井上ひさしさん『新東海道五十三次』読了
井上ひさしさん「新東海道五十三次」を読んだ。
感想文らしい感想文は書けそうにない。
強いて書くとすれば、……いや、どうやら書けそうにない。
閉塞感を打ち破るのが旅なら、僕はどこに旅に出ようか?
過去への旅
蝉と言うのは、哀れ、と言おうか、不思議と言おうか、七年間は土の中で生活して、地上ではせいぜい二週間しか生きられない。
一体、何の為に産まれてくるのだろう?
そんなの蝉の勝手である。
じゃあところで人は、なぜ、産まれてくるのだろう?
井上ひさしさん『太宰治に聞く』
学生のころ、井上ひさしさんの『太宰治に聞く』を読んだ。
そのころの私は、とにかく沈んでいたので、自然、暗い方へ、暗い方へ思考が向かっていた。攻撃的な思考にも囚われていたと思う。(辛いときは、無理に明るくなろうとすることはない、自分と調和するものを探して、居心地のいい場所を探すこと、それも生きていくうえでの一つの知恵だろう)
太宰治さんの作品では「人間失格」や「如是我聞」などがお気に入りだった。
『太宰治に聞く』は、私にとって、サウロ(パウロ)がキリストに出会ったほどではないにしろ、なかなかに刺激的・衝撃的なものだった。
太宰治さんのペンネームの由来であるが、これは ハイデガーが唱えた「現存在」と訳される、「ダーザイン」という概念から来ている、という説があることを紹介されていた。
「ダーザイン」とは「存在を問われる場」という意味で、「存在を問われる場」を持つ生き物は、人間だけである、という思想らしい。
あるいは「人間が産まれ落ちたときから背負っている」「堕罪」をもじったもの、という説もある、という。
「原罪」を背負って産まれてきた我々は、「現在」を生きている。
太宰治さんは「人間は、恋と革命のために生れて来たのだ」とさらっと言ってのけている。
では、私は?
井上ひさしさんの講演
やはり私が学生のころ、井上ひさしさんが母校に講演に来られた。
そのときだったと思うが、「(これまでは知識の時代だったが、)これからは知恵の時代」とおっしゃっていた。
今よりも、少しでもましな世の中を築くには、一人ひとりの知恵の集積ーー一人ひとりが知恵を持ち寄ることーーが必要なのだ。
私に出来ることは、せいぜい「優れている」と思われた知恵を引き続き紹介していくことぐらいだろうか。
よきものを集め広める飴風呂の蜜蜂に我ならんと欲す
「人間失格」については、機会を改めて書きたい。
おまけ
こちらの記事からの連想だ。
臥薪嘗胆。
ボクサーは、体で受けた傷を心に刻み、敗戦の屈辱をけして忘れない。
とんぼ。
君もまた敗れた者、その魂だね。
そのトンネルをくぐれば、君はきっと、龍になれる。
少なくとも僕は、そう信じたいんだ。