お宝映画・番組私的見聞録 -79ページ目

日活俳優録3 北原 隆

今回も第1期日活ニューフェイスから北原隆である。
北原隆は36年生まれで、本名は坂上政敬といい児童劇団の出身らしい。1期ニューフェイスで一番に主役をゲットしたのが、この北原なのである。その作品「からたちの花」(54年)は、北原白秋のことを描いた作品である。白秋の本名は北原隆吉といい、北原隆という芸名は言うまでもなくそこから来ており、監督の佐伯清によって名付けられたようだ。
主役といってもクレジット的には無名の新人ということもあってか山村聡、伊藤雄之助、宇野重吉、山田五十鈴に続く5番目だったようだ。同期の牧真介が友人である中野の役に抜擢されたが、これも結構重要な役である。ニューフェイスでは子供顔か大人顔かで運命が分かれ、北原、牧に加え少年っぽく見える野村隆、林隆が採用された。北原隆が芸名となり、三人隆状態になってしまったが、野村は当時は字の違う須藤孝であり、最年少の林はノンクレジットである。しかし他の映画でも林隆という名は見かけないので、他の芸名を名乗っていた可能性もある。宍戸らはカスリもしなかったというが、名和宏はクレジットされているし、宍戸も車夫の役で出演しているという(ノンクレジット)。ただ、出演料は大役だろうとチョイ役だろうとニューフェイスは一緒だったようだ。
さて、出だしこそ一歩リードだったが北原だが、後が続かない。日活作品では、その名前自体をあまり見かけなくなる。干されていたわけではなく経緯は不明だが実は他社の作品に出演していたのである。新東宝の「たけくらべ」(55年)では、美空ひばりの相手役を務めたり、東映の「薩摩飛脚」(55年)に出演したりしている。
56年には松竹に移籍し、同時に青山学院大学に入学している。しかし、学業との両立はならず翌年には中退している。日活在籍は二年足らずで、実績は「からたちの花」のみだったともいえる。
松竹では主に脇役だったが「女ざむらい只今参上」「呪いの笛」(57年)等では、やはり松竹に移籍してきた名和宏と共演。名和の方が大きな役である。61年には大映に移籍。「男と女の世の中」(62年)、「大学の纏持ち」(63年)に助演するが、64年の契約切れと共にテレビ界に転向した。
56年頃からテレビには出演していたが、代表作はやはり「特別機動捜査隊」の森田刑事役であろう。64年に藤島(中山昭二)班の一員として登場し、本線だった立石(波島進)班にも登場するようになり出番が増え、同じ年である里見浩太朗が演ずる高倉班の一員として出演したのを最後に73年まで約九年間出演していた。実は北原隆という役者をはっきりと認識したのは、この特捜隊をCSで見てからなので、結構最近だったりするのだ。「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」にもゲスト出演しており、見ていたはずなのだが印象にはなかった。
「特捜隊」降板以降は「雪の詩」(76年)という独立プロの映画で主演を務めた以外は、テレビにも映画にもほとんど出演していないようだ。しかし役者の世界から退いたわけではなく、文芸座で全国の小中学校巡演の活動を行ったり、近年は劇団東俳で演技・映像の講師を受け持っていたりするそうである。

12年に発売された「ウルトラセブン研究読本」で、北原のインタビュー記事も載っており、当時のことをはっきりと覚えているようであった。文字だけなのに非常に元気そうに思えた。

 

 

日活俳優録2 名和 宏(名和 広)

今回も日活第1期ニューフェイスから名和宏である。
名和宏は32年生まれで、本名は与縄章という。与縄を苗字サイトで調べると全国で17件しかない珍しい苗字である。そこから名和という芸名になったのはわかるが、下は本名のアキラではなくヒロシになったのが不思議に感じる。まあアキラといえば、小林旭が二年後には入社してくるので宏で良かったのかもしれない。一時期、名和広と改名した時期があったようだが、元に戻している。
さて、名和と言えば悪役のイメージが強いが、若い頃は二枚目である。まあ、ニューフェイスに合格するくらいだから当然だけれども。しかも、その後日活のオーディションを受けた石原裕次郎が落ちたのは、輪郭の似ていた名和の存在があったからだと兄の慎太郎が「弟」の中で語っている。
熊本の名和の実家は能の金春流で本人も能楽を学んでいた。熊本高校を卒業後、熊本大学に進むが中退し、日本大学芸術学部演劇科に入りなおしている。そこで同級生だったのが宍戸錠である。
54年、共に第1期ニューフェイスとして日活に入社したわけだが、前回も書いたとおり宍戸の「シシド 小説・日活撮影所」には、二人の絡み、会話の場面はない。当時の演劇科は一学年50名だったそうなので、顔見知りではあったはずだが、特に親しいということもなかったようである。
デビュー作は同期ニューフェイスの北原隆が主演の「からたちの花」(54年)であった。56年には「快傑耶茶坊」「旅鴉でござんす」「甲武信嶽伝奇」「地底の歌」「妻恋峠」と主演が続いており、「地底の歌」では因縁?の石原裕次郎と共演もしている。大活躍を見せていた名和だったが、「妻恋峠」を最後に松竹に移籍してしまう。裕次郎が入社して逆に押出されたという説もあるが、宍戸によれば、単純に松竹に引き抜かれたということのようだ(「松竹の報復」と表現されている)。
松竹では時代劇の準主役級として活躍するが、63年以降はフリーとなっている。60年代後半からは主に東映のヤクザ映画や女番長もの、ポルノ路線、テレビ時代劇での悪役などで活躍する。すっかり太々しい悪人のイメージがついてしまったが、本人は温厚で知的な人柄だそうである。「温泉みすず芸者」の鈴木則文監督は彼のことを「社交的で話術も巧みなプレイボーイ紳士」と述べている。
現在も健在ではあるが、都内の介護施設に入居しているらしい。

 

日活俳優録1 宍戸 錠 その2

宍戸錠と言えば、やはり豊頬手術が思い浮かぶ。普通に二枚目だった宍戸がわざわざ頬を膨らませたのである。宍戸はこれを役作りのためではなく、あくまで美容整形だと言い張っている。
そのきっかけはどうやら、大女優田中絹代の言葉にあったようである。「月は上りぬ」(55年)という田中絹代が自ら監督する作品の出演面接に宍戸と同期の今村弘が呼ばれたのである。そこで宍戸が田中に言われたのが、「いい顔だけど、現代的で少し痩せすぎかな」続いて歯を見せてと言われ「色ももう少し白くして、前三本差し歯になさい。もっといい顔になるわよ」と言われたのである。結局、選ばれることはなかったが(安井昌二、三島耕が選ばれている)、田中の言葉はずっと頭に残っていたという。
約一年後、宍戸は初の時代劇「朝やけ血戦場」(56年)への出演がきまり、「時代劇に金歯があってはいけない」と、これを機に田中に言われたとおり歯を治したのであった。
さらに、その一年後「川上哲治物語・背番号16」(57年)への出演が決まる。川上本人も出演するが、その若い頃をニューフェイス同期の牧真介が演じ、熊本工時代にバッテリーを組み共に巨人軍に入団した名捕手・吉原正喜(戦死)を宍戸が演じるのである。重要な役どころであり、チャンス到来と考えた宍戸は今までと違った何かがいると考えた。
そこで行きついたのが豊頬手術だったのである。顔が痩せていると言われていたことや、捕手ならばどっしりとしていた方が良いと思ったわけである。一人黙って手術したわけではない。両親には「好きにしていい」と言われたが、今村や弟の郷暎治には反対されたという。美容整形外科の先生も十分にいい男だからと反対したが、結局は決行し頬にオルガノーゲンという物質を注入した。
整形したことは、とりあえず黙っていたが、「ジョーさん、やったね」と目ざとく見抜いたのが中川晴彦だった。中川は後に新東宝に移って中村竜三郎と改名する(させられた)役者である。彼も手術をやってみたいと言っていたらしいが、実際にやったかどうかは不明だ。中村竜三郎は四角い顔というイメージがあり、やったようにも見える。
豊頬してからの活躍は今更書くまでもないと思うが、それ以前の代表的作品といえば「警察日記」(55年)であろう。舞台が東北の田舎町の警察署なので、宮城に七年住んでいた宍戸が抜擢されたのである。ポスターにも森繁久彌、伊藤雄之助、宍戸錠(新人)、杉村春子、三國連太郎と錚々たるメンツの真ん中に名前が載っていたのである。
しかし、同じ年に公開の「続・警察日記」には宍戸の名前はなかった。まあ、森繁も出てないし、前作と伊藤雄之助も同じ役というわけではない。でも宍戸の場合は干されていたからだそうである。原因は二度にわたるアフレコの大遅刻が大きかった。ベテランたちの怒りもかってしまった。あと、明石淳子との同棲も問題視されていたという。実際に演技課長から「会社は君を売り出そうと思っているが、スキャンダルは困る。別れた方がお互いのためだよ」と諭されたりもしている。この辺は恋愛禁止な今のアイドルとあまり変わりがないようだ。

 

日活俳優録1 宍戸 錠(+第1期ニューフェイス)

今回より、日活俳優録である。日活は戦前と戦後では大きく違うが、基本的には戦後の日活を扱う予定である。最初は誰にしようかなと考えたのだが、まあ導入しやすいということで、スターではあるが宍戸錠ということにした。当時のことを回想した「シシド 小説・日活撮影所」という本も出している。
54年、日活が映画製作を再開することになり、新人スターが必要となり第1期ニューフェイスの募集が行われた。知っている人も多いだろうが、宍戸はその第1期ニューフェイスの一人である。
宍戸錠は33年生まれ。芸名っぽい名前だが本名である。錠という名の由来は子だくさんで、最後の子にしたい母の想いからだったそうな。とは言っても当時では普通の4人目の子供で、4年後には弟の鍈治(郷鍈治)が誕生しているけれども。
小学校6年の時に東京大空襲で家を焼かれ宮城県白石へ疎開、高校までそこで過ごした。高校ではバスケ部だったが、演劇部にも助っ人として参加したりしており、この頃には映画スターになろうと決めていたという。
大学は日本大学芸術学部に進み、二年の時にニューフェイス募集の記事を目にする。それを知らせにきた友人の友人が当時早稲田の学生だった菅原文太である。同い年で宮城の高校に通っていたという共通点がある。文太はその時点では俳優になろうとは思っていなかったようである。文太が新東宝の役者となったのはそれから4年後のことであった。
54年、ニューフェイスに合格し、大学は中退して日活に入社した。第1期ニューフェイスは全部で21名いた。男性は宍戸と名和宏、牧真介、北原隆、野村隆(須藤孝)、林隆、鈴木伸一、今村弘の8人。女性は木室郁子、佐久間玲子、武藤恒子、堤知子、星野晶子、長谷川てる子、明石淳子など13人であった。
最年少は武藤恒子が16歳で、林隆も17歳であった。宍戸の著書を読む限り、男性陣は4人4人に分かれており、宍戸の組は林、鈴木、今村で特に親しかったのは今村のようである。著書で触れられるのも彼らが多い。今村弘は端役がほとんどだが、62年まで出演記録がある。しかし、鈴木や林については、見当たらない。一方で他の四人はそれなりに活躍したが、名和と北原は57年には松竹に移っている。名和は宍戸と同じ日芸で同級生(年齢は名和が1つ上)という関係だが、二人が特に親しかったという様子はない(著書においては)。同じ大学の同級生ならもっと親しくても良さそうなものだが、仲が悪かったということでもないようだ。
女優陣は木室郁子が活躍したくらいで後は名を聞かない人ばかりである。明石淳子という名があるが、実は宍戸とは恋人関係にあったらしい。「流離の岸」(56年)では、主演の北原三枝の友人で三國連太郎の妹という目立つ役をやったが、逆にそれで自信を失ったようだった。彼女はまもなくして、役者を辞め帰郷してしまうのであった。

 

東宝俳優録50 星由里子

東宝俳優録の最終回だが、誰にしようかと思っていたところに星由里子の訃報が飛び込んできた。西城秀樹も同日(5月16日)に亡くなっているが、こちらは近年脳梗塞で二回倒れているなどの出来事があった。しかし、星はつい先日まで元気そうな様子を見かけていただけに急死という印象である。
星由里子は43年生まれ。芸名っぽいが本名(旧姓)である。58年に東宝が募集した「ミス・シンデレラ娘」に応募して優勝したことをきっかけに翌年東宝に入社し、「すずかけの散歩道」(59年)の脇役で映画デビューを飾った。ちなみに吉永小百合もこのころに映画デビューしているが(日活ではなく松竹映画)、後に星と同じ高校の1学年下に転入している。
同時期にデビューした浜美枝、田村奈巳と共に「東宝スリーペット」ととして売り出され、「サラリーガール読本・お転婆社員」(60年)では、三人で主演している。
そして、何と言っても星由里子といえば、「若大将シリーズ」(61~68年)の澄子であろう。加山雄三は毎回、田沼雄一であるが星の演じる澄子は毎回(11作)苗字が違い、設定的には毎回別人である。
一方で「モスラ対ゴジラ」「三大怪獣地球最大の決戦」(64年)といった東宝のお家芸の一つと言えるSF特撮映画でもヒロインを演じている。
68年の日活の「忘れるものか」で初めて他社の作品に出演。石原裕次郎、二谷英明らと共演を果たした。また東映の「新網走番外地シリーズ」(69~71年)にも出演し、高倉健の相手役を務めている。
個人的には、この人の私生活については知らなかったのだが、彼女は結婚を三回している。一度目は69年で、あの横井英樹の長男である邦彦と結婚。しかし、三カ月足らずで離婚している。性格の不一致だったらしいが、義父とも何かあったのかもと思ってしまう。二度目の結婚は、脚本家の花登筺である。花登といえば、「どてらい奴」「あかんたれ」「細うで繁盛記」などのドラマ脚本で有名だが、元々は東宝と契約して、ラジオの台本を書いたり、ミュージックホールの構成や演出などを手がけていた人物である。正確な出会いは不明だが、「新・細うで繁盛記」(73年)に星が出演していたことがきっかけかもしれない。当時、花登には由美あづさという女優の妻がいたので、星とは不倫関係だったということになる。75年、由美との離婚が成立したのちに星と結婚した。星は再婚、花登は三度目の結婚であった。星は前述の「どてらい奴」や「あかんたれ」といった花登ドラマに顔を出すことになる。しかし、花登とは83年に死別。55歳の若さであった。
花登に倣ったわけではないだろうが、90年に星は三度目の結婚をしている。相手は清水氏という一般の会社役員の人である。
星はつい最近まで、年数本ではあるがドラマに出演し続けていた。冒頭に書いたとおり、これを書いている10日ほど前に肺がんで亡くなっている。74歳であった。
東宝俳優録も50回を迎えたので、一旦終了する。後やっていないのは日活くらいだろうか。というわけで、次回からは日活俳優録となる予定である。

 

東宝俳優録49 佐々木勝彦

東宝最後の専属俳優となったのが、佐々木勝彦である。
佐々木勝彦は44年生まれ。祖父は佐々木孝丸で、父は千秋実である。千秋実といえば、黒澤映画11本に出演しているので東宝の俳優というイメージが強いが、基本的にフリーであり、東宝の専属になったことはなかったようである。
法政大学在学中に、千秋の運転手が辞めてしまったため、夏休みの期間限定でその運転手を務めることになった。父の送迎でテレビ局や撮影所に出入りしているうちに、映画や演劇関係の仕事が面白そうだと思うようになり、文学座の養成所に入り、その後に六月劇場に入団している。ドラマに出演するようになり、記録上でデビュー作となっているのはポーラテレビ小説「安ベエの海」(69~70年)である。ちなみに主演は当時19歳だった木内みどりである。
70年、佐々木が出演しているドラマを見た藤本真澄が、「君を第二の小林桂樹として売り出したい」と佐々木に言ってきたため、彼も東宝に入社することにしたのである。テレビの方から映画会社の専属俳優というのは当時ではかなり珍しいパターンだったようだ。翌71年に東宝の専属制が廃止されたので、結果的に彼が最後の専属俳優ということになったのである。
東宝入社第1弾は「誰のために愛するか」(71年)で、佐々木はヒロインの酒井和歌子に交際を申し込む役である。「父ちゃんのポーが聞こえる」(71年)では、「ミスター東宝」こと小林桂樹と共演している。準主演クラスの役が多かった佐々木だが、「ゴジラ対メガロ」(73年)では主演に抜擢されている。ちなみに、ここでの佐々木の役名は伊吹吾郎という。当時の伊吹は「無用ノ介」などで既に知名度もあったはずだが、よくやったものである。伊吹は第7期の東宝ニュータレント出身だが、68年にはフリーになっていた。監督の福田純によれば、とにかく予算がなくて使い回しシーンも多く、見るのも聞くのも嫌な作品だったそうだ。しかし、子供には人気があったらしい。
「メカゴジラの逆襲」(75年)でも佐々木が主演になったが、こちらは本多猪四郎が5年ぶりに東宝特撮映画の監督に復帰している。ヒロイン役の藍とも子は後に「プレイガールQ」(75年)にレギュラー出演。77年には峰岸徹と結婚している(後に離婚)。
近年も多くの映画やドラマに出演している佐々木だが、現在は声優としての仕事が七割を占めているという。ロバート・デ・ニーロやマーティン・シーン、アレック・ボールドウィンなどを担当する。声の仕事は基本的に断らないという。70歳を越えた現在も精力的に活動中である。

 

東宝俳優録48 成川哲夫(伍代勝也、伍代達弘)その2

前回の続きである。成川哲夫は「東京バイパス指令」の後は、舞台の方に戻るのだが、成川は「これからはテレビの時代だ」と思っていたそうである。そんな折69年の半ばころ、「さち子プロ」の小川幸子社長を紹介され、「さち子プロ」の世話になることを決め東宝を退社するのである。結局、養成所時代から数えても成川の東宝在籍は二年に満たない期間だったのである。
当時の「さち子プロ」には、金田龍之介、高田美和、山岡久乃、有島一郎などが所属していたという。いずれにしろ、まもなく東宝は専属俳優制度を廃止してしまうこともあり、成川の選択は吉と出ることになる。
「打ち込め青春」(71年)という范文雀、石橋正次、中山仁が主演のドラマにレギュラー出演していた成川だったが、70年12月小川社長からとある事務所に行くように指示され尋ねると、そこに待っていたのはフジテレビの別所プロデューサー、ピープロの鷺巣富雄(うしおそうじ)社長、監督の土屋啓之助の三人であった。そう「スペクトルマン(宇宙猿人ゴリ)」主演の話だったのである。
年明けすぐからのオンエアが決まっており、一カ月を切った状況でオーディションをしている余裕もない。実は小川社長はフジテレビの出身であり、知り合いの別所Pからいい人がいないか頼まれ、成川を推薦したのであった。
一時間にも満たない面談だったというが、降って湧いたように成川の主演は決定したのである。うしおは成川の印象を「ちょっと三枚目かな」と思ったそうだが、結果的にはそれが良かったと語っている。
撮影はすぐに始まったので、「打ち込め青春」の方は残り数本だったが、降板している。公害Gメンの初代女性メンバーである金髪ウルフカットの小西まち子は、東宝ニュータレント6期生で成川の先輩だったわけである。他番組との掛け持ちだったことで、体調を崩し1クールほどで降板している。後に漫画家の谷岡ヤスジと結婚している。
番組タイトルが「宇宙猿人ゴリ」から「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」に変わったころ成川は結婚している。相手はニュータレント同期の関口昭子である。もちろん、養成所時代から交際しており結婚を急いだのは、彼女のスケジュールの問題があったからだという。関口はレギュラーだった「アテンションプリーズ」が丁度終わったところだったが、次の仕事がきまりそうな状態で、結婚が相当先になりそうだったので、急遽決行したのだという。関口も結婚を理由に東宝を退社する運びとなったのである。東宝側からは、いろいろと慰留の言葉もあったというが、彼女の短い女優生活は終わった。
「スペクトルマン」終了後の成川だが、ヒーローとしてのイメージが強くなってしまったせいか逆に仕事が減り、心機一転もあってプロダクションを移籍、芸名も伍代勝也、伍代達弘と変えていた時期がある(74~76年頃)。結局、「さち子プロ」に復帰し、芸名も本名である成川哲夫に戻している。
「噂の刑事トミーとマツ」(79~82年)では、東刑事役で長期レギュラーを務めたが、82年に師事していた空手の師範が交通事故死。指導者として道場を引き継ぐこととなるが、分裂してしまったため、83年に成道会を発足させる。空手に専念するため芸能界を引退したのである。
しかし、2010年の元日、肺がんのため65歳で亡くなっている。

 

東宝俳優録48 成川哲夫

東宝ニュータレント8期生から、今回は成川哲夫である。
成川哲夫は44年生まれ。成川といえば「スペクトルマン」である。20年ほど前に「ピープロ70S’ヒーロー列伝 スペクトルマン」という本が出ており、著者はその成川である。
成川の出身中学は砧中学、砧といえば東宝の撮影所がある場所だが、その関係で同級生の親兄弟が撮影所関係の仕事をしている人が多かったという。成川も高校の頃にエキストラのアルバイトをやったりしていたようだ。ちなみに高校は法政二高で、一年上に柴田勲がおり甲子園で大活躍した。
成川は法政大学に進んだが、三年の時に留年してしまったのである。そんな時に東映の演技研究所が出来たことを知り、大学と並行して通い始めたのである。ここで芝居の道に進むことを決意し、大学は中退してしまうのである。つまり、留年したことが彼の人生を変えたといえる。
そんな、東映の演技研究所時代にテレビ出演もしており、その一本が「悪魔くん」(67年)であった。「呪いの森の魔女」の回で冒頭で殺されてしまう役である。その67年に成川は東宝ニュータレントに応募している。彼の著書では、やはりニュータレントではなく、ニューフェイスという表現を使っている。結局、東宝では最後の募集となってしまうのだが、2万人もの応募者がいたらしい。審査委員長は藤本真澄で、審査員には夏木陽介がいたという。藤本は「東宝ではあの石原裕次郎を落としたりしているので、落ちてもがっかりすることはない」というような挨拶をしていたらしい。
審査を着々と突破していった成川だったが、特技に「ギターの弾き語り」という大嘘を書いており、ピアノと伴奏者が用意されていたため、歌う羽目になったという。キー合わせから全然うまくいかず「しまったなあ」と思ったそうだが、何故か受けはよく、見事に合格したのであった。
合格した13人は、67年10月から68年3月までの半年間、東宝の養成所に通ったが、期間中に1名が交通事故で亡くなったという。前回も書いたが、同期には梅田智子、徳永礼子、そして後に成川の妻となる関口昭子らがいた。研修を終えると、映画、テレビ、舞台のいずれかに配属されるのだが、成川は舞台部に配属されている。
舞台を数本終えた後に、テレビ部からの要請で「東京バイパス指令」(68~70年)への出演が決まった。主演は夏木陽介、竜雷太の青春先生コンビで成川は新人刑事役で1話から半年間の出演であった。成川と入れ替わる形で登場したのが、永井譲滋と柴田侊彦であったが、個人的な記憶にあるのは永井、柴田の時であり、成川の姿は見た記憶がない。確か40年くらいお目にかかっていないので、もう一度みたい番組の一つでもある。

 

東宝俳優録47 梅田智子(智美)  

東宝ニュータレントの募集は8期生を最後に終了となるが、その最後のメンバーとなったのが、梅田智子(智美)、徳永礼子、木村由貴子、関口昭子、成川哲夫などである。今回は、その中から梅田智子を取り上げて見たい。
梅田智子は52年生まれ。67年に東宝の第8期ニューフェイスとドラマ「でっかい青春」の生徒役を新聞で募集しているのを見て、両方同時に応募したら、両方受かってしまったという。ちなみに、インタビュー記事では「ニュータレント」ではなく「ニューフェイス」という表現を使っている。対外的には混乱するのでニュータレントという表現を使っているが、等の本人たちはニューフェイスという表現を使っているようである。
梅田はテレビ部に配属されたので、テレビが中心の活動となっている。デビュー作となったのは、新聞で募集していた「でっかい青春」の生徒役であった。主演は竜雷太だが、番組前半は市役所の職員と言う設定だったのである。番組後半から学園物に変更され、竜雷太も代用教員となったため生徒役が必要となったのである。この時に生徒役として加入したのが、梅田の他、菊容子、大谷直、中沢治夫(剛達人)らであった。大谷と中沢はこの後の「進め青春」(68年)や「炎の青春」(69年)でも生徒役として出演を続けるが、菊容子はこの3年後には「好き!好き!魔女先生」(71年)の主役となっている。しかし、75年に当時交際していた俳優に別れ話のもつれから絞殺され、24年の短い生涯を終えた。
さて梅田は「炎の青春」には、女子バスケット部の主将役で出演。同期の徳永礼子も同じバスケ部員として出演している。また、水谷豊も生徒の一人として出演しているが、番組自体はわずか10回で打ち切られている。主演の東山敬司も大成することはなかった。
梅田といえば、やはり「金メダルへのターン」(70~71年)であろう。少女マンガを原作とした水泳スポ根ドラマだが、梅田は主演の速水鮎子を演じた。運動神経も良く、そのスタイルの良さもあって抜擢されたようである。元々は1クールの予定が、1年3カ月続く人気ドラマとなった。
また、バレエ歴12年という経験を買われて「赤い靴」(72年)に主人公(ゆうきみほ)のライバル役で出演。ここでは梅田智美を名乗っていたようだが、他のドラマでは「梅田智美」名義は確認できない。
79年頃までドラマのゲストなどで活躍していたが、この年にかつて青春ドラマで共演していた大谷直と結婚し、出産のために一線から退いた。しかし、04年に「金メダルへのターン」で姉妹役を演じた青木英美とともに剛達人(現・たつひと)の舞台に出演し、女優活動を再開している。

 

東宝俳優録46 前田美波里

前回の豊浦美子の同期、つまり東宝ニュータレント5期生として名前が挙がっているのが前田美波里である。
資生堂のCMで一気に有名になったので、モデルから女優に転身したみたいなイメージがあったのだが、違うようである。
前田美波里は48年生まれ。日米のハーフである。確かに鼻は高いし、日本人離れしたプロポーションではあるが、そこまでハーフ感は強くない気がする。
高校生の頃から芸能プロダクションに所属していたが、63年に芸術座のミュージカル「ノー・ストリング」のPRを兼ねて東宝が募集した「ミス・ノー・ストリング」に優勝する。ウィキペディアでは、ここで東宝現代劇に8期生として入団したとなっている。そのまま受け取ると東宝内部に劇団があって、そこに入団したということになるが、詳細は不明だ。ニュータレントにしても63年なら3期生ということになる。とにかく、64年にミュージカル「ノー・ストリング」で初舞台を踏み、その後も芸術座や帝国劇場の舞台に立っている。
映画初出演は「他人の顔」(66年)である。ウィキペディアにしろ、「日本映画俳優全集・女優編」などの彼女自身の項目には、東宝ニュータレントだったという記述はないのだが、65年に改めてニュータレント5期生として東宝俳優養成所に入ってもおかしくはない。
実際、67~68年にかけて脇役ではあるが、数本の東宝映画に前田美波里は出演している。
ちなみに、資生堂のキャンペーンガールに起用されたのは66年のことである。人気が上昇している最中である68年、ハワイのロケで知り合ったマイク真木と結婚、20歳のときである。一時期、仕事を離れアメリカで旅をしながら1年半を過ごしたこともあるという。
二人が離婚したのは76年のこと。真木が浮気をしたとかではなく、大雑把にいえば前田が仕事と家庭の両立は難しいと考え、一人で家を出たのだという。8年に満たない結婚生活だったが、個人的なイメージではもう少し長く夫婦だった気がしていた。また、離婚して40年経っていることも意外な気がした。
東宝ニュータレント出身という確証は得られなかったが、女優スタートが東宝であることは間違いないようだ。
おまけだが、冨士眞奈美の母方の叔母が、前田美波里の母のいとこと結婚ということで冨士眞奈美とは遠縁にあたり、前田美波里の母のいとこが、岸惠子の母方のいとこの妻の弟ということで、岸恵子とは遠縁にあたるのだそうだ。これで遠縁になるのか、さっぱりわからんが、キーパーソンは「前田美波里の母のいとこ」であることはわかった。