行く河の流れ -40ページ目

行く河の流れ

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

 世界の終わりはいつ
 世界の果てはどこ
 宇宙で最初に輝いた星に聞き
 太陽を追いかけ西へと向かう
 星はさらに先の星を指さし
 太陽は背後から姿を見せる
 人は変わらぬ営みを続け
 いずれ僕は失われる
 世界はどこにあるのだ
 
 今日は僕のおばあちゃんの誕生日であった。今年で89歳になる。さすがに足腰は弱ってきてはいるが驚くほどしっかりしており、普段は一人暮らしもできるくらいである。そのおばあちゃんの家を訪ねた。
 相変わらずとても元気に僕が行くと満面の笑みで迎えてくれる。玄関を入りいつもの椅子に座るといつもの様にお茶を用意してくれ、いつものようにお菓子を勧めてくれる。すべていつもどおりだ。このいつもどおりがとてもうれしい。
 しかし今日は特別なことがあった。僕がお茶を飲んでいると、おばあちゃんがパスポートくらいのサイズの箱を向こうの部屋から持ってきた。その中には写真が数葉、それにおばあちゃんが産まれた時にとったへその緒、初めて切った時の髪の毛が入っていた。へその緒と髪の毛は半紙に綺麗にたたまれ、一番外の紙にはおばあちゃんの名前と産まれた日、それに時刻が丁寧に書かれていた。おばあちゃんのお母さんの字であろう。あるいはおばあちゃんのお父さんの字か。きちんと水引で留められていた。
 「この箱だけはどんなことがあってもついてきた」とおばあちゃんは言った。決してなくならなかったらしい。初めて見せてもらった。大正5年におばあちゃんが産まれた。そのおばあちゃんからお父さんが産まれ、お母さんと結婚し、僕が産まれた。それと一緒に箱の中に入っていた写真には小学生の頃のお父さんが道路で遊んでいた。大切にしまってあった。
 中学生の時に僕ら同級生の内で三国志がブームとなった。はじめはゲームをやっている人が聞いたこともない名前を言い合って遊んでいるのを聞いて「この武将は武力が高いんだ」とか「この将軍は頭がいいんだ」といったことを漠然と覚えていっていたのだが、どうしてもそれだけでは話題についていけず親に言ったところゲームでも漫画でもなく小説の『三国志』なら買ってくれるということになり迷わず本屋へ行った。
 手に取った本は吉川英治の『三国志』であり、全部で10巻ある。なかなかの分量である。購入目的が友達が面白そうに話しているのがうらやましかったということだったのだが、そんなことも忘れててこの物語に没頭していった。
 劉備、曹操、孫権を中心として物語が進むのだが、彼らはもちろんなのだが、その他の登場人物のなんとも魅力的なことか。出てくる人出てくる人がすべて主人公級の個性をもって輝いているのである。すべての登場人物が輝きをもっている物語が面白くないわけがなくそれ以後すっかり三国志ワールドへと足を踏み入れたのである。漫画をはじめゲームやテレビ、更に三国志に関する本を目にすれば飛びつかずにはいられなかった。
 すべての原点になったのが吉川英治の『三国志』であった。高校へ入学した時、浪人時代、大学へ入学した時と節目ではなぜかもう一度読みたくなり、他のことを忘れて読んでいた。今も僕の本棚にきちんと揃って置かれている。日光で少し本は焼けて色あせているが、この中には何百という登場人物が活躍する場面で溢れているのである。
 人間に限りなく近いロボットが完成した。世界最先端の科学技術を持ち寄り、国の枠を超えて世界で一体だけのロボットであった。普通の人には人間かロボットか見分けはつかない。人間とロボットの違いであるとされる「こころ」も完璧にまでプログラミングされそのロボットは「感情」を持っていた。
 人間に限りなく近いロボットは完璧に人間であろうとした。それゆえ、数え切れないほどの失敗を経験した。同じ過ちを何度も何度もくりかえした。成功したことといえば、完璧に人間に近づこうとして、実際に完璧に人間に近づいていることだけだった。
 ある日、人間に限りなく近いロボットは歩道に突っ込んできたトラックに跳ね飛ばされ、病院に搬送された。内部の機関は粉々に砕け散り、快復は絶望的であった。それでも人間に限りなく近いロボットは人間のように生きようとしていた。回路が断絶している部分には他の回路から迂回させてシグナルを送ろうと試みていた。しかし余りにもダメージが大きすぎた。
 世界に一体しかいない、かけがえのないロボットは内部すべての機関の活動が停止した。その後、こころある科学技術者の手によって埋葬され、花が供えられた。人間に限りなく近いロボットは、人間と同等の尊い「いのち」をも備えていた。
 山の学習での活動の一つに「暗夜行路」がある。目隠しをしてロープを頼りに6・7人のグループでゴールを目指すものである。僕も小学生の時に同じく山の学習で行った。ただただ無我夢中でロープを必死にたどってゴールを目指し、そのゴールでわけもわからぬままアメ玉を口の中に入れられた記憶がある。今回その暗夜行路を目隠しを取った状態でサポートする立場で参加し、見ることができた。
 子ども達はスタート前の元気はどこへ消えてしまったのかと言うほど、スタート直後は不安で前へ進めずにいた。口をついて出てくる言葉と言えばグループの友達の悪口ばかり。「早く行って!」「ひっぱるな!」「ちゃんと伝えて!」「早くついてきて!」「もうわからない!」、グループのチームワークなどカケラも見あたらなかった。それでも前に進まなければゴールできない。コースは山あり谷ありのデコボコ、くねくねコース。子ども達は目隠しをされ不安げな顔であった。
 そんな子ども達がコースが進むにつれてここまで劇的に変化するものかと驚くことになる。泣き言ばかり言っていたグループのリーダーは先頭に立ちコースの障害を大声で伝える。「ここに木があるよ!」「ロープをくぐって!」と言っては、次に続く人の手を手探りで見つけ、次に続くロープへと導く。導かれた人はさらに次に続く人へと同じように導く。グループが一つの波のように躍動し一体感を持つようになってきた。前に進めないと言って泣いていた女の子は口をギュッと結び一生懸命に進み、必要とあれば大声で指示を出す。
 ゴールする頃にはスタート直後とはまったく違った面を子ども達は見せてくれた。人が成長する場面とはこんなにも心を打つモノなのかと山の木々を通したやさしい空間の中でしばらく動けなかった。
 子ども達にとっては必死にロープを伝ってゴールしたという記憶しか残らないかもしれない。僕もそうであったように。しかし、その記憶こそが素晴らしい土壌となってさらに新たな経験を育むのかもしれない。どんな風に成長するのか楽しみであり、期待もしている。
 人は足を使って歩く
 森は風を使ってたなびく
 人が口を使って、言葉で語りかけるように
 森はお日様の光をもらって、木漏れ日で語りかけてくる
 人と人は声をだして、おしゃべりするように
 森は葉と葉をすり合わせて、おしゃべりをする
 人と森は語らうことができる
 僕はこの曲が好きだ。
 大声で、みんなで歌って突き抜けることができる爽快感がある。それにも関わらず、なぜか僕の心に触れる切なさを感じるのである。地球の裏側の映画館でこの曲を聴いた時には故郷の日本を思い出した。今、日本でこの曲を聴くと地球の裏側の風を思い出す。生暖かく埃っぽい風。そこで生きる人の顔。
 今朝、子どもたちはこの曲を演奏してくれた。5年生全員で今年の夏から今週末にある音楽祭で発表するためにずっと練習に練習を重ねてきたものであった。ピアノ、アコーディオン、鍵盤ハーモニカ、リコーダー、パーカッション、それに手拍子。一生懸命練習を積み重ねてきた作品を体で感じることができた。心が奮え、空と一体になった。紡ぎ出す音と一体になった。
 やっぱり、好きだ。
 
 僕が今まで生きてきた中で経験したことすべて
 僕が世界からいなくなれば
 それらすべての体験も消えてなくなってしまうのか
 何のための命なのだろう
 宇宙はすべてを観ている
 僕は宇宙へと還る
 Kenny Dorhamのアルバムである。ラテン音楽とJazzを融合させたとか何だとかと説明があるが、僕は音楽的に詳しいことはよくわからない。そんな僕をすっかり虜にしてしまったのがこのアルバムであった。
 Jazzを聴きたいが、何を聴いていいのかわからなかった。お店に行ってもものすごい数の作品があり、その中から手当たり次第に聴いていくということはできなかった。そこで音楽に詳しい友達に聞いてタイプの違うアルバムを10枚ほどリストアップしてもらったのだ。その中にこのアルバムが入っていた。
 出逢いは一瞬。一歩を踏み出すと後は転がるように動き出す。kenny Dorhamのこのアルバムに出逢い惚れ込むことで彼の他の作品も聴いてみたくなる。そうやって聴いている内に同じようなラテン的なJazzを演奏する人の作品も聴き出す。その中にまたお気に入りが見つかって・・・。
 様々に派生する興味も原点には何かしらの出逢いがある。それはおそらくどんな領域の物事であっても同じ。人生の内でどれだけの領域で転がる石になれるだろうか。勝手に転がるのではない。自らの意志で一歩を踏み出し転がるのだ。
 僕の部屋にはお気に入りの椅子がある。この春に実家に戻ってきた時に買ったもので、カリモク60の『Kチェア』である。
 僕の部屋の窓際に置かれたその椅子はとても座りやすく、僕にとってそこは部屋の中でも特に憩いの場所だ。とても真剣に珈琲を愛する珈琲屋さんから珈琲を買ってきてドリップする。そしてお気に入りの椅子を窓の方に向ければ、そこにある景色は謙虚な木々が風にそよいでいる。本棚から気が向いた本を持ってきて、そこに座ってじっくりとした時間を過ごす。
 以前は本を読むときやゆっくりリラックスするときにはベッドや床に寝転がることがほとんどだった。しかしそれだと、「気」も寝転がってしまい結局ダラダラとした時間を過ごしてしまうのである。日も暮れて、寝る気があるときには、まだいいかもしれないが、とても天気のよい日をそのようにして過ごすと部屋にいたことの後悔が残るのである。
 しかし、椅子に座るという姿勢は人間の頭の位置が常に「立って」いる状態にある。部屋でのんびりと過ごしていても「気」は起きた状態なので、本を読むにしても、腰をかけて音楽を聴くにしても「自分で進んでやってる」感があるのだ。
 「休みながらにして能動的に動く」。何か武術の奥義を発見したような爽快感だ。