松竹俳優録28 桑野みゆき
そもそも松竹ヌーベルバーグと言われるようになった最初の作品が大島渚監督の「青春残酷物語」(60年)であり、その主演女優が桑野みゆきである。
桑野みゆきは42年生まれ。母親が戦前に松竹女優として活躍した桑野通子であることは有名だが、31歳の若さで子宮外妊娠のため亡くなったのは46年のこと。みゆきはまだ3歳であり、母親が有名女優であったことを知ったのは小学生になってからだという。
54年に日活の「緑はるかに」の子役募集に応募(公開は翌55年)して、最後の七人にまで残った。選ばれたのはご存知、浅丘ルリ子であったが、桑野みゆきもノンクレジットではあるが出演しているという。ちなみにこの時の最終候補というのが浅丘、桑野の他、山東昭子、滝瑛子、榊ひろみ、田村奈己というみんな後に女優となった錚々たるメンツだった。みんな当時10歳~13歳で、最年長の15歳だった久保田紀子と浅丘で最終的には争われたという。ちなみに久保田も大映女優となっている。
さて、桑野みゆきはこの後、東宝の「柿の木のある家」(56年)や日活の「飢える魂」(56年)等に出演。まだ14歳の少女を巡って、東宝、日活そして松竹が引き抜き合戦を展開したという。結局、母と同じ松竹を選び、57年に専属契約を結んでいる。
松竹でのデビュー作は「正義派」(57年)という作品で、出番は2シーンのみであった。また、この年には自らの作詞である「あの日のお母さん」という曲でレコードデビューもしている。
初主演となったのは「野を駈ける少女」(58年)で、相手役だった山本豊三とは「純愛コンビ」として売り出され、当然共演も多かった。ここまでは、順調に活躍はしていたものの作品的にも演技的にも注目すべきものはない、と「日本映画俳優全集・女優編」には書かれている。
そこで「青春残酷物語」である。清純派のイメージをかなぐり捨て演技的にも注目を浴びたのである。大島は「太陽の墓場」も、桑野主演で考えており、桑野自身も意欲的だったのだが、清純派のイメージが壊れるのをよしとしない関係者のつぶれ、前回書いたように炎加世子が抜擢されたという経緯があったのである。
松竹では、この後も大船メロドラマと言われる清純なヒロインといった役柄がほとんどであったが、彼女は結構他社の作品にも出演している。東宝の「僕たちの失敗」(62年)や大映の「駿河遊侠伝・度胸がらす」(65年)、日活の「夜霧の慕情」(66年)東映の「残侠あばれ肌」(67年)といった具合である。中でも黒澤明作品である「赤ひげ」(65年)への出演は有名であろう。
松竹への企画の不満を持っていた彼女だったが、松竹の「堕落する女」(67年)で主演となり娼婦にまで身を落とす役柄を演じ、再びメロドラマのヒロインからの脱皮をはかるかに思われたが、実はこれが彼女最後の映画出演となったのである。
本作が公開される直前に結婚し、引退してしまったのである。相手は食品会社の副社長で大恋愛であったらしい。もちろん周囲は猛反対していたようだが、25歳という若さで芸能界を去っっていったのである。80年の情報では、一男一女の母として主婦業に専念していたというが、後に離婚記事が出ている。実際のところは不明である。