お宝映画・番組私的見聞録 -75ページ目

日活俳優録35 中原早苗

今回は長く活躍した日活出身の女優から中原早苗を取り上げてみたい。
中原早苗は35年生まれで、本名は藤尾早苗(旧姓)といった。父は俳優の藤尾純で、母も舞台女優の南部雪枝という俳優夫婦の娘であった。藤尾は戦前から主に東宝映画や舞台を中心に活躍していた俳優だ。しかし、その藤尾は中原が幼少の頃に家を出てしまったため、母が女手一つで育てたという。
高校在学中の53年に、知人の現代ぷろプロデューサーから母親に申し込みがあり、近代映画協会と提携製作の「村八分」に芸名を中原早苗として映画出演したのである。この縁で現代ぷろに入り、設立メンバーである山村聡の家に住み込み、女優として所作を学んだ。
「蟹工船」(53年)や「狂宴」(54年)など独立プロ系の作品に出演する一方で、ラジオ東京テレビ(現・TBS)開局と同時にスタートした「キリ子サン」(55年)などに出演したりしていた。
56年には、母と知り合いだった水の江瀧子にスカウトされ、日活と専属契約を交わした。年間6本で一本につき20万円という当時としは高額な条件だったという。
日活ではフランキー堺が主演の「ドラムと恋と夢」(56年)が第一作ということになるようだ。中原の役柄は盲目のヒロイン。話は違うが本作の脚本の待田京介とは井上梅次監督のペンネームである(本作の監督は吉村廉)。そのペンネームを後に俳優となる待田京介に譲ったのである。
さて中原だが、日活では少女役から悪女役までなんでもこなす器用な若手女優として、準主演から脇役まで幅広い出演作が続いた。
私生活では川地民夫と事実婚状態になったこともあったが、結局は未入籍のまま別離した。約80本の作品に出演し、64年に日活を離れてフリーとなった。同年、東映の「狼と豚と人間」で深作欣二監督と知り合い、翌65年3月に結婚している。東映を中心に各社の作品に顔をだすようになり、テレビ出演も数多い。「ザ・ガードマン」(65~71年)などは、7年間に約25本ほどゲスト出演している。
03年に夫の深作が亡くなった後は、一切表舞台にでることはなくなり、女優は引退状態であった。別に引きこもっていたわけではなく、悠々自適の一人暮らしを送っていたという。12年に76歳で亡くなっている。

 

日活俳優録34 芦川いづみ

前回の笹森礼子と似たような雰囲気で、混同されることもあったらしいが、南田洋子、北原三枝同様に他社からの移籍組で人気があったのが芦川いづみである。
芦川いづみは35年生まれで、本名は芦川幸子(旧姓)という。52年に松竹歌劇団(SKD)付属松竹音楽舞踊学校に入学。同期に野添ひとみ、姫ゆり子等がいた。芦川いづみという芸名はこの時に付いたものである。「おムギ」という愛称もこの頃についたもの。有馬稲子に顔立ちが似ているが、彼女よりたくましいので「稲」ではなく「麦」だというシャレらしい。
53年、ファッションショーに出演中、居合わせた当時は松竹の監督だった川島雄三に見出され、同監督の「東京マダムと大阪夫人」で映画デビューを果たした。翌54年にも「蛮から社員」「若き日は悲し」に端役で出演している。同年、日活が映画製作を再開すると、松竹から北原三枝を引き抜いた。川島監督も日活に移籍し、女優強化のため推薦したのが芦川であった。彼女は55年にSKDを退団し、日活に入社の運びとなったのである。
日活入社第一作は新東宝との競作である「青春怪談」(55年)であった。56年「乳母車」で石原裕次郎と初共演。裕次郎と言えば、北原三枝というイメージが強いが、芦川いづみとの共演も多い。61年に北原は裕次郎と結婚して引退するが、そのあとの裕次郎映画のヒロインの座を守り続ける一方で、浅丘ルリ子にその座を徐々に譲っていったのである。
芦川も30歳を過ぎると若い女優を引き立てるような役も増えていくが、スターの座は維持していた。吉永小百合は彼女を「マリア様のような人」と称したらしいが、実は撮影中に吉永が高熱で倒れたことがあり、その際看病してくれたのが共演していた芦川だったという。
そんな彼女が結婚相手として選んだのが、日活の後輩俳優である藤竜也であった。年齢も6歳下であり、当時の藤はまだ無名に近い存在でしかなかった。会社としてはそんなバランスの悪い結婚を認めようとしなかったが、それを説得してくれたのが裕次郎だったという。
68年に二人は結婚し、芦川は引退した。これは北原に倣ってのものらしいが、その後芦川が公の場にでることは一切なくなった。水の江滝子は「俳優の奥さんになったからって、表に出ちゃいけないって、変に自分で決め込む必要はないと思うな」と自著で不満?を述べていた。
しかし、07年になって日活出身の俳優が集まるパーティーに出席し、久々に公の場に姿を見せ話題になった。その後も裕次郎の23回忌や南田洋子の死去に関してコメントを寄せたりしている。

 

日活俳優録33 笹森礼子(+笹森みち子)

ここ二回は、長く女優として活躍している人を取り上げたが、対照的に結婚であっさりと引退してしまったのが笹森礼子である。
笹森礼子は40年生まれで、本名は同じ(旧姓)。高校在学中からラジオ東京テレビ(現TBS)の「日真名氏飛び出す」に当時は少なかったCMガールを兼ねて三共ドラッグストアの女店員役で番組終了の62年までレギュラー出演していた。
この間、59年に高校を卒業し、60年に日活プロデューサーである水の江滝子の誘いを受け、「青年の樹」に脇役で出演したのが映画デビューであった。この後、東宝の「娘・妻・母」に出演し、まもなく日活に入社した。
すぐに「美しき別れの歌」「お嬢さんの散歩道」(60年)で主演に抜擢され、可憐なヒロインとして活躍を始めた。「拳銃無頼帖・不敵に笑う男」で赤木圭一郎の相手役に抜擢されると、「海の情事に賭けろ」「幌馬車は行く」「錆びた鎖」「拳銃無頼帖・明日なき男」(いずれも60年)と立て続けに赤木の相手役ヒロインが続いた。
しかし、翌61年に赤木は事故死。「紅の拳銃」が遺作となったが、笹森も盲目のヒロインとして出演していた。吉永&浜田ペア、和田&清水ペアのようなペアとなっていた相手がいなくなってしまった笹森だったが、この後共演が多くなったのが宍戸錠であった。赤木の死、裕次郎のケガなどで急遽、主演となった宍戸の相手役となることが増えたのである。「早撃ち野郎」「用心棒稼業」「海の勝負師」「赤い荒野」「ノサップの銃」等(いずれも61年)、宍戸主演のアクション映画になくてはならない存在となっていったのである。
その後は、宍戸とのコンビだけでなく、小林旭、二谷英明、和田浩治の相手役となることもあった。しかし、日活アクションの質の変化に伴い、可憐さが売りの彼女の出番は少なくなっていったという。
65年に雨宮司郎氏と結婚したのをきっかけに芸能界を去っている。正確にはわからないが、雨宮氏は一般人で、どうやら会社経営などをしている人らしい。
その彼女と入れ替わるように登場したのが実妹の笹森みち子である。礼子の最終作となったのは65年4月に公開された「男の紋章・喧嘩街道」だが、同じ月に公開された「未成年 続・キューポラのある街」がみち子の初クレジット作品のようである。確認できるのは6作品だけで(全て日活)「BG・ある19才の日記 あげてよかった!」(68年)が記録上は最後の作品となっている。彼女についての詳細は不明である。

 

日活俳優録32 吉行和子

家族全員が有名人の日活出身女優と言えば、吉行和子である。
兄が作家・吉行淳之介というのは昔から知られていたと思うが、妹は詩人の吉行理恵、そして父は作家の吉行エイスケ(栄助)である。母のあぐりは美容師なので一般人だったはずだが、知ってのとおりドラマ化されてしまっている。
吉行和子は35年生まれ。幼いころから喘息を患っており、身体の弱い少女だったという。54年に劇団民藝付属水品研究所に入所する。身体が弱かったこともあり、女優志望ではなく裏方になるつもりで受験したところ、思わず女優候補として採用された。55年には初舞台を踏むが、映画出演もこの年に「由起子」で端役ではあるがデビューを飾っている。57年には民藝所属となり、舞台「アンネの日記」でアンネ・フランクを演じ主役デビューする。
59年に日活と契約し、「才女気質」「浮気の季節」「にあんちゃん」「われらの時代」などに重要な役で出演した。このうち「才女気質」「にあんちゃん」の演技で毎日映画コンクール助演女優賞を受賞している。日活では青春路線、アクション路線のどちらにも出演し、基本的には助演だが、準主演的な作品もある。65年頃にフリーとなり、69年には民藝も退団している。
落ち着いた雰囲気であり、若い頃は実年齢より上に見える感じだったが、何年たってもその様子は変わらず、いつしか年齢が完全に追い越し、年齢より若く見えるようになった。
大島渚が監督した「愛の亡霊」(78年)は、「愛のコリーダ」同様のハードコアな作品だというが、40歳を過ぎていた吉行の出演は周囲に猛反対されたという。それにしても出演が吉行和子に田村高廣でハードコアと言っても非常に想像しにくい。藤竜也とか佐藤慶なんかも出ているので、この辺はわかるけれども。
さて、「あぐり」がNHKの連続テレビ小説になったのは97年のこと。個人的には30年くらい、この枠のドラマを見たことがない。「あぐり」に吉行和子は出演したのか知らなかったが、やはり出演していたようだ。年齢的に本人の役は無理なので、美容室の常連客といった役だったようだ。
ちなみに、父のエイスケは理恵が生まれた翌年(40年)に34歳で急死したが、あぐりは対照的に107歳まで健在であった(2015年死去)。淳之介は94年に70歳で、理恵は06年に66歳で亡くなっているので、母の方が長く生きたわけである。吉行和子は80を超えた現在でも現役で活躍中だ。

 

日活俳優録31 白木万理(白木マリ)

唐突だが、今回は白木万理である。大抵の人は「必殺シリーズ」における中村主水(藤田まこと)の妻・りつをおそらく思い浮かべると思う、というよりそれ以外思いつかないかもしれない。そういう自分もそうなのだが、白木は日活で活躍していた女優である。
白木万理は37年生まれで、本名は山口澄子という。56年に松竹音楽舞踊学校を卒業し、舞踊家・近藤玲子に師事する。後に水中バレエ団を主宰する人である。
57年、踊りのレッスン中に来訪した井上梅次監督にスカウトされ、日活に入社。同年、井上が監督で浅丘ルリ子主演の「十七歳の抵抗」に芸名を白木マリとして日活デビューを果たした。
日活デビューと書いたが、実はこれ以前にも松竹音楽舞踊学校に通っていた関係からか松竹映画に松島恭子の名で出演していたという。「野菊の如き君なりき」(55年)、「涙」「太陽とバラ」(56年)、「顔」(57年)など結構出ていたようだ。
日活二作目となる水島道太郎主演の「裸女と拳銃」には謎の女ではあるがヒロイン役で準主演。このころは筑波久子も登場し、相手役も水島だったりするのでややこしい。白木はクールな顔立ちでありヒロイン顔ではないと思うが、グラマーな肢体と特技の踊りをいかして、ヴァンプ役や踊り子などで数多くの日活アクション映画に出演した。
特に小林旭の主演作が多く、「渡り鳥」シリーズには7本、「流れ者」シリーズには4本、「銀座旋風児」シリーズにも2本出演しており、正ヒロインではないが、常連の存在であった。
63年に同僚である沢本忠雄と結婚。この頃から出演作も減りはじめ66年に日活を離れたという。ウィキペディアなどには、結婚して一時期引退したとあるが、64~66年にかけても本数は少ないが出演作が見受けられる。日活を離れてからは「夜の歌謡」シリーズなど東映の作品やテレビドラマにも進出している。
72年に芸名を白木万理に改めた。沢本と離婚し心機一転の意味があったらしいが、正確な離婚時期は不明である。73年の「必殺仕置人」にて中村りつが初登場。「仕置人」ではセミレギュラー的な存在だったが、「暗闇仕留人」(74年)からは中村せん役の菅井きんと共に毎回出演するようになっている。ほぼストーリーに関係なくても出てくるため、当時の自分としては出てこなくていい存在と思っていた。「必殺仕事人2009」にも2回のみだが、その姿を見せている。しかし、2010年に藤田が亡くなったため、それが中村りつとしては最後の出演になったと思われる。

 

日活俳優録30 中尾 彬、竜崎 勝 その2

前回書いた情報に補足する形だが、竜崎勝は40年生まれで、本名は前回も書いたとおり高島史旭という。法政大学在学中に日活に入り、デビュー作は「暗黒街の静かな男」(61年)で高岡(芦田伸介)の部下Cという役であった。同時期に高橋英樹主演で、中尾彬のデビュー作となる「真昼の誘拐」が公開されている。日活では本名のまま4本ほどの作品に出演しているが大学卒業と共に日活を退社したようである。63年に俳優座養成所に15期生として入所し、66年の卒業と同時に文学座研究生となるが劇団員にはなれぬまま退所したそうである。68年には映画「ドレイ工場」「金瓶梅」に出演、この時もまだ本名名義のようだ。
69年、東映製作のドラマ「絢爛たる復讐」の主演に抜擢される。ここまではほとんど無名の俳優だったと思われる。おそらくだが、これをきっかけに芸名を竜崎勝にしたようである。同年、松本幸四郎(八代目)主演の「鬼平犯科帳」に与力・酒井佑助役にも抜擢され、茶の間にもお馴染みの俳優となった。
中尾彬は64年に民藝の研究生となり、日活作品「月曜日のユカ」に加賀まりこと主演し、注目されるようになった。「明日は咲こう花咲こう」(65年)では吉永小百合の恋人役を演じたりもしている。70年に民藝を退団するとともに日活からも離れている。同年、東映ニューフェイス出身の女優・茅島成美と結婚。茅島成美ではピンと来ない人でも「三年B組金八先生」の国井先生役の人といえば、わかる人も多いかもしれない。その茅島とニューフェイス同期だったのが千葉真一である。千葉は中尾の高校(木更津第一)の先輩にあたり、教育実習生として訪れた千葉が生徒である中尾に指導したこともあったという。
池波志乃とはドラマでの共演から仲良くなり不倫関係へと発展してしまう。そのため、75年に茅島と離婚し、78年に池波と再婚した。
竜崎と中尾の共演と言えば、「白昼の死角」(79年)が思い出される。中心となる四人の半面がポスターとなっているが、主演の夏八木勲(当時は夏木)とその仲間である中尾彬、竜崎勝、そして岸田森である。本作には千葉真一も彼らの協力者として出演している。
竜崎から見れば、夏八木は俳優座養成所の同期、中尾は日活ニューフェイスの同期、岸田は文学座の先輩という関係になる。本作では岸田が演じる隅田は早々に焼身自殺し、竜崎演じる木島も夏八木演じる鶴岡の身代わりで自首し、自ら命を絶つという役どころだが、岸田森は3年後の82年に食道がんのため43歳の若さで亡くなった。また、竜崎勝も84年に肝硬変のため44歳の若さで亡くなっている。娘の高島彩はまだ5歳だったため、父の記憶はほとんどないという。

 

日活俳優録30 中尾 彬、竜崎 勝(高島史旭)

日活の第5期ニューフェイスの顔ぶれだが、61年刊行の「日活映画」誌に掲載されたのは、高橋英樹、高島史旭、小島忠夫、比留間隆之、斉藤修二、藤井重人、雨宮美智子、高見真由美、武内悦子、西田喜江、緒方葉子、富樫綾子、小幡真樹子、伊藤星子の14名である。
高橋英樹以外は聞いたことないという人も多いと思うが、実際にメインキャストまで昇格することなく消えていった人がほとんどのようだ。
ちなみに、高島史旭は後の竜崎勝の本名である。日活では本名で数本の作品にクレジットされているが、早い段階で退社し、63年には俳優座養成所に15期生として入所している。夏八木勲、栗原小巻、原田芳雄、林隆三、前田吟、地井武男、太地喜和子、赤座美代子、秋野太作などが顔を揃えており「花の15期生」と言われた期である。
高橋英樹の娘はフジテレビアナウンサーとなった高橋真麻だが、竜崎の娘は高島彩であり、やはりフジテレビアナウンサーとなっている。共に今はフリーアナウンサーとなっているが、父親同士が同じ会社の同期で、その娘が共に同じ会社で同じ職につく、というのも中々ないことではないだろうか。ちなみに高島彩は高橋真麻の3年先輩である。
竜崎勝は日活での在籍期間も短く、高橋英樹との共演もなかったようなので、二人の間に同期感覚はあまりないかもしれない。その高橋のニューフェイスの同期として名前が挙がるのが中尾彬なのだが、前述のように当時の「日活映画」誌には、中尾の名はないのである。
中尾の映画デビューは61年10月公開の「真昼の誘拐」で、本作は高橋英樹初の主演作だったようである。高橋と川地民夫、沢本忠雄そして中尾が金目当てで幼女を誘拐するといった感じの話のようで、ニューフェイス同期の武内悦子も主要な役で出ているようだ。
中尾彬は42年生まれで、映画デビュー当時は美大生であり、おそらくスカウトによる出演だと思われる。「日本映画俳優全集・男優編」によれば、この出演をきっかけに翌62年に第5期のニューフェイス試験を受けて入社したことになっているが、62年だと第6期になってしまう。高橋英樹は、本人が中尾彬と民芸に研修に通っていたと証言していた気がするので、そこから考えるにニューフェイス試験は受けていないが、少し後から入社して、第5期ニューフェイスに編入されたと考えられないだろうか。まあ、東映で言えば高倉健(第2期ニューフェイス)がこのパターンである。
また、この後中尾は大学を中退して絵の勉強のため、フランスに留学してしまった、というのも話をややこしくしている。64年に帰国すると研修を受けていた民藝に研修生として入団しているのである。日活と民藝の関係性から「月曜日のユカ」など日活作品には出演することはあったが、純粋に日活ニューフェイスだった期間は短かったと思われる。

 

日活俳優録29 山内 賢

「ヤング&フレッシュ」続きで行くと、残るは山内賢である(木下雅弘は詳細がほとんどわからない)。「ヤング&フレッシュ」では、ドラムスの和田浩治よりもやはりボーカルである彼が一番目立っていた。
山内賢は43年生まれ、本名は藤瀬賢晁(のりあき)という。四人兄弟の四男で、三男は東宝の青春スターだった久保明(本名・山内康儀)である。
小学六年だった55年「姿なき目撃者」で子役としてデビュー。芸名は兄に倣って久保賢であった。続く「あすなろ物語」では、主演の兄・久保明の少年時代を演じて初共演。ちなみに久保明とは七歳差がある。以降、「コタンの口笛」「上役・下役・ご同役」(59年)でも兄と共演するなど、東宝での子役出演が続いた。
高校は玉川学園に入学。浜田光夫は同級生であった。その影響ではないと思うが、62年に高校を卒業すると同時に日活に入社している。芸名を山内賢として、「雲に向かって起つ」(62年)で日活デビューを果たした。
浜田光夫、吉永小百合コンビに対して、山内賢は和泉雅子とのコンビが多く、それが人気の基盤にもなっていたと思われる。「青春ア・ゴーゴー」や「涙くんさよなら」(66年)ではヤング&フレッシュのギター兼ボーカルとして出演。映画用の即席バンドではなく、山内が入社してまもなくの62年に結成されていたバンドである。「二人の銀座」「夕陽が泣いている」「東京ナイト」(67年)は、いずれも和泉雅子をヒロインとして、ヤング&フレッシュが出演。特に山内と和泉がデュエットとした「二人の銀座」は大ヒットとなった。元々は山内ではなく浜田光夫が和泉とデュエットする予定だったらしいが、眼のケガにより出演できなくなり山内になったという。
しかし、この67年に山内は日活を退社し、東芝レコードと契約し歌手に転向を図っている。しかし、ヒット曲には恵まれず、テレビに活動の場を移し、俳優、司会などで活躍していく。中でも「あばれはっちゃくシリーズ」(79~85年)の先生役は有名であろう。
プライベートでは76年に藤瀬敦子と結婚し、婿養子となったらしく本名が山内から藤瀬となっている。しかし、彼女がどういう人かとか結婚までの経緯などは明かされていないようだ。
03年、右肺にガンが見つかり、除去手術を行ったが、その後も転移が発見され4度にわたり手術を行っている。テレビに顔を出すこともあったが、療養生活を続けていた。11年に67歳で亡くなっている。葬儀には和泉雅子、吉永小百合、浜田光夫らが参列。出棺時には兄の久保明が遺影を持ち、喪主である妻の敦子さんが「最後の言葉は『みんなに感謝』でした」と述べていた。

 

 

日活俳優録28 和田浩治 その3

今回も和田浩治である。その私生活では、71年に歌手の梓みちよと結婚している。二人は同い年で、前年に知り合い、その三か月後には和田がプロポーズするという、出会ってから約1年でのスピード婚であった。
披露宴では、高さ三メートルのウェディングケーキが用意され、司会の高橋圭三が「これ以上高くすると離婚率も高くなります」といったジョークを飛ばしたりしていたが、すぐにそれは現実のものへとなっていった。
和田は関西での仕事が増え、梓は地方公演で家を空けることが多くなり、すれ違いの生活になっていったのである。元々梓は「遊ぶし、飲むし、男友達もいっぱいるし」と「悪妻」であることを自認していた。そんな彼女がマンションを借りて外泊するようになった、という噂が流れていたのである。
外泊も真相につて梓は「和田が事業に失敗し、家に借金取りが来るようにから」と和田のせいであるかのように発言したのである。和田は借金については認めたが「たいしたことではない」とし、「半年以上セックスレス」等冷え切った関係であることを暴露したりした。結局、翌72年には離婚の運びとなり、約1年半の結婚生活に終止符をうったのである。離婚後も、二人は週刊誌上でやり合うなど、泥沼状態だった。後の梓のヒット曲「二人でお酒を」の歌詞である「恨みっこなしで別れましょうね」が皮肉に聞こえてくる。
その3年後、和田は銀座のママ、クラブ経営者である田村順子と再婚しているが、梓はその後も独身を貫いているようだ。ちなみに、姉の和田悦子はミュージシャンであるジミー金沢と結婚している。
当時話題になった角川映画「人間の証明」(77年)に和田浩治は、刑事役として出演しているが、本作には和田悦子の名もクレジットされている。エレクトーン奏者の役だったらしいが、同姓同名でなければ10数年ぶりの映画出演だったことになる。あと、何故か女優ではない田村順子が「スナックのママ」役で出演しているらしい。未確認ではあるが、和田ファミリー総出演ということになる。
86年、胃がんのため和田浩治は42歳の若さで亡くなっている。本人はがんであることを知っていたようだが、周囲は突然亡くなったといった印象が強いようだ。葬儀には宍戸錠、小林旭、二谷英明、長門裕之、川地民夫、浜田光夫、松原智恵子といった日活仲間はもちろん、「大岡越前」で共演していた加藤剛、大坂志郎、そして元妻である梓みちよなどの姿があったようだ。翌日放送された追悼番組には加藤剛、浜田光夫、清水まゆみが出演している。清水は小高雄二と夫婦で葬儀に参列していた。
ちなみに、姉の和田悦子は2002年に亡くなったという。

 

 

日活俳優録28 和田浩治(+和田悦子) その2

和田浩治がデビューして約半年後に実姉である和田悦子も日活で女優としてデビューしている。
和田悦子は41年生まれで、本名は和田二美代という(旧姓)。デビューの詳しい経緯は不明だが、多分弟を通じて、彼女を見た関係者がスカウトしたという感じではないだろうか。
和田悦子のデビュー作は赤木圭一郎主演の「打倒(ノックダウン)」(60年)だが、その際、弟である和田浩治は姉を連れて、プロデューサーやスタッフ等の人々の間を挨拶回りしていたという。姉より多少先輩とはいえ、まだ16歳の少年である。明星のインタビューでそのことを振られると、「こっちが気を使ってやらないとね」とテレていたようだ。
デビュー作こそヒロインの一人として赤木、稲垣美穂子と並んでクレジットされていたが、そう目立つタイプでもなく、その後役はどんどん小さくなって行き、~の友人とか会社の同僚とか、クラブのホステスとか、クレジットも五人から七人くらいの中の一人という大部屋女優的な存在になっていったのである。
63年くらいからは、年に2~3本程度の出演にとどまり、66年の「河内カルメン」を最後にスクリーンから遠のいている。姉弟共演はあまりないようだが、この「河内カルメン」には二人とも出演している。
一方の和田浩治だが、主演スターとしスタートしたものの、やはりその若すぎる年齢がネックとなっていた。どうしても石原裕次郎、小林旭の少年版という感じになり、荒唐無稽なコメディタッチなものにならざるを得なかったのである。女性ファンはともかく、大人は十代の少年がカッコつけている映画など見たいとは思わないのではないだろうか。実際、彼の主演作は客が入らなかったといい、次第に助演に回るようになって行く。やはり「悔しい想い、寂しい想い」はあったという。
自分が、脇だなと感じたのは「青春の海」とか「二人の銀座」(67年)のころだったという。主役から退いて数年経過していたが、それまではまだ準主演級だと思えていたのだろうか。しかし、そのころ日活は松原智恵子主演でテレビドラマ「ある日わたしは」(67年)をスタートさせたのである。和田浩治も彼女をめぐる男の一人として出演していたのだが、番組視聴率がとても良く、和田にも彼の映画を知らない新しいファンが大勢ついたという。実際に中高生に「和田さんは、テレビの出ですか?」と言われたりしたそうで、本人はこの数年間を「ブランク」と表現している。
人気が再燃したからなのか、69年になると和田は数年ぶりに主演作を得ることになったのである。「夜の最前線」シリーズ2本と「女の手配師 池袋の夜」の3本である。小林旭も「女の警察」シリーズ等をやっていた頃である。当時はテレビの方に色気を持っていたといい、和田の日活での最後の作品となったのが「女番長野良猫ロック」(70年)なのだが「どんな役だったかも覚えてません」などと語っている。世間的には有名な作品であり、和田浩治も和田アキ子、梶芽衣子に次いでクレジットされており、大きな役なのだが(要するに梶芽衣子の彼氏)、映画館に人が来なくなったという現実もあり、映画よりテレビのウェイトが大きくなっていたようである。
70年に日活を辞めたが、辞めるとも辞めないとも特に宣言せず、何となくやめていたそうである。