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行く河の流れ

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

 僕の家は山の中にある。山と言うにはおこがましい。丘での上に建っている。子どもの頃はよく山の中に入って「高オニ」や「氷オニ」、「警ドロ」や「ポコペン」をして遊んでいた。秘密基地を作ったりもしていた。近所の友達ほぼ全員が知っている場所なので全然秘密にはならなかったのだが。木の枝を拾って剣に見立て創作冒険ごっこなどよくしたものである。ちょうどドラゴンクエストが爆発的に売れた時であった。
 久しぶりに山を散歩してみると、とても居心地の悪さを感じた。人が誰一人いないのである。山とは本来そういうものであろう。自然に対する畏れはこの気持ちに由来するのかもしれないなどと考える以前に人に対する不信感を感じた。
 もし現在、山を歩いていた向こうから人が歩いてきたら僕は身構える。通り去る瞬間気持ちの中での緊張感を上げる。一言挨拶でも交わせば全く違った気持ちになるのだろうが。
 山の中は高い空から純粋な空気が葉を通してこぼれキラキラ気持ちいい。人がいないという前提があればその場所でこの空気を満喫できる。実際も人はなかなかいない。心の中に不信人物をつくってしまっているのか、そういう世界になってしまったのか。なにか物悲しい。
 井山宝福寺に行ってきた。岡山県の総社で生まれた雪舟が少年時代に修行し、涙でネズミを描いた逸話で有名な寺である。雪舟は室町時代に活躍した水墨画家で、日本の水墨画を一変させ、後世の画家に多大な影響を及ぼし、画聖ともたたえられる。
 僕は中学校の歴史の教科書に登場してきたという記憶があるのみで、どこか京都や奈良のほうの人だと思っていた。最近になって岡山出身ということを聞き、急に身近になった。
 井山宝福山に雪舟の作品が残っているわけではない。そこには色とりどりの紅葉を見ることができた。秋になり気温が下がると葉の色が変わるという紅葉。その温度差が大きければ大きいほど眩しいほどに鮮やかな色を放つ。
 しかし僕は今まで紅葉を見ていなかった。毎年毎年秋になると色は変わっていた。しっかりと木々は紅葉していた。それだけだった。僕は意識的に観ることがなかったのである。
 この寺にも紅葉があった。赤ワインのような深い赤色、ふわふわした感じのモミジが淡く紅葉しオレンジや黄色、薄い赤色に身を染めている。それぞれの木々がそれぞれの個性で身を彩る。
 本堂の中には入り、薄暗い中、天井を見上げると一面に龍の絵が描かれていた。ものすごい迫力である。その威圧感に圧倒され、側面に設けられている丸い木格子の窓から外を見てみると優しい色の紅葉が鮮烈に目に飛び込んでくる。本堂の中の薄暗さと、その丸窓から飛び込んでくる眩しいが優しく紅葉した彩りが印象的だった。
 雪舟もこの景色を見たのだろうか。この色を観て、何を感じたのだろうか。雪舟の水墨画に色を見つけてみたくなった。
 どんなところで人と人は繋がっているかわからない。ある仕事の話が僕の元に舞い込んできた。日本のちょうど裏側、アルゼンチンはブエノスアイレスから。日本の地元の仕事の話である。では、どういうルートをその話は辿って僕の元にやってきたのであろうか。
 まず、地元でその仕事をしているAさんがいる。Aさんは契約が切れる為、後任を探していた。しかしなかなか見つからないでいた。
 Bさんも地元で働く女の子。しかし彼女はアルゼンチンで活動していたことがあった。そして今は地元で福祉の仕事をしている。Aさんとは知り合いであった。
 AさんはBさんに「なかなか後任が見つからない」と相談していた。
 Cさんは現在アルゼンチンで働いている。BさんとCさんはアルゼンチンで知り合っていた。CさんはBさんのアルゼンチンでの仕事を調整する役割をになっていた。
 仕事の話がここでアルゼンチンへ飛ぶことになったのである。ここで偶然が起きる。Bさんは別にアルゼンチンにいるCさんに地元の知り合いがいるとは考えていなかったであろう。Cさんの地元は別の県なのだから。しかしCさんと僕は友人なのである。このことによって一旦は地球の裏側にまで行った話が再び地元に還ってきたのである。
 どんなことが人と人の繋がりによって起きうるのか。繋がりが僕と世界を結びつける。
 僕はきっと何者でもない
 でもここにいる
 歴史に名を残す
 偉大な業績をあげる
 突出した人物になる
 無縁だろう
 能力もない
 運もない
 実力も才能も
 僕はきっと何者でもない
 でもここにいる
 今日も無事に終えられた
 明朝も無事に目覚めるだろうか
 明日も無事に終えられるだろうか
 僕はきっと何者でもない
 でもここにいる
 日常を奇跡的な偶然で乗り越えながら
 ここにいる
 今日行われた東京国際女子マラソンで2年ぶりのフルマラソンとなった高橋尚子選手が2時間24分39秒で優勝した。2年前のこのレースで高橋尚子は終盤突然失速。アテネオリンピックの代表の座を逃すことになる。
 シドニーオリンピックでの金メダルを見たときに感じたことがある。「この人は次元が違う」と。他の選手と「スピードの絶対値」が違うのだ。アテネオリンピックにおいても出場さえすれば当然金メダル候補の筆頭であっただろう。しかし2年前の失速。それから2年間の空白の時間に彼女は何をかんがえたのだろうか。
 今日そのコースを彼女は走っていた。ものすごくたくさんのモノを背中にしょって。でも全く重さを見せない。彼女の精神はそのしょっているモノを力に変える仕組みを持っているようだ。見ていて涙が出そうなくらい僕らにも力をくれる。走るということでこんなにも人を勇気づけられる人を無条件に尊敬し、すがすがしい羨ましさを感じる。
 新聞やテレビは復活と書き立てるだろう。シドニーオリンピックで見せたあの圧倒的なスピードに精神力もプラスして、金メダリストが金メダル候補として帰ってきた。
 今年の初物ワインを買ってきた。コンビニで買ったので期待はしていなかったのだが、予想外に想像以上においしかった。このレベルの味であるならば大満足である。僕はワインが好きなのだがコンビニに売っているワインは買わない。酔っぱらって買って帰ったことはあるのだが、これまでほぼ間違いなくハズレなのだ。そしてすぐに料理酒へのレールがひかれる。
 しかし今日飲んだボジョレーヌーヴォーは違っていた。しかし、味はとてもよかったのだが問題はまた別のところにある気がした。ワインを大事に扱っていない感がどうしてもしてしまうのである。販売促進の為だろうがレジの前、入り口近くに陳列しているところが多い。日光が直接当たるような場所に並べるとはワインのことを考えればよくないとわかるとおもうのだが、考えていないのだろう。
 ワインの作り手はどういう思いでこのワインを作っているのだろう。そこに思いをはせるからこそよりワインの味を味わうことができるというものである。せっかくのおいしいワインを粗末に扱うことだけはやめてほしいと思う。
 しかし今日言いたかったことはコンビニでいつもこの時期売り出すボジョレーヌーヴォーを見直したということである。おいしい。
 エーゲ海に浮かぶ美しい島レスボス。その自然に囲まれて育った山羊飼いの少年ダフニスと羊飼いの少女クロエーの間に芽生えた恋の物語である。古代ギリシアの牧歌的な情景が目に浮かぶような描写で2人の恋が成熟した愛へと深まっていく様を美しく描いている。
 この物語はルネサンス以降、各国の文学、美術、音楽その他の分野にわたって及ぼした影響は計り知れず、すこぶる大きいらしいのだが、僕には今まで生きてきた中で全く影響を与えるどころか存在すらも知らなかった。
 音楽をやっている友人から勧められこの本に出会ったのだが、おそらく僕が大学の時にこの本に出会っていてもそれほどたいした衝撃はなかっただろう。時代を超えて様々な分野に影響を与え、残っていく作品には一筋縄にはいかない。この作品に関して言えば男の子と女の子の恋愛物語に留まらず読むためには周辺分野の知識も必要となってくる。ギリシャ神話の神々の性格なども知っておくとより深く読めるだろう。描写される自然にどういう意味を込めて描いているのかも、花や植物のシンボル的な意味を知っておれば場面の雰囲気もより彩りを見せると思う。
 そのようにしていろいろな知識を導入して、何回も読み、読むたびに新たな作品に変わっていく。読み手の力量によって作品もその素晴らしさを出し惜しみするような感覚がある。今回読んでみて僕にはまだ「美しい恋」という印象が主なものであった。自然の描写もものすごく綺麗で、古代ギリシアの空気を感じられるものであった。またどこかでこの作品を読む機会があればまた違う読み方ができるようになっていればうれしい。その為の準備を常に意識していきたい。どの分野がどういう形で繋がるかわからない。あくなき好奇心を存分に解き放つのだ。
 今日は教育実習最終日であった。最終日ということで学級経営を担任の先生から一日すべて任された。一ヶ月という期間を毎日子ども達と過ごしてきているので、クラスの子達の性格などはなんとなくは分かっていたのだが、やはり期間が短く子ども達との間には信頼をベースにした人間関係を作るには至っていなかった。そこで何が難しくなるかというと厳しくする時に、思い切って厳しく指導できないということであった。子ども達とはとても仲良くなり、自然に会話もできる。しかしそこ止まりだと厳しくした時に子ども達がくじけてしまうのである。それに比べ担任の先生が厳しくしたときには子どもの中にも「悪いことをしたし、怒られてもしかたないな」という気持ちがあるのだと思う。気持ちが折れないのである。
 その違いは何であろうかと考えた。経験、年齢、人柄、性別。様々な要素が複合的に絡み合っている。この一ヶ月の実習では、とても一ヶ月間の勉強量ではないと思えるほどの貴重な経験をさせて頂いた。一日として消耗した時間はなかった。こういう時間をもっともっと増やしていきたいと考えている。
 自分の母校での実習はより思い入れが深いものとなり、後輩である子ども達の将来がとても楽しみである。
 ご存じスタジオジブリにより映画化された作品である。監督は近藤善文氏であり、宮崎駿氏はプロデューサーとして参加している。ストーリーは思春期のあのドキドキ感のあるラブストーリーであるのだが、それだけでは終わっていないところが僕がこの作品を好きな理由である。
 ヒロインの月島雫は明るい読書好きの女の子である。雫が一人の男の子と出会うことにより物語は動き出す。その男の子の名前は天沢聖司。中学を卒業したらイタリアに渡ってヴァイオリン職人の修行をしようと決意している男の子である。聖司は祖父と一緒に住んでおり、その祖父はクラシック家具などの修理と販売の店「地球屋」を経営している。友人とモダンジャズの演奏などを楽しむ素敵なおじいさんである。
 雫は将来を悩み、自分に何ができるかと進路を不安に思っている。それに比べ聖司は自分の夢を見据えて着々とその夢に向かって歩いていっている。そんな姿をみた雫は焦り、戸惑い、自分は何をやっているのだろうと悩む。雫は物語を書くことを決心し、一心不乱に取り組む。出来上がった作品を聖司のおじいさんに見てもらうのだが、自分自身でも自分の力のなさを感じてしまう。
 だいたいあらすじはこんな感じなのだが、僕にとって雫がまずやってみようと第一歩を踏み出す。つまり物語を書こうと思い、たとえそれがどんなものであっても最後まで書ききり完成させておじいさんに見せたということに大きな成長を感じるのである。そこで自分の力のなさを感じたならば、その力をつけるような努力をすればいい。夢を達成するためにどんな力をつければ、それに向かって歩いていけるのかというものは、そちらの方向へ向かって歩き出さなければ全く実感できないものであろうと思う。
 このアニメをテレビでやっていたのを大学時代にビデオに撮っておいたことがある。どんな巡り合わせか、次から次へと友達が入れ替わり立ち替わりやってきて一日でこの作品を5回観たことがある。それでも飽きずに自分の気持ちに照らし合わして観ることができた。
 いつからだろう、自分にできることを夢にしようと考えはじめたのは・・・
 いつからだろう、自分のやりたいことを見ないようにしはじめたのは・・・
 冷気がずんと忍び寄る
 皮膚をじわり通りぬけ
 いっきに骨まで辿り着く
 そこでくるりと向きをかえ
 体の内から出ていって
 僕の部屋をひやすのだ
 こころの中に太陽が
 あればあっためられるのに