54年にはフリーとなり、木下恵介監督の「女の園」に出演した。この「女の園」と「悪の愉しさ」「億万長者」「この広い空のどこかに」の助演三作で、54年度毎日映画コンクール助演女優賞を受賞した。また、岸恵子、有馬稲子と三人で文芸プロダクション・にんじんくらぶを設立した。
60年の時代劇大作「大阪城物語」で共演した平田昭彦と翌61年に結婚。交際中は毎朝ロケ地の宿泊先の喫茶店でデートを重ねていたというが、公然とした付き合いだったが誰もそのネタを週刊誌などに漏らすものはいなかったという。夫の平田は84年に亡くなったが、二人の間に子供はいなかった。
今世紀に入って、久々に公の場に姿を見せたのが年下の義姉である三ツ矢歌子の葬儀であった。ちなみに、三ツ矢の夫、つまり平田の兄は映画監督の小野田嘉幹で、平田・久我が結婚する前年である60年に結婚している。 久我は健在ではあるが、活動は休止状態にあるようだ。
東宝俳優録8 久我美子
第1期東宝ニューフェイスの女優陣で、最も活躍したといえるのは久我美子ということになるだろうか。
久我美子は31年生まれ。つまり、ニューフェイスオーディションの時は15歳だったのである。本名は字面は一緒だが、クガヨシコではなくコガハルコと読む。彼女が華族出身の令嬢であったことは有名な話であろう。久我家というのは公家華族の中でも五摂家と並ぶような家柄だったという。
子供のころから映画好きで、43年には木下恵介の監督デビュー作「花咲く港」、黒澤明の監督デビュー作「姿三四郎」を12歳にして映画館で見たという。「姿三四郎」を見る少女というのも中々いないような気もするが、このころ既に自分は女優になると決めていたという。東宝に好きな作品が多く、憧れの女優(原節子、高峰秀子など)も東宝に多かった。規定では16歳以上であったが、イチかバチかでニューフェイスのテストを受けて見た、と90年代に行われたインタビューでは明るく語っていたが、実情は少し違っていたようだ。
彼女のニューフェース応募は、悪化していた久我家の経済状態を打開するためだった、とも言われている。どうせ働くなら好きなことをと考えたのである。しかし、体面を汚すと特に祖父からは猛反対され、結局戸籍を母の兄が養子に入った先の池田家へ移し、池田美子(ハルコ)の名で東宝に入っている(翌47年に華族世襲財産法の廃止で久我姓に戻した)。久我(コガ)姓を名乗らないことも条件だったが、東宝側の希望で久我美子(クガヨシコ)という芸名になった。というより、普通は「クガヨシコ」としか読めないと思う。しかし、撮影所では本名の「ハルコ」で呼ばれることが多かったというからややこしい。
女子学習院を中退し、46年7月に東宝演技研究所に入っている。養成期間は三カ月の予定だったが、東宝争議の影響で半年に延びた。一回り年上の同期である三船敏郎については、当初から強烈なものがあったという。ニューフェースのオーディションの時に少し遅れてきた三船を見た時に「この人は絶対に受かる」と思ったと語っている。
養成期間が終わっても、彼女と若山セツ子には中々仕事の話がなかったという。後には共に人気者となる二人だが、久我16歳、若山18歳と若かったことも要因であろう。ようやく決まったデビュー作が「四つの恋の物語」(47年)で若山も同作がデビュー作となった。4つに分かれたオムニバス映画であり、監督も4人である。久我は豊田四郎が監督する「初恋」でヒロインに抜擢された。争議の影響で俳優が大量離脱し、ニューフェイスを起用するしかなかったという事情もあった。相手役は倍以上年上の池部良で、当時34歳だったが高校生役である。当時はまだまだ子供だった彼女を見て池部はがっかりしたらしい。
ある日豊田の助監督だった杉江敏男(後にクレージー映画などで活躍)が「初恋」の脚本家が会いたがっているよ、と彼女を呼びにきた。旅館に連れていかれると「寒かったでしょう」と優しく迎えてくれたのが黒澤明だったのである。黒澤は本作では脚本を担当していたのだ。ちなみに本作の助監督には岡本喜八もいて、後に考えると豪華スタッフの作品だったのである。
東宝俳優録7 伊豆 肇
第1期東宝ニューフェイスとして、戦後まもない時代に活躍していたのが伊豆肇である。
伊豆肇は1917年生まれ、ということは生誕100年ということになる(故人だが)。本名は渡邊肇といい、東京生まれだが北京大学を卒業して、旭硝子営業部を経て、三菱化成経理部に勤務していたという結構エリートな経歴を持つ。そんな彼が、30歳を目前にして東宝ニューフェイスに応募して合格。たまたま募集広告を見たから、なんとなく応募してみたというものであったらしい。
当時の東宝は新東宝との分裂でスター不足ということもあり、デビュー作となる「戦争と平和」(47年)では、同世代の池部良、ニューフェイス同期の岸旗江と共にいきなり主演の一人に抜擢された。池部と共に中国からの復員兵の役であったが、池部は実際に復員してきたばかりであり、伊豆は中国帰りと言う点は役柄と共通していた。
これが認められ、次々と準主役級に抜擢されるようになり、「青い山脈」(49年)でも、池部と共に主演し、共に30歳を超しながらも高校生役を演じた。池部とは、その後も共演が多い。「恋狼火」(49年)では山田五十鈴と主演したりもしている。
同期の三船と違って、黒澤作品には縁がないと思っていたが、「野良犬」(47年)には鑑識課員という目立たない役で出演していた。どうやらこの1本だけのようである。55年に東宝を退社したらしいが、58年頃まではコンスタントに東宝作品には顔を出していた。
60年代になると映画出演がほとんどなくなり、専らテレビが活動の中心となっている。個人的には伊豆肇といえば「人造人間キカイダー」(72年)の光明寺博士役が印象に深い、というよりこれ以外に印象がない。自分と同世代なら、こういう人は結構多いのではないだろうか。調べてみると「仮面ライダー」「シルバー仮面」(71年)、「アイアンキング」(73年)、「コンドールマン」(75年)と、当時の特撮ドラマにおいて、全て○○博士役で出演しているのである。まさにミスター博士と言えようが、ゲストとレギュラーの違いはあるとはいえ、光明寺博士以外の印象はない。全部見ているはずなのだが。
東宝時代に同期の三船との共演は少なかったが、東宝を去った伊豆はその後三船プロに所属している。三船プロの設立は62年だが、伊豆が入った時期ははっきりしない。79年に内部分裂騒動があり、多くの俳優が抜けたが伊豆は三船プロに残留している。
以前、ここで触れたことがあるのだが、伊豆肇は成人映画の監督をしたことがある(原作も伊豆)。タイトルはずばり「おんな」(64年)という。「映画論叢」では、何故か某俳優となっているが、調べると意外と簡単にわかる。主演は柏木優子という東京映画や松竹などの一般映画に出ていた女優で、他にも川喜多雄二、星美智子、江見俊太郎、小笠原章二郎といった有名俳優も出演しているという。プレスシートには友情出演として、天知茂、人見きよし、野川由美子の名前もあり、カメオ的に少しだけ顔を出しているようだ。伊豆の人脈ということになるのだろうが、詳しい経緯は不明である。
伊豆肇は2005年に亡くなっているが、時が経過してから判明したこともあり正確な月日はわかっていない。共演の多かった池部良も92歳まで長生きしたが、伊豆も88歳であった。
東宝俳優録6 堺左千夫
東宝ニューフェイスの第1期といえば、言わずと知れた三船敏郎が有名だが、他に伊豆肇、堀雄二、久我美子、若山セツ子、岸旗江などがいる。スターとは言えないが、脇役で長く活躍していた堺左千夫もその一人であった。
堺左千夫は25年生まれで、本名は阿部幸男という。堺という芸名のせいもあろうが、何となく関西人のイメージだが東京育ちである。
高校卒業後は、家業の電気商を手伝っていたが、46年に第1期東宝ニューフェイスに合格。デビュー作は黒澤明の「素晴らしき日曜日」(47年)であり、同期の三船よりも早く黒澤作品に出演していたのである。三船は次作の「酔いどれ天使」(48年)からほぼ主演として登場するが、実は堺も10本以上の黒澤作品に出演している。しかし、見事に印象に残っていない。割合目立つ風貌だと思うが、ほぼ端役ばかりなので仕方のないところである。しかも「野良犬」や「生きる」に至っては、ノンクレジットである。出演しても現代劇なら「与太者」とか時代劇なら「足軽」といったように、ちゃんとした役名のないものばかりで、大部屋俳優と同列であった。黒澤作品では大役を得られなかった堺だが、岡本喜八や福田純の監督作品では、結構いい役をもらっている。特に岡本作品では「独立愚連隊」シリーズなどではかかせない存在となっている。
やはりニューフェイス同期ということもあり、三船敏郎との縁は深いようである。宮本武蔵の映画版というと、東映の中村錦之助版のイメージが強いかもしれないが、東宝では三船主演の「宮本武蔵」三部作(54~56年)が存在する。54年といえば「七人の侍」が公開された年でもある。本位田又八役は1作目では三國連太郎だったのだが、続編の「続宮本武蔵・一乗寺の決闘」(55年)では堺左千夫に代わっているのである。これは三國がその撮影中に制作を再開した日活の「泥だらけの純情」に出演することを発表、これが五社協定誕生のきっかけとなり、三國が日活以外の作品に出演できなくなったからである。しかし、三國の代役が堺というのも今となっては意外なキャスティングである。
三船唯一の監督作品である「五十万人の遺産」(63年)や、三船プロ製作の「怒濤一万浬」(66年)や「風林火山」(69年)にも堺は出演しており、メインキャストの一人として活躍している。
他にも東宝の看板シリーズである、「若大将シリーズ」「社長シリーズ」や「クレージー映画」、「ゴジラシリーズ」(第1作「ゴジラ」にも出演)全てに顔を出しているのである。
黒澤作品では大役がなかったが、その晩年の作品である「夢」(90年)や「八月の協奏曲」(91年)にも堺は顔を出している。役は小さくても堺を重用していたということだろう。堺は98年3月に亡くなったが、それは三船が亡くなった3カ月後であった。また黒澤が亡くなったのは、堺の死から半年後のことである。
東宝俳優録5 藤原釜足 その2
前回の続きである。黒澤作品への出演は12本を数え、メインキャストでは三船、志村に継ぐ出演数を誇っている。
「七人の侍」の百姓・万造役も重要な役どころだが、何といっても「隠し砦の三悪人」(58年)の又七役が有名であろう。タイトルの三悪人の一人になるわけだし、太平役・千秋実とのコンビが「スターウォーズ」(77年)のC-3PO、R2-D2のモデルになったという話も有名である。余談だが、この作品は撮影予定日数を大幅に超過し、当然予算もオーバー。そのうちの三カ月が天候待ちの待機であったという。東宝が予算を負担させるために黒澤にプロダクション設立を促すきっかけとなった。
藤原は黒澤作品では、むすっとした仏頂面の爺さんを演じていることが多いが、実像は陽気で明るい人だそうである。黒澤は藤原に「釜さん。あんたはふざけるととても面白いけど、僕の映画では決してふざけないでよ。よそでもなるべく抑えてくれ」とよく言っていたそうである。藤原は首をすくめて、ケラケラ笑っていたそうな。
コミカルといえば、江利チエミ主演の「サザエさん」シリーズ全10本(56~61年)で、磯野波平を演じていたのは藤原で、フネ役は清川虹子である。当初は原作にもキャラ名が定められていなかったため、サザエの父親・母親とプレスシートにも記載されており、波平・フネと決まったのはその7作目である「サザエさんの脱線奥様」(59年)からであった。ちなみに、ノリスケ役は仲代達矢であった。
テレビドラマにも、よく顔をだしていたが、長谷川町子繋がりでいえば、青島幸男主演の「意地悪ばあさん」(67年)には、主人公タツの夫役でゲスト出演。
「七人の侍」繋がりでいえば、左卜全が用務員役で出演していた「ハレンチ学園」(71年)には校長先生の役、志村喬が出演していた「どっこい大作」(73年)や、三船敏郎主演の「荒野の素浪人」(74年)へのゲスト出演などがある。
藤原釜足は85年に80歳で亡くなったが、遺作となったのはNHKの「冬構え」(85年)で、主演は1歳上の笠智衆、共演に元の妻である沢村貞子がいた。