お宝映画・番組私的見聞録 -77ページ目

日活俳優録21 川地民夫

前回、三悪トリオから沢本忠雄を取り上げたので、今回は川地民夫である。
川地民夫は38年生まれで、本名は河地猛という。ちなみに「カワジ」ではなく「カワチ」であるようだ。神奈川県逗子市に生まれ、関東学院大学に入学。その在学中に、逗子の家の隣に石原裕次郎が住んでいたのが縁で、裕次郎の勧めもあり日活に入社した、ということになっている。本当かもしれないが、逗子に住んでいるのなら裕次郎の家の隣ということにして、裕次郎にスカウトされたことにしてしまおう、と日活側が考えたとしてもおかしくはない。
デビュー作はその裕次郎主演の「陽のあたる坂道」(58年)で、高木民夫という役である。民夫という芸名はここから来ていると思われる。続く「知と愛の出発」では、早くも主演に抜擢(クレジットは芦川いづみに次ぐ2番目)されている。5本目の「太陽をぶち落せ」では、クレジットもトップとなる。
デビューしてすぐに主演が相次いだ川地だったが、評価を得始めたのは「狂熱の季節」(60年)あたりからで、助演に回ってからの方が評価は高いようだ。特に鈴木清順監督とは「野獣の青春」(63年)に出演してから、ほぼ常連となっている。
日活退社後は、東映への出演が多くなり、特に菅原文太とコンビを組んだ「まむしの兄弟シリーズ」(71~75年)は好評で、全9作が作られている。
テレビにもコンスタントに顔を出しているが、レギュラーというのはほとんどなくゲスト出演が主となっている。千葉真一主演の「大非常線」(76年)では、井出刑事役でレギュラーであったが、全10回という穴埋め的な番組であった。
私生活では、「知と愛の出発」で初共演した中原早苗とは、後に事実婚状態となるが未入籍のままは破局となっている。これは、公私ともに友人であった菅原文太との付き合いを優先していたがため、中原との関係が拙くなったためと、本人は語っていたようだが、時期的には「まむしの兄弟」よりずっと以前の話ということになる。川地の最初の結婚は62年で、中原と深作欣二の結婚が65年なので、おそらく文太がまだ新東宝にいた頃の話ではないだろうか。
川地は最初の相手(一般人)とは7年で破局し、75年に宝塚歌劇団出身の麻生薫と再婚した。しかし彼女とは88年に死別。01年になって再々婚したという。
川地は08年に「平成忘れがたみ」という本を出しているが、初版はかなりの頻度で俳優仲間の表記が間違っていたという記憶がある。たとえば市川歌衛門とか(正解は右太衛門)、武藤小生とか(正解は章生)、その後訂正されたのだろうか。
川地は今年(18年)の2月に79歳で亡くなっている。葬儀に訪れた沢本忠雄(82歳)が、「順番が違うだろ」と叫んでいたという。

 

日活俳優録20 沢本忠雄

御三家とか三人娘とか、芸能界はトリオを作るのが好きなようだが、日活で三悪トリオと名づけられたのが、小林旭、川地民夫そして沢本忠雄である。ニューフェイスでなければ、だいたいスカウトが新人が入社するルートだが、彼の場合は少し異なるようである。
沢本忠雄は35年生まれ。三重県の松阪高校に在学中にNHK学校演劇コンクールに入選したことから演出家を志し、53年に日本大学芸術学部映画学科に入学、一方で自由映画人連盟に加わり助監督などの裏方を務めていた。
56年、大学三年の時、叔父の友人である辰巳柳太郎の紹介により日活に俳優として入社と、「日本映画俳優全集・男優編」には書かれているのだが、本人の談では大学の食堂に貼りだしてあった「日活助監督募集」の広告を見て応募したのがきっかけだったという。つまり、俳優ではなく裏方になることを望んでいたのである。
公式のデビュー作はで、南田洋子の弟役を演じた「雌花」(57年)となっているが、その前月に公開された筑波久子主演の「肉体の悪夢
」に大坂志郎の弟役で出演している。ただそれらの前に南田洋子が主演の「素足の娘」にエキストラ出演しているのが、厳密な意味では最初の映画出演である。翌58年には、早くも主演作である「十代の恋よさようなら」が製作される。相手役は丘野美子で、日活にレンタル修業?していた新東宝の星輝美が本名の鎌倉はるみ名義で出演している。
前述のとおり、三悪トリオとしてアクション映画にも進出したが、本人はアクションが不得手で、ワルといった容姿でもない。結局は歌謡映画や甘い青春ものが中心となっていく。
しかし、日活で沢本といえば「事件記者シリーズ」(59~62年)であろう。というより個人的にはこれ以外にあまり印象がない、というのが正直なところである。当時人気のNHKドラマ「事件記者」の映画版だが、テレビでもお馴染みの永井智雄、原保美、大森義夫、滝田裕介といったメンバーに日活オリジナルの沢本や内田良平(最初の2作のみ)が加わるといったものである。ヒロイン的な存在として「十代の恋~」でも相手役だった丘野美子が出演している。50分ほどのSPだが、評判は良かったようで59~60年にかけては八本が毎月のように公開されていた。しかし、九作目十作目はなぜか間が空き、62年に公開されている。
62年に、ドラマ「判決」の若手弁護士役に起用されたのを機に日活を退社してフリーとなった。主に舞台とテレビを中心に活動し、特に「どてらい奴」「あかんたれ」など花登筺作品の常連として活躍。特に「あかんたれ」の放蕩息子・安造ははまり役であったと思う。もっとも、母親役の小山明子は同い年で父親役の中村嘉葎雄は3歳年下であった。。

 

日活俳優録19 二谷英明

第三期日活ニューフェイスで、小林旭と共にスターとなったのが二谷英明である。入社時はすでに26歳で最年長であり、ニューフェイス先輩の宍戸錠や葉山良二よりも年長者であった。
二谷英明は30年京都生まれ。同志社大学中退後、54年にラジオ佐世保(現・長崎放送)に開局と同時に入社した。報道マン志望であったが、アナウンサーにまわされたという。優れた英語力を持っていたこともあり、司会や英語放送を務めたが、この時代に前妻と結婚している(その後離婚)。
56年、日活九州支社のスカウトもあって、日活ニューフェイスに応募して合格。実はラジオ佐世保では係長待遇で、東京ではその倍の収入がないとやっていけないと主張していたことから、前例のない額の新人契約となったらしい(宍戸錠・談)。
同年に「沖縄の民」でデビューし、続く鈴木清順(当時は清太郎)監督の「浮草の宿」(57年)で早くも主演に抜擢される。タイトルからは想像しにくいがアクションものである。「浮草の宿」というのは、出演もしている春日八郎の唄う挿入歌のタイトルで、クレジット上もトップは春日である。小沢昭一が二谷の弟分役で、山岡久乃が恋人役とどちらも想像しにくい。小沢の方がずっと年上のイメージだが、実は二谷とは同学年である。
「乳房と銃弾」(58年)では、同期ニューフェイスの筑波久子と共に主演で、刑事役である。宍戸錠も刑事役で出演している。二谷はクレジット上は二~四番手くらいであることが多く、初のトップと思われるのが「チャンチキおけさ」(58年)である。当然、三波春夫も出演しているが、出番が少ないのかトップクレジットではない。こうした歌謡映画とかちょっとしたアクションものとか当初の二谷の出演作は大半が添え物的な作品が多かったのである。本人の主演作よりも、裕次郎やアキラの助演に回っている作品の印象が残る者が多いというのが、その評価である。
しかし、61年に裕次郎がスキーで骨折し、長期休業を余儀なくされ、赤木圭一郎が事故死するという悲劇が続き、日活は急遽、宍戸と二谷をダイヤモンドラインの一角(要するに主演)に昇格させたのである。「ダンプガイ」という、あまり合っていない感じのするニックネームが与えられ、「ろくでなし野郎」「散弾銃の男」(61年)などに主演するが、翌62年後半にはまた助演者に戻っていったようだ。
日活にはロマンポルノ路線転向の71年まで在籍し、フリーとなっている。主にテレビで活躍し、やはり「特捜最前線」(77~87年)の神代警視正役が印象に残っている人が多いだろう。12年に81歳で亡くなっている。

 

日活俳優録18 筑波久子 その2

前回の続きである。筑波久子は62年は東映を主として16本の映画に出演し、翌63年「わが恐喝の人生」を最後に一時芸能界を引退し、コロンビア大学の聴講生となり、心理学を専攻していた。
66年に一時帰国したが、東映の「黄金バット」等に脇役で出演している。67年に三歳年下の工業デザイナーのマシュー・ヴァン・リューエンと遠距離恋愛を経て結婚。カリフォルニアに新居を構えるが映画への思いは捨てきれずカリフォルニア大学の脚本家コースに進んだという。
カリフォルニアに独立プロ筑波プロを設立し、ドキュメンタリー番組「若いアメリカ人たち」(70年)を制作した。翌71年には「ヘイ・ベイビー/THE SEX LIFE」を監督、主演し、日本でも公開されたが不評に終わっている。73年に制作した「Tender Loving Care」が大物プロデューサーであるロジャー・コーマンに認められ、チャコ・ヴァン・リューエンの名で全米に配給された。
78年に1億円の低予算で製作したパニック映画「ピラニア」が予想外の大ヒットで、興収40憶円を稼ぎだした。これにより彼女はハリウッドのプロデューサーとなった。監督のジョー・ダンテもこれ以降「ハウリング」「グレムリン」などのヒット監督となっていく。
何故「ピラニア」だったのかは謎だが、そういえば60年代に彼女が出演したドラマや映画は「怪獣マリンコング」だったり、「黄金バット」だったりと特撮系が目立っている。好きで出演していたかどうかは不明だが、これらが結びついて「ピラニア」にたどり着いたのでは、と勝手に推測する。
81年には「ピラニア」の続編である「殺人魚フライングキラー」の監督に当時無名のジェームス・キャメロンを抜擢したのが久子だったという。キャメロンの監督デビュー作だが、実は前任の監督が解雇され、その代役としてキャメロンが抜擢されたのである。しかし、彼もわずか五日で解雇され、残った部分はプロデューサーのアソニティスが完成させたという。怒ったキャメロンは「自分のクレジットを外してほしい」と申し出たが、市場向けにアメリカ人らしい名前が欲しいからと、そのまま監督としてクレジットされたのである。彼としては不本意な作品がデビュー作扱いとなってしまったのである。

 

日活俳優録18 筑波久子

日活の第三期ニューフェイスの女性陣は、桜井幸子、佐藤和子、篠原安津子、高木由子、徳永豊子(葵真木子)、所寿子、服部千代子(峯品子)、福田文子、三沢孝子、宮本法子、村田敏子(筑波久子)といった面々だが(全員「子」がつく)、割合出演キャストで見かけた名前といえば、葵真木子、福田文子、峯品子あたりになると思うが、主演までいったのは筑波久子だけである。
筑波久子は37年生まれ。ウイキペディアなど39年生まれとなっている資料もあるが、37年生まれとして話を進める。本名は前述のとおり村田敏子(旧姓)といった。学業優秀で中学では生徒会長を務め、、53年に慶応義塾女子高校に入学する。同年に東宝ニューフェイスに合格するが、家族の反対で断念している。
56年に慶応義塾大学法学部に進学するが、家族に内緒で日活のオーディションを受けて合格し、同年第三期ニューフェイスとして日活に入社した。「復讐は誰がやる」(57年)のギャングの情婦役でデビューしている。続いて彼女がヒロインに抜擢された「肉体の反抗」(57年)が大ヒットする。その身体を張った演技が話題となり、もまなく彼女が主演の「狂った関係」が製作される。この作品のロケは彼女が生まれ育った茨城県大津町五浦で行われた。その後も「肉体の悪夢」「燃える肉体」(57年)など、彼女が主演の肉体シリーズが製作され、「肉体派女優」のレッテルを貼られることになる。
しかし、その見た目とは裏腹に生来あまり身体は丈夫ではなく、1本撮り終わるごとに入院静養を余儀なくされていたという。57年度の製作者協会新人賞を受賞したが、忙しさから大学は中退。基本的にヴァンプ役が続き、60年5月に日活を退社して、フリーとなった。「沢蟹」でテレビドラマに初出演し、変わったところでは「怪獣マリンコング」(60年)で仮面の女「くれない天使」を演じたりしていた。この番組には筑波と同時期に新東宝で肉体女優と言われた前田通子も出演していた。その流れで手塚治虫原作の「魔神ガロン」の実写版のパイロットフィルムが製作され、筑波も出演していたようだが、実現には至らなかった。
ニュー東映「ヒマラヤ無宿心臓破りの野郎ども」(61年)で映画界に復帰した。また、わずか6本の配給で業務を停止した大宝が配給したうちの1本「大吉ぼんのう鏡」(62年)に出演しているが、この作品のみその現存が確認されていない(他の5本は発見)。ここでは彼女は尼僧に扮しているようだ。共演は竜崎一郎、川喜多雄二、炎加世子、殿山泰司、原作者の寺内大吉など。
次回に続く。

 

日活俳優録17 伊藤孝雄

久々にニューフェイスの話題だが、日活第三期ニューフェイスは56年に合格した面々で全部で18名いたようだ。
何といっても小林旭と二谷英明。最年長の二谷とアキラでは8歳の年齢差があるが、共に日活を代表するスターとなっていく。筑波久子も主演女優として活躍した。他にも大映で成田純一郎として活躍する加藤博司や松竹俳優録で紹介した松本錦四郎も第三期日活ニューフェイスの出身である。ちなみに松本は日活では本名の植田浩安または穂高渓介名義で数本の映画に出演している。そして、意外とも思えるのが日活イメージのない伊藤孝雄である。当時の雑誌「日活映画」では、ニューフェイスの一人として紹介されているが、この時期に日活映画に出演している様子はないし、プロフィールにも日活ニューフェイスという言葉はでてこない。
伊藤孝雄は37年生まれ。55年に早稲田大学に入学し、その10月に在学のまま宝塚映画に入社している。デビュー作は「箱入り娘と番頭」(56年)という作品。つまり、日活に合格したこの56年はまだ宝塚映画に所属していたことになり、その関係もあってか日活に入社はしなかったのではないだろうか。実際、59年に大学は中退し、そのころ宝塚映画も退社したようである。
この59年になって、伊藤は日活作品出演を果たす。「密会」という作品で主演の桂木洋子の相手役に抜擢されているのだ。桂木洋子は松竹のイメージ、共演の宮口精二は東宝のイメージで、出演者は日活っぽくない作品である。
60年4月には俳優座養成所に12期生(同期に中村敦夫、山本圭、成田三樹夫、松山英太郎、東野英心など)として入り、同時に日活と本数契約を交わしている。61年は前項でも紹介した「刑事物語」シリーズ、「機動捜査班」シリーズなど6本に出演しているようだが、62年と63年は1本づつしか出演していないようである。印象に残る作品も少ないせいもあり、日活映画に出演しているイメージがほとんどないのかもしれない。
63年、俳優座養成所卒業とともに、劇団民藝に入団している。それから50年以上、今も民藝に在籍しているようである。「出撃」(64年)を最後に日活とは契約せずに、大映と本数契約を交わしている。
日活の新人研修は民藝で行われるので、伊藤は研修で民藝が気に入り、日活よりも民藝を選んだのかと調べる前は思っていたのだが、そうではなく民藝入団は日活出演の後だったことが判明した。

 

日活俳優録16 青山恭二

初期日活で主演俳優の一角に青山恭二がいた。主演映画も多いのだが、早くに引退したこともあり、知る人ぞ知るという感じの存在になっている。
青山恭二は37年生まれ。本名は八下田治満(やげたはるみつ)という。55年、中央大学在学中に東宝ニューフェイスに合格し、「朝霧」(55年)でデビューするが、まもなく日活に移籍し、「東京の人」(56年)に出演する。主演である月丘夢路の息子役であった。
「燃ゆる黒帯花の高校生」「むすめ巡礼 流れの花」(56年)では、共に浅丘ルリ子が相手役の主演を得ており、期待は大きかったと思われるが、同時期に石原裕次郎がデビューしたため、それほど個性の強くない二枚目タイプだった青山の活躍の場が減ってしまったのである。「嵐を呼ぶ男」(57年)では、その裕次郎の弟役を演じたりしており、これで覚えている人もいるかもしれない。
それでも「高校四年」(57年)では、小林旭を差し置いてクレジットはトップに来ているようだ。高校四年組には二人の他、この欄でも紹介した牧真介、武藤章生、杉幸彦らが扮している。しかし「銀座旋風児」シリーズ(59~61年)では小林旭を助演する立場になっている。
しかし、青山恭二といえば何といっても「刑事物語」シリーズ(59~61年)及び「機動捜査班」シリーズ(61~63年)であろう。
前者は益田喜頓との親子刑事の活躍を描き全10本がある。後者は覆面パトカーの活躍を描き全13本があり、青山はこれだけでも23本の主演作品を持っているわけである。しかし、これらはメインではなくあくまでも併映用の作品であり、前者は60分足らずのSPであり、後者も70分前後で、いずれもその評価は低い。
この「機動捜査班」の最終作を最後に日活を去り、テレビドラマにゲスト出演していたようだが、69年頃に引退したようである。記録上最後となっているのは「喧嘩太郎」(68年)で、主演は杉良太郎、制作は日活であった。
引退後は漁師となって、奄美大島に移り住んで漁協で理事などを務めたという。

 

日活俳優録15 杉 幸彦

兄弟俳優というのは、何組もいると思うが、三人以上となるとどうだろうか。パッと思いつくのは、阪妻の息子である田村高廣、正和、亮の田村三兄弟(実際は四兄弟)ということになろうか。頭師正明、孝雄、満、佳孝の頭師四兄弟(実際は五兄弟)というのもいるが、正明と満は子役のうちに引退したため、孝雄と佳孝の印象しかない人も多いだろう。ちなみに末弟の頭師佳孝は黒澤映画「どですかでん」(70年)主演ともいえる少年を演じた役者である。
ところで、杉三兄弟をご存知であろうか。戦前から戦後にかけて活躍したコメディアン杉狂児の息子たちである。長男の義一は薄毛とギョロ目がトレードマークの東映のバイブレイヤー、次男の裕之は文学座や劇団雲で活躍。そして四男の幸彦は日活の俳優として活動していたのである。ちなみに三男は役者にはならずに丸の内東映の支配人になったという。田村兄弟も頭師兄弟もそうだが、何故か一人だけ役者になっていない。
さて、杉幸彦は32年生まれ。小学校在学中の41年、島耕二監督の「次郎物語」で主人公の次郎を演じて映画デビューしている。ちなみにその前半を幸彦が演じ、後半を兄の裕之が演じている。名子役と言われ、42年には裕之と共に東宝に入ったが、戦中から戦後しばらくは学業に専念し映画からは離れている。55年に明治大学文学部演劇科を卒業すると再び俳優を目指し、同年日活に入社した。ちなみに薄毛でもギョロ目でもないので、長兄の義一とは似ていないといえる。
再デビュー作は「月夜の傘」(55年)で、宍戸錠の友人役であった。元名子役の肩書はあったが、当時はすでに23歳。目立つ顔立ちでもないので、日活では脇役に徹していた。62年に退社してフリーとなるとテレビなどに出演したが、72年に丘企画を設立し、製作者に転向し、教育番組などを製作していた。兄・裕之も70年代前半には役者を引退し、理髪店を経営しており、長兄の義一のみが残った。
結局は子役時代のデビュー作「次郎物語」が代表作であったといえるかもしれない。98年に兄より早く66歳で亡くなっている。

 

日活俳優録14 武藤章生

再開直後の日活で、年齢が一番若かったのは第1期ニューフェイスの面々だったと思われるが、55年に19歳で入社してきたのが、武藤章生である。
武藤章生は35年生まれで、芸名はショウセイと読むが本名は字はそのままでアキオと読む。入社の詳しい経緯は不明だが、若い時から小太りで、ずんぐりしており失礼ながらスカウトなどされることはないと思われる。名古屋の出身で、専修大学卒業らしいので、その入学で上京してきたと思われる。
デビュー作は「力道山物語 怒涛の男」(55年)となっているが、その力道山の15~18歳を演じている。武藤が元々演劇をやっていたかどうかも不明だが、この役のオーディションがあってそれに応募したのかもしれない。または、その容姿でスカウトされることはないと書いたが、この役でならスカウトされた可能性がある。
特別な役でデビューした場合、それが終わると姿を消してしまうことがよくあるが、武藤はその後も「色ざんげ」(56年)「幕末太陽傳」(57年)等に助演。「完全な遊戯」(58年)では、小林旭の仲間である不良学生を岡田真澄、柳瀬志郎らと演じ、日活のわき役陣に定着していく。
元来、人の好さそうな風貌のためか、日活アクションにおいては被害者側か、コメディリーフ的な役割を演じることが多かった。68年に退社しフリーとなってからは、東宝や東映の作品にも出演したが、やはりテレビでの活動が目立った。
石原プロが製作した「大都会シリーズ」(76~79年)の3作には全て新聞記者の役で準レギュラーとして出演。同じような役ではあるが役名は全て違っていたようだ(PARTⅢでは「新聞記者」で役名なし)。
続く「西部警察シリーズ」(79~84年)では、全て鑑識課員役としてレギュラー出演。クレジットに国立鑑識課員とあったので、一瞬コクリツの鑑識?と思ってしまったりした(正解はクニタチ)。出演しなくても支障はなさそうな役だが、ほぼ毎回のように登場していた。
渡、裕次郎以外で両シリーズの全作にレギュラー(または準レギュラー)で出演しているのは武藤だけである。ちなみに武藤は石原プロの所属ではない。日活人脈での出演だったと思うが、裕次郎とは同年代で(武藤が1歳下)、ウマがあったのかもしれない。
当時からなんとなく不健康そうに見えた印象があるが、95年に60歳の若さで亡くなっている。

 

日活俳優録13 三島 謙、三島 耕

もう一人、専属本数契約のB個室の男優から三島謙を取り上げてみたい。
三島謙は22年生まれで、本名を船越榮太郎という。本名でわかると思うが、大映のスターである船越英二(本名・榮二郎)の兄である。
小学校の頃から映画好きで、37年に15歳でドサ回りの劇団に加わる(芸名・小沢順)。同年に日活の俳優である大虎福太郎の紹介で日活多摩川入りしている。本名の船越榮太郎で「五人の斥候兵」(38年)「土」(39年)に端役で出演。再び小沢順を名乗って「キャラコさん」(39年)で本格的にデビューした。40年に日活を退社し、大都映画に移るが、42年に兵役で北支に渡る。負傷のため44年に帰国し、
46年から二年間は由利健次、姫宮接子らと合同で各地を巡業していた。由利は中野健次(健二)の名で河合映画では主演を務めていた役者である。「キャラコさん」にも出演していた。
54年に活動を再開した日活へ入社した際に三島謙と改名している。弟の船越英二は47年に大映ニューフェイスに合格しているが、実は三島の友人が冷やかし半分で英二の応募書類を送ったところ合格したのだという。三島が日活に入社したころ、船越はまだ頭角を現してはいなかった。56年ころから脇役として注目を集め始めたのである。そして誰もが知るスターへと駆け上がっていくのだが、一方の三島は日活で地味にバイブレイヤーとして活躍。とはいえ、「三島謙」という名はさほど知られていない気がする。60年前後にはフリーとなり、各社の映画で助演した。
活動記録にあるのは60年代までで、70年代以降はアパートとスナックを経営していたようだ。79年に無声映画「地獄の蟲」にふと顔を出している。
同時期に日活に移ってきたのが三島耕である。27年生まれで、本名は長谷勝博という。三島謙と三島耕は、年齢もさほど違わないし、二人とも芸名なのに字面が似ていてややこしい。二人の共演も結構あったりするのだ。
三島耕については以前触れたかもしれないが、どこの所属かというと非常に悩ましい。50年に太泉映画のニューフェイス(同期に波島進、南川直)となり、翌年合併してそのまま東映の役者となるが、53年には松竹に移籍、そして翌54年に日活に移籍してきたのである。元々三島耕を名乗っていたので、たまたま似た芸名が顔を揃えてしまったのである。日活では二枚目の主演級で活躍していたが、58年には東宝に移籍している。10年足らずで4社を渡り歩いた俳優は戦後ではあまりいないかも。東宝時代の同僚である加藤茂雄は、「彼はスター級だが大部屋の自分とも話は合った。いい奴だが、一つのところにじっとしておれず、他社にいけばもっといいことがあるのでは、と移籍を繰り返していた」と語っている。

三島耕はその頭髪が後退していくと、役柄も後退していった気がする。俳優活動は70年代前半までで、引退して写真関係の仕事についたという。