日活俳優録28 和田浩治
ヤング&フレッシュで、ドラムスを担当していたのが和田浩治である。言わずと知れた日活ダイヤモンドライン、主演スターの一人であった。ネットを彷徨っていると「想い出の和田浩治」というサイトがあり、そこに多くの情報が載っていた。
和田浩治は44年生まれ、本名は和田愷夫(ひでお)と言い、撮影所では「ヒデ坊」と呼ばれていた。父はジャズピアニストの和田肇で、姉がやはり日活の女優となる和田悦子というのは知られているが、母も羽田登喜子という松竹大船の女優であった。
羽田登喜子は39年の時点で18歳だが、出演記録にあるのは39年だけで、活動していたのはこの1年だけのようである。和田浩治は二男二女という4人兄弟の4番目であり、44年生まれということは両親は40年には結婚して、毎年のように子を産んでいたということになる。
ところで、愷夫という難しい字を使う名前は、父の友人である桜井少将によって付けられたそうだ。父に倣ってピアノもやっていたが、あまり馴染めず、中学に入って始めたドラムに夢中になったという。
芸能界入りのきっかけは高1のとき(59年)、日本テレビにエキストラのアルバイトに行ったことである。和田を見た番組スポンサーであるトーハツ(オートバイの会社)の宣伝部の人から、うちのカレンダーやってみない、と声をかけられたのである。「小使いもらえるなら」と軽い気持ちで引き受けたが、撮影を担当したのが杵島隆というカメラマンだった。そのカレンダーを見た松竹の人が杵島を通じて、和田を大船でカメラテストに呼んだのである。次に築地の本社に行かされ社長の城戸四郎と会うことになった。しかし、そこで和田はテーブルに置いてあった煙草盆から、何気なく煙草を取り出し吸い始めたという。城戸は「いくつ?」「15」「お前、15で煙草吸っていいのか」「そいじゃ、失礼します」と言って帰ってきたという。中学時代から、学校をサボりだし、飲酒、喫煙、無免許運転など結構な不良少年だったのである。この時、煙草がなければ母の古巣でもある松竹で俳優になっていた可能性もあったわけなのだ。
カレンダーを見たのは松竹の人だけではなかった。そう、日活の誰かしらも見ており、和田は江守常務(当時)と会うことになったのである。撮影所を訪れると若い人が多く、雰囲気も良かったので入社を決めたという。翌月には正式に契約をかわし、その二日後には「無言の乱斗」の主演が決まり、三日後には撮影スタートというスピードっぷりであった。
15歳の演技経験もない少年が、ニューフェイスのような研修もなく、いきなりの映画主演である。「無言の乱斗」の監督である西河克巳によれば、身体も大きいが、態度も大きい。しかし、どこか憎めないがあるのだそうだ。印象としては、どこか石原裕次郎に似ていると感じたそうだが、実際にそれは巷でも言われており、当時は裕次郎の少年版のように和田浩治は言われていたのである。
日活俳優録27 杉山俊夫、杉山 元(+赤木圭一郎)その2
杉山兄弟の弟である元(はじめ)は、前回も書いたとおり41年生まれ。弟だが「はじめ」である。
日活には、60年に入社しているようだが、おそらく兄である俊夫の紹介のような形ではないかと思われる。郷鍈治も最初は宍戸錠が無理矢理映画に出演させたらしいし。しかし、杉山元の日活での印象といえば、ヤング&フレッシュでギターを弾いている人、ぐらいしかない人も多いのではないだろうか。しかも、メンバーの山内賢、和田浩治、浜田光夫は主役スターだったりするので、杉山元とベースの木下雅弘が目立つことは困難である。
杉山俊夫はまだ、ひねた感じがあり印象に残ったりもするのだが、元の場合は背も低く普通な顔立ちで印象に残りにくかったりする。だから、ヤング&フレッシュ以外の印象が薄かったりするのだ。
杉山元は70年に日活を離れ、フリーになったというが、有名なのは何といっても「ミラーマン」(71年)の安田役であろう。宇佐美淳也、和崎俊哉、工藤堅太郎といった渋いメンツが揃った作品だが、杉山演ずる安田の黒縁眼鏡は彼を非常にインテリっぽく見せていた。
主演の石田信之と共演の工藤堅太郎は、杉山元の印象を聞かれると共に「役柄のとおり、おとなしい人だった」と答えている。また石田は杉山について「俳優を引退して店舗を開いたという噂を聞いたが、消息が長い間つかめないので再会したい」と著書の中で語っている。杉山元の活動記録はテレビドラマ出演が76年頃まで確認できるが、以降は不明なので、そのころに引退した可能性が高い。
一方の杉山俊夫も活動記録からは、70年代の中盤に引退したと考えられるので、弟と同じような時期の可能性もある。引退後は何をしているかは不明な杉山俊夫だが、03年にとあるイベントに顔を出したらしい。前回の続きとなるが、「赤木圭一郎を偲ぶ会」主催のイベントのゲストに彼が招かれたのである。そこで、前回書いたような下宿のエピソードなどを語っている。赤木の事故当日のことも語っており、直接事故現場を見ていたわけではないが、赤木が救急車で運ばれていくと自分も車で後を追っかけたという。病院でレントゲンを撮っていた先生が「運よく助かっても植物人間になってしまうかもしれない。だから、みなさん覚悟してください」と言われたことなどを語っている。
また、赤木は「明星」の記事でハワイアンバンド「エル・ブラザーズ」を結成したと語っている。メンバーは赤木、杉山俊夫に加えて、宍戸錠、郷鍈治、二谷英明、藤村有弘、待田京介、そして杉山元、当時は助監督の柳瀬観の九人で、なかなか豪華な顔ぶれであった。赤木は杉山俊夫にウクレレを教わっていたという。
現在の杉山兄弟に関しては全くの不明である。ただ、俊夫の方はイベントに参加するくらいだから、連絡はつくのではないだろうか。
日活俳優録27 杉山俊夫、杉山 元(+赤木圭一郎)
日活の兄弟俳優は、宍戸錠&郷鍈治兄弟だけではない。杉山俊夫と杉山元兄弟というのも存在する。
とは言っても杉山俊夫に関しては詳しいプロフィールがわからない。脇役とはいえ、それなりに活躍していたと思うのだが、「日本映画俳優全集・男優編」にもウィキペディアにも、その項目がなかったりするのである。
ただ、ウィキペディアには杉山元の項目は存在しており、41年生まれと出ている。あまり離れてはいないようなので、俊夫とはせいぜい1~3歳差と思われる。入社の経緯は不明だが、父が撮影技師ということなので、その関係からかもしれないと思ったのだが…。
俊夫のデビュー作と思われるのが「海底から来た女」(59年)である。少なくとも初クレジットはこの作品のようである。2作目となるのが和田浩治のデビュー作でもある「無言の乱斗」(59年)だが、和田はドラムの腕を披露。杉山俊夫は歌手の役で得意としている歌唱を披露し、これが日活俳優バンドである「ヤング&フレッシュ」に繋がっていくのかもしれない。メンバーは和田(ドラム)と杉山兄弟(ギター)に加え、山内賢(ギター)、木下雅弘(ベース)、浜田光夫(タンバリン)で62年に結成されたようだ。
彼らが初めてスクリーンに登場したのが「青春ア・ゴーゴー」(66年)のようだが、ここに杉山俊夫の姿はない。次に登場するのが「涙くんさよなら」(66年)だが、ここでも俊夫はいないので、既にバンドを抜けていたのかもしれない。本作では浜田もいないのだが、これは予定どおりなのか、丁度眼を怪我した時期にあたるので、そのためなのかは不明である。
また杉山俊夫は、あの赤木圭一郎と仲が良かったという。60年頃の芸能記事で赤木はこう語っている。「日活に入って最初に得た友達は杉山俊夫くん。彼はもと山下敬二郎さんと一緒にロカビリアンとして活躍していたことがありました。彼が映画界に新天地を求めて入ってきたのです」というように、杉山と仲が良かったことを明言し、彼の経歴についても語っている。歌やギターがうまくて当然だったのである。
また、下宿に同居していたことも語っている。「杉山君と一緒に都内の下宿を探し、笹塚に手ごろな下宿があったので、二人は隣り合わせの部屋に住むことになりました。やがて今住んでいる国領の山崎撮影所長のお宅に仲良く引っ越したわけです」というように、親密な関係であったことがわかる。
実は上記のことは杉山俊夫も「赤木圭一郎を偲ぶ会」主催のイベントで語っているのである。次回に続く。
日活俳優録26 郷 鍈治
兄弟俳優というのは日活にも数組いたが、真っ先に浮かぶのは宍戸錠、郷鍈治の兄弟ではないだろうか。
郷鍈治は37年生まれで、本名は宍戸鍈治である。宍戸錠の項でも書いたが、錠という名前は「留」と同じで、最後の子供にするという意味があって付けられたようなのだが(錠は三男)、四男の弟が誕生していたわけである。この鍈治の「鍈」という漢字が曲者で、環境によっては表示されないようなのである。だからネット上では郷エイ治とかえい治とか英治とかで表記されていることが多い。いずれにしろ、あまり名前では見かけない珍しい字を持った兄弟である。
さて、「日本映画俳優全集・男優編」によれば郷は60年に明治大学を卒業後、兄の後を追って日活に入社したとある。詳しいことはわからないが、錠の後押しや紹介があったのではないだろうか。デビュー作は「狂熱の季節」(60年)で、いきなり川地民夫に続く二番目にその名がクレジットされており、期待の大きさが窺える。どうしても錠はふくらんだ頬の印象が強いので、一見は似てないのだが、元々は錠だって、豊頬手術前はシュッとした顔立ちだったのである。しかし、兄比べると凶悪さの強い風貌であり、主に悪役、適役として活躍することになる。
実は正式デビュー前に「打倒ノックダウン」では宍戸鍈二、「俺は銀座の騎兵隊」宍戸鍈治の名がクレジットされている。しかし、日活映画の詳しいサイトでもどちらも出演場面がよくわからないそうである。
アクション映画を中心に出演していたので、宍戸錠との兄弟共演も多い。「野獣の青春」(63年)その錠と対決する殺し屋を演じ、この辺から顔も知られ始めたようである。日活にはロマンポルノ転向直前の71年まで在籍。日活を離れてからは、専ら東映作品に多く出演している。テレビドラマも悪役が中心だが、「プレイガール」では数回登場した田湖刑事役など善人やコミカルな役も演じている。個人的には、やはり「仮面ライダーV3」(73年)での悪の大幹部・キバ男爵役が印象に深い。
78年には錠の紹介で知り合った歌手ちあきなおみ(本名・瀬川三恵子)と結婚し、瀬川家へ婿入りして本名が瀬川鍈治となっている。ちあきの個人事務所を設立し、社長兼マネージャーとなり、俳優業に関しては80年代前半には引退していたという。
しかし、92年に郷は肺癌のため、55歳の若さで死去。ちあきのショックは大きく、それ以来完全に芸能活動を休止してしまい、公の場に姿を見せることもない。未確認情報だが、彼女の歌を高く評価する錠は歌手復帰を説得したらしいが、彼女が首を縦に振ることはなかったようだ。
日活俳優録25 高城瑛子(滝瑛子)、久木登紀子(香取環)
第4期日活ニューフェイスが採用されたのは58年のことである。発表された21名は次の通りである。
赤塚親弘(赤木圭一郎)、朝広亮、高瀬敏光、石川恵一、荒井昭一、山中大成、谷田部靖、川辺健三、植田照美、斎藤久美子、田口香代子、高城瑛子(滝瑛子)、小島涼子、中尾千江子、杉山千鶴子、山崎育子(礼子)、和田令子、水谷郷子、森島富美子(亜紀)、二宮恵美子、久木登紀子(香取環)といった面々である。
おそらく、赤木圭一郎以外は誰もわからない、もしくは滝瑛子、香取環くらいなら聞いたことがあるという人が大半ではなかろうか。人数のわりに第4期は不作だったといえよう。
唯一のスターとなった赤木圭一郎については説明不要だと思うが、当時のキャスト表などを調べてみると、脇役として4期ニューフェイスの名をちらほら発見できる。男性陣では山中大成、高瀬敏光、女性陣では小島涼子、斎藤久美子、森島富美子、久木登紀子、そして高城瑛子の名が割合多く見られる。
高城瑛子は44年生まれ。実は11歳のとき浅丘ルリ子のデビュー作となった「緑はるかに」(55年)のオーディションに参加しており、最終選考まで残った一人である。クレジットはされていないが、やはり最終選考に残った山東昭子や桑野みゆきらと共に子役として出演したようである。3年を経てまだ14歳の身でニューフェイスとなったわけである。しかし、若すぎることもあってか端役が続き、61年には退社している。その間は、「トップ屋」(60年)や「青年の樹」(61年)といったテレビでの活躍の方が目立っていた。
しかし、63年に日(大映)米合作映画である「あしやからの飛行」でジョージ・チャキリスの妻役に抜擢されることになる。これは、当時大映洋画部に勤務していた彼女の母のデスクに飾ってあった瑛子の写真を、監督のアンダーソンが見つけたのがきっかけだったという。これを機に彼女を芸名を滝瑛子と改め、大映に入社したのである。実はこの辺のことは、三年前の「大映俳優録4」で書いていたりする。日付も9月の中頃で我ながら驚きの偶然である。
久木登紀子は39年生まれ。高校在学中にはミス・ユニバース熊本代表に選ばれている。高校卒業と同時に第4期日活ニューフェイスに応募して入社。同期の女優陣の中では、おそらく一番名前がクレジットされた本数が多いと思われるが、大半が端役であり、彼女も61年に日活を退社している。
翌62年には大蔵映画に誘われて「肉体の市場」に主演し、芸名を香取環と改める。本作はピンク映画第一号と言われ、上映二日目にわいせつ容疑で摘発されるという事件となった。修正後、再上映したところ映画は大ヒットし、彼女の名も知られるようになった。以後、72年に引退するまでピンク映画界のトップ女優として君臨したのである。「日本映画俳優全集・女優編」では、日活時代に佐久間しのぶという芸名を使ったことになっているが、その痕跡はなく、どうやらピンク映画時代の一時期に使った名前のようである。
日活時代には、東宝の俳優である船戸順と結婚している(その後離婚)。
日活俳優録24 浜田光夫 その3
前回の続きである。
66年の7月、愛知県で行われた「ミス・ボートコンテスト」の審査員として呼ばれたのが浜田光夫と葉山良二という二人の日活スターであった。仕事のあと、主催者が二人を飲みに誘ったのである。その二軒目で事件は起こったのである。店内には先客が一組だけいたという。
結構飲んだあと、葉山と浜田が連れ立ってトイレから出てきたとき、先客のうちの一人が突然、葉山に向かって電気スタンドで殴りかかってきたのだ。葉山の額が割れて鮮血が飛び散ったという。そのとき浜田も右眼に何か強い衝撃を受けたという。割れたスタンドの電球の破片が右眼を直撃していたのだ。もちろん、店内は警察だ救急車だ大騒ぎとなったが、肝心の救急車がなかなか到着しない。結局、タクシーで二人は救急病院に運ばれたのである。葉山はすぐに応急処置が施されたが、浜田の方は眼科の専門医でないと危険だというのである。その担当医はたまたま名大の出身で、すぐに名大病院に連絡をとって、入院即手術の手配をとってくれたという。
犯人の男は酔っていたこともあるが、葉山を昔のケンカ相手と間違えたことが真相らしい。浜田にとってはとんでもないとばっちりに巻き込まれたわけである。
手術をした医師は当初「これはひどい、とらなきゃダメだ」と言ったそうである。浜田が「僕は俳優なんです。眼をとられると困ります。何とかなりませんか」と懇願すると、「そうか。ではやるだけやってみる」と手術を決行してくれたのである。眼球を三十二針も縫う大手術だったという。実は摘出しないと良いほうの眼まで悪くなる可能性があり、右眼を救えるか全盲になるかの賭けでもあった。
一時は「失明か」「芸能界復帰は絶望か」などと言われたが、ある程度視力も回復し、八か月後の67年3月に退院できたのである。しかし、後遺症からライトの前では眼を開けているのも困難となり、スモークやハーフトーンのサングラスが必需品となり、イメージチェンジを余儀なくされたのである。青春スターからバイブレイヤー的な存在へと転向していくことになる。
復帰作となった「君は恋人」(67年)では、日活スター総出演で彼の復帰を祝っている。本出演は和泉雅子くらいだが、友情出演として石原裕次郎、小林旭、宍戸錠、二谷英明、葉山良二、川地民夫、高橋英樹、和田浩治、山内賢、松原智恵子、山本陽子、太田雅子(梶芽衣子)、浅丘ルリ子、そして吉永小百合などが登場している。
実は浜田は日活アクションには、ほとんど出演していないため、小林旭や宍戸錠とは日活時代に一度も共演がなかったという。この作品が唯一の「共演」と言えるかもしれないが、本人は共演にカウントしていないようである。
話は前回のラストに戻るが、ドラマ「お荷物小荷物」(70年)の撮影中にまた眼の調子が悪くなり入院することになってしっまたのだが、その時面倒を見てくれたのが交際中の青園宴こと恭美子夫人だった。そして退院後に結婚が決まったのである(72年ハワイにて拳式)。正確にはわからないが、出会いから7~8年は経っていようか。映画と同じく純愛路線であったといえよう。
日活俳優録24 浜田光夫(+吉永小百合、高橋英樹) その2
前回の続きである。浜田光夫はデビューから6作目までは本名の浜田光曠を名乗っていた。「舞妓の上京」(61年)という作品から浜田光夫を芸名としている。名付け親は彼を日活に導いた監督の若杉光夫で、つまり自分の名前を芸名として与えたのである。確かに字面も納まりも良くなったと思う。
浜田と言えば、吉永小百合だが共演数は44本に上るという。年齢は小百合が1つ下で、浜田は日活に入る前からすでに有名となっていた彼女を電車で見かけていたという。実は家も近所だったらしい。デビューまもない頃に、二人で甘味屋に入り、いざ勘定を払う段になると彼女は「私のほうが沢山お金をもらっているから、ここの分私が払う」と言い、テーブルの下から浜田に金を渡したという。これは、金は自分が出すがお店に対しては男が払わないと格好が悪いという配慮からであったようだ。タクシーに乗ったときも、浜田を先に降ろして料金は彼女が払っていたという。こういうことを彼女は嫌味にならないように、ごく自然にやっていたという。
プライベート上の付き合いもあったのだろうと、浜田はよく聞かれたというが、そういうのはほとんどなかったらしい。浜田によれば、彼女はいい意味でスキのない人であり、とにかく真面目で、プライベートで一緒に遊ぶという雰囲気ではなかったのだという。映画でも恋人役というのは多かったが、いわゆる濡れ場というのは全くなかったのである。
浜田が実際に結婚したのは、日活関係ではなく青園宴という宝塚ガールだった。そのきっかけを作ったのは高橋英樹である。61年に第5期ニューフェイスとして入社した英樹だが、浜田とは同年代で、大学も同じ日本大学芸術学部だった(共に中退している)こともあり、仲が良かったという。生真面目な男だったという英樹の意外な趣味が宝塚だったのである。嫌がる浜田を強引に誘って宝塚の舞台を観劇することもあったという。
「アマンド」(おそらく六本木にあった喫茶店のこと)に宝塚の娘がいっぱい来ているからと、英樹と山内賢に誘われ、今でいう合コンみたいな形になったのである。そこで、浜田の正面に座っていたのが青園宴だったのである。テーブルに浜田と彼女の二人だけになることがあり、他愛もない会話をかわしていたという。帰りに英樹に「あの娘、ちょっといいね」と浜田が言うと、それを英樹が彼女に伝えてくれていたのだという。「あっちも浜田のこと気に入っていたぞ」という返事ももらっていた。
それから、何度かデートはしたが浜田が積極的ではなかったこともあり、いつの間にか疎遠になってしまったらしい。二三年して、浜田が大阪のコマ劇場に出演することになり、宝塚から小夜なつみが客演として招かれた。その小夜の楽屋を訪ねてきたのが青園宴で、浜田とも数年ぶりの再会となったのである。
続けて、浜田が当時話題となったドラマ「お荷物小荷物」(70年)に出演することになり、週に一度大阪に通うことになった。そして、朝日放送の楽屋に彼女が訪れるようになり、共演の河原崎長一郎や脚本家の佐々木守が二人の仲をとりもとうとしてくれたそうである。
しかし、直接二人を結びつけたのは66年に起きた浜田の右眼負傷事件であったようだ。次回に続く。
日活俳優録24 浜田光夫(光曠)
今回は日活の青春スター浜田光夫である。
浜田光夫は43年生まれで、本名は浜田光曠というが、戸籍上の本名は斌(アキラ)というのだそうだ。どういうことかというと、生まれた時に付けられた名前は斌だったが、その後に肉親の縁に薄い名であるとして光曠に改名されたという。実際に浜田の父は、彼が生後1カ月の時に結核で亡くなっている。
ただ、戸籍上の名前は斌のままらしい。つまりハマダアキラなわけだが、同じ俳優の浜田晃とかぶってしまう。ちなみに、斌という名前は50~60年代の人気子役である設楽幸嗣の父によるものだという。設楽の父は姓名判断の大家(日本正統運命学会長)で、設楽と浜田の母親同士が知り合いで、浜田が生まれる前からの付き合いだったらしい。しかし、斌を「あきら」と読める人は中々いないのではないだろうか。
浜田が84年に出した「言っちゃおうかな 日活!イカした仲間の面白ばなし」という本によると、浜田は小学六年の時に「劇団東童」の芝居を母親に見に行き、責任者の人に「僕もこの劇団に入れてほしい」と言ったそうである。いわれたほうも「じゃあ来週面接にきなさい」とあっさりと返答をし、面接に行くとそのまま入団が決まってしまったという。
入団してまもなく、劇団民藝の映画社の人が映画の子役を探しに来たのである。そして、選ばれたのが浜田だったのである。それが日活配給の映画「石合戦」(55年)で、彼の日活映画デビュー作である。本名の光曠名義で出演している。日活映画と書いたのはそれ以前に「ここに泉あり」という独立プロの映画に出演したという情報があるからだ。
「石合戦」の出演は、山田五十鈴、宇野重吉、小沢栄太郎(当時・栄)、内藤武敏などで、監督が若杉光夫であった。これをきっかけに浜田は芝居にはまり、玉川学園でも演劇に打ち込んだという。
高校二年となっていた60年、「石合戦」の監督だった若杉から「映画のオーディションを受けてみないか」という誘いが来た。「ガラスの中の少女」という高校生の男女が心中する話だが、若杉はイメージに合うかもしれないと浜田のことを思い出したのである。オーディションには吉永小百合も参加しており、最終審査では残った男女がペアになってシナリオの最後にある心中のシーンをやらされたが、浜田は小百合とペアになり、そのまま二人が合格した形になったのである。しかし、後になって思えば、オーディションは形式的なもので若杉は初めから浜田と小百合を選ぶつもりだったのではないか、と浜田は回想する。
「ガラスの中の少女」は小百合にとっても初の主演映画だったのである。日活側も彼女はスターになる、と猛プッシュしていたようだ。ここでの浜田の演技を見た日活は彼に「専属にならないか」と持ち掛けてきたという。浜田自身は「待ってました」という気持ちだったようだ。つまり、入社してから出演した映画ではなく、撮影後(あるいは撮影中)に日活入社が決まった作品なのである。
とにかくここに、光夫と小百合の純愛(路線)コンビが誕生したわけである。
日活俳優録23 清水まゆみ(マリ子)
前回に名前が出たついでなのだが、小高雄二の妻といえば、清水まゆみである。
清水まゆみは40年北海道生まれで、本名は清水鞠子(旧姓)という。室蘭文化学園在学中の57年、「月下の若武者」の津川雅彦の相手役募集が行われ、合格したのが清水と鎌倉はるみ(後に新東宝で活躍する星輝美)であった。清水は高校を中退し、北海道から上京したのである。星輝美に関しては以前書いたと思うが、この時点で既に新東宝にスカウトされており、じゃあ1年間日活で修業してらっしゃいという異例の措置で、期間限定の日活在籍となったのである。
「月下の若武者」は、長門裕之&津川雅彦兄弟が主演の作品だが、津川の相手役という触れ込みにも関わらず、二人の役柄は安部徹が清水将夫に差し出す娘、というものであった。星は知人が勝手に応募というパターンだったらしいが、大抵は津川ファンが応募するであろうから、清水は詐欺だと思ったかもしれない。翌年には津川は松竹に行ってしまうし。
デビュー作では清水まり子、次作からはマリ子を名乗り当面は星とコンビのチョイ役が多かった。「紅の翼」(58年)から芸名を清水まゆみに改めている。
清水まゆみといえば、やはり日活では和田浩治とのコンビが印象に残る。和田は清水より4歳年下で、初共演の「無言の乱斗」(59年)の時はまだ15歳であった。和田はそこまで子供っぽくは見えないが、やはり清水がお姉さんに見えてしまうかもしれない。「竜巻小僧」(60年)で、清水の兄である殺し屋を演じているのが小高雄二である。これまでにも共演はあったが、ここまで近しい役柄は初めてこもしれない。基本は男性主演者の相手役ヒロインが主だったが、「十代の河」(62年)では初の単独主演となっている。
63年にフリーとなってからは、主に松竹作品に出演しているが、東映の「夜の歌謡シリーズ伊勢佐木町ブルース」(68年)を最後に活躍の場をテレビに移している。ドラマでは「北の国から」(81~82年)での”中畑のおばさん”役が有名である。
小高雄二とは68年に結婚しているが、ほどなく病に倒れた小高を献身的に看病し続け、再起に導いている。
日活俳優録22 小高雄二
川地民夫と同時に「陽のあたる坂道」(58年)で、日活デビューしたのが小高雄二である。
小高雄二は33年生まれで、本名を小高尊という。53年に俳優座養成所に5期生として入り、56年の卒業とともに大映に入社している。デビュー作は「処刑の部屋」(56年)で、本名名義であった。
58年に日活に移籍し、前述のとおり「陽のあたる坂道」に石原裕次郎の兄役で出演した。役名の田代雄吉と裕次郎を絡めたのかどうかは不明だが、芸名を小高雄二としている。日活での三作目となる「知と愛の出発」では、後の妻となる清水まゆみ(当時マリ子)と初共演している。
基本的には助演が多いが、「網走番外地」(59年)等で主演を務めている。もちろん、東映の高倉健主演の「網走番外地」シリーズとは全く別作品であるが、原作は同じである。日活版は小高と浅丘ルリ子のラブロマンスが中心の作品となっている。
印象に残る役柄としては、宍戸錠、川地民夫、山内賢が三兄弟を演じる「河内ぞろ」シリーズ3作(64~65年)で、三兄弟の仇敵となる”ハジキの林蔵”役などがある。
70年頃まで、日活では100作以上に出演しているが、腹膜炎、慢性肝炎といった病に侵され、徐々にスクリーンから遠ざかって行った。肝硬変なども併発し、病魔の連鎖は20年以上も続いたという。
07年頃の「あの人は今こうしている」というインタビューは、その自宅で行われているが、千葉県は茂原の駅からバスで30分、終点である停留所の近くに住んでいたようだ。
「ようやく病魔から解放されて静かな毎日を送っています」とまゆみ夫人と共に元気な姿を見せていたようだ。同世代で仲の良かった裕次郎が病魔と闘っている時期と重なり、自分も絶対立ち直って見せると頑張っていたという。しかし、裕次郎は52歳の若さで亡くなり、自分は生き残ったので、彼に生かされているように感じる、と語っていた。
16年に82歳で亡くなったが、長生きしたと言えるのではないだろうか。
90年代に活躍した小高恵美は小高雄二と清水まゆみの娘と思っている人も多いかもしれないが、そうではなく姪である。87年に東宝シンデレラオーディションで、グランプリを獲得しデビューしたが、生来身体が弱く、叔父と同様に病気がちだったこともあり2000年には引退してしまっている。