日活俳優録45 藤 竜也
ニューフェイス出身ではない俳優も多くいるが、藤竜也もスカウトによる入社である。
藤竜也は41年生まれで、本名は伊藤龍也という。大雑把に言えば、伊藤の「伊」をとっただけだが、それだけで雰囲気が変わるものである。日大芸術学部演劇科在籍中の62年、銀座日劇前で待ち合わせ中にスカウトされたという。俳優を目指していたので、大学を中退して日活入社に踏み切っている。
デビュー作は小林旭主演の「望郷の海」(62年)で、殺されてしまうボクサーの役である。続く「若い疾風」も割かし上位にクレジットされている。それからしばらくは、チョイ役が続き「狼の王子」(63年)で、(新人)の肩書きがついたのが目立つ程度である。64年になっても(新人)付きで、「仲間たち」「間諜中野学校」等で上位にクレジットされているが、強い印象を残すまではいかなかったようである。
出世作と言われるのは「(渡哲也の)嵐を呼ぶ男」(66年)で、藤は渡の弟役である。太田雅子こと梶芽衣子はその同級生役で、本作でヒロインを演じているのは芦川いづみである。杉良太郎がまだチョイ役である。この辺りから助演ながら重要な役も増えていく。
68年には先の芦川いづみと結婚(ちなみに芦川が6歳上)。彼女の項でも書いたが、当時はまだまだ芦川の方が格上であり、会社も反対したが裕次郎らの後押しで、結婚が実現し芦川は引退し家庭の人となった。
その分、翌69年にはアクション映画を中心に19本もの作品に出演する。主演作こそないが、日活アクションに不可欠な存在とされるようになった。そして70~71年の日活ニューアクションと言われる時代には、梶芽衣子らとその中核として活躍。特に「野良猫ロック」シリーズ全五本に出演するなどニューアクションの代表作、ほとんどに出演していた。個人的にも日活時代の藤といえば、この辺りのイメージである。
71年に日活のロマンポルノ路線への移行と共に退社しフリーとなったが、76年に大島渚監督の「愛のコリーダ」に主演。劇中で本番を演じ話題になり、日活時代にはなかった報知映画賞主演男優賞を受賞している。ただし、この影響からか翌77年は俳優の仕事がなかったという。
70年代からはテレビへの出演が多くなっているが、「寺内貫太郎一家」(74年)では、日活からの盟友である梶芽衣子の恋人役で出演。ドラマの中で二人だけシリアスな雰囲気なのが逆に面白かった。
藤で多いのが刑事役である。映画では悪役が多かったが、「新宿警察」(75年)を皮切りに、「大追跡」(78年)、「特命刑事ザ・コップ」(85年)、「ベイシティ刑事」(87年)、「裏刑事」(92年)などで刑事役を演じている。
日活時代には得られなかった主演を年齢を重ねてから得るようになり、近年も「龍三と七人の子分たち」(15年)で東スポ映画大賞の主演男優賞を受賞したりしている。
日活俳優録44 浜かおる(浜川智子)
今回は日活第8期ニューフェイスである。当時(64年)に発表されたのは、浜川智子、兜木美鈴、杉山忠彦、田村清臣、榎本智一、有村道宏の六名であった。まあ、浜川智子以外は知らん、という人が多いのではないだろうか。それでもピンと来ない人は「プレイガール」の浜かおるだと言えばわかる人もいるだろう。
浜かおるは47年生まれで、本名は上記のとおり浜川智子。64年、舟木一夫主演の日活映画「仲間たち」の出演者募集に応募して合格。バスの車掌役で出演したのがデビュー作となる。この後に日活ニューフェイスとして入社したのである。
入社してからの一作目となるのは「花咲く乙女たち」(65年)のようで、これも主演は舟木一夫だが、ヒロイン役は西尾三枝子である。後に「プレイガール」で一緒になろうとは、夢にも思わなかったであろう。同い年だが、ニューフェイスとしては西尾が1期先輩であり、方やヒロイン、方や女工役と役柄に差があったが、わずか二月後の「悲しき別れの歌」では、吉永小百合、浜田光夫に次いで、西尾三枝子、浜川智子がクレジットされているのである。役柄は西尾が浜田の妹で、浜川は小百合の友人である。
日活のヒロインといえば、三人娘のように清楚なイメージがあるのだが、浜川は顔立ちが派手で、日活向きの顔ではないと個人的には思う。そのせいか、前述のようにヒロインの友人役とか基本は助演の人であり、ヒロイン級はあるが正ヒロインとなることは、ほとんどなかった。日活には68年まで在籍していたようである。
テレビも日活制作のドラマには出ていたが、69年に宝塚映画製作のアクションドラマ「プロファイター」のレギュラーに抜擢されている。この作品で芸名を本名から浜かおるに改名している。主演は高城丈二で、佐藤友美、長沢純らが出演していたが、1クール(13話)で打ち切りとなっている。個人的には40年以上前に再放送を見た記憶はあるのだが、浜かおるが出ていたという記憶はなかった。CSでは20年ほど前に放送したらしいが、加入前だったので見れなかったのである(それ以来放送なし)。この「プロファイター」が終わった翌週から(局は違うが)スタートしたのが「プレイガール」だ。
出演のきっかけは脚本家の松浦健郎が、たまたま東宝の撮影所前の喫茶店で浜の姿を見かけたことのようだ。脚本を担当する松浦に勧められ、とりあえず1本だけという話で出演することになったという。それが「プレイガール」の第14話で、「プロファイター」終了から三か月後のことである。まさか、そこから5年間最終話(287話)までレギュラー出演するとは本人も思っていなかったであろう。先ほど、日活向きの顔ではないと書いたが東映ならぴったりな感じがする。69話からは日活の同僚だった西尾三枝子も加わり、彼女も最終話まで出演した。
浜かおるは「プレイガール」が終了してまもない75年頃、女優業から退いたようである。99年に発売された「プレイガール完全攻略」という本の中での対談では元気な姿を見せていたが。08年頃から食道がんを患い、12年に64歳で亡くなっている。
日活俳優録43 山本陽子
今回も、63年入社の日活第7期ニューフェイスから山本陽子である。今や説明不要の大女優といえるが、では日活時代の代表作は?と問われるとパッとは浮かんでこないのではないだろうか。
山本陽子は42年生まれで、本名は同じのようだ。高校卒業後は、野村証券に勤務していたが、63年に知人が日活ニューフェイス募集に彼女の応募書類を送ったところ合格。3年間のOL生活に別れを告げ日活に入社した。既に21歳であったが、若く見える顔立ちで、同期だが5歳下の西尾三枝子と同級生役でも違和感はなかった。しかし、他人が応募して合格したというエピソードはよく聞くが、どこまでが本当かは不明で怪しい人も沢山いる。
デビュー作というか初クレジット作品は同期の西尾、谷隼人、沖田駿一らは「学園広場」(63年)での高校生役であったが、山本は年齢もあってか同時期に公開の「霧に消えた人」(63年)という作品で、二谷英明の同僚OLという役柄だったようだ。初のヒロイン級の役は「抜き撃ちの竜 拳銃の歌」(64年)で、主人公(高橋英樹)の亡き恋人とその敵(金子信雄)の娘という二役を演じている。
しかし、吉永小百合、和泉雅子、松原智恵子という日活三人娘は強力で、どうしても彼女たちの助演に回ることが多かった。また、既にテレビドラマや松竹映画で人気のあった十朱幸代も63年から日活と本数契約を結び出演するようになっており、ほぼヒロイン役を得ていた。ちなみに、十朱は山本と同い年である。
映画ではそれほど目立つ存在ではなかった山本陽子だが、64年にはテレビ出演を始めており「しろばんば」では主役をやり、「光る海」「七人の孫」第二シリーズ(65年)などで茶の間の人気を確立するなど、映画よりテレビでの人気が先行していたのである。
その後も映画とテレビ主演は並行して続けていたが、映画ではヒロイン役もあったが、基本的には三人娘の助演という立場はあまり変わらなかった。日活には71年まで在籍していたが、「三人の女・夜の蝶」を最後にフリーとなった。しかし、既に仕事の中心はテレビに移っていたのである。
やはり、個人的には田宮二郎とコンビを組んだ「白い影」(73年)「白い滑走路」(74年)での印象が強い。二人はこれが縁となり不倫関係となり、当時二人の関係は「公然の秘密」と言われていたという。また、「愛を裁けますか」(82年)で共演した沖田浩之とも噂になったことがある。ちなみに沖田は21歳、山本は倍の42歳だったのである。本気で交際していたと思える時期もあったようだが、結局は破局している。
ご存知かと思うが、田宮は78年、沖田は99年に共に自殺している。そのせいかどうかは不明だが、山本陽子は一度も結婚することなく現在も独身を貫いている。
日活俳優録42 西尾三枝子(+朝風みどり)
今回も第7期ニューフェイスからで、西尾三枝子である。
西尾三枝子は47年生まれで、本名は同じ(旧姓)。63年、高校在学中に日活第7期ニューフェイスとして入社している。
三田明のヒット曲の映画化で本人も出演している「美しい十代」(64年)のヒロイン役でデビューとされていることが多いが、正確には前回も書いたが「学園広場」(63年)という作品に同期の岩谷肇(谷隼人)、吉田毅(沖田駿一)らと出演したのが初クレジット作品であると思われる(その前にノンクレジットでの出演が数本あり)。
スタートこそヒロインに抜擢された西尾だったが、基本的には吉永小百合、和泉雅子らが主演する青春映画の助演であることが多い。彼女たちの友人とかクラスメートといった役柄である。同期である山本陽子とのコンビ出演も多く、「間諜中野学校国籍のない男たち」や「大日本コソ泥列伝」(64年)などは並んでクレジットされている。高橋英樹の「男の紋章」シリーズや「夜のバラを消せ」(66年)などアクション物の助演も多かった。65年には「スカーレットの花」で歌手デビューも果たしており、数枚のシングルを出しているが、ヒットには恵まれなかった。
しかし、67年に日活を離れてからはテレビが活動の中心となっている。日活を辞めたのは、ヌードやセクシー路線への出演を要求されるようになったためだったというが、彼女の出演作で最も印象に残るのはやはり「プレイガール」(70~74年)であろう。4年間もレギュラーで出ていれば当然あろう。彼女自身はさほどセクシーシーンはなかった印象である。当時の所属事務所のマネージャーが東映に出入りしている人だったという関係での出演だったという。
ところで、西尾三枝子が入社した63年から64年にかけて朝風みどりという女優がヒロインにキャスティングされている日活作品が何本かある。芸名からわかるとおり宝塚出身の女優さんだが、実は彼女の本名は西尾恵美子という。宝塚を辞めた後、東映では本名で活動していた作品もあるようだ。日活で朝風名義なのはたまたまか西尾三枝子の入社が決定していたからかどうかは不明だ。その朝風みどりだが、一度本名に戻し、79年ころに西尾美栄子と改名し、共にニシオミエコになってしまったのである。なぜ、本名のエミコではなくミエコにしたのかは謎である。いずれにしろややこしい話である。
日活俳優録41 沖田駿一(吉田毅)
今回は、63年入社の日活第7期ニューフェイスである。その顔ぶれだが、女性二人、男性五人の計七人だという。女性は山本陽子と西尾三枝子で、どちらも女優として成功したといえる。男性は岩谷肇(谷隼人)、吉田毅(沖田駿一)、小宮山玉樹、他二人というわけで、七人しかいないが二人の名は不明である。谷隼人は、東映でスターになり、沖田駿一もそれなりに名の知れた役者になったが、どちらも日活では成功したとはいえない。谷隼人などは、プロフィールから日活ニューフェイスであったという経歴は削除されていることが多いので、日活にいたことを知らない人も多いかもしれない。今回はこの中から沖田駿一を取り上げたい。
沖田駿一は46年生まれで、本名は上記のとおり吉田毅(つよし)という。日活のニューフェイスには珍しいタイプで、とにかく不良とかチンピラの役がよく似合う。ワル顔であり、どちらかと言えば東映っぽいキャラに思える。実際に日活時代もそういった役が多かった。
デビュー作は「帰郷」(64年)となっている資料もあるが、「学園広場」(63年)の方が先のようである。特に役名はないようだが、高校生の役で谷隼人(当時・岩谷肇)や西尾三枝子と共に出演しており、吉田毅名義でクレジットもされている。堺正章やかまやつひろしも高校生役で出演している。二人とも既にスパイダースに加入していた時期である。
しばらくは本名で活動していたが、67年に吉田武史と改め、68年には吉田昌史と改めている。69年に日活を離れ、東宝に移籍し芸名を沖田駿一と改めている。この頃から、テレビ出演も増え始めており、個人的に印象に深いのは「火曜日の女」シリーズの1作である「クラスメート-高校生ブルース-」(72年)で、沖雅也らと共に不良高校生を演じていた。殺人容疑で逮捕されたりしたが、真犯人は近藤正臣であった、というお話。しかし、沖田は認識したのは多分「ウルトラマンA」(72年)のTACの山中隊員役だったと思う。不良とかチンピラ役のイメージが強い彼が正義の隊員役というのは違和感を感じる大人もいたかもしれないが、メイン視聴者は子供なので。
ところで沖田は、同じくTAC隊員を演じていた山本正明、西恵子とは日活時代にも共演しているのである。山本は一時期、日活と契約しており、「月曜日のユカ」(64年)で共演。西は日活から女優デビューしており、「恋のつむじ風」(69年)で共演しており、何故か日活出身者の多い番組だったのである。
その後は、沖田駿一郎と名を改め、主に悪役として活躍していたが、80年代後半に引退。BARの経営などをしていたが、近年は俳優活動を再開し、特撮系の映画などに出演することがある。
日活俳優録40 有田双美子(+第6期ニューフェイス)
今回は、第6期ニューフェイスの話題である。62年に入社したその顔ぶれは以下のとおりである。
熱海弘到、田畑紀一、安西拓人、片野襄、有田双美子、棚橋克子、清原喜代子、辻野房子(萩玲子)、小林洋子、北島友子、樽井釉子、加藤洋美(加藤ヒロ実)の12名である。
ものの見事に全員知らないという人も多いのではないだろうか。正直、自分もピンとくる人は一人もいない。後に有名になった人がいないという点では不作といえる期だったといえよう。
63年頃からのキャスト表などをよく見ると、小さい役だと思われるが辻野房子、加藤洋美、樽井釉子、有田双美子などの名前は結構、確認できる。みんな脇役ばかりだが、この中で唯一大役を得ているのが有田双美子である。
正確なプロフィールは不明だが、上記の合格者が発表されている「日活映画」誌から判断するに、本名は有田文子で、16歳大阪となっているので、45年あるいは46年生まれの大阪出身ということは推測できる。
入社した62年の10月に公開された「若い人」には、上記の女優8人のうち7人(北島友子以外)がクレジットされており、これが公称デビュー作となるようである。ちなみに、全員が吉永小百合の同級生といった役のようだ。その二か月後、6期生のトップをきって「惚れたって駄目よ」のヒロインに有田双美子が抜擢されたのである。主演は桂小金治なのでコメディだが、ちゃんと2番目に名前はクレジットされたようだ。当時16歳(もしくは17歳)にしては幼さをあまり感じさせない顔立ちに見える。しかし、その後は続かず63年9月公開の「浮波の港」で同期の辻野房子と並んで9~10番手くらいに(新人)付きでクレジットされるまで目立つ役はなかった。
あとは、「こんにちは赤ちゃん」(64年)で主人公(山内賢)の幼馴染役くらいが目立つ程度で、この64年に日活を去ったようである。
フリーとなって、芸名を有田双美として東宝の「駅前シリーズ」や大映の「ほんだら剣法」(65年)などに出演。67年には再び有田双美子に戻して「ひとりぼっちにさせないで」で、歌手デビューしている。後に筑紫リナと改名して「星のためいき」というシングルも出している。それ以降のことは不明である。
日活俳優録39 平田大三郎、平田重四朗
脇役ではあったが、それなりのポジション得ていながら、早くに引退してしまったのが平田大三郎、平田重四朗の兄弟である。
彼らの父は平田未喜三といい、俳優の肩書もあるが53~74年の約20年で映画出演は、10本に満たない。太平洋戦争末期から10年間で148人の戦災による浮浪児を自宅に引き取ったり、地元千葉県鋸南町の町長を12年間に渡り務めたりと異色の経歴を持つ。七人の子供がおり、名前の通り三男が大三郎で、四男が重四朗である。水島道太郎は彼らの叔父にあたる。
平田大三郎は39年生まれ。高校卒業後、俳優を目指し叔父である水島の家に寄宿しながら、父と日本映画俳優学校で同期だった脚本家である八木保太郎の関係していた俳優学校に通った。
59年に大映の「第五福竜丸」で映画初出演。61年に日活の「ノサップの銃」に富田仲次郎の息子役で出演し、同年に日活と専属契約を結んだ。「草を刈る娘」(61年)、「上を向いて歩こう」(62年)などの青春映画にも出演しているが、基本的にはアクション映画への出演が多い。「野獣の青春」(63年)では五番目、「関東無宿」(63年)では三番目にクレジットされるなど扱いも大きくなっていった。「帝銀事件 死刑囚」(64年)では、父である平田未喜三と初共演を果たしている(絡みはないけれども)。ここで大三郎は社会部の記者という役であるが、その同僚先輩記者を演じるのが、藤岡重慶、井上昭文、庄司永建という顔ぶれ。三人とも「西部警察」では、ベテラン刑事(庄司は捜査係長)を演じることになる。
まあまあ、順調に俳優人生を歩んでいたが平田だが、「残侠無情」(68年)を最後に俳優を引退してしまう。その後、洋品店経営及び不動産を扱う平田企画の代表取締役に就任。つまり実業家に転身したのである。
その弟である平田重四朗は43年生まれ。重四朗の朗はネット上では「郎」になっているが、「日本映画俳優全集・男優編」では「朗」が使われているので、そっちを優先した。さて、重四朗は63年に日本大学芸術学部映画学科を中退し、劇団民藝に入っている。同年、日活の「俺の背中に陽が当たる」で映画デビュー。籍は民藝にあったため、映画出演は少ない。
「赤いグラス」(66年)では、兄・大三郎と共演。しかも二人で殺し屋の兄弟を演じている。「非行少年 陽の出の叫び」(67年)では、大三郎もなしえなかった主演に抜擢、24歳にして非行少年を演じた。ちなみに本作は藤田敏八の監督デビュー作である。真理アンヌの妹・久万里由香のデビュー作でもあるようだ。これで、映画を活動の中心にするかと思いきや、劇団活動中心で映画は年1本程度の出演ペースは変わることはなかった。71年に民藝を退団するとともに俳優も廃業した。重四朗の映画出演本数は記録では日活作品6本のみである。
その後の重四朗だが、兄・大三郎の経営している平田企画に勤務していたという。これは80年当時の情報なので、平田兄弟の現在については不明である。
日活俳優録38 野呂圭介
今回は日活の脇役俳優の中から野呂圭介である。野呂と言えば、俳優というより「元祖どっきりカメラ」でプラカードを持ってでてくる人というイメージを持っている人が多いかもしれない。
野呂圭介は33年生まれで、本名は坂元義典という。台湾の台北で生まれて、鹿児島市で育ったという。高校を卒業して上京し、松村達雄の劇団創作劇場に研究生として在籍の後、58年日活に入社している。
古い資料などは37年生まれとなっているが、本人の告白によると4歳サバを読んでいたのことで、33年生まれが正解である。58年当時の日活でニューフェイスは年齢は18~22歳という規定があったため、すでに25歳だった野呂は年齢を詐称せざるを得なかったのである。この時、野呂は出身地も鹿児島だと「訛っている」と思われる可能性を考えて、静岡県清水市にしたそうである。
ところで、キネマ旬報の「日本映画俳優全集・男優編」では、野呂は第4期ニューフェイスとして入社したと書かれているのだが、58年6月刊行の「日活映画」誌に発表されている第4期ニューフェイス21人の中には野呂の姿はないのである。以前書いたが、ここでの出世頭は赤木圭一郎である。
野呂のデビュー作は鈴木清順監督の「踏みはずした春」であるが、これは58年6月の公開であり、ニューフェイスとして4月に入社したとすれば、これは異例の速さということになる。野呂は清順監督に拾われた、という表現を使っているので、ニューフェイスには落ちたが、清順が日活引き入れてくれたということなのかもしれない。野呂はこの鈴木清順に師事し、同監督の作品の多くに出演している。
しかし、「殺しの烙印」(67年)をきっかけに清順が日活を解雇される。これにより野呂も日活を辞めることを決意し、69年5月に日活を退社。日活での出演作は約200本に上る。
清順からは逆に「辞めてどうするんだ」と心配されたというが、それを知った「殺しの烙印」の主演でもあった宍戸錠が野呂に「ウチの事務所に来たら?」と誘ってくれたという。先輩だが実は同い年である宍戸錠とは仲が良かったのである。そこに所属して半年くらいで、錠が司会である「どっきりカメラ」が始まったのである。野呂はいわゆる錠の「バーター出演」だったのだという。
78年に持病のメニエール病の療養のため鹿児島に帰郷。九州でローカルタレントとして活動する傍らスナックを営んでいた。95年に芸能界を引退し、陶芸家として活動していたが、09年に映画「黄金花」に出演。現在も陶芸が中心だが、ときおり映画などに出演することもあるようだ。
日活俳優録37 待田京介
待田京介と言えば、東映あたりのイメージが強いと思うが、スタートは日活だったのである。
待田京介は36年千葉県館山生まれで、本名は薦岡康彦(こもおかやすひこ)という。珍しい苗字だが、全国で40世帯弱存在しているようだ。
少年時代は同じ館山に住んでいた極真空手・大山倍達の一番弟子となり空手に打ち込んでいた。中学を卒業すると大山が東京に移るのを追いかけるように東京に移り稽古に励んでいた。高校卒業後は、会計事務員、旋盤工やセールスマンなど様々な職業に就いているが、俳優を志すようになり、俳優座養成所、東宝芸能を経て、58年に井上梅次監督の眼にとまり日活に入社することになった。
同年、井上が監督する「素晴らしき男性」で主演・石原裕次郎の弟役でデビューした。芸名の「待田京介」は前回も書いたが、井上がペンネームとして使っていたものを譲ったものである。続く歌謡映画「船方さんよ」では主演に抜擢されている。その後も「東京午前三時」(59年)等で主演になっているが、赤木圭一郎や和田浩治の登場もあり、助演に回ることが多くなる。鈴木清順監督の「らぶれたあ」(59年)は、クレジットされる出演者が4人だけ(筑波久子、フランク永井、待田、雪丘恵介)という作品である。
61年の「闇に流れる口笛」を最後に日活を退社しフリーとなる。日活には三年強の在籍であったが、さほど強い印象は残していない。
しかし、まもなくドラマ「月曜日の男」(61~64年)の主役に抜擢され、三年続く人気作となり、自身もこちらでブレイクしたといえる。彼が演じたキャラクターは「JJ」こと持統院丈太郎といい、人気マンガ「ジョジョの奇妙な冒険」のキャラ名はこれが参考になっているのかもしれない(無関係かもしれない)。その間も映画は東映や松竹の作品に出演。特に東映の任侠物、ヤクザ映画には60年代半ばから70年代半ばまで、常連のように顔を出している。
しかし、50歳を迎えた86年頃に俳優を引退し、奄美大島に移り住んだという。今世紀になってからは、まれにビデオ映画などに特別出演的に顔を出すことがある。
日活俳優録36 小沢昭一
突然だが、小沢昭一である。二枚目というわけでも(実年齢よりかなり老けて見える)、世間で特別に人気者だったというわけでもないのに監督に愛され、主演映画も存在する役者である。
小沢昭一は29年生まれで、本名は小澤昭一という。まあ字体の違いのみで本名同じといってもよい。麻布中学では同級に大西信行(劇作家)、加藤武、仲谷昇、なだいなだ、フランキー堺などがいたという。
通学帰りに大西や加藤と禁演落語の時節真っ只中の寄席に入り浸り、そこで出会った正岡容(演芸評論家)の弟子となっている。
早稲田大学文学部仏文科に入学し、在学中には大西や加藤と落語研究会を創設した(名称は庶民文化研究会)。また、加藤や北村和夫、今村昌平らとオスカー・グループを結成して演劇活動を始めている。早大在学中の49年には俳優座養成所の二期生となり、51年には初舞台を踏んでいる。
54年に、早稲田の同窓である今村昌平の紹介で、松竹の風俗喜劇「勲章」で映画デビューする。この年、日活が映画製作を再開し、今村を含む松竹のスタッフが日活に移籍したため、小沢も日活と本数契約を交わした。ここで出会ったのが小沢が心酔する川島雄三監督であった。「愛のお荷物」(55年)、「洲崎パラダイス赤信号」(56年)、「幕末太陽傳」(57年)と川島作品に立て続けに出演。
川島のチーフ助監督を務めていた今村も監督になるや小沢を積極的に起用した。「にあんちゃん」(59年)で小沢はブルー・リボン男優助演賞を獲得し、脇役で確固たる地位を築いたが、「エロ事師たちより 人類学入門」(66年)では、今村は小沢を主演として起用したのである。本作で小沢は毎日映画コンクール男優主演賞など各種の賞を受賞したのである。
また、日活の二大路線であるアクション映画、青春映画のどちらにも脇役として出演。当時の小沢はやはり日活を根城にしていた西村晃と出演本数を競い、チョイ役まで含めると年間30本以上に及んだこともあるという。
日活との本数契約が切れた以降は、活躍の場は各社に広がったが全体としての本数は減った。これは小沢が日本の伝統芸能、民衆芸能研究に力を注ぎはじめたためである。
あと、ラジオパーソナリティーとしての印象が強い人も多いと思うが、特にTBSラジオ「小沢昭一の小沢昭一的こころ」は、73~2012年まで39年間続き、放送回数は1万回を超えている。12年夏ごろから体調を崩し入院。番組も過去の傑作選を放送していたが、12年11月16日の回では自宅で録音したというメッセージを寄せたが、これが生涯最後の仕事となった。12年12月にに83歳で亡くなっている。