Special thanks to異界ハンターさん
どなたかの説に、「人間失格」の主人公・大庭葉蔵は「人間」を「失格」したおかげで「神格」を得ることが出来た、というものがある。
ところでギリシャ神話では「エロス」の矢で射られた者は、目の前のものを美化し、神の座にまで押し上げると言う。
小説中の「京橋の小さいバアのマダム」もまた、「エロス」の矢で射られた者の一人だったろうか。
「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」
大庭葉蔵自身、天国に憧れていた節がある。
「僕は、女のいないところに行くんだ」
ミルトンさんの『失楽園』によれば、天使には男しかなれない、という。
「女のいないところ」とは、天国のことだったのである。
「人間失格」の奥行き~三葉の写真は三本の矢~
「シャッター」と言う名の矢もて射抜きしは
「あなた」じゃなくて「私」のハート
「写真」というものは、不思議なものだ。
撮影者は被写体を撮影することによって、「被写体」を、彼や彼女がもともと居た場所から引き離し、いったん命を奪うが、別の場所に連れてきて、再び命を吹き込む。
撮影者は破壊し、創造する。
撮影者は被写体の心を奪わんとして、被写体に心を奪われる。
深淵を覗き込む者は、同時に深淵に覗かれている。
名も無い撮影者が放った三本の矢ーー三葉の写真ーーは、いまでも作品に奥行きを与え続けている。
(ちなみに、お察しの通り私自身は全く写真撮影のセンスもスキルもツールも持ち合わせていない。)
まとめ~「人間失格」は「シン・新約聖書」~
神の子キリストは、「ユダヤの王、万歳」と嘲弄、誤解され死んでいく。(「新約聖書」)
一方、葉蔵は傍から見れば「人間失格」者なのに、「神様みたいないい子」として死んでいく。(「人間失格」)
両者は極めて対照的だ。あたかも写真そのものとネガフィルムとの関係のように。
太宰治さんは「人間失格」を「シン・新約聖書」として描いたのかもしれない。