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行く河の流れ

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

 初冬の空気が辺りの輪郭をくっきりと切り取る。
 ある男の子が僕に話しかける。
 「僕、障害があるんだ」
 木々が紅葉をはじめている。
 秋が始まる季節にはあたりにキンモクセイの香りが漂っている。僕はこの香りが好きだ。秋の到来を感じさせ、毎年のように今までの秋の記憶が甦ってくる。
 それと同じように今年は冬の到来を感じさせる匂いに気付いた。今では稲刈りも終わり、すっかり寂しくなってしまった田んぼであるが、そこにある。小さく盛られた稲のもみ殻。それを焼く匂いこそが僕の子ども時代から大学を経て、現在へと至る冬の記憶を甦らせてくれるのである。
 小学校時代には学校の帰りに田んぼへ入り、ワラを集めてバク転の練習。中学時代には部活の朝練に向かう途中の通学路や放課後の練習を終えすっかり日も暮れてしまった下校の思い出。高校時代ではいろいろなプレッシャーを感じながら自転車をこいだ川沿いの道。向こうの山には姿は見えなくなったがほんのりと残光を残す夕日。大学時代には初めての一人暮らしのちょっとした孤独感。
 様々な懐かしい思い出が季節の香りに呼び起こされる。
 このカメラを購入したのは去年の冬であった。現在はトイカメラと呼ばれているが、その起源は1982年にまでさかのぼる。「誰にでも写せて、コンパクトで持ち運び便利」さらに「頑丈」なので、当時から旅行や遠征などに愛用された民衆カメラであった。したがって、日本では馴染みが薄かったのだが、1980年代の共産圏の国々を代表する人気カメラとなったのである。
 このカメラの魅力はできあがった写真の魅力的な偶然との遭遇である。このカメラにはストロボもオートフォーカスもついていない。できあがった写真には「失敗」と呼べるモノがかなりある。でも僕にとってその写真一枚一枚が愛おしくなるような愛らしさで僕と出会うのである。どこかノスタルジックなその風合いに物語を感じるのだ。
 探せばもっと綺麗に確実に写すことのできるカメラは山ほどある。LOMOを購入した動機が「ちょっと周りの世界に目を」ということだったので、綺麗に写せるかどうかは二の次の要素だったのだ。それよりも「撮った時の気持ち」や「味のある絵」ということに重きを置いていたのでこのカメラと出会ったことになる。
 買うと決めて六本木の本屋へ行き手に取ってみるとやっぱりいい。感覚が合うという感じだった。パッケージに包まれたそれは、トイカメラというチープさを超えた重みがあり、実際の重さも手に馴染むように適度にある。
 この「LOMO LC-A」が生産中止になる。ロシアの工場でカメラ職人達により手作りで作られてきたカメラは昨今の経済的事情の前にはこの結論に至るしかなかったのだろう。残念ではあるが、今僕がもっているカメラに一層愛着が湧いてきた。よく生まれてきて、僕の元に来てくれたと。
 すまし顔の空でした。
 凛とした佇まいは山も木も草も
 人間も動物も虫もみんなに
 まっすぐ上に伸びていく
 ちょっとだけ
 でも無理のない背伸びをさせてくれました。
 朝はみの虫。
 布団の中で一日を終えたい。
 一日が終わった時、つまんない。
 だから、起きよう。
 でも、眠い。
 ぬけだせば、世界がうごきだす。
 外に出れば、おだやかな青空。
 体で空気を吸い込む。
 みの虫だったことを忘れている。 
 ある女の子がすれ違いにトコトコと歩く園児を見て「かわいい」としきりに言っていた。ふり返ってその小さい背中を追っていた。この女の子は小学校4年生。先月から転校してきたばかりだ。いつも学校では休み時間になると居場所がなさそうに一人でいる。
 僕から見れば、小学4年生も園児も同じ「かわいさ」を持っている。その小学校4年生の女の子は園児を「かわいい」と言っている。不思議な感覚がした。
 お弁当を食べ終わり、子ども達はお菓子交換の時間となって走り回っている。さっきの女の子がやってきて、タバコ型のお菓子でタバコを吸うマネを見せてくれた。
 何かめまいがするような感覚だった。さっきは園児を「かわいい」と本気で言ってみたり、今度はタバコを吸うマネ。そうか、この子達には、将来に向かってものすごい可能性があるんだ。その浮遊感によってしまったのだ。
 その女の子は子ども好きの気持ちを持ち続け保育士になるかも、幼稚園の先生になるかも。それとも小学校の先生かな?逆に社会と折り合いがつかなくなっていく道もある。
 そんな子ども達の可能性や危うさが僕に戸惑いをもたらしたのだ。
 昨日、自民党は日本国憲法の改憲草案を決定した。28日の山陽新聞朝刊にジャーナリスト櫻井よしこさんの評論が掲載されていた。僕はとても納得できる意見なので要約して紹介しようと思う。
 「憲法は国の在り方、国柄を示す基本である」と述べ、だからこそ憲法は「その国の文化・文明を踏まえねばならない」と主張する。
 今回の草案前の中曽根氏の当初の案では日本の地理的位置を「太平洋と日本海の波洗う美しい島々」と表現し、日本の国民を「自然との共生を信条」とし、「美しく豊かな地球環境を守るために力を尽くす」とうたう。なんと美しい表現か。櫻井氏はこのくだりを「広く国際社会も共鳴するに違いない」と評価している。また、中曽根氏の素案では「天皇を国民統合の象徴としていただき、和を尊び、多様な思想や生活信条をおおらかに認め・・・」と日本の精神文化に触れていた。しかし、今回の最終草案では全面的に書きかえられ「中曽根色」は一掃された。
 そのような新憲法草案の特に全文を「文章も内容も極めて乾ききったこの文を書いた人々は、日本国への愛情をどれほど持っているのかと疑わざるを得ない」と櫻井氏は述べ、地球上のどの国にも共通する価値観である愛国心を欠落させた日本の現行憲法が「あまりにもいびつ」と酷評する。
 改めて、日本国憲法前文を読んでみた。
 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために・・・」。
 心に響かない。与えられたものと自ら作り出すもの。完全なものなどこの世にはない。ならば余計に自ら創造したものを持ちたい。今回姿を現した新憲法草案。議論が深まっていくのはこれからだろう。やっと日本が歩き始めた。
 暗い回廊を抜け、階段を上がると秋の優しい日差しを浴びた芝生が目に飛び込んできた。淡い黄緑色の芝生は綺麗に手入れされており、足を運ぶとふかふかでとても気持ちがいい。
 「先生、目がキラキラしてるよぉ!」
 「そう?」
 僕はこの球場で試合をしたこともあり、野球場の雰囲気もレベルはどうであれ、知っているつもりだ。いつも通りにしているつもりだった。だから話しかけてきた女の子の言葉が意外だったのだ。
 子ども達と外野の芝生を歩く。ライトの位置に来ると「イチローはここからレーザービームでランナーを刺すんだよ」、センターでは「赤星は・・・」、レフト「松井は・・・」。子ども達に説明して歩いた。子ども達はとても気持ちよさそうだった。球場の中に入ってグラウンドを歩けるということに感激していた。
 さっきの女の子がうれしそうに話しかけてきた。
 「先生、今度は目が星になってるよぉ!」
 うれしかった。
 教室の入り口にてるてる坊主がぶら下がっていた。明日は待ちに待った秋の徒歩遠足。しかし週間天気予報では雨の予報。子ども達もどこかあきらめムードが漂っていた。
 そんな中でのてるてる坊主である。でも、教室にいる誰に聞いても誰が作ってここにぶら下げたのかはわからなかった。誰も手を挙げない。
 外は黒い雲がたちこめてきている。作り人知らずのこのてるてる坊主はみんなの願いを一身に背負いぶら下がっている。
 
 睡眠時間が短く、朝は沈んだ気分のまま自転車を漕ぐ。肌寒くなってきた空気が自然と背中を丸め、気分を内へ内へと丸め込む。
 校門を入るとランドセルを背負った子ども達がいる。丸まったらランドセルの中に入れそうな子やランドセルをもう卒業しなければならない子と様々である。そんな子ひとりひとりとおはようと挨拶をする。これによって僕の一日の元気、やる気、生きる力が充電されるのである。自然と背筋も伸び、先生であろうとする。自分でも不思議である。さっきまでの眠気や沈んだ気分はもうなくなっているのだ。
 死と再生を繰り返す生命の縮図のような毎日だ。