日活俳優録12 高品 格
日活では(他社もそうかもしれないが)、色々な契約形態があったようで、専属、本数に加えて専属本数契約という人もいたようだ。
男優室の上にB個室というのがあり、高品格、相原巨典、宮崎準、三島謙、加原武門らがおり、その専属本数契約を結んでいた。他社で経験を積んでおり、仕出し(エキストラ)をやる必要はなかった面々である。今回はその中から高品格である。
高品格は1919年生まれで、本名は向後直吉という。芸名の由来などは不明だが、やはり「高い品格」から来ているのだろうか。あまり品格を感じさせる容姿ではないが、多くの人は高品といえば、ベテラン刑事役を思い浮かべるのではないだろうか。
裁判所に一年ほど勤務した後の35年、東邦拳闘倶楽部に入りプロボクサーを目指すが、「真実一路」「人生劇場」などの映画を見て感動し、俳優を志す。
38年、日活多摩川撮影所に入社し、「土と兵隊」(39年)でデビューするが、その直後に応召される。43年に除隊し、日活が統合された大映に復帰するが、44年に再応召される。終戦後の45年11月に復員し、大映に復帰する。活動を再開した日活には55年1月に入社。日活のアクション映画では悪役が多く、「嵐を呼ぶ男」(57年)ではその経歴を生かしたボクサー崩れの用心棒を演じたりしている。
70年にフリーとなってからは、テレビドラマに活躍の場を移している。当面は、やはり悪役であったが、初めてレギュラーで刑事役を演じたのが東映の特撮もの「ロボット刑事」(73年)だったと思われる。このドラマで主人公はタイトル通りロボットであり、変身するわけではないので、人間の同僚刑事として千葉治郎と高品格がキャスティングされている。高品の起用はプロデューサーの平山亨が、個人的にファンであり、悪役以外を演じさせてみたいと思ったからのようだ。
そして、「大都会 闘いの日々」(76年)では、ベテラン丸山刑事を演じ、渡哲也とコンビを組んでいた。同番組は「石原プロTV第一回作品」と銘打たれ、渡、裕次郎を筆頭に、宍戸錠、武藤章生、玉川伊佐男、草薙幸二郎、そして高品といったかつて日活映画で活躍していた面々が顔をそろえた。同番組の「PARTⅡ」「PARTⅢ」にも高品は同役で出演し、すっかり刑事役のイメージがついていた。
94年、NHK大河ドラマの打ち合わせの帰りに心不全のため急逝した。75歳であった。
日活俳優録11 山田禅二
今回も日活製作再開当時の男優室からの話題だが、四十代には山田禅二や紀原土耕といった大映からの移籍組、松竹で笠智衆の同期だったという二木草之介、浅草軽演劇出身の雪丘恵介らがいたという。この中で割合、知られている存在といえば山田禅二ということになろうか。と言いながらも自分はずっと彼を山田弾二(ダンジ)だと思っていたのである。それが禅二(ゼンジ)だと気づいたのは結構、最近のことだったと思う。
山田禅二は1914年北海道生まれで、本名は万田正敏という。29年に高校を中退し、苫小牧の王子製紙に入社する。小津安二郎の「大学は出たけれど」を見て、映画界を志す。36年に日活多摩川撮影所の美術部へ入社するが、翌37年に俳優に転じ「爆音」「土と兵隊」(39年)、「将軍と参謀と兵」(42年)等に助演する。
戦後は大映に所属し、「金色夜叉」「或る女」(54年)などに出演。この間に前回の深江章喜も所属した劇団戯曲座に参加している。そして、54年に製作を再開した日活に転じたのである。戦前は日活に所属しており、古巣に帰ってきたという感じであろうか。
そして、再開第一作である「国定忠治」にもノンクレジットだが出演している。この54年6月から9月にかけて、日活では7本の作品を製作しているが、山田はその中の6本に出演という売れっ子ぶりである。
日活では悪役というイメージが強いと思うが、元々は人の好いおじさん、父親といった役柄が多かった人である。確かによく見るとバカボンパパにも似た風貌である。しかし、アクション全盛の日活では笑顔でなければ悪人に見える風貌の山田は、必然的に悪玉やギャング役が多かったのである。
66年にフリーとなり、ドラマでは基本的に悪役だったと思うが、72年に「特別機動捜査隊」でそれまでの西本係長(鈴木志郎)から交代した田中係長役に抜擢される。同番組では過去に悪役等で出演していたこともあり、違和感を感じた人も多かったかもしれない。最終話まで約六年の間、同役を演じたが、山田はこれを機に悪役から足を洗ったという。その後、本当に悪人を演じることがなかったかどうかは確認できないけれども。
宍戸錠によれば、「警察日記」(55年)のアフレコを朝から8時間以上待たされ、「今日はないだろう」と宍戸が勝手に帰ってしまったことがあったという。しかし、夜にアフレコは始まり、宍戸がいないことで大騒ぎになった。携帯電話もなければ録音技術もまだまだな時代である。宍戸がタクシーで駆け付けた時には夜中の一時になっていた。外で待っていたのは同期ニューフェイスの今村弘、演技事務の保坂、そして山田禅二であった。山田は「何も言うなよ。遅れて申し訳ございませんでしたといって深々と頭を下げろ。余計なことは言うなよ」と言ってきた。そして、長時間待たせた久松監督をはじめ、森繁久彌、杉村春子らに四人で一緒に繰り返し頭を下げたのである。これが功を奏したのか、宍戸は数か月干された程度で済んでいる。宍戸も「山田さんがいてくれて本当に助かりました」と関係ないのに頭まで下げてくれたが山田には深く感謝していた。実際の山田禅二はとてもいい人だったようである。
日活俳優録10 深江章喜(和久)
もちろん映画会社にはスターばかりがいるわけではなく、日活では大部屋とは言わず男優室、女優室というのが存在していた。宍戸錠たとニューフェイスの1期生がは入社した時には、すでに男優室には何人かの先達おり、おそらくは彼らが、誰よりも早く日活に入社してきたと思われる。
その中でも、ニューフェイスよりも少々上の20代後半の面々には、黒田剛、瀬山孝司、河瀬正敏、二階堂郁夫、深江章喜らがいた。映画各社の元ニューフェイスやアングラ劇団崩れ、有力者の紹介やスターの付き人を何年か務め、潜り込んだ者もいたようだ。名前を挙げた中では深江章喜が結構知られている存在ではないだろうか。
深江章喜は28年生まれ。本名は深江和久といい、当初は本名をそのまま芸名にしていた。戦時中は海軍で空母信濃に乗っていたという。戦後は、親類に松竹の脚本家池田忠雄や映画評論家の南部圭之助がいたことなどから俳優を目指し、松竹の入社試験を受けるが不合格だった。戯曲座で数年間舞台に立ち、54年に製作を再開した日活の俳優募集に応じて専属契約を結んだのであった。
ちなみに、再開第1作は新国劇の役者が総出演の「国定忠治」(54年)であったが、冒頭に辰巳柳太郎のスタンドインとして出演したのが深江である。つまり、戦後の日活作品で一番最初にスクリーンに映った俳優は深江だったことになる。
当初は端役だったが、翌55年あたりからその冷酷そうなマスクと鋭い目つきから悪役に配されるようになっていった。アクション映画がブームになってくると深江の需要も高まり、石原裕次郎や小林旭、赤木圭一郎らが主演の作品で悪役ぶりを発揮していた。71年に日活がロマンポルノ路線に転向することが決まるとフリーとなり、テレビへの出演が多くなっている。
テレビではそれまでの悪役ぶりから一転して、子供向けドラマなどでコミカルな善人を演じることも多かった。「スーパーロボットマッハバロン」(74年)や「少年探偵団」(75年)では刑事役でレギュラー出演。「ぶらり信兵衛道場破り」(73年)、「十手無用」(75年)、「桃太郎侍」(76年)と、いずれも日活の後輩である高橋英樹が主演の時代劇において、その友人のような役柄でレギュラー出演している。勿論、悪役を演じることも多いのだが、個人的には先に善玉の役を見ているので、悪役イメージはそれほど強くなかった。
息子の深江卓次も藤田まこと主演の「はぐれ刑事純情派」の第3,4シリーズ(90~91年)に新人刑事役としてデビューした。「三年B組金八先生」(99~05年)の若手教師役も印象に深い。卓次はかつて石原プロに所属していた。
さて、深江章喜だが15年に87歳で他界している。
日活俳優録9 フランキー堺(+市村俊幸) その2
前回の続きである。フランキー堺で日活作品といえば、まず市村俊幸とのコンビ作品が挙げられる。当時は恰幅の良かった市村は「ブーちゃん」の愛称で親しまれていた。タイトルに「フランキーブーちゃんの」がつくのが「あゝ軍艦旗」「続あゝ軍旗艦女護が島奮戦記」(57年)「殴り込み落下傘部隊」(58年)の三作品存在する。二人の共演は他にも多数あるため、もっとあったようなイメージがあったが、実はこれだけである。と思ったら二つ目の「~女護が島」のタイトルには「フランキーブーちゃんの」はついていなかったらしい。
フランキーはジャズドラマー出身だが、市村はジャズピアニスト出身である。あの黒澤映画である「生きる」(52年)にもピアニストとして出演しており、この後、53年に開局したNHKの専属タレント第1号として契約している。日活の専属となったことはないようなので、詳しくは触れないが、「特別機動捜査隊」(71年放送分)にゲスト出演していたが、驚くほど痩せこけており、別人のようになっていたのが印象に残る。
さて、フランキーの日活作品で最も名高いのは川島雄三監督の「幕末太陽傳」(57年)であろう。石原裕次郎などを脇に回して、フランキーが主役をはった。市村も出演している。映画自体の評価は高かったが、川島と日活首脳部との軋轢を多く生んだ。裕次郎を脇に回してフランキーを主役にしたことも首脳部には不満だったのである。結局、川島はこの後東宝系の東京映画へ移籍する。本作でフランキーはキネマ旬報男優賞を受賞、また「倖せは俺等のねがい」(57年)と併せてブルーリボン男優賞も受賞した。
しかし、フランキーは川島の後を追うように前述の「殴り込み落下傘部隊」(58年)を最後に日活を離れ、東京映画と本数契約を結んでいる。
58年といえば、テレビドラマ「私は貝になりたい」が放送されている。喜劇俳優のイメージが強かったフランキーだがシリアスな部分も高評価を得ている。実際には二等兵で死刑になった戦犯はいないというし、モデルとなった加藤中尉も死刑判決は受けたが、後に減刑されて釈放されたという。
さて、やはりフランキーといえば「駅前」シリーズ、「社長」シリーズのイメージが強いという人もいるだろう。両シリーズのレギュラーとして東宝喜劇陣の中核的存在となっている。ゆえに日活より東宝の俳優というイメージの人も多いかもしれない。
96年、肝不全のため67歳で亡くなっている。
日活俳優録9 フランキー堺
前回少し触れたが、「初恋カナリヤ娘」(55年)に岡田真澄とともに出演したフランキー堺が水の江瀧子が日活にスカウトした俳優の第2号ということになる。ただフランキーは、これが初の映画出演だったわけではなく、すでに業界的にも注目されていた存在だったようである。
フランキー堺は29年生まれで、本名は堺正俊という。鹿児島生まれだが、小学校の時に東京に転居し、麻布中学を経て、46年に慶応義塾大学に入学した。中学時代の同級生に小沢昭一や加藤武がいる。
大学生の頃からドラムに凝りだし、あっという間に上達し、49年にマニラボーイズ楽団、50年に多忠修とゲイスターズ楽団にドラマーとして参加し、進駐軍のベースキャンプ巡りなどをしていた。51年に慶大を卒業し、52年には与田輝男、秋吉敏子らとシックスレモンズを結成した。
その日本人離れしたマスクやショーマンシップは映画界にも注目され、松竹の「岸壁」(53年)、新東宝の「名探偵アジャパー氏」(53年)にシックスレモンズと共にドラマーとして出演した。続く新東宝の「青春ジャズ娘」(53年)では、安西郷子を相手役に台詞も演技もある俳優として準主演を果たしている。
翌54年にはフランキー堺とシティ・スリッカーズを結成し、バンドマスターとして活動しながら、ジャズ映画や喜劇などに顔を出すようになっていた。シティ・スリッカーズには植木等、谷啓、桜井センリ、稲垣次郎らが在籍し、後にハナ肇とクレージーキャッツのメンバーとなる面々が集まっていた。そのハナ肇もバンドボーイのような立場で出入りしていたらしい。
55年に日活の「初恋カナリヤ娘」に出演したことをきっかけに、日活と専属契約を結んだ。シティスリッカーズは脱退することになるが、バンド自体はフランキーなしでもその後3年程続いていたようだ。ハナ肇は「フランキーは日活に行ってからバンドのことはほったらかしで自分のことばかり考えるようになった」と批判していたらしい。
日活では「猿飛佐助」(55年)で、主人公の佐助に扮して初主演。この時、三好晴海入道役の市村俊幸と初コンビを組んでいる。翌56年も「東京バカ踊り」では、役者として出演した水の江瀧子と共演。「ドラムと恋と夢」「デンスケの宣伝狂」「牛乳屋フランキー」などに主演して、日活喜劇路線の看板スターとして活躍した。
また、テレビではこの56年に「わが輩ははなばな氏」という生放送ドラマがスタート。出演はフランキーと堺花子、堺俊哉という実のフランキー一家であった。妻の堺花子は日劇ダンシングチームの出身で芸名は谷さゆりであった。渥美清や谷幹一がゲスト出演し、番組は59年まで続いている。長くなったので、次回に続く。
日活俳優録8 岡田真澄
ニューフェイスや他社からの移籍以外にもスカウトで日活に入ってきた者も勿論いる。
日活の名プロデューサーの一人に水の江瀧子がいる。オールドファンなら、戦前より松竹歌劇団でターキーの愛称で親しまれた「男装の麗人」のことは知っているだろう。個人的には萩本欽一が司会をしていた「オールスター家族対抗歌合戦」(72~86年)の審査員の一人であるすらっとした婆ちゃん、として知ったのが最初だったと思う。
かつて「男装の麗人」だったというのは何となく子供のころから知っていたが、日活のプロデューサーという一面を知ったのは随分後の話である。一緒に審査員をしていた近江俊郎の映画監督としての一面を知ったのもずっと後のことだ。
その彼女がプロデューサーとして日活にスカウトした俳優の第一号が岡田真澄であった。
岡田真澄は35年生まれ。日本人画家岡田稔とデンマーク人の翻訳家インゲボルグ・シーヴァルセンの間に、フランスのニースで誕生した。39年に日本に移住し、戦後まもなく兄であるE.H.エリックがトニー谷のスカウトで芸能界入り。日劇ミュージックホールの舞台に立つようになり、岡田も座長格だった泉和助の元で修業したりしていた。53年に岡田は第6期東宝ニューフェイスに合格している。同期には宝田明、佐原健二、藤木悠、河内桃子などがいた。
ここから日活入りするまでの経緯が今一つ、はっきりしなかったが、どうやら東宝では映画デビューができなかったということのようだ。同期だった宝田や河内が「ゴジラ」(54年)でデビューを飾り、佐原や藤木も活躍し始める中、まだ20歳前のハーフの美形を使う場所がなかったのかもしれない。
一方の水の江も入社して約9か月の間、仕事らしい仕事は何一つしていなかったという。そんな、水の江が日劇ミュージックホールの前を通りかかると、看板に美少年を見つけた。それが、岡田真澄であった。岡田は「古巣」の舞台に立っていたのである。水の江はすぐに岡田に「あなた映画に出ない?」声をかけると、彼は二つ返事で「出ます」と答えた。後に岡田は「東宝に見放されて日活に誘われたんですから、飛び上がらんばかりに嬉しかったですよ」と語っている。
こうして岡田は「初恋カナリヤ娘」(55年)でデビューを飾ったのである。本作ではシティ・スリッカーズのドラマーだったフランキー堺も水の江のスカウトで専属契約を結んでいる。水の江曰く「美少年の岡田の隣にいたら面白そうだった」からだそうである。また、ノンクレジットだが植木等(当時はシティ・スリッカーズ在籍)がマラカスを持って踊っているらしい。
日活では浅丘ルリ子がデビューした「緑はるかに」(55年)や石原裕次郎、津川雅彦をスターダムにのし上げた「狂った果実」(56年)など50本ほどに助演し、59年には退社している。60年代にはかつて「見捨てられた」東宝の映画にも数本出演している。
私生活では、60年にパントマイマーのヨネヤマ・ママコと結婚するが、翌年離婚。62年には瑳峨三智子と婚約したが、結婚には至らなかった。72年に、当時所属していた劇団欅の女優・藤田みどりと結婚し、3人の息子を設けるが94年に離婚。翌95年にJALの客室乗務員だった女性(26歳下)と3度目の結婚をしている。
06年に70歳で亡くなったが、葬儀で弔辞を読んだのが宝田明であった。この時に岡田が実は東宝ニューフェイス出身だったことを知った人も多かったかもしれない。
日活俳優録7 葉山良二
先日、この欄で取り上げた名和宏が亡くなった。85歳だったそうだが、まずは合掌。
名和は第1期日活ニューフェイスの一人であったが、第2期ニューフェイスで一番活躍したといえるのは葉山良二であろう。だが、第2期ニューフェイスの顔ぶれというのは、何故かほとんどわかっていない。葉山以外では、脇役で活躍した柳瀬志郎とミス平凡に選ばれた堀恭子が判明しているくらいで、他では準ミス平凡だった中山愛子、泉桂子も一緒に入社したので、彼女らも第2期ニューフェイスだった可能性がある。
さて、葉山良二は32年生まれで、本名は山口良一郎という。日大経済学部在学中の53年にミスター平凡に選ばれ、その縁で54年の卒業と同時に日活に入社している。ただし、この時点では事務系の社員だったらしい。まもなく俳優に転向し、田中絹代が監督した「乳房よ永遠なれ」(55年)でデビューを果たしている。これ以前に数本ノンクレジットで出演しているようだが、初めて名前が出た本作では、ヒロイン月丘夢路の恋人役といういきなりの大役であった。
翌56年からは、典型的な二枚目としてアクション路線が定着する前のメロドラマに数多く主演し、新珠美千代、芦川いづみ、南田洋子、同期である堀恭子などの相手役を務めた。
「獣のいる街」(58年)、「第三の死角」「暗黒の旅券」(59年)といったアクション映画の主演もあったが、石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎らの台頭で助演に回ることが多くなった。69年にフリーとなった後は、主に東映の任侠ものなどへ出演が多くなる。
72年に大映の女優だった浜田ゆう子と結婚。映画での共演はなかったと思われるが、同じ俳優ならばどこかで出会う機会もあっただろう。スターとしては40歳という遅い結婚ではあった。
テレビでは悪役の印象も強いが、「非情のライセンス」(73~75年)での四方刑事(シカタと読む。前回の安井昌二の本名はヨモと読む)や、「特別機動捜査隊」(76~77年)で、最後の一年のみ登場した日高主任役も印象に深い。
03年に60歳で亡くなっている。
日活俳優録6 安井昌二、小田切みき
初期の日活専属契約俳優の中には安井昌二、小田切みきの夫婦などもいた。
安井昌二は28年生まれで、本名は四方正雄という。日大から51年に俳優座養成所(3期)に入所。同期には小山田宗徳、穂積隆信、愛川欽也、小田切みきなどがおり、52年に小田切みきと結婚している。53年に小田切も出演している「ひめゆりの塔」に四方正夫名義で出演しているらしい。54年の養成所卒業とともに活動を再開した日活の専属俳優となっている。
日活での第1作は田中絹代が監督した「月は上りぬ」(55年)で、この時の役名であった安井昌二をそのまま芸名とした。「ビルマの竪琴」(56年)で主役の水島上等兵を演じ、注目されるようになった。日活では約40作に出演し、60年に松竹に移るが、作品に恵まれず1年余りで東映に移っている。
小田切みきは30年生まれで、本名は山藤美喜(旧姓)という。幼少時より日本舞踊の英才教育を受け、新協劇団で子役として活躍していた。映画初出演は「田園交響曲」(38年)で、富士山君子を名乗っていた。
彼女で有名なのは黒澤明作品「生きる」(52年)で、主演の志村喬の相手役を務めたことであろう。当時は俳優座養成所の1年生で、規定では2年にならないと映画出演は認められていなかったのだが、黒澤映画ということで特別に許されたという。最終候補は彼女と左幸子だったというが、黒澤本人が小田切を選んだ。芸名の小田切はこの時の役名である小田切とよからとったものである。
養成所卒業以降は結婚した安井とともに同じ道を歩み、日活と専属契約を結んでいる。その第1作も安井と同じく「月は上りぬ」(55年)であるが、56年にはフリーとなっているようだ。
この二人の間に誕生したのが四方正美、四方晴美の姉妹であり、ドラマ「パパの育児手帳」(62年)では、一家四人が主役となり共演した。その後、次女の晴美が主演となった「チャコちゃん」シリーズが始まり、その第4作である「チャコちゃん」(66年)で、安井と小田切が再び、その両親役を演じている。
安井は68年に劇団新派に入団し、舞台が活動の中心となったが、テレビドラマにもよく顔を出していた。小田切は一時期、芸能界から遠ざかっていた時期もあるようだが、78~84年にかけては数本のドラマに出演しているようだ。
小田切は06年に76歳で、安井は14年に85歳でそれぞれ亡くなっている。
日活俳優録5 中原啓七、遠山幸子
宍戸錠によれば、日活の専属契約俳優第一号は男優は中原啓七、女優は遠山幸子だそうである。
遠山はまだしも、中原啓七なんて聞いたこともないという人も多いのではないか。正直、自分もそうである。実際、中原は病気ですぐに姿を消したと宍戸の著書には書いてあった。プロフィールも全く不明で、年齢(おそらく当時は若い)や他の映画会社出身なのか、劇団出身なのかも不明である。
再開した日活初期の作品を調べると確かに中原啓七の名前は存在した。制作三作目にあたる「学生心中」(54年)が日活デビュー作と思われる。本作には遠山幸子も出演しており、彼女もこれが日活第1作となる。ポスターにも両者の名前があり、それなりにいい役だったようである。主演は木村功で学生の役である。そういえば、54年といえば「七人の侍」が公開された年であり、木村は若侍の勝四郎を演じていた。
確かに55年になると中原の名前があまり見られなくなる。この辺りが病気休業だったのかもしれないが、そのまま消えたわけではなく「志津野一平 愛欲と銃弾」(55年)に出演しているが殺される役である。「ビルマの竪琴」(56年)にも高木一等兵という割合いい役で出演しており、復活かと思わせたが、その後役は小さくなっていく傾向になり、「海の野郎ども」(57年)が最後の映画出演になっているようである。
遠山幸子は、34年生まれで本名は信国幸子という。52年に第4期東宝ニューフェイスとして東宝に入社。デビュー作は「春の囁き」(52年)のわき役であった。54年に東宝を退社し、前述のとおり日活と専属契約をかわし、「学生心中」(54年)、「猿飛佐助」(55年)、浅丘ルリ子のデビュー作「緑はるかに」(55年)に出演したが、どうやらこの三本だけで新東宝に移っている。つまり日活の専属だった期間は1年にも満たないのである。「修羅八荒」(57年)まで新東宝作品に出演していたので、遠山幸子は新東宝女優イメージを持っている人も多いのではないか。逆に日活のイメージを持っている人はほとんどいないと思われる。その後の彼女だが、フリーとなりテレビの方に活動を移したが、記録からは59年頃に引退してしまったと思われる。
日活俳優録4 牧 真介(真史)
今回は日活第1期ニューフェイスでは宍戸錠よりも活躍していたといえる牧真介である。
牧真介は35年生まれで、本名は佐々木基之という。「日本映画俳優全集・男優編」に項目はあるが、写真もなくわずか12行の解説があるのみである。ウィキペディアに項目はなく、謎の部分が多い役者である。
宍戸錠によると児童劇団の出身らしい。デビュー作は前項の北原隆と同じ「からたちの花」(54年)で、その北原の若くして亡くなる友人の役を演じている。北原の芸名は監督の佐伯清が決めたが、牧については不明である。役名(中野清介)とも違うし。
さて牧真介は「少年死刑囚」(55年)で主演に抜擢され、ヒロイン役も同期の木室郁子が選ばれた。ちなみに本作の主演は当初、日活に移ってきた長門裕之が予定されており、髪も坊主にしたという。しかし、牧に変更となり悔しがっていたところ、同期時に公開される海軍少年飛行兵を描く「七つボタン」にも丁度いい髪形ということで、こちらの主演に抜擢されている。
その後も牧は順調で、「狙われた男」(56年)でも主演、「川上哲治物語 背番号16」(57年)では川上の若い頃を演じ、吉原役の宍戸錠とバッテリーを組んでいる。
この頃、宍戸や牧はテレビにも積極的に出演しており、宍戸は「坊っちゃん」(57年)、牧は「姿三四郎」(57年)でそれぞれ連続ドラマの主演を演じたりもしている。また「ひこばえショー」(56年)という、日活の若手俳優で結成されている「ぐるーぷ・ひこばえ」が出演するバラエティーショーがあった。メンバーとなった1期生は宍戸、牧、名和宏、木室郁子の四人であり、この時点でこの4人が生き残り組で、他が脱落組(17人)のような区分が生まれた、と宍戸が著書で書いている。
この「ひこばえショー」での待ち時間での控室でのやり取りが書かれている。顔ぶれは、宍戸と牧、杉幸彦、葉山良二、そして石原裕次郎だった。そこで牧は「テレビを侮らない方がいいよ」と述べており、宍戸と同じ考えだったという。そこは、唯一牧が喋っている様子が書かれている場面でもあった。
順調に見えた牧だったが、「女を忘れろ」(59年)を最後に日活を退社。義兄の事業を手伝うためだったという。これで引退したと「日本映画俳優全集」には書かれているが、牧真史の名で「黒い傷あとのブルース」(61年)、「波止場で悪魔が笑う時」(62年)でいずれも主演で復帰している。しかし、どちらも大宝というわずか三カ月で姿を消した会社の配給作品であり、長い間フィルムが所在不明となっていた(近年発見)。牧真史=牧真介と言う確定情報はないのだが、ポスターを見る限り同一人物と思っていいだろう。
その後だが「記録なき青春」(68年)という映画に牧真介の名が見られる。同一人物だとすれば、牧真介に戻した理由は、真史だと同じ読みのウクレレ漫談の牧伸二がすっかり有名になったからではないだろうか。