松竹俳優録32 菅原文太 | お宝映画・番組私的見聞録

松竹俳優録32 菅原文太

菅原文太といえば、新東宝か東映で名前を挙げるべき俳優なのだが、あえて松竹での菅原文太である。
知っている人も多いと思うが、61年に新東宝が倒産した時、ハンサムタワーズ(文太、吉田輝雄、高宮敬二、寺島達夫)の面々は、揃って松竹に移籍している。
三上真一郎によれば、正確には大船に来たのは文太、吉田、高宮の三人で、寺島は何故か一人だけ京都の方に行ったのだという。しかも三人を大船に売り込みに来たのは桑野みゆきの父だったという。
桑野の父・芳郎は森永製菓の企画部に長年つとめ「森永スゥイート・ガール」の生みの親でもある。桑野通子はその一期生であり、そこから恋愛にまで発展したようである。芳郎は戦後、森永を辞め「桑野芸能社」を設立していた。マネジメントに至った経緯は不明だが、桑野父が彼らの売り込みに現れても不思議はなかったのである。
松竹が本当に欲しかったのは明らかに吉田輝雄であった。吉田は松竹が好む甘い二枚目顔だったからである。すぐに木下恵介、そして小津安二郎からお呼びがかかかっている。
一番、苦渋をなめたのは文太であった。四人の中では主演も数本あり、新東宝では一番実績があったが、男くさいタイプの二枚目であった文太は明らかに松竹の求めるそれではなかったのである。しかも、同様に決して甘いタイプの二枚目ではない寺島や、新東宝時代は単独で主役を得たことがなかった高宮でさえも、松竹では主演を得ているのである。
文太は松竹では出演本数はそれなりにあったが、主演作はなく、木下恵介に呼ばれても前回書いたように「死闘の伝説」では、岩下志麻を襲って逆に殺されてしまうような役もやっている(もっとも、この役は評価が高かったりするのだが)。
ある日、文太と三上真一郎が撮影が終わり飲みにいったらしいのだが、文太が「俺の家に行こう」と三上を横浜のマンションに招いたのである。三上によれば、隣の部屋に誰かいたようだったというが、当時なら星輝美だったのかもしれない。
それはさておき、酔った勢いもあったのか文太は三上にこう言ったという。「こんな筈じゃなかったんだ!」「こんなことなら松竹に来るんじゃなかった。約束が違う、松竹は冷たい!汚い!」と低くすすり泣いたという。
三上の想像だが、松竹は文太に美味しい話をしていたようだ。しかし、扱いは明らかに他の三人より下で本人も悔しい思いをしていたのであった。
しかし、65年に安藤昇が入社。意外なことに安藤昇を映画界に引き込んだのは松竹なのである。それには高宮も関わっていたという。安藤と文太は立て続けに共演し、文太は安藤のもとに居候するようになったという。
安藤はまもなく東映に移り、文太も東映京都撮影所で俊藤浩滋に会い東映入りを勧められ移籍を決意したのである。松竹は文太を重用していなかったのにもかかわらず、中々東映入りを認めなかったという。半年かけて説得し、67年秋ようやく松竹を円満退社したのである。実は重用されていた吉田や寺島の方が先に松竹を去っていたのである。
東映へ行ってからの活躍はご存知のとおりである。