ライターじゃない、アイドルだ -5ページ目

6.パチンコ起業編(1)

【目次リンク】

1.はじめてのパチンコ編(1989年~)

https://ameblo.jp/tencyou7777/entry-12396112976.html

2.上京パチンコ編(1989年~)

https://ameblo.jp/tencyou7777/entry-12396833601.html

3.パチンコ攻略編(1991年~)

https://ameblo.jp/tencyou7777/entry-12397911333.html

4.パチンコ企業就職編(1994年~)

https://ameblo.jp/tencyou7777/entry-12400413287.html

5.パチンコ店長編(2000年~)

https://ameblo.jp/tencyou7777/entry-12403314011.html

6.パチンコ起業編(2006年~)

https://ameblo.jp/tencyou7777/entry-12405941148.html

 

 

 

12年間勤めた会社を辞めたが、生きていく為に仕事をしなければならない。

 

退社を決意した頃に、前会社で取締役まで務めた方に新規で広告代理店を興さないかと誘われてその話に乗った。

 

広告代理店の業務ならば経験してきたものなのでお手の物だった。

 

周囲の計らいにより、案件は多く確保できた。ざっと年商1億5千万円程。

 

最も案件の多い新聞折り込みチラシから高額なラジオCM制作。屋外広告から各種販促品などを扱った。

 

仕事は文句なしに順調であったが、この時離婚をした。

 

そのショックから、私はただ飯を食べ、仕事を淡々とし、帰って寝ることの繰り返しをするだけの塊となった。

 

パチスロは死んだ目をしながら良く打った。

 

射幸性の強かった4号機が消え、5号機初期から少し経過しエヴァ2作目のまごころ、島育ちなど。

 

パチンコは原作が好きなCRウイングマンを打ち、その後CR初代牙狼が出ても目もくれずCRウイングマンを打った。

 

ただ心が死んでいた。

 

約2年程、生きているのか死んでいるのか分からない状態のまま、淡々と仕事を遂行した。

 

私には自分自身の商売のこだわりがあったが、それを逸脱することがあっても抵抗する力が湧かなかった。

 

こうして運命に縛られたかのように、己の信念も曲げて地獄の底をさまようしかない。

 

その時ひぐらしのオープニング曲「奈落の花」を好んで聴いていた。

 

ただひたすら何度も何度もリピートした。

 

奈落の底にいる自分にお似合いな暗い雰囲気の曲調。だが後半は立ちあがる。

 

「抜けだしてって 悲しすぎる運命から あなたは奈落の花じゃない」

 

ただ息をしている塊の自分に疑問が湧いた。

 

俺はこんな所で、こんな場所で咲いていいのか?

 

疑問は生きる力の始まりだった。

 

そうだ・・・!

 

俺は抜けだす。奈落の底から!

 

 

自分に都合のよい書き方をしているが、私は単に協調性がないのだと思う。子供なのだ。

 

己の思う正義以外は絶対にやりたくないのだ。商売にしても己の美学がある。

 

ならば自身で活動するしかない。

 

 

こうして立ち上げに関わった会社を去り、2008年9月、37歳。

 

神奈川県大和市に広告代理店 株式会社キャストオフを創業した。

 

企業理念は必要とされる会社。

 

必要されるということは自ら営業はしない。

 

頼られなければ必要がないということで消えてしまえばいい。

 

小さなオフィスを構えて最低限の機材を揃え、社員1名、デザイナー4名ほどの会社がスタートした。

 

そんな無茶苦茶な理念ではあるが、周囲の計らいによってどうにかギリギリの売上を確保した。

 

販路を広げる為に、無料で主催広告セミナーも開催し多くのホール関係者様にご参加頂いた。

 

その時にお知り合いになれたとあるホール店長様とは、ありがたいことに今でも関係が続いている。

 

まだツイッターはなくアメブロ最強だった時期だ。

 

業界ブログを始め、ブログを通じて各メーカー様からの仕事を頂いたり、業界関係者の方々、酒パワーのやきとりさんらに知り合うことができた。

 

さらに刺激的な方との出会いがあった。金村龍馬さん。

 

とある繁盛店の功労者であり、現在はそのノウハウをもとにコンサルタント活動をされている方である。

 

私はパチンコ店の業績作りに関しては生意気なことに絶対的な自信があるが、もしこの方と直接対決したら勝てないだろうと思ったのが龍馬さんである。

 

何度かセミナー関連などで活動を共にさせて頂き、現在は疎遠となっているが、また龍馬さんには会って何でもない話がしたい。その近くにいるまじめで立派な経営者の肌勢さんとも。

 

他にもブログ経由でたくさんのパチンコ好きの方とも知り合いになれて、皆で新機種発表会に参加したり、今までになかった活動ができた。

 

会社を興してから3年が経過していた。

 

営業をしないという無茶な方針ながら、周囲の方々のおかげで会社を維持は出来ていたが、広告活動だけでは悶々とするものがあった。

 

元々広告を売っているつもりはない、広告を実施したその先の業績を売っているのだ。

 

やりたい・・・戦いたい。店が欲しい。パチンコ店が欲しい。

 

翼が欲しい。

 

1からパチンコ店を興すには億の金が必要だ。

 

ならば居抜きで格安でできる所を探すしかないということで候補が見つかった。

 

普通の法人なら初期投資5,000万円でやりそうな所、自分なら2,000万円でいけそうな店が!

 

しかしその2,000万円すらない。どうしたものかと悩んでいた所に出資しても良いという方が表れた。

 

小ぶりな街のパチンコ店。視察に行った際は昼の稼働は3名だった。壊滅的である。だから売りに出ているのだ。

 

だが問題ない。

 

歴史を変える新規オープンの投資計画、その後の営業シミュレーション。やがて店が地域の方々に支持されていくストーリーを組み立てた。

 

店名は

 

 

 

街のちょこっとした楽しみを提供する低玉貸専門店だ。

 

全ての計画を練り、後は資金調達の確約を頂くだけであったが、居抜き候補店のあまりの惨状、評判の悪さに出資者の方が絶対にあそこは辞めた方が良いとなり、さすがに気が進まないことをお願いする気はなかったのですんなり諦めることにした。

 

 

そんな時に、ある法人の不振店の店長請負い仕事の話を頂いた。

 

自分で会社を運営しながら、請負契約で店舗営業が出来るならそれでも良いか。

 

営業店から離れて何年も経つが、やるべきことは身に染みついている。

 

知らない店舗で突然今夜から店長やってくれと言われても余裕で対応できるし、むしろ身体が疼いている。

 

私は喜んでその不振店を見学にいった。

 

だが見た途端、膝から崩れ落ちそうになった。

 

なんだこれは。完全なる郊外の中規模店なのに駐車場がほとんどない。

 

店の横に数台分。離れた場所にある駐車場すらわずか30台。

 

根本的に駐車場が足りず致命的な欠陥がある。これでどうやってお客様を呼ぶと言うのだ。

 

視察の結果、業界人の9割は断る話だろうなと思ったが、他の方には「いや9.9割が断る」と言われた。

 

ならば逆に面白い

 

やることに決めた。

5.パチンコ店長編(7)

【目次リンク】

1.はじめてのパチンコ編(1989年~)

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2.上京パチンコ編(1989年~)

https://ameblo.jp/tencyou7777/entry-12396833601.html

3.パチンコ攻略編(1991年~)

https://ameblo.jp/tencyou7777/entry-12397911333.html

4.パチンコ企業就職編(1994年~)

https://ameblo.jp/tencyou7777/entry-12400413287.html

5.パチンコ店長編(2000年~)

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5店舗目の店長担当となるS店に異動した。

 

S店はこの法人の中でも下から数えた方が早い不振店舗だった。理由は圧倒的に立地が悪い。ただそれだけである。

 

入社前にグランドオープン時に一度だけ来たくらいでなかなか通いづらい場所なのだ。

 

ちなみに現在は閉店して無くなっている。

 

営業していた店舗が消えてしまうということはとても悲しいことだ。

 

けれども心の中でS店での辛かった日々、楽しい思い出、出会った人達の記憶は鮮明に残っている。

 

私はS店に着任し、自分なりの方法で少しだけ業績をあげた。

 

 

そして担当店舗を持ちながらにして、数店舗を管轄するエリア長に昇進した。

 

自店だけでなく複数の責任が増え多忙となったが、やりがいは十分あった。

 

担当エリアに自身の考えを浸透させ、各店の店長が結果を出せるようサポートに務めた。

 

 

またこの時、我々には共通の理念があった。

 

-パチンコという娯楽を手軽に楽しんで頂く-

 

単なる出玉もそう、遊技環境もそう、本当の意味で娯楽として楽しめるパチンコを提供したい。

 

我々が自信を持って自社店舗を運営し、そして地元だけではなく他のエリア、つまりは全国に。

 

突然妙な例え話をするが、ラーメン店の店主は何を考えて日々ラーメンを提供をしているのか?

 

自身が本当に旨いと思うラーメンをお客様に楽しんで頂きたいからではないのか。

 

そこでパチンコ店100人の店長に聞きました。自分のお店は大切なお客様やご家族、ご友人に勧められますか?

 

恐らくその答えはノーが過半数を占めるのではないかと思う。

 

根本的におかしいのだそれは!自信を持って勧められないものを何故売っている?

 

ボーダーライン1k20回転の台で13回なんて回転数で打つのは自ら死に行くようなものだ。

 

ゆえに自ら打つのはまっぴらごめんという状況だろう。

 

それは商売とは言わない、単なる搾取だ。

 

我々の扱う店舗は違う。利益率、サービスあらゆる面で自信を持ってご提供できる。

 

そして我々は強い。過去からのどんぶり勘定の営業から脱却し、数字で物事を表現し、理論的に計画を遂行する。

 

そしてある重役の方を中心に志が芽生えた。

 

-全国制覇-

 

今こそ天下布武を掲げて全国に討って出る。

 

我々自慢のパチンコを広め、天下泰平の娯楽を提供するのだ。


我らが織田軍はいきり立った。

 

実際にこの時、現在店舗数トップランクの企業との店舗数の差はまだ追いつけたレベルであったと思う。

 

 

しかし大殿、つまりトップからノーという意思表示が出た。頑としてノーである。

 

確かに約1,000名の従業員を守るのは大変なことだ。むやみに外に出て討って出るのはリスクも大きいだろう。

 

結局、全国制覇の狼煙は上がらなかった。

 

私はこのトップ判断を恨んだ。

 

全国制覇こそがあなたに育てられた私の想いですと書状をしたためたりもしたが、全くの無駄に終わった。

 

それからの社内は三国志演義における終盤のぐだぐだ感に似ていた。

 

複数名のエリア長退社やそれによる組織変更が相次いだ。

 

このままでは約1,000名の従業員の先行きが危うい。

 

トップの考えが変えられない。ならばどうにかしてトップを引きずり下ろす方法はないのか?

 

何とかしなければ。

 

本社での朝礼で、本部機能の多数がいる前で、とある詞を読み上げた。

 

時は今 天が下しる 五月哉

 

明智光秀が信長討つべしと本能寺の変の前に読んだとされる詞である。

 

敵は本能寺ではなく本丸にあり!敵はトップそのものだと思いつめて、頭もおかしくなりかけていた。

 

 

エリア長に昇進してからこれまで3年の時が流れている。

 

その間には本当に色々なことがあった。

 

尊敬できる素晴らしい人物との出会い、新規店舗の立ち上げ。

 

普通に頑張れば結果は出る。業績をあげるのは容易い。だから何だ?

 

ごく一部のエリアだけで繁盛して、それは一体何になるのか?

 

パチンコという娯楽を手軽に楽しんで頂きたいという言葉が、軽くてチンケな飾り物に思えた。

 

「嘘つきが」

 

志を失った空っぽの自分には、もうやる気がなかった。

 

 

しかしながらこの会社には心底感謝している。

 

学歴もなくどうしようもなかった自分に色々な知恵や経験を与えてくれた。

 

カリフォルニアへチェーンストアの調査、フード業界の仕組み作りの研修。

 

パチンコは小売に30年遅れ、フードに10年遅れているという認識の元、様々な勉強をさせてもらった。

 

他には中国へ買い付けに行き国民性の違いを学習したり。

 

それから管理者養成学校も基礎コースより遥かに難易度の高い上級コースを受けたり、普通では経験できないことをたくさんさせてもらった。

 

何よりここで体験した地獄はとてつもなく強烈すぎて、これ以上に辛い職場は他にはないと思える。

 

ゆえにこの先どれだけ辛くても、あの地獄の日々に比べたら蚊に刺された程度の出来事でしかないと確信する。

 

従業員がやる気に満ちていて、礼儀礼節が素晴らしく、模範的な素晴らしい組織だった。

 

そんな場所で本気で本音で本腰で一心不乱に活動できた。

 

本当にありがとうございました。

 

 

そして2006年、35歳。12年間務めた会社を後にした。

 

-次回予告 パチンコ起業編-

5.パチンコ店長編(6)

【目次リンク】

1.はじめてのパチンコ編(1989年~)

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2.上京パチンコ編(1989年~)

https://ameblo.jp/tencyou7777/entry-12396833601.html

3.パチンコ攻略編(1991年~)

https://ameblo.jp/tencyou7777/entry-12397911333.html

4.パチンコ企業就職編(1994年~)

https://ameblo.jp/tencyou7777/entry-12400413287.html

5.パチンコ店長編(2000年~)

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店長復帰、4店舗目に担当したI店で「勝利に一番近い店」というテーマを掲げてリニューアルオープンをした。

 

3店舗目の失態を反省し、泥にまみれながら1年間かけて培ってきた己の全てをぶつけた。

 

無事に新装開店を終え、その後稼働は狙い通りめきめきと上がってきた。

 

いや、予想以上に増えたのである。

 

昼出勤すると店内には今までにない多くのお客様が。事務所に行き副主任に今稼働何人だと聞いて私は答える。

 

は?何でそんな来てんだ呼んでねえよ!と調子に乗る始末。

 

前任者が担当した予算をかけたリニューアルは不発に終わったが、今回は予算をかけずに大成功だ。

 

リニューアルからひと月、ふた月と月を追うごとに稼働は増え、実に2倍近くの客数増となり繁盛店へと変わっていった。

 

 

格好良いことだけではない。

 

ここだけの話、このI店は数年前深夜に外からパチスロコーナーを覗きに行ってモーニングをさらっていた店である。

 

さすがに酷すぎる話なので誰にも言わなかったが、その店の店長になるなんて想像もできなかった。

 

事実は小説よりも奇なりである。

 

 

また、この度の結果は施策のほとんどが良い作用をもたらしたと思うのだが、

 

その内の「金玉作戦」については何の噂も聞くことができず不発に終わってしまった。

 

入れた金玉の数が少なかったのだろうか。

 

その他、追加追加で、状況に合わせてとにかくスピード、手数重視で色々とやった。

 

年末年始にインパクトのある広告をしたくて、幹線道路沿いに大きな店舗駐車場があるのを活かして空中に巨大な広告凧を設置した。

 

無茶苦茶な策であった為、設置には相当苦労した。取り付けが終わったのが12/31大晦日~元旦に変わる頃。

 

前代未聞の空中広告だと満足して帰宅し、翌朝出勤すると風で広告凧はバラバラに折れていた。

 

 

他に最悪なのは私は大ヒット機種を見る目がなかったということ。

 

伝説の名機、パチスロ初代北斗の拳の導入の際、真剣に考えた結果、いらないという決断をした。

 

何枚出るのか分からない7揃いに人は興奮できるのか?報酬が不明なのに喜べる訳ないしウケるはずがない。無理だ。

 

キャンセルできないか交渉するも、今更無理と言われしぶしぶ入れたら御存じの通り大ヒット。後に青ざめた。

 

その前のパチスロ獣王も、こんな良く分からん複雑なパチスロはウケないと否定したり散々である。

 

大ヒット機種の特徴に今までにないシステムで受け入れられたらというものがあるので、頭が過去に縛られていると予想は難しいのだ。

 

ちなみに吉宗は導入しなかった。体感機ゴトさえなければ伝説の名機だと思うのだが、ゴトを完全に防ぐ自信が無い場合、お客様に不利益をもたらしかねない。


そこに目をつぶる訳にはいかない。

 

ゴトのリスクの点を店内に告知した上で、頑として導入しなかった。めちゃくちゃにアツくなれる名機ではあっただけに残念だ。

 

 

そのようなヒット機種も頑張ってくれたが、スタッフも一緒に頑張ってくれた。色々と印象深い思い出がある。

 

役職者でM副主任がいた。彼は気の優しいタイプで、部下に注意ができない人物だった。

 

その部下に可愛らしい外見とは裏腹に気の強い男勝りな女性アルバイトSちゃんがいた。

 

ある時Sちゃんの間違った作業内容をみて、M副主任に注意しろと促したがなかなか動かない。

 

私はそんなM副主任にしびれを切らし、部下が言うこと聞かないなら帰らせろ。俺が全部責任取るから帰れくらい言えと指導した。

 

それからM副主任は考え、覚悟を決めたのだろう。

 

なんとあの気の強いSちゃんに向かって、やる気がないなら帰れ!と言い放ったのだ。

 

Sちゃんの反応は、じゃあもういいです帰りますとあっさり帰ってしまった。やはりそうか。

 

と思った数分後にSちゃんが戻って泣きながら申し訳ありませんでしたとM副主任に詫びてきたのだ!

 

ここまでは良かった。

 

M副主任はもらい泣きしていた。号泣だ。

 

なんでお前も泣くんだよ。

 

よほど不安だったのだろう。しかし想定外にSちゃんは素直で良い子だったのだ。

 

もらい泣きのM副主任により締まりのない形であったが、彼もまた役職者として一つ壁を乗り越えた。

 

 

店舗営業は一人だけの力でどうにかなるものじゃない。

 

関わる役職者、スタッフ、業者様、そしてお客様。感謝と感謝で繋がる物語である。

 

あの時関わった皆は今どうしているのだろうか。

 

幸せであって欲しいと心から願う。

 

 

それから半年程経過した2003年春、32歳。

 

この法人で最後の担当店となる店長5店舗目のS店に異動の辞令がおりる。

 

そして同時に我々が到達した志。

 

社内において「天下布武」を掲げた全国制覇への機運が高まるのであった。