お宝映画・番組私的見聞録 -81ページ目

東宝俳優録35 柳川慶子

前回、ちょこっと話題に出た映画「鉄腕投手稲尾物語」(59年)で、ヒロインを演じていたのが柳川慶子である。
柳川慶子は、36年生まれ。55年に同志社大学文学部に入学するが、56年に中退して俳優座養成所8期生として入所している。同期には水野久美、三木弘子などがいた。この進路変更は、彼女の父(柳川武夫)が映画プロデューサーだったことも影響した、と本人は語っている。
養成所在籍中に岡本喜八監督作品「結婚のすべて」の面通しに参加する。当時はオーディションという言葉は使われておらず、面通しと呼ばれていたらしい。その面通しで見事合格して映画出演が決まったのである。大学生の役でその恋人役が加藤春哉だった。
プロデューサーの藤本真澄が彼女を気に入り、本人は舞台志向であったが、「若い時は映画に出なさい」との助言もあり、58年に東宝に入社している。
「暗黒街の顔役」(59年)では、鶴田浩二、宝田明、三船敏郎らと共演。宝田とは恋人という設定で、ラブシーンもあったが緊張のあまり、記憶に残っていないという。帰りにバスを待っていると宝田が車で送ってくれたのである。車の中でも緊張したままだったので、宝田は気を遣ってレストランで食事まで御馳走してくれたのだという。
前述の「鉄腕投手稲尾物語」では、柳川と稲尾本人がキャンペーンで九州を訪れた際、稲尾の人気が凄くて、博多の街が見物客で埋め尽くされたという。なにしろ「神様、仏様、稲尾様」と言われていた時代のことである。行く手を阻まれて、柳川は帰りの飛行機に間に合わなくなってしまったのである。そこで稲尾が公衆電話から空港に電話したところ、出発時間を遅らせてくれたのだという。稲尾は当時22歳の若者である。いかにスーパースターだったかわかるエピソードである。その後何年たっても、柳川が九州に行くと、稲尾の本当の奥さんだと思っている人がいたという。
「大学の山賊たち」(60年)は、雪山で男女5人ずつのグループに二人組のギャング絡むというような話だが、今見ると中々の顔ぶれである。男グループは山崎努、久保明、佐藤允、江原達怡、ミッキー・カーチスで、女グループは白川由美、横山道代、上原美佐、笹るみ子、柳川慶子である。久保や江原は普通にスキーがうまかったというが、女性陣はほぼ吹き替えだったという。山崎努は本作が映画デビュー作である。上原美佐は「隠し砦の三悪人」の雪姫役でデビューを飾ったが、「自分には才能がない」とわずか二年で引退してしまった女優である。
「江分利満氏の優雅な生活」(63年)を最後に東宝を退社し、劇団雲を経て演劇集団円に所属する。以降は舞台やテレビドラマを中心に活躍している。

 

東宝俳優録34 児玉 清

東宝ニューフェイスに目を向けて見ると、8期から14期まではほとんど実態がわからない。有名な人もいるのだろうが誰がいたのかは、不明である。この辺りで唯一判明しているのが、13期の児玉清である。
児玉清といえば、俳優というより司会者のイメージの方が強いかもしれない。東宝の映画俳優だったというイメージもあまりないと思われる。
児玉清の出生名は小玉清。「日本映画俳優全集」などでは、34年1月1日生まれとなっているが、それは戸籍上であって、実際は33年の12月26日だという。当時は年齢を数え年でいう慣習があり、生後6日で2歳になってしまうのを嫌って年明けの元旦で届けられているのだという。
学習院大学文学部ドイツ文学科に入学し、演劇部に入部する。道具係としてであり、舞台に立つ気は当初なかったという。しかし、1年先輩のフランス文学科の篠沢秀夫により、篠沢が企画していた仏語劇の主演に抜擢されている。ちなみに、篠沢は後に学習院大学の教授となり、1枠の篠沢教授として「巨泉のクイズダービー」に出演することになる。
58年、大学院進学を目指していた児玉だったが、学部卒業式の当日に母親が急死してしまう。進学を諦め、応募してあった東宝ニューフェイス第13期の試験に合格して入社することになる。デビュー作は黒澤映画である「隠し砦の三悪人」(58年)の雑兵役であったがノンクレジットである。ニューフェイスとしての入社ではあったが、エキストラ同様のセリフのないような役が続くことになる。
そんな時、転機となったのが「鉄腕投手稲尾物語」(59年)で、西鉄ライオンズのエースだった稲尾和久本人と西鉄の選手たちが出演する映画である。俳優陣も志村喬、白川由美、柳川慶子、藤原釜足らが出演しており、児玉は通行人としての出演であった。撮影で博多に滞在していた時、児玉は年下のスター俳優に誘われ喫茶店に行ったところ、その俳優がウエイトレスにサインをせがまれた。彼女が児玉にもサインをせがもうとしたところ「その人は雑魚だからサインを貰っても意味ないよ」と言い放ったという。本人は冗談のつもりだったかもしれないが、児玉はこのことに一念発起して、10年は俳優として頑張ろうと誓ったのだという。このスター俳優について、名は明かされていないが出演者を見てみると該当しそうなのは江原達怡一人しかいないのである。
「別れて生きるときも」(61年)で、司葉子の初恋相手役に抜擢されたころから頭角を現し始めたのである。64年、東宝の中堅女優で一つ年長の北川町子と結婚した。出会ってからわずか四カ月だったという。テレビドラマ「サラリーマン義経君奮戦記」の京都ロケに向かう際、一人で京都に行けない女優がいるから一緒に行ってくれと演技科からと頼まれて同行したのが出会いだったのである。
北川は母と二人暮らしであったが、児玉は婿入りすることを選び、本名は北川清となったのである。北川は67年に引退したが、当時は活躍していた女優と売れない俳優という組み合わせだったこともあり、彼女が引退して大丈夫なのかと思われていたようである。この67年には、児玉も東宝を退社し、テレビの方に活躍の場を移していく。東宝の映画俳優としては目立った活躍はできなかったのであった。

 

東宝俳優録33 野村浩三(明司)、園田あゆみ

「ウルトラQ」の第22話「変身」(66年)で、巨大化した男を演じていたのが野村浩三である。
野村浩三は31年生まれで、本名は尾棹一浩という。50年に明治大学商学部に進み、51年に在学のまま俳優座養成所に三期生として入所する。四期生は宇津井健、仲代達矢、佐藤允などスター揃いだったが、三期生は愛川欽也、江幡高志、塚本信夫、穂積隆信、本郷淳といった愛川を除けば、脇役として活躍した面々が揃っている。
53年に松竹「落葉日記」で本名のまま角梨枝子の相手となる混血青年役でデビューした。バタくさい容姿を買われての抜擢であった。尾棹一浩名義では、東宝、宝塚映画、日活などの作品に出演している。
54年に大学と養成所を同時に卒業し、55年に松竹に入社する。芸名を野村浩三として「美貌の園」(56年)、「炎の氷河」(57年)などに出演している。
58年、東宝に転じて「大怪獣バラン」で主役を演じた。バランは東宝の怪獣としてはマイナーな存在だと思うが、野村も主役はこの一作だけで、以後は脇役に回っている。特撮映画を中心に出演しているが、役柄も次第に「記者A」とか「調査隊員」とかが多くなっていった。67年頃にに芸名を野村明司に改めている。最後の映画出演となっているのは「鏡の中の野心」(72年)という作品で、主演女優の堤杏子とはひし美ゆり子のことである。野村は一文字違いの野村明治の名で出演している。この作品の原作が戸川昌子だからなのかどうか不明だが、野村は翌73年に「プレイガール」に出演しており、ひし美もレギュラーとして出演していた。これを最後に俳優を引退し、会社員になったという。
この野村と同様に「大怪獣バラン」が唯一の主演作となったのが園田あゆみである。
園田あゆみは33年生まれで、本名は岩立優子という。55年に東宝に入社し、「麦笛」の端役デデビューしている。しばらくは端役が続いていたようだが、「美女と液体人間」(58年)にダンサー役で出演した後に「大怪獣バラン」でヒロインに抜擢されている。しかし、その後は特撮物に出演することはほとんどなく、主にサラリーマン物に出演している。ほとんどが「女給」の役で、ダンサーだったり娼婦だったりと夜の女といった役が多かった。「日本一の色男」(63年)を最後に女優を引退しており、その後のことは不明である。

 

東宝俳優録32 西條康彦 その2

前回の続きで西條康彦である。西條は「ウルトラQ」の番組宣伝を兼ねて怪獣ショーに駆り出されている。それ以来、あちこちの怪獣ショーで司会をやったという。ゆえに、怪獣ショーの司会と言うのは彼が初代だったようだ。
ホテルで食事を付けた怪獣ショーは、赤坂プリンスが最初で「Q」が終わった年のクリスマスに行われたというから66年のことであろう。ショーでアシスタントを務めたのが当時「ロンパールーム」のお姉さんだったうつみ宮土理であった。子供のバンドを探してつけたことがあったそうだが、それが後のフィンガー5だったという。調べてみると大ヒット曲「個人授業」は73年の作品だが、それ以前の彼らが沖縄から東京に進出したのが69年のことで「オールブラザーズ」を名乗っていた。沖縄がまだ日本に返還される前のことである。そのころだったとしたら、晃が8歳、妙子が7歳くらいの時ということになる。
「Q」が終わった後は、東宝を退社しフリーになったようだが、その正確な時期は不明である。いずれにしろ東宝の専属制度は70年には廃止されたので、それより多少早いくらいではないだろうか。映画は69年頃が一旦最後となり、テレビの方は「ワン・ツウ・アタック!」その続編の「レッツゴーミュンヘン!」(71年)にバレー部女子寮の炊事係役であった。やはり女子寮の世話人役だったのが左卜全で、この放映中に亡くなっている。ちなみに、主演は太田黒久美で「飛び出せ青春」のみどり役の方が有名だろう。バレー部員役には西恵子、岸ユキ、田中真理らがいた。
西條は映画の良かった時代を知っているので、テレビとの格差が耐えられなかったという。そこで、自分で商売をするようになり、スナック「アトラス」を皮切りに、「エスカール」という喫茶店を開いたり、不動産賃貸業をやったりした。20年ほど前のインタビュー記事では、当時の西條は神楽坂若宮八幡という神社の「若宮会」の会長を務めている。毎年の秋まつりには、怪獣ショーを披露し、その司会はもちろん西條が務めた。円谷皐に許可をもらい怪獣神輿まで作った。その祭りには、河崎実、大森一樹、手塚眞など後に映画監督となる面々が参加していたという。
2000年以降も円谷プロ関連の映像作品やイベントに登場している。現在は悠々自適な隠遁生活を送っているらしい。

 

 

東宝俳優録32 西條康彦

PCトラブルで更新が丸一日遅れてしまった。
それはさておき、今回は「ウルトラQ」繋がりで、西條康彦である。西條康彦といえば、「ウルトラQ」の戸川一平役で知られる。というより、それしか思い浮かばないとも言える。
西條康彦は39年、神楽坂の生まれ。本人談によれば、高校時代に東宝に入っていたという。「初恋物語」(57年)という作品で、成城学園の演劇部にいた西條らが東宝に集まった際、監督の丸山誠治に準主演格の役を与えられたのが西條であった。高校生ながらにB1契約で、月保証が8千円出たという。当時の大学出の初任給とさほど変わらなかったようだ。20歳のころには、夏木陽介の友人から買ったというMGのオープンカーに乗っていた。
「電送人間」(60年)などで共演した鶴田浩二からは「成城学園」と呼ばれていたらしい。鶴田浩二は評価が両極端な人だが、西條にはよき先輩だったらしい。平田昭彦には勉強を教えてもらったという。平田は東大卒だけあって、聞けばちゃんと教えてくれたと語る。
西條といえば、映画よりもテレビの方のイメージが強い。初出演は「花のサラリーマン」(62年)で、船戸順、岩井良介、そして西條が主演であった。ちなみに岩井良介は岩井半四郎の弟である。半四郎の娘が岩井友見、仁科明子である。
「ウルトラQ」(66年)の主演トリオ、佐原健二、桜井浩子、西條康彦は揃って東宝の俳優だったため、面識はもちろん共演経験もあった。実は一平役は最終候補として西條と丸山健一郎という役者が残っていたという。円谷一には、ほぼ決まっていると言われていたが、東宝サイドから丸山にもあってくれと言われたので最終面接のようなものが行われ、正式に西條に決定したのである。
脚本では一平はほぼ相槌を打つだけのキャラだったが、自分で考えてコミカルな元気者キャラにしていったのだという。一番辛かったというのが「クモ男爵」のエピソードだそうだ。ゲストが若林映子、滝田裕介、鶴賀二郎の回である。西條と鶴賀が底なし沼にはまるのだが、これが以上に冷たかったのだという。もちろん、人工で作った溜め水だが映画で真冬の海に入った時よりも冷たく感じたそうだ。その一方で佐原健二はQの中でこの「クモ男爵」が一番好きなエピソードだったと語っている。
Qの終了後は桜井浩子は「ウルトラマン」でフジ隊員に抜擢され、佐原健二は「ウルトラセブン」でタケナカ参謀で準レギュラー出演していたが、西條は両番組に一度ずつゲスト出演したにとどまっている。「セブン」のなどはキュラソ星人に襲われるガソリンスタンドの店員役だったりするのだ。しかし、同時代の「怪獣ブースカ」には三度ゲスト出演しており、彼のキャラにはブースカの方があっていた気はする。

 

東宝俳優録31 田島義文

今回も東宝の脇役から田島義文である。
田島義文は1918年生まれ。37年に日本大学芸術学部演劇科に入り、同年に劇団芸術小劇場の創立に参加した。41年に大学を中退し、戦後の46年に俳優座に入団した。47年、松竹映画「女優須磨子の恋」で映画デビューを果たす。
51年には東宝の谷口千吉監督「愛と憎しみの彼方へ」に出演。主演は三船敏郎で脚本は谷口と黒澤明が担当している。東映の「早稲田大学」(53年)等に出演した後、54年に俳優座を退団し、映画制作を再開した日活に入社している。日活では「沓掛時次郎」「黒い潮」(54年)などに出演したが、まもなく退社し、56年に東宝の専属となっている。恐らくだが、そのまま日活にいたらほぼ悪役専門になっていた気がする。
東宝では悪役よりも、新聞記者、刑事役などの方が多い印象がある。多くの作品に出演しているが、目立つのが特撮作品で、「空の大怪獣ラドン」(56年)を皮切りに「モスラ」(61年)、「キングコング対ゴジラ」(62年)など佐原健二、土屋嘉男などと並ぶ本多猪四郎作品の常連でもある。「美女と液体人間」(58年)「電送人間」「ガス人間第一号」(60年)の変身人間三部作の全てに出演している。
テレビ出演もNHKの開局まもない頃から出ていたようで、脇役専門の田島だがNHKのドラマでは主演のこともあったようである。前項で瀬良明がうらなり役で出演していた「坊つちゃん」(60年)には山嵐役で出演している。ちなみに坊っちゃんは高島忠夫であった。前項で加藤晴哉が準レギュラー出演と書いた「ウルトラQ」(66年)には、田島も新聞社のデスク役で準レギュラー出演していたが、後年のインタビューでは、出ていたことすら覚えていないと語っていたそうである。実は10回ほど出ていたりするのだが、本当に印象に残らなかったのか終わったことはすぐ忘れる主義なのかは不明である。
73年にフリーになった後は、映画は東映の「日本の首領」(77年)などに出演している。テレビでは、「大江戸捜査網」「水戸黄門」などの時代劇で悪代官、悪徳商人などを演じることが多かった。
93年までは俳優活動を行っていたことが確認されている。09年に亡くなったが91歳という長寿であった。

 

東宝俳優録30 瀬良 明、加藤春哉

今回も東宝のわき役陣から瀬良明と加藤春哉である。この二人にこれといった共通点があるわけではないが、しいていえば気が弱そうに見えるといったところか。
瀬良明は1912年生まれで、本名は渡辺章という。34年、大阪外国語学校スペイン語部を卒業後し、翌35年大阪協同劇団の創立に参加する。39年に今井正監督の「沼津兵学校」で映画初出演を果たしている。40年に劇団は解散し、翌41年に大阪放送劇団創立に参加した。
43年に上京し、瑞穂劇団に入り終戦まで移動演劇を続けた。この瑞穂劇団の俳優座への合流にさいして新劇を離れて映画へ転身を決め、47年に東宝に入社している。
瀬良明といってもわからない人もいるであろうが、割合有名な役どころとしては「生きる」(52年)の市役所職員や「坊つちやん」(53年)のうらなり先生といったものがある。ちなみに「坊つちやん」と書いたのは書き間違いではなく、「つ」も「や」も大きいのが、この53年版の正しいタイトルである。坊っちゃんは5回ほど映画化されているが、うらなり(古賀)役に限っていえば、35年版では藤原釜足、58年版では大泉滉、66年版は大村崑、77年版では岡本信人がそれぞれ演じている。まあ、共通イメージとしては痩せているといった所であろうか。
個人的には瀬良明の顔といえば、ミスター用務員こと奥村公延の顔をもう少し長くした感じだと思っている。色んな作品に出演しているが、「ゴジラ」(54年)、「ゴジラの逆襲」(55年)、「モスラ」(61年)といった怪獣特撮物では何故かノンクレジットだったりする。60年からは東宝専属を離れフリーとなっている。テレビも59年あたりから、出演し始め、60年のドラマ版「坊っちゃん」でも、映画と同じうらなり役を演じている。80年まで映画やドラマへの出演記録があるが、それ以降の消息は不明のようで、既に亡くなっているようである。
加藤春哉は1928年生まれ。8歳のときに築地小劇場に出演、六年生の39年には劇団東童に入り少年俳優として舞台に立つ。49年に東童を退団し東宝に入社するが、間もなく新東宝に移り「雪夫人絵図」(50年)で映画デビューを飾った。51年、東京映画に移り、56年になって東宝の専属となっている。気弱な二枚目半的な役どころが多かった。子役出身にありがちだが、いくつになっても若く見えるというタイプだった。専属制度が廃止される70年までは東宝に在籍し250本もの作品に出演した。
テレビでは「ウルトラQ」(66年)に相馬記者役で準レギュラー出演(といっても三回だが)。桜井浩子と一緒に居る気の弱そうな記者といえば、わかる人もいるかもしれない。
大林宣彦の「転校生」(82年)では、校長先生役で出演している。俳優活動は94年まで続けていたようだ。この人も瀬良明同様に亡くなった正確な日は不明だが、15年か16年に亡くなったようである。

 

東宝俳優録29 桐野洋雄、草川直也

今回は東宝の脇役から二名をピックアップ、まずは桐野洋雄である。洋雄は「なだお」と読み、本名である。名前だけではピンと来ないかもしれないが、日本人離れしたバタくさい顔立ちの持ち主で、二枚目なのだが若干頭髪は薄めな感じである。色んな作品に顔を出しているが、悪役が多い印象がある。
桐野洋雄は32年生まれ。52年、早稲田大学文学部演劇科在学中に俳優座養成所に4期生として入所する。同期には宇津井健、仲代達矢、中谷一郎、佐藤慶、佐藤允といった錚々たる顔ぶれが並んでいる。55年3月に大学、養成所を同時に卒業し、同期生らと劇団三期会を結成している。この間に映画は松竹の巨匠・木下恵介監督の「日本の悲劇」(53年)に出演している。
57年に東宝入社。「美女と液体人間」「大怪獣バラン」(58年)「宇宙大戦争」(59年)といった本多猪四郎監督によるSF特撮物や「暗黒街の顔役」(59年)「独立愚連隊」(60年)といった岡本喜八監督作品、「クレージー作戦 先手必勝」(63年)「無責任遊侠伝」(64年)「大冒険」(65年)といったクレージーキャッツ映画など、いずれも常連のように出演している。
テレビに目を向けると、「ウルトラQ」第27話「206便消滅す」(66年)での凶悪犯や「ウルトラマン」第31話「来たのは誰だ」(67年)におけるゴトウ隊員役などが印象に深い。
70年の「クレージーの殴り込み清水港」を最後に東宝を退社し、芸能界を引退している。実業家に転身し、テーラーの経営等を行っていたようである。
そんな桐野とは共演が多かったイメージがあるのが草川直也である。桐野以上にピンと来ない役者かもしれないが、黒縁メガネの真面目そうな中年といったイメージが強い。しかし、メガネを外すと悪役顔にチェンジする。
草川直也は29年満州の生まれで、本名は草川義夫という。51年、新演劇研究生から演劇活動を経て、57年に笠智衆の付き人となっている。東宝とは59年に契約しており、初出演作品が何かは不明だが「東宝WEBSITE資料室」で、最初に出ているのは笠が主演の「サラリーマン目白三平 亭主のためいきの巻」(60年)である。
この人も岡本喜八作品やクレージー映画への出演が多い。大概は悪役だが、中国出身であることから中国人の役も多い。
テレビでは前述の桐野と同じく「ウルトラQ」第11話「バルンガ」に医師役で出演、「帰ってきたウルトラマン」(71年)にも医師役で出演(第6話)しているがノンクレジットである。
東宝が専属契約制度を廃止した後も、70年代半ばまでは俳優活動を続けていたようだが、その後引退。出家して僧侶になったという。

 

東宝俳優録28 大橋史典 その2

1回で終わりにしようと思っていたのだが、次のネタを考えていなかったので、もう少し大橋史典である。
前回も書いたとおり、大橋史典といえば俳優してよりも造形家として有名である。大橋と言えば「マグマ大使」であり「怪獣王子」であり、つまりピープロと関係が深い。その社長といえばうしおそうじこと鷺巣富雄である。その鷺巣と同じ部隊にいたのが、三船敏郎で後輩が理不尽な私的制裁を受けているのを見るとたとえ上官であろと喰ってかかるという侠気の人だったという。三船は鷺巣が東宝の人間(特技課)と知ると「自分も除隊後は東宝に入るつもりだ」と語っていたという。ただし、俳優ではなくカメラマンとしてである。
話が横にそれたが、大橋が鷺巣の家の二階に寄宿していたことがあったという。二人の繋がりだが、大映で「釈迦」の製作にあたっていたときだったという。
大橋は当時、日本電波映画と専属契約しており「ジャングルプリンス」の大猿の着ぐるみを作った。タイトルから想像できるかもしれないが、和製ターサンものである。戦前には樺山龍之介として和製ターサンを演じていた大橋が、造形で再び和製ターサンものにかかわったのである。ちなみに全26話が製作された後、数年間お蔵入り状態であったが70年にやっと陽の目を見た番組である。さて、前述の大猿の着ぐるみは日本電波の社長室に飾られていたのだが、それが米国人技師の眼にとまり、本国のシドニー・シェルダンに報告した。今では有名な小説家だが、当時はハリウッドのシナリオライターだったのである。それを見たシェルダンは一山あてれると思い、大橋と個人契約をかわそうと画策したのである。大橋にはハリウッドで仕事をするチャンスだったが、電波映画との契約が残っていたため勝手なまねもできなかった。そこで、京都から急遽上京した大橋は鷺巣に連絡し、「東急エージェンシーにこの話を斡旋してもらえないだろうか」と言ってきたのである。それに加えて「話がまとまるまで、匿ってもらえないだろうか」と頼まれたため鷺巣が二階に匿ったのである。
ある時、大橋が「ブラブラしてるのも何だから何か手伝いましょう」と言ってきたので、作ってもらったのがマグマ大使、ゴア、大恐竜(アロン)だったという。これらの造形は評判もよく「マグマ大使」も成功と言えた。
大橋は結局は日本電波をクビになったため、東急の上島一男が彼を社長にまつりあげて、日本特撮株式会社を作ったのである。これはハリウッド相手にビジネスができるという目算があったためであった。こうして「怪獣王子」の製作が始まったが、大橋は「マグマ」でさえ、一話500万でやっていたときに、その三倍の1600万もかけていたという。鷺巣は大橋に忠告したというが、彼はそれを聞こうとしなかった。しかも、大橋の作成したネッシーは重すぎて全然動かなかったので、鷺巣が急きょ高山良策に小ぶりのネッシーを作らせ、間に合わせたという。
「怪獣王子」は当初、「月光仮面」で知られる船床定男が監督を務める予定だったのが、大橋が社長あいさつで船床を気に入らないとこき下ろしたため、「マグマ大使」の監督だった土屋啓之助と入れ替えを行ったのである。つまり、「マグマ大使」の後半は船床が監督をしているのだ。鷺巣によれば、そのころの大橋の言動はだんだんおかしくなっていったという。結局「怪獣王子」は視聴率も伸びず、半年で打ち切られた。まもなく、大橋は社長を更迭され会社も倒産となったのだった。
映画では東映の「恐竜・怪鳥の伝説」(77年)における造形の仕事が最後となり、89年に74歳で亡くなっている。晩年は京都で市会議員務めていたらしい。

 

東宝俳優録28 大橋史典(樺山龍之介)

大橋史典と聞いてピンと来る人は、怪獣好きとか特撮好きの人がほとんどではないだろうか。東宝の俳優としては端役がほとんどだったが、俳優の傍ら怪獣造形も手掛けていたことで知られている。
大橋は1915年生まれで、本名は大橋幸利という。東京美術学校の彫刻科を卒業し、35年に松竹蒲田の演出課に入り助監督となっている。
36年、全勝キネマの俳優募集に応じて入社する。本名に近い大橋行利を芸名としたが、後に樺山龍之介と改名する。2メートル近い身長と野性的な風貌が求められ、「密林の覇者」(37年)で、山の男ターザンを主演した。その後も「巌窟王ターザン」「復習王ターザン」(38年)などでターザンを演じ、和製ターザン役者として全勝のスターとなっている。
その一方で、33年にアメリカで公開された「キングコング」の追随企画である「江戸に現れたキングコング」(38年)では、猿人の造形を手掛けてスーツアクターも兼任するなどしていた。しかし、まもなく応召され樺山龍之介の名が復活することはなかった。
戦後は大映、マキノ芸能社を経て東宝に入社している。かつてのスターではあったが、大橋史典と改名し山本嘉次郎の助監督となっている。一方、相良三四郎名義で俳優活動も継続するという二刀流は相変わらずであった。
48年に「忍術自来也」の製作に参加し、独自で軽量化したコムパウンド・ラテックスを開発し特許を取ったらしいが、後年「マグマ大使」を共に手がけるピープロ社長のうしおそうじは、調べてみるとそれについては怪しいと証言している。しかし、着ぐるみにラテックスを初めて使ったのは大橋であることは認めている。
51年に大橋工芸社を設立。「ゴジラ」(54年)の着ぐるみ制作にも関与したというが、他のスタッフは「当時の大橋は俳優であり、怪獣造形にはかかわっていない」と食い違う証言もある。「獣人雪男」(55年)では、雪男の造形を務め、自ら中に入っている(相良三四郎名義)。造形に関しては、大橋工芸社として東宝以外の作品にもかかわっていた。
俳優としても大橋史典を名乗るようになり、「蜘蛛巣城」(57年)や「用心棒」(61年)といった黒澤作品に出演している。「用心棒」では、冒頭で三船敏郎に斬られる大男を演じているのが大橋である。ここでも大橋は役者以外に斬り落とされた手首の作成も手掛けている。
63年に東宝を離れ、日本電波映画と専属契約しており、テレビにも活躍の場を広げていった。ほぼ造形が中心で、役者をすることはほとんどなくなったが、「マグマ大使」(66年)第1話に登場する恐竜は自作自演であった。