お宝映画・番組私的見聞録 -83ページ目

東宝俳優録19 中島春雄 その2(+手塚勝巳、広瀬正一)

前回の続きである。ゴジラの初代スーツアクターは、中島春雄の他にもう一人いた。それが手塚勝巳である。当時すでに40歳を超えていたが、元プロ野球選手という過去もあり抜擢されたようである。ちなみに、チームは大東京軍である。とってもわからないと思うが、プロ野球が誕生した36年に創設された球団の1つであり、後の松竹ロビンズである。53年に大洋ホエールズと合併(洋松ロビンズ)したが、54年に松竹が経営から撤退したため、吸収合併された形となり、消滅球団の扱いになっている。
手塚は早実→専大を経て、36年から37年の前期まで在籍し、通算5試合のみの出場でチームがライオン軍になる前に引退している。終戦後に新東宝を経て東宝に入社した。大部屋俳優の中ではトップに君臨した存在で、彼を恐れていた人も多かったというが、基本的には親分肌で俳優の待遇面などの折衷役でもあった。
ゴジラに関しては中島の方が動けたため、サブ的な役割であったが、ゴジラ手当を提示されていた15万から20万に交渉して引き上げたのは手塚であった。ちなみに月給が3万円の時代である。続く「ゴジラの逆襲」(55年)でも、ゴジラには中島、アンギラスには手塚が入っている。しばらくは、中島がゴジラに入る時でも、常に手塚が何かあった時のためにスタンバイしていたという。
「キングコング対ゴジラ」(62年)でも、ゴジラの大半は中島だったが、手塚が入っているシーンもあるという。本作でキングコングの中に入ったのは広瀬正一であった。中島とは俳優学校からの同期で、東宝に入ったのも一緒である。広瀬はこれが初のスーツアクターだったが、自分で立候補したものであったらしい。猿の物まねとかが得意で、スタッフも彼なら合っているかもと抜擢したのだが、そう簡単にうまくはいかず、円谷英二も「広瀬は普段はコングだが、被るとコングじゃなくなるな」と言われる始末だった。
「三大怪獣 地球最大の決戦」(64年)で、中島はキングギドラに入ったのは広瀬で、ラドンに宇留木耕嗣という「B2」の役者が入ったと証言しているが、DVD特典の「東宝俳優図鑑」ではキングギドラは坂本晴哉になっている。しかし、本作でチーフ助監督だった中野昭慶によれば、キングギドラは宇留木だと近年のトークショーで発言しているらしい。中野自身がキャスティングしたのだが、宇留木は撮影初日に来なかったという。実はエキストラとして黒澤映画に連れていかれていたことが判明し、中野が黒澤組のチーフ助監督である森谷司郎とケンカして連れ帰ったのだという。また、広瀬では身長が小さくキングギドラは無理だろうという証言もあり、宇留木説が有力かもしれない。
71年、東宝は俳優の専属契約を解除したが、中島は引退の道を選びまずは東宝の経営するボウリング場で働いた。しかし、特撮スタッフからの要請もあり「ゴジラ対ガイガン」(72年)で、ゴジラを演じている。その後は、呼ばれることはなくゴジラ役は自然消滅したと語っている。17年に88歳で亡くなっている。
広瀬正一は、専属契約解除後もステージマンとして撮影所に残っていたといい90年代まではその姿が確認できたという。その後、亡くなったらしいが没年は不詳である。
手塚勝巳に関しては60年代終盤以降の出演記録がなく、71年の専属契約解除前には東宝を離れていたと推測される。その後の所在は不明である。

 

東宝俳優録19 中島春雄

今回は中島春雄である。言わずと知れたゴジラの初代スーツアクターである。
とは言っても、現役時代にゴジラ中の人のことが話題になることなどはなかった。余程のマニアでもないと中島春雄の名を知っている人はあまりいなかったのではないだろうか。平成になってゴジラシリーズが復活し、それに伴い初代を演じていた人としてスポットがあたるようになっていったのである。2010年には「怪獣人生」という著書まで出版されている。
中島春雄は29年の元旦生まれ。「怪獣人生」によると、戦時中は海軍で過ごし、戦後は実家の肉屋を手伝ったり、進駐軍のトラック運転手をしたりしていた。ちなみにまだ10代である。
49年に「俳優学校募集」というのを新聞で見つけ、その学校に入ることになった。特になりたかったというわけではなく、他に仕事がなかったからだという。生徒は二百人くらいはいたというが、その中にアナウンサー志望だという丹波哲郎がおり、中島とは年齢は離れているが(丹波が7歳上)よくつるんでいたらしい。「怪獣人生」にはその学校の名は書いてないが、丹波哲郎から調べていくと49年に国際映画演技研究所に入ったとあるので、それが学校の名前であろう。
翌50年、俳優学校卒業と同時に東宝に入社する。これは東宝から講師に来ていた坂内栄三郎に誘われてのものであった。一緒に入ったのが広瀬正一、和田道子、平三富子であり、みんな大部屋に所属することになったのである。ちなみに和田道子とは、後に新東宝で活躍する高倉みゆきである。当時16歳であり、資料には高校卒業後の53年入社となっているが、それ以前の出演記録もあるので高校へ行きながら女優活動もしていたということであろうか。
資料といえば、ウィキペディア。「怪獣人生」が本人の記憶違いでもない限り正しいとすれば、中島春雄の項には矛盾が見られる。47年に「映画俳優学校」という養成所に入ったとあるが、本人談では49年である。映画学校の名前も中島は記してないが、前述のとおり「国際映画演技研究所」だと思われる。また、50年の東宝入社で同期生に丹波哲郎の名があるが、あくまでも映画学校での同期生であり、丹波が東宝に入社した事実はない。実際、丹波は50年は文化座という劇団に所属し、翌51年に新東宝に入社したのである。
さて、中島だが所属していたB2の給料は安かったこともあり、危ない役でも引き受けていた。主役スターの吹き替えで橋から川に落ちたり、身体に火をつけたりという今でいうスタントマンである。
そういったことからゴジラのスーツアクターにも指名されたようである。元々スター志向ではなく、顔が見えないことにも不満はなかったという。むしろ、三カ月も「キツい仕事」が出来るのは、まとまった手当も入るだろうから有難いと考えたのである。実際「ゴジラ」のギャラで付き合っていた彼女と結婚もしたのであった。

 

東宝俳優録18 岡豊、中西英介、越後憲(憲三)

ニューフェイスで入社しても、スターになれるのはほんの一握りであり、大部屋俳優で終わってしまう人も結構いるようである。
東宝の場合(他社でもそうかもしれないが)、特例もあったかもしれないが、ニューフェイスといえども一旦大部屋に入れられるという。そこから這い上がっていくものもいるが、その状況に納得してしまうものもいたようだ。
岡豊は、25年生まれで第1期のニューフェイスである。大部屋仲間の加藤茂雄によると、黒澤明の師匠である山本嘉次郎監督に「岡君は良い顔しているし、一期のニューフェイスなんだからAホームに行けば」と言われても「私は大部屋でいいです」と答えていたとか。ちなみに東宝の契約俳優にはAホームとBホームがあり、Aは主役や準主役など台詞の多い俳優で、これにはスターも含まれる。基本給はなく本数契約だという。BホームはB1とB2に分かれており、B1は脇役でB2は台詞があっても一言か二言で、エキストラもこなす。岡豊はB2に所属しており、特撮映画では新聞記者の役が多かったようだ。ゴジラのスーツアクターとして知られる中島春雄とは仲が良く、よく碁などをうっていたという。奥さんも同じく東宝大部屋女優の記平佳枝であった。
71年の東宝の専属制度廃止に伴い、岡は引退しビル管理会社に勤めていたらしいが、記平の方は新星プロに所属して女優を続けていた。岡は00年に75歳で亡くなったという。
中西英介も第1期のニューフェイスである。彼もB2に所属しており、ノンクレジットのことも多いというか、クレジットされることの方が少なかったかもしれない。「天国と地獄」(63年)で、共犯者の男を演じたのが彼である(三船敏郎が電車から投げたカバンを拾いに行くやつ)。重要な役のはずだが、帽子で顔を隠しており台詞もなく死んでしまうので、結局ノンクレジットである。東宝が専属契約を廃止した後も、数年間は俳優を続けていたようで「愛こんにちは」(74年)という東宝作品に出演記録がある。つまりクレジットされている。ウィキペディアには37年生まれ(要出典)とかなっているが、これだと9歳でニューフェイスに合格したことになるので、間違いであろう。
第2期ニューフェイスでは、越後憲(憲三)や今泉廉が大部屋俳優として過ごしている。
越後憲は29年生まれで、デビュー当時は越後憲三を名乗っていた。特撮映画への出演が多く、「ゴジラ」(54年)に出演しているが、中島春雄に頼んで特撮の現場を見せてもらっていたという。妻の寺沢弘子(広美)も東宝専属女優だったが、彼女は藤田進にスカウトされ入社したらしい。彼女も「ゴジラ」に出演しているがノンクレジットであった。66年に越後と結婚して引退。越後は71年の専属制度廃止に伴って引退。岩本弘司と共に東宝が資本を出した喫茶店に転職したという。岩本も大部屋俳優だったが、アクションの殺陣師としてAホームに移っていたという。
加藤茂雄によれば、やはり専属制度の廃止は大きかったようで特に結婚して子供がいたりすると、役者を続けるのは難しかったのだという。

 

東宝俳優録17 太刀川寛(太刀川洋一)

「椿三十郎」では、九人の若侍の一人であり、「マタンゴ」では七人のうちの一人など、前回までの久保明と同格の役での共演が多いのが太刀川寛である。
太刀川寛は31年生まれで、本名は太刀川洋一という。51年に俳優座養成所の2期生として入る。同期には小沢昭一、小林昭二、井上昭文、東宝で一緒になる土屋嘉男などがいた。他の同期に比べると太刀川は若く見える(実際年下ではあるが)。
52年に初舞台を踏み、同年東映の「泣虫小僧」に本名で映画デビューしている。53年養成所卒業とともに小沢らが結成した劇団新人会に参加した。同年東宝の「青色革命」に監督の市川崑に抜擢され、千田是也の息子役で出演する。ちなみに弟役は江原達怡であった。
翌54年、宝塚映画「若い瞳」などに出演した後、新人会を退き東宝と専属契約した。「潮騒」(54年)、「麦笛」「あすなろ物語」(55年)といった久保明が主演の青春映画に出演。また、「生きものの記録」(55年)で黒澤映画にも初出演している。黒澤作品にはその後「蜘蛛巣城」(57年)、「用心棒」(61年)、「椿三十郎」(62年)にも出演している。
森繁久彌の「社長シリーズ」や加東大介の「大番シリーズ」、柳家金語楼の「おトラさんシリーズ」など幅広く起用され、有能な若手脇役として重用されていたが、58年12月に交通事故を起こし一カ月の重傷を負い、31日付で東宝から解約処分を受けている。
約10カ月に及ぶ謹慎生活ののち、舞台で東宝に復帰しており、映画主演も60年1月の「サラリーマン・ガール読本 むだ口かげ口減らず口」で再開している。この時、芸名を本名から太刀川寛に改めている。ちなみに「かん」ではなく「ひろし」と読む。関係ないが二本柳寛も「ひろし」である。
サラリーマン物の他に、やはり久保明と同じく「妖星ゴラス」(62年)で、SF特撮ものに初出演し、「マタンゴ」(63年)にも出演した。このように数多くの東宝作品に準主演クラスで出演している割には、あまり話題になることがない役者である。
太刀川は72年の和田嘉訓監督の「脱出」を最後に東宝を退社。ただし、この近辺に起った浅間山荘事件に内容が似ているということでお蔵入りとなっている。これをきっかけに和田は東宝を退社し、ソニーへ入社した。ちなみに、主演はアニメ「ルパン三世」の主題歌で知られるピート・マック・ジュニアと東映の「不良番長」等に出演していたフラワーメグであった。
太刀川は70年代は主にテレビを中心として活動する傍ら、広告会社東京エージェンシーを経営している。出演記録があるのは83年までで、以降は引退状態となっている。

 

東宝俳優録16 久保 明 その2

年をまたいでしまったが、久保明の続きである。
久保は「若い獣」(58年)で、主役のボクサーを演じたが、本作の監督は作家の石原慎太郎であった。現在では素人監督というのは珍しくないが、当時は下積みの助監督たちの間では問題になったという。助監督を一人、監督に昇進させることで騒ぎは収まったというが、これで昇進したのが岡本喜八であった。結局、「若い獣」は連合映画という撮影所でフリーのスタッフを集めて撮影されたという。
文芸路線中心だった久保も、この辺りから娯楽作品への出演が増えてくる。「大学の人気者」(58年)「大学のお姐ちゃん」「大学の28人衆」(59年)「大学の山賊たち」(60年)といった大学シリーズ?に出演。「大学の山賊たち」は男五人組、女五人組のスキー部員にギャングを絡ませた青春映画だが、男五人のリーダーを演じたのが山崎努でこれが映画デビュー作である。デビュー作のように言われることもある「天国と地獄」(63年)は8本目の出演作だ。岡本喜八が監督だが、久保は岡本作品には「独立愚連隊西へ」(60年)や「日本のいちばん長い日」(67年)にも出演することになる。
そして意外なことに、「妖星ゴラス」(62年)で初めて東宝SF特撮作品に出演している。出ると決まったときは、それまで文芸作品が多かったこともあり、実は多少抵抗もあったという。続く「マタンゴ」(63年)では主演に抜擢。出演者は実質七人だけだが、ただ一人生還し強い印象を残した。土屋嘉男も語っていたとおり、こうした東宝SF特撮は世界各国で繰り返し上映(放送)されているらしいので、世界中にファンが存在するという。
04年にサンフランシスコでSF映画のフェスティバルが開かれ、久保も小泉博らと招待されたという。街を歩くだけで、こうしたファンが久保たちを見て、驚いたり喜んだりしていたという。フェスティバルは大きな会場が満員になり、その最終日にはスタンディングオベーションまで起ったという。今だに世界各国からファンレターをもらったりするし、出演することができて本当に良かったと語っている。
この後、ゴジラ映画などにも数本出演するが、70年代に入ると東宝演劇部に移り、舞台活動を中心とするようになったため、映画にはほとんど出演することがなくなっている。テレビドラマにもゲストで顔を出すことはあるのだが、個人的にはあまりこの人をドラマで見かけた記憶がない。映画では悪役を演じることはほとんどなかったが、テレビでは悪役も多かったようだ。実弟の山内賢がレギュラー出演していた「男!あばれはっちゃく」に顔をだしたことがあるようだ。

久保は2010年の時点では、日本俳優協会の副理事長を務めていたが、現在もそうなのかはわからなかった。

2017年回顧録 その2

前回の続きである。以前ここでも知らせたが、土屋嘉男(89歳)も今年亡くなっている。
文字通り黒澤明に見いだされ、黒澤家に居候までしていたことでも知られる。黒澤映画の顔の一人でもあるが、東宝特撮の顔としても知られる存在だった。元々SF好きであり、「七人の侍」の撮影中に製作がスタートした「ゴジラ」(54年)の噂を聞きつけ、自分の撮影を抜け出して、「ゴジラ」の撮影を見に行き、本多猪四郎監督や円谷英二特技監督と顔見知りとなり、自らも特撮映画に出演するようになったのである。
そのゴジラの中に入っていたのが、中島春雄(89歳)だった。土屋とは同い年ということになるが、東宝でいうAホームの土屋に対して、B2の大部屋俳優だった中島がピックアップされるのは、ずっと後のことである。体格の良さを買われたのか、突然この中に入ってほしいといわれたのが「ゴジラ」だったのである。円谷に「キツイ仕事だけどやってくれるかね」と念を押され、安月給のBホームには、三カ月間も「キツイ仕事」をやれるのは有難いと引き受けたものであった。実際、通常三万円程度だった月給が、この時は二十万円になったそうである。
これをきっかけに怪獣スーツアクターの第一人者となっていった中島であったが、東宝が専属制度を廃止した72年に役者を引退している。しかし、平成ゴジラシリーズが始まり、元祖ゴジラにもスポットがあたるようになり、その「中の人」も注目を浴びるようになったのである。
大映の「大魔神」のスーツアクターだった橋本力(83歳)も今年亡くなっている。前述の初代ゴジラは中島だけでなく、手塚勝巳との分担であった。手塚は元プロ野球の選手だったが、橋本も元プロ野球選手である。大毎オリオンズは、大映社長の永田雅一がオーナーであったこともあり、自社の映画である「一刀斎は背番号6」(59年)に大毎の選手も出演することになった。その撮影で橋本が大怪我をして引退に追い込まれたため、永田が気の毒に思い、橋本を役者として大映に迎え入れたのである。
その体格と眼力を買われて、大魔神に抜擢されたが、橋本本人が注目されるようになったのも、中島同様ずっと後になってからである。素顔の橋本力は顔の形は大魔神ほど四角くはない。名前のよく似た橋本功の方が大魔神顔かもしれない。ハシモトイサオを一文字だけ変えた張本勲も大魔神顔だといえるだろう。また、橋本は「ドラゴン怒りの鉄拳」(72年)で敵役として、ブルース・リーと戦ったことでも知られる。香港の監督に橋本を紹介したのは彼を可愛がっていた勝新太郎である。
85年、橋本は永田雅一の死をきっかけに役者を引退するが、その息子が大映副社長であった永田秀雅(92歳)であった。秀雅も今年亡くなったのである。
話は変わるが、今年は作詞家、作曲家の死が目立っている。船村徹(84歳)、曽根幸明(83歳)、北原じゅん(87歳)、平尾昌章(79歳)、小川寛興(92歳)、山川啓介(72歳)等である。小川や平尾は多くの劇判を担当しているが、小川の「月光仮面」や「隠密剣士」「仮面の忍者赤影」、平尾の「必殺シリーズ」が印象に深い。ちなみに平尾は7月19日、小川は7月21日、山川は7月24日と相次いで亡くなっている。
さて、今年も何とか1年続けることができた。面倒臭いと思うことも多々あるが、2018年も続けていく意向である。

 

2017年回顧録 その1

年末恒例の回顧録である。2017年に亡くなったスターといえば、まず浮かんでくるのが松方弘樹(74歳)、渡瀬恒彦(72歳)あたりではないだろうか。共に東映育ちではあるが、共演となると「仁義なき戦い」くらいしか思いつかない。
この二人に共通するのは、死の直前まで元気そう(に見えた)だったというところではないだろうか。松方と梅宮辰夫が一緒のバラエティを見たりしたが、その後梅宮が病気で倒れたりしたのだが、松方が先に逝くことになるとは思わなかった。
渡瀬にしても、こういっては何だが兄の渡哲也の方が危なく見えていた。渡はすっかり70代の顔になったが、渡瀬はまだまだ還暦前で通りそうだった。
そういえば、渡は70年代に何度か病気降板があった。「忍法かげろう斬り」(72年)という忍者時代劇を20話で病気降板したのだが、21話以降その代役となったのが渡瀬であった。これほど違和感のない代役は他にないだろう。顔はもちろんだが、声までよく似ている。番組でくノ一を演じた范文雀、太地喜和子も既にこの世にない。
また、大河ドラマ「勝海舟」(74年)の主役であった渡がやはり病気(肋膜炎)で降板。それを継いだのが松方弘樹だったのである。ちなみに渡瀬も「勝海舟」には出演している。
東映つながりでは、お色気アクションドラマといえば「プレイガール」(69~74年)。レギュラーメンバーが当時は若かったこともあり、物故者(沢たまき、浜かおる、前述の范文雀)は少なかったのだが、今年になって初代メンバーである真理明美(76歳)と、後期のメンバーであった八並映子(68歳)が亡くなっている。
野際陽子(81歳)も、直前まで元気だったイメージ。NHKのアナウンサー出身で、東映の女優ではないが、個人的には「キイハンター」のイメージが強い。やはり東映製作で「プレイガール」の後継番組といえる「ザ・スーパーガール」(80年)では、女性七人組の探偵事務所のリーダー、東映ではないが宣弘社製作のアクションドラマ「七人のリブ」(76年)でも、やはり女七人組のリーダー役を演じており、アクションドラマでの印象が深い。
東映ニューフェイスの9期生では唯一活躍したといえるのが松川純子(=立川さゆり、74歳)である。ドラマ「忍びの者」(64年)の撮影で、足に全治1カ月の火傷を負うという事故もあったが、その後も時代劇を中心に活躍した。
その東映で長く脇役として活躍したのが杉義一(89歳)だった。名前ではわからない人もいるかもしれないが、ギョロ眼で薄い頭髪、しかし江幡高志のように悪人顔ではない。ちなみにギイチと読む(本名はヨシカズと読む)。父は俳優(コメディアン)の杉狂児で、東映の前身である東横映画に創立時に父とともに入社している。本人はアクションには全く縁がなさそうだが、千葉真一のJACの代表を務めたこともある。
他にも神山繁(87歳)、藤村俊二(82歳)、日下武史(86歳)、月丘夢路(95歳)なども今年亡くなっている。

 

東宝俳優録16 久保 明(+久保 賢)

子役出身でスターになった、なれた役者は意外に少ない気がするが、久保明はその中の一人といえよう。
久保明は36年生まれで、本名は山内康儀といい、男4人兄弟の三男である。小学四年の時に選ばれて、学校演劇「鐘の鳴る丘」に出演し、六年の時には、松竹の映画版「鐘の鳴る丘」(48、49年)にも出演している。中学時代に「朝風に乗って」という教育映画に出演していたが、その時の監督が東宝の丸山誠治であった。
52年15歳の時に、その丸山から呼ばれて「思春期」(52年)という作品に出演することになり、本格的な映画デビューとなった。生徒役は久保の他に、岡田茉莉子、江原達怡、中西みどり(青山京子)らで、教師役が三國連太郎であった。久保は本名での出演であったが、堅苦しい名前なので、田中友幸Pの提案によりこの時の役名である久保明を芸名とした。
この後、大映の「十代の性典」「怒れ三平」(53年)に出演後、東宝に入社している。「続・思春期」(53年)に江原、芸名を変えた青山京子らと再び共演。そして、谷口千吉が監督した「潮騒」(54年)にも青山京子とのコンビで出演し、青春スターとして人気を得た。ちなみに青山京子は後に小林旭と結婚している。
「あすなろ物語」(55年)は黒澤明の助監督をしていた堀川弘通監督のデビュー作で、脚本を黒澤が担当している。本作は一人の主人公を三人(18歳、15歳、12歳)が演じるという珍しいスタイルで、18歳は久保が演じるのだが、「弟はいるか?」と聞かれて紹介したのが七歳下の四男である山内賢晁(のりあき)だった。賢晁は12歳役に抜擢され兄にならって久保賢を名乗っているが、後に山内賢として日活で活躍することになる。久保賢としては、「姿なき目撃者」(55年)の方が一週間だけ早く公開されており、こちらがデビュー作とする資料もある。ちなみに、間の15歳役には似ているという理由で鹿島信哉が抜擢された。
久保兄弟の共演というのは、他にもあり、丸山が監督した「二人だけの橋」(57年)や成瀬巳喜男の「コタンの口笛」(59年)等でも共演している。まあ、弟が日活へ行き山内賢となってからは、共演することもほぼなくなるのだが。
久保明の50年代は「雪国」や「青い山脈」(いずれも57年)など主に文芸作品を中心に出演しており、娯楽作品は少ないのが特徴的である。黒澤作品には二本だけ出演しているが、「蜘蛛巣城」(57年)も原作は「マクベス」だし、文芸作といえよう。久保は「蜘蛛巣城」では、演技面などで黒澤に何も言われなかったというが、乗馬には苦労したという。後で聞くと、割合大人しい馬をまわしてくれたとのこと。大スターである三船敏郎が、遅刻はしない、現場に台本は持ち込まない、付き人はつけないの「三ない主義」であったため、後輩のスターは右へ倣えするしかなかったという。
長くなってきたので、続きはまた来年。というのも次回は年末恒例の回顧録をやる予定なので。

 

東宝俳優録15 佐田 豊

今回は戦前から映画に出演していた脇役俳優である。
佐田豊と聞いてピンと来る人は少ないかもしれないが、「天国と地獄」(63年)で間違えて子供を誘拐される運転手役の人と言えば、わかる人も多いのではないだろうか。
佐田豊は1911年生まれ。京北中学を卒業する前年の27年に高松プロに入社。その後は東宝の前身であるJ.O.スタジオの演技部の所属する。当初は監督志望だったらしいが、すぐに俳優に切り替えて、記録では32年から34年にかけては河合映画(大都映画)での出演記録があり、当時の芸名は佐田豊彦であったようだ。はっきりしたデビュー作も不明だが、一番古い記録は「大東京の屋根の下」(32年)である。
43年には松竹太秦で「ふるさとの風」「海軍」という作品に出演している。「海軍」には山内明、志村喬、小杉勇、小沢栄太郎、東野英治郎、笠智衆といったお馴染みな面々も顔を揃えていた。その43年からは、日本移動演劇映画連盟くろがね隊に入り終戦まで芝居を続けている。
49年から綜芸プロに所属し、映画出演を再開し、53年に東宝の契約演技者となっている。東宝では記録上第1作となっているのは本多猪四郎監督の「太平洋の鷲」(53年)であり、本多作品には翌54年の「ゴジラ」を皮切りに「地球防衛軍」(57年)、「美女と液体人間」(58年)、「モスラ対ゴジラ」(64年)などに出演。また、成瀬巳喜男監督作品では、「山の音」(54年)、「浮雲」(55年)、「驟雨」(56年)、「コタンの口笛」(59年)などに出演。かと思えば、若大将シリーズやクレージー映画など東宝の看板シリーズにも顔を出す。そして「生きものの記録」(55年)から「赤ひげ」(65年)までの黒澤明監督作品の全てに出演しているのである。
とは言っても、大部屋俳優の常ではあるが、基本的にはセリフは一言、二言であり、どこに出ているかわからないというような役がほとんどである。
そんな佐田に突如ふられたのが前述の「天国と地獄」(63年)の青木運転手役である。自分の子供(島津雅彦)を誘拐されるのだから、非常に重要な役で、セリフはもちろん出番も非常に多い。抜擢の経緯は不明だが、ずっと佐田を見ていた黒澤が「この役は彼だ」と感じたのであろう。後に佐田が「私にこの役は重すぎました」と語っていたように、ベテランとはいえスターに囲まれ、NGを出しては申し訳ないという感じが、役柄にもマッチしていたように思う。その一方で、一番好きな役だったとも語っている。
翌64年の「恐怖の時間」は、「天国と地獄」で犯人役を演じた山崎努が、銃を持って刑事部屋に乱入してくる話だが、佐田は部屋で一番偉い捜査課長の役だった。「天国と地獄」以前なら、刑事の中の一人だったと思われるが、少し目立つ役になっていたのである。
71年に東宝の専属契約制がなくなるとフリーとなり、いくつかのテレビドラマに出演したが、78年頃に引退したという。
2010年の時点では、まだ健在であると後輩の加藤茂雄が語っている。それでも99歳だが、その後も訃報は聞かないので、今も健在なら106歳ということになる。

 

東宝俳優録14 小泉 博

第3期東宝ニューフェイスには小泉博、岡田茉莉子、山本廉などがおり、今回は小泉博である。
小泉博は26年生まれで、本名は小泉汪と書いてヒロシと読む。八男四女という十二人兄弟の八男だという。昔は子だくさんも多かったようだが、十人超えは中々ないのではないだろうか。芸能界でいえば、萬屋錦之介、中村賀津雄兄弟が実は五男五女の十人兄弟であるとか、坂本九は名前のとおり、第9子であるとかくらいしか知らない。
さて小泉博だが、43年に慶応義塾大学に入学し、48年に卒業して、NHKにアナウンサーとして入局した。大分放送局に配属され、休暇で上京した際に、当時は東宝を離れていた藤本真澄の藤本プロで「えり子とともに」のフレッシュマン募集に、軽い気持で応募したところ、合格者の一人となり、51年NHKを退職し、同映画に出演した。
藤本が東宝に復帰することになり、小泉も誘われて第3期東宝ニューフェイスに応募して合格する。そして51年6月に東宝に入社した。入社より映画デビューの方が先だったのである。
アナウンサー出身の役者といえば、やはりNHK出身の野際陽子や長崎放送出身の二谷英明が有名だ。
東宝では、まず「青春会議」「ラッキーさん」「東京の恋人」(52年)等にいずれも準主演級の役で売り出した。あまり、時代劇の印象がないが「次郎長三国志」シリーズ(53~54年)では、追分三五郎役で3部から9部まで出演している。
人気を呼んだのは、やはり江利チエミ主演の「サザエさん」シリーズ(56~61年)ではないだろうか。ここでは、サザエさんの夫となるマスオさんを交際時代から結婚に至り、新婚、子供誕生(つまりタラちゃん)まで全10作で演じ続けた。改めて調べると、50年代の小泉は年間10本のペースで映画に出演していた。
小泉博といえば、東宝特撮に出演しているイメージも強いと思うが、50年代は「ゴジラの逆襲」(55年)に出演している程度である。60年代に入ってから「モスラ」(61年)、「マタンゴ」「海底軍艦」(63年)「三大怪獣地球最大の決戦」(64年)等、立て続けに出演している。ちなみに、佐原健二も「ゴジラの逆襲」以外すべてに出演している。
60年代は映画の本数は減り、テレビへの出演が多くなっている。「咲子さんちょっと」(61~63年)、「女の絶唱」(69年)等ドラマはもちろんだが、「おはよう、にっぽん」(66~68年)というワイドショーでは司会も務めている。ちなみに初代司会者はデビュー当時から共演も多かった小林桂樹であった。
司会と言えば、やはり「クイズグランプリ」(70~80年)である。元アナウンサーだけあって、見事な司会ぶりであった。当時は俳優としてのこの人をあまり見たことがなく、普通に司会専門の人と思っていたかもしれない。
今世紀に入ってからも、現役としていくつかのドラマや映画に出演していたが、15年に88歳で亡くなっている。