お宝映画・番組私的見聞録 -73ページ目

ゴールドアイ その3

今回も「ゴールドアイ」(70年)である。初期のころこそ、レギュラーは7人だったので、全員出演していたのかと思いきや揃ったのは第1話と3話の2回だけで、5話より渡瀬恒彦が加入して8人体制となったが、誰か一人は欠けていた。
固定OPは5話までと前々回に書いたが、1話と2話は音楽のみで、3話~5話にかけてはナレーションがついていたのである。「…クールな人間集団ゴールドアイ」ってな感じのものだ。子どもの頃、時代劇、現代劇にかかわらずナレーションといえば、芥川隆行のイメージなのだが、この番組では若山弦蔵が担当していた。当時3回流れただけなので、全く記憶に残っていなかった。W芥川の共演?を見たかった気もする。
9話よりOP形式が変更となり、ボス役の芥川比呂志はアバンでナレーションで作戦の説明を担当するようになり、「この作戦をゴールドアイ〇〇作戦と名付ける」の一言で締め、OP曲へと続く形式に変わったのである。芥川はOPでは紹介されるものの、最終話までその姿を見せることはなかった。ナレーション担当を除くと、その出演回数は全6回であった。
さて、誰が一番出演回数が多かったのか数えて見たのだが、1位に輝いたのは吉田輝雄の19回で、2位が若林豪の16回、3位が宮園純子の15回であった。当初から吉田か若林が主役となる回が多かったのだが、メンバーが増員されても現場リーダーは二人のうちどちらかという回が多かった。11話などは若林と宮園のみが出演という最小人数回である。4位は高松英郎と前回書いたとおり藤岡弘が12回で並んだ。高松はナンバー2の立場で、当時は40歳。1話からのレギュラーでありながら登場回数が少ないのは、おそらく「柔道一直線」と掛け持ちだったからであろう。車先生のイメージで見ている人も多かったかもしれない。
ゲストに目を向けると第2話に登場の山本麟一だが、何故か「山本りん一」とクレジットされている。一時的に改名したのかと調べても、そういう事実はなさそうである。予告編から「りん一」だったので間違ったわけでもなさそうに思える。今でいえば、草なぎ剛みたいなことかと思ったが、当時はPCやワープロの時代ではないので謎である。
吉田輝雄といえば、新東宝はハンサムタワーズの出身だが、同じくハンサムタワーズだった高宮敬二、寺島達夫がゲスト出演。また沼田曜一、万里雅代、鮎川浩、細川俊夫といった新東宝出身者が出演する回には吉田も必ず出演している。
珍しいゲストとしては第7話の「Kとブルンネン」。何奴と思う人も多いかもしれないが、わかりやすく言えば「ヒデとロザンナ」を意識したような日本人男性と外国人女性のデュオである。唄っているシーンが少しあるだけだが、貴重な映像ではないだろうか。Kの本名は鈴木豊明だそうだが、なぜ「K」なのかは謎である。
最後になるが、出演者に待田京介の名が挙げられていることがあるが、ゲスト出演もしていない。実は当時の番宣ポスターに待田の名前も載っていたのである。しかし、その姿が載っているのは初期レギュラーの七人だけである。推察するにメンバー外のレギュラーとして、待田も登場する予定が事情により立ち消えてしまったということなのだろう。

 

ゴールドアイ その2

前回の続きである。「ゴールドアイ」12話から登場したのは藤岡弘と千葉治郎(後に矢吹二朗)の二人。この二人だと「仮面ライダー」(71~73年)を思い浮かべる人も多いと思うが、勿論それより前である。藤岡弘は「仮面ライダー」でデビューしたと思っている人もいるかもしれないが、松竹ニューフェイスとして65年にデビューしており、青春スターとしてこの時点で約5年のキャリアがあったわけである。しかも、「ゴールドアイ」は東映初出演となる番組であり、この時点ではまだ松竹に籍があったのである。
しかし、藤岡は体育会系気質であり、松竹の甘い雰囲気の恋愛映画とか自分には合っていないと松竹を出たがっていたのである。翌71年に「仮面ライダー」の主演が決まると正式に松竹との契約を打ち切っている。
千葉治郎は千葉真一の実弟で、東映のアクションドラマ「ブラックチェンバー」(69年)がデビュー作。「特命捜査室」「新平四郎危機一髪」とアクションドラマが続き、本作への出演となったようだ。藤岡との同時レギュラー入りは偶然だろうが、「仮面ライダー」で藤岡が大けがを負い出演不能に陥った際、緊急出演したのが千葉治郎だった。千葉はそのままレギュラー入りしたが、次の回にゲスト出演したのが吉田輝雄であった。スケジュールなどから考えると最初から決まっていたと思うのだが、「ゴールドアイ」仲間の危機を知り駆け付けたとかだったらいい話である。
「ゴールドアイ」に話を戻すと藤岡は12話からの登場にもかかわrず、12回出演している。つまり最終話までほとんどの回に出演している。ちなみに千葉の出演は6回である。
岩井友見が姿を消し、女性レギュラーは宮園純子ひとりとなっていたが、16話にしてハーフ美女・小山ルミ(役名小川ルミ)がレギュラ-入りする。当時18歳であり、岩井よりさらに1つ若い。ハーフというのはこういったアクションドラマに似合う気がする。モデルとしてスタートし、68年に映画デビュー。女優兼歌手としても活躍しており、千葉と同様に「新平四郎危機一髪」に出演していた。ドリフの加藤茶と噂になったこともあったが、75年に結婚しあっさりと引退している。
とまあ、半年間の放送で11人のレギュラーが登場するが、非常に豪華なメンバーだったといえよう。25話の若林豪、渡瀬恒彦、藤岡弘、千葉治郎の4ショットとかとでも貴重に思える。柴俊夫も加えて、後に刑事ドラマやアクションドラマで活躍する面々が一同に介しているという意味でもっと知られてもいいドラマである。

 

ゴールドアイ

3年半ほど俳優録をやっていた間に、結構見たいと思っていた番組がCSで放送されたりしていたのである。その筆頭だったのが「ゴールドアイ」(70年)である。確か自分が中学生だった頃にその再放送を見たのが最後だった気がするので、実に約40年ぶりの視聴だったのである。自分の記憶とは違っていた部分ももちろんあった。このブログの初期に取り上げたことがあるが、改めて詳しくやってみたい。

「ゴールドアイ」は、同じ東映が制作していた「キイハンター」の二匹目のドジョウ的な作品で、秘密工作機関の名前だ。スタートメンバーはボスに芥川龍之介の長男である芥川比呂志(香川達彦)、サブリーダー的な存在の高松英郎(高井英一)、当時は東映の異常性愛路線で活躍していた吉田輝雄(吉岡輝夫)、二本の時代劇主演ドラマを経ての参加だった若林豪(豪力也)、これが俳優デビュー作だった柴本俊夫こと柴俊夫(柴田俊二)、この中では唯一の東映育ちである宮園純子(宮内景子)、当時19歳で仁科明子の姉である岩井友見(岩崎友子)の七人であった。カッコ内は役名だが、いずれも本人の名前をもじったものになっている。
ボス役の芥川は当時50歳。専ら舞台の人であり、映画やテレビ出演はキャリアの割には少ない。本作以降、ドラマ出演はほとんどないようなので、ある意味貴重な作品かもしれない。しかも9話以降は画面に登場することはなくなり、オープニングのナレーションのみの参加となるのである。
この七人による固定のオープニングは1クールくらいあったような記憶だったが、実際は5回までで終了。このメンバーだとどうしても吉田輝雄と若林豪に活躍が集中してしまう。そのせいかどうかは知らんが、5話で早くも新メンバー渡瀬恒彦が登場する。デビュー作は映画「殺し屋人別帳」であるが、テレビデビューはこの「ゴールドアイ」である。4話の次回予告でも「期待の新人」と紹介されていた。役名は長いことウィキペディアでは大瀬亘となっていたが、自分の記憶ではそのまま渡瀬だった。結果は自分の記憶が正しく、そのまま渡瀬が役名である。下の名も恒彦であることが25話で判明する。
これに伴いオープニングも変動制にチェンジする。全員が出演することはなかったので、その回に出演するメンバーのみが紹介されるようになった。曲自体も9話から変更となっている。
10話までは、活躍場面は少なくても毎回登場していた柴俊夫と岩井友見だったが、11話は共に出演せず、12話からは新メンバーとして藤岡弘(藤弘)と千葉治郎(村山治郎)が登場する。これに伴ってか柴と岩井が出演することはもうなかったのである。つまり降板である。自分から降板しないと思うのでさせられたと思うが、その後に柴も岩井も俳優として大成したのはご存知であろう。
次回に続く。

 

2018年回顧録 その2

新年を迎えたが、回顧録の続きである。CSで大晦日から元日にかけて「寺内貫太郎一家」の一挙放送をやっていた。当時は見ておらず、再放送でもほとんど見ていなかった。今回もちょっとだけしか見かったが、樹木希林(当時、悠木千帆)、西城秀樹に加え、左とん平も出ていたのは認識していなかった。18年は番組レギュラーが三人亡くなったのだなあと改めて思った。朝丘雪路がゲスト出演している回もあった。
声優の方に目を向けると、「サザエさん」のフネ役だった麻生美代子(92)、「コンバット」のサンダース軍曹役が有名な田中信夫(83)、ポパイ役で知られる浦野光(85)といった大ベテランが亡くなった。特に麻生、田中は高齢になってもナレーションの仕事は続け、つい最近までその声を聴いていた印象がある。年末には藤田淑子(68)の訃報も飛び込んできた。
漫画家といえば、「ちびまる子ちゃん」のさくらももこ(53)の死は驚きを呼んだ。他にもベテランの長谷邦夫(81)、古賀新一(81)、石川球太(78)、最近まで連載していたイメージのある土山しげる(68)、あさぎり夕(62)、黒岩よしひろ(55)、国友やすゆき(65)といった面々が相次いで亡くなった。長谷は赤塚不二夫のブレーンを長年務めていた人物。「はせ」ではなく「ながたに」と読む。
脚本家も大ベテランが相次いで逝った。「新幹線大爆破」の小野竜之助(84)、必殺シリーズの吉田剛(83)、「熱中時代」の布勢博一(86)、「布施」ではなく「布勢」であり、「ひろかず」ではなく「ひろいち」である。間違えている人も多かったのではないだろうか。そして橋本忍(100)。「羅生門」「生きる」「七人の侍」といった黒澤作品や「切腹」「日本沈没」「八甲田山」などの名作を手掛けた映画界の重鎮でもある。
100歳超えといえば、映画監督の古川卓巳(101)、作曲家の木下忠司(102)。古川は日活で活躍した監督で「太陽の季節」が有名である。木下忠司の兄は映画監督の木下惠介で、その兄の作品の音楽を多く手掛けた。ドラマでは「水戸黄門」や「特捜最前線」の劇伴も担当した。意外なところでは、「トラック野郎」シリーズの音楽も木下が手掛けている。
ここに書かなかった人も勿論いるが、全員に合掌。
さて、次回からは通常に戻るが、俳優録は一旦終了したので、ドラマや映画になると思うが、過去に取り上げた作品をもう一度取り上げるケースが多くなると思う。ネタ切れと言えなくもない。

 

2018年回顧録 その1

2018年も恒例となっている回顧録をお送りする。
2018年に亡くなった俳優で最も印象に残っているといえば、津川雅彦(78)、朝丘雪路(82)夫妻ではないだろうか。4月に朝丘が他界すると、それから約4カ月後の8月に後を追うように津川も他界している。夫婦生活は45年に及んだが、09年からは別居生活を送っていたようだが、朝丘の認知症と診断されるとまた同居して、介護にあたっていたという。
その津川と松竹時代を共に過ごしたのが三上真一郎(77)である。津川や小坂一也、山本豊三らは美少年系と言われていたが、三上は不良少年という感じであった。何故か小津安二郎によく起用されていた。7月に亡くなっていたが公表されたのは11月になってからであった。
加藤剛(80)といえば「大岡越前」だろう。約30年に渡って演じ続けていたが、見るからに生真面目そうな顔立ちは役柄にぴったりであった。実際にイメージ通り真面目で穏やかな男だったという。俳優座で同期だった横内正は「加藤剛がいるかぎり上にはあがれないだろう」と思って俳優座を退団したという。その横内は「暴れん坊将軍」で同じ大岡越前役を演じている。
日活出身でいえば、名和宏(85)、川地民夫(79)、大映出身では江波杏子(76)、東宝出身では夏木陽介(81)、星由里子(74)も今年亡くなっている。それぞれの会社を離れた後は、みんな(星を除いて)東映の作品に出ていたイメージが強い。時期はかぶらないが、夏木と江波は「Gメン75」のレギュラーを務めているし、第1回のゲストは川地であった。1月に亡くなった夏木のお別れ会が4月に開かれたが、そこには星由里子の姿もあった。星が亡くなったのはその1か月後のことである。ちなみに星と同じ日(5月16日)に西城秀樹(63)も亡くなっている。
石橋雅史(85)といえば、空手のできる悪役というイメージがあるが、実際に極真カラテ七段、剛柔流九段という腕前であった。ちゃんと演技も学んでおり、実は日大芸術学部演劇科出身である。同い年の名和宏、宍戸錠も同じ日芸の出身なので、同級生とは限らないが一緒に学んでいた可能性もある(宍戸は中退)。名和も石橋も東映の悪役というイメージが強い。
赤木春恵(94)、菅井きん(92)、樹木希林(75)といったベテラン女優も今年亡くなっている。菅井や樹木は若い頃から老け役で、実年齢よりずっと上に見えていた。樹木がまだ悠木千帆だった頃。老けメイクをしていなくても個人的には中年っぽく(20代だったはずだが)見えていた記憶がある。夫が内田裕也というのが意外に思えたし、さらに前の夫が岸田森というのも意外に思えた。
穂積隆信(87)、常田富士男(81)、左とん平(80)といった個性的な脇役も今年の物故者である。ひとまず合掌。

さて、今年の更新はこれで終わりである。来年は、年をまたいでしまったが、今回の続きからスタートしたい。

 

日活俳優録50 榎木兵衛(木夏衛)

今回で日活俳優録は50回目ということで最終回である。そのトリを飾るのは榎木兵衛だ。日活通でない人からは「誰やねん?」というツッコミが入りそうだが、名前は知らなくてもその特徴のある長い顔は一度は見たことがあると思う。何しろ「日活映画に一番多く出演した男」(本人談)なのだから。
榎木兵衛は28年生まれで、本名は榎本兵衛という。一瞬、同じに見えるが「木」が「本」である。熊野海賊の子孫とかで家は漁業についていたが、父親は厳格だったといい、その反動で極道息子であったらしい。造船会社に勤めた後、50年に東映京都撮影所に入社。53年に大部屋稼業に見切りをつけ上京し、一日二百円のエキストラを二年間つづけ、55年に日活に入社している。初めてその名がクレジットされたのは「丹下左膳 昇龍の巻」(56年)のようだが、実は日活の映画製作再開第1作である「國定忠治」(54年)にもクレジットなしで、出演しているという。つまり入社前からエキストラとして日活作品に出演していたということであろうか。
基本、大部屋生活は変わらず名前はクレジットされたりされなかったりが続き、その風貌からチンピラ役が多かった。ちゃんとした役名がついた役は「快傑耶茶坊」(56年)が最初のようである。
59年頃から出演本数が増え始め、62年にはノンクレジットも含めるとその数40本に達している。「若くて悪くて凄いこいつら」(62年)では、火だるまになる決死の撮影を引き受け、監督(中平康)から二万円の祝儀を貰ったという。64~65年は何故かノンクレジットの作品が多かったが、出演本数が落ち着いてきた66年あたりからは、ほぼ名前はクレジットされるようになっている。
「ハレンチ学園 身体検査の巻」「タックル・キッスの巻」(70年)では、いずれもヒロインである児島美ゆきの母親(父親ではない)をもちろん女装して演じたりしている。
日活がロマンポルノ路線に転じた71年以降も日活に残留していたが、テレビで使ってもらえなくなるからと、木夏衛と改名しているが後に元に戻している。74年に日活を退社してからは、テレビが活動の中心となっていた。
晩年は三谷幸喜の作品に起用されることが多かった。2011年にも三谷が監督の「ステキな金縛り」に出演しているが、翌12年に84歳で亡くなった。

3年3カ月かけて、主要6社の俳優録をやってきたが、これで取り敢えず終了の予定である。また、個々の映画やテレビドラマに戻ろうと思うが、映画会社所属でない俳優もいるのでそちらをやることがあるかもしれない。

 

日活俳優録49 杉良太郎

日活出身者ではあるが、日活のイメージがあまりないスターいえば第一に杉良太郎であろうか。この人の場合、映画スターというよりもテレビからのスターと言えるのでその印象は当然かもしれない。
杉良太郎は44年生まれで、本名は山田勝啓(かつひろ)という。幼少時より歌手を目指し、各地ののど自慢などに出場していたという。18~20歳にかけては、カレー屋に勤めており、三年間は三食ともまかないのカレーばかり食べ続けていたらしい。
64年に作曲家の市川昭介の門下生となり、65年に「野郎笠」で歌手デビューを果たした。しかし、本人的には不本意な売り方をされた上に、全く売れずテレビ出演の際はギャラどころか逆に多額の金品を要求されたと後に語っている。そんな中、翌66年にドラマ「燃えよ剣」で沖田総司役に抜擢され俳優活動をスタートさせる。その主題歌も杉が担当している。ちなみに、近藤役は小池朝雄、土方役は内田良平であった。放映局が東京12チャンネル(現テレビ東京)で、1クール放送であったこともあり、同タイトルでは栗塚旭主演の70年版の方が有名であろう。
経緯は不明だが、この66年から日活に所属。テレビから映画へと当時の通常とは逆パターンで映画にも出演するようになった。映画デビュー作は前項の橘和子と同じ「続東京流れ者 海は真っ赤な恋の色」で、二作目も橘和子と同じで「渡哲也の嵐を呼ぶ男」(66年)であった。映画では助演が続く杉であったが、翌67年にはNHKの時代劇「文五捕物絵図」の主演に抜擢される。竹脇無我、栗塚旭と主演予定者がいずれもスケジュール等の都合で出演できず杉にお鉢が回ってきたものだが、番組は1年半続き杉もすっかりスターとなった。ここで、後に「水戸黄門」でも一緒になる東野英治郎と共演している。
日活が制作するドラマ「喧嘩太郎」(68年)でも主演に抜擢され、映画よりもテレビがメインとなるのも自然である。映画では助演が続いていたが、「花の特攻隊あゝ戦友よ」(70年)では、浜田光夫や藤竜也を抑えてついに名前がトップにクレジットされる。つまり主演である。ここでの長谷川明男の役名は山田勝彦といい、故意か偶然か前述の杉の本名とは一字違いである。
ここで、杉はフリーとなったが71年の9月に「朝霧」という作品が公開されている。本作では和泉雅子が主演で、杉もその相手役として二番目にクレジットされており、彼も主役と言ってもいいかもしれない。しかし、何故か梶芽衣子が改名前の太田雅子名義でクレジットされている。実はこの作品は68年に作られており、3年間お蔵入りになっていたらしい。日活はこの7月に一般映画の制作を停止し、11月からロマンポルノがスタートするが、その合間を埋めるように公開されたのである。しかも都内では浅草か八王子くらいでしか上映されなかったという。
これ以降の杉の活躍はここで書くまでもないが、日活ではそれほど強い印象を残していいないのである。

 

日活俳優録48 橘 和子

ニューフェイスやスカウト以外にも、〇〇の相手役募集といったオーディションがきっかけにデビューするケースもある。渡哲也の相手役募集で合格してデビューしたのが橘和子である。
橘和子は50年生まれで、芸名っぽい名前だが本名である。姉は大映の女優だった姿美千子(本名・橘郁子)で、姉の影響で早くから女優を志したという。北海道生まれだが、中学生の時に家族とと共に東京に転居。66年、雑誌「女学生の友」主催の「ミスす・ジュニア・フラワーコンテスト」でグランプリに輝き、ファッションモデルとして活動する。この時の準グランプリが早瀬久美で松竹にスカウトされている。
同年、前述の渡哲也の相手役募集のオーディションに合格し、11月の「続東京流れ者 海は真っ赤な恋の色」でヒロイン役で映画デビューを飾っている。松原智恵子を差し置いての第一ヒロインである。続く「渡哲也の嵐を呼ぶ男」(66年)でも渡と共演。
翌67年1月に公開された舟木一夫主演の「北国の旅情」が出演第三作となる予定で、当時の劇場の特報予告にも橘はしっかり登場し、ポスターにも十朱幸代、山内賢と並んで映っており、名前も二人と並んで載っているのだが、公開された作品には彼女は出演していないのである。もちろんクレジットもされていない。真相は謎だが、役そのものがカットされたということだろうか。しかしチョイ役ならともかく、ポスターでも三番目に名前が載っているような役がカットされることがあるのだろうか。しかし、翌月公開の高橋英樹主演の「新・男の紋章 若親分誕生」や渡哲也主演の「星よ嘆くな勝利の男」では、何事もなかったように共に二番目にクレジットされるという好調ぶりであった。
このままヒロイン街道を走っていくのかと思いきや、この後映画出演が減っていくのである。日活がテレビドラマの制作を開始したこともあってか、彼女もテレビへの出演が増えていくのであった。映画に出演しても第一ヒロインとなることはなくなり、脇役に回っている。ドラマ「颱風とざくろ」(69年)には、姉の姿美千子も出演し、姉妹共演が実現した(絡みがあるかどうかは不明)。
そして、69年12月に読売ジャイアンツの左腕エース高橋一三と結婚して引退してしまう。よく考えるとまだ19歳である。きっかけは不明だが雑誌とかテレビの企画とかで対談でもしたのだろうか。約三年という短い活動期間だったため橘和子を知らないという人も多いかもしれない。ちなみに姉の姿美千子も71年に、やはりジャイアンツの投手である倉田誠と結婚して引退している。

 

日活俳優録47 梶芽衣子(太田雅子)

芸能人の改名というのはよくあるが、中でも大成功を収めたと言えるのが梶芽衣子である。
梶芽衣子は47年生まれで、本名は太田雅子という。ちなみに市川雷蔵の妻も太田雅子である。実家は神田の老舗寿司屋となっていることが多いが、これは事実ではないという。父は調理師であったが、会社側は「調理師じゃ面白くないから寿司屋にしよう」ということになり、以後そういうプロフィールとなった。高校時代に高橋圭三のプロダクションに所属し、「おのろけ大合戦」(65年)という番組で高橋のアシスタントをしていたところをスカウトされ、同年の高校卒業と同時に日活に入社した。
本名の太田雅子を芸名として「悲しき別れの歌」(65年)に脇役でデビューを果たす。3作目の「青春前期 青い果実」で、子役スターだった太田博之とのW太田で主演となり売り出された。「太陽が大好き」(66年)等では、浜田光夫と主演するなど好調なスタートだったが、気が強そうに見える風貌が日活青春映画の雰囲気に合わないのか、脇に回ることがほとんどとなる。以降の3年間は純情ヒロインの引き立て役など不遇ともいえる時を過ごしている。
しかし、日活も任侠ものをやるようになり「日本残侠伝」(69年)に出演した際、マキノ雅弘監督から梶芽衣子という芸名を与えられる。当人のイメージにも合った改名は大成功し、任侠ものはもちろん、日活ニューアクションの不良ヒロインにもかかせない存在となった。特に「野良猫ロック」シリーズ(70~71年)には全5作に藤竜也と共に出演し、人気を得た。元々不良少女役は日活にはいないからと目指したものであった。ちなみにシリーズ4作目の「マシンアニマル」に歌手で出演している太田とも子は実妹である。それもつかの間、71年日活がロマンポルノ路線に転じることが決まると日活を退社してフリーとなった。
そんな時、東映では藤純子が引退したので、その後釜にと梶に白羽の矢を立てた。こうして72年、梶は東映に入社する。そこで梶が主演尾「女囚701号 さそり」が大ヒットして、シリーズ化されることになる。実は当時、婚約者がおり同棲もしていたため、梶はシリーズ3作目の出演を断ろうと揉めたりした。結局、「さそり」は4作作られたが、縁談は破談となった。ケンカ別れのような形で東映を退社したが、その後も東映作品には出演している。
婚約者と別れる際、彼から「誰とも結婚するな。一生仕事を続けろ」と言われ、梶はそれを守って現在も独身のままである。後に、その婚約者からのDVがあったことも告白している。

その後の活躍はここに書くまでもないが、やはり「鬼平犯科帳」(89年~16年)の密偵おまさ役が印象に残っている人が多いのではないだろうか。2016年まで28年間に渡って出演し続けていたのである。

 

日活俳優録46 前野霜一郎

今回は前野霜一郎である。名前だけではピンと来ない人もいるかもしれないが、児玉誉志夫邸にセスナ機で特攻して死んだ俳優といえば、思い出す人もいるのではないだろうか。彼の出演作で最も有名と思われるのは「野良猫ロック ワイルド・ジャンボ」(70年)で、現金強奪を試みる犯人グループの一人<デポ>という役ではないだろうか。その仲間が藤竜也、梶芽衣子、夏夕介、地井武男という中々のメンバー。確か、自分が高校だか中学だかの頃にテレビで本作を見たと記憶しているが、一人だけ知らないヒゲ男がいるなあと思ったのが前野であった。若干頭の弱い役だったせいもあってか、個人的にはアホっぽいイメージがついてしまって、とてもあのような事件を起こすようには見えなかったが、実は中々の経歴の持主であった。
前野霜一郎は46年生まれで、本名は前野光保という。59年に劇団ひまわりに入団し、62年に高校に進学。同年日活の「目をつぶって突走れ」で子役として映画デビューした。芸名もこの時点から前野霜一郎である。ちなみに主演は当時子役の渡辺篤史で、東宝に移る前の酒井和歌子も出演している。
その後も、日活で「潮騒」(64年)や「青春前期 青い果実」(65年)といった青春映画に出演している。その一方で高校を中退して、舞台芸術学院に入り、67年に演技の勉強のため渡米。カリフォルニア大学の演劇科で聴講生となっている。この年、女優の黒沢のり子と結婚しているが、タイミング的には渡米の前だったと思われる。帰国後は、日活ニューアクションのバイブレイヤーとして、前述の「ワイルド・ジャンボ」や「新宿アウトローぶっ飛ばせ」(70年)等に出演した。
日活がロマンポルノ路線に転換した後も、日活に残留し、「団地妻昼下がりの情事」(71年)や遺作となった「東京エマニエル夫人個人授業」(75年)等に出演し主力男優として活躍した。事件の際「ポルノ男優」と書かれたのは間違いではないが、当時の仕事の主力がロマンポルノだったためである。私生活では70年に黒沢と離婚し、72年にアメリカ人女性と再婚している(後に離婚)。
76年3月、前野は大物右翼のフィクサーと言われていた児玉誉士夫の邸宅に撮影用に借りていたセスナ機で突入して死亡した。29歳であった。前野は敵対する左翼思想の持ち主ではなく、むしろ右翼活動家であった児玉を尊敬し、三島由紀夫にも心酔していたという。ロッキード事件で児玉に裏切られたと感じた前野は、彼に天誅を下すべきだとの考えから特攻に及んだと考えられる。実際に神風特攻隊の特攻服を身に着けていたそうである。無線から聞こえた最後の言葉は「天皇陛下万歳!」だったという。この事件はアメリカでは「最後のカミカゼ」と報じられている。
面識があったかどうかは不明だが、この事件をうけて菅原文太が「前野光保君」というコラムを「ユリイカ」に寄稿している。