子ども達の前に立つことが教師としての立場を作るのではない。教師が自分には教えられることは何もないという謙虚な気持ちとは裏腹に、子ども達は教師のことを無条件に「先生」と位置づけて接してくる。その気持ちに応えるよう教師は「先生」であろうとする。
そう考えると、教師の立つべき場所とは子ども達の前ではなくて、同じ方向をみつめ、子ども達の後ろに立つのが本当かもしれない。しかし子どもの気持ちに応え、前に立つこともあろう。難しい。
今日初めて、授業をしてみて改めて感じたことである。
部屋で椅子に座って本を読 んでいた。ふと、視線を窓の外にやると素晴らしく幾何学的な巣を作った蜘蛛がその中央でときおり吹く風にゆれていた。
ちょうど本を読むのにも疲れてきており、なにげなく窓を開け、その蜘蛛と完璧なまでの幾何学を持つ巣をみた。何も考えない。ただ見ていただけ。
家の前には道路がある。先は行き止まりで車はほとんど通らない。僕の部屋の軒下にできている蜘蛛の巣を無意識にも他のところにも探していたのかもしれない。道路を挟んで駐車場と駐車場の屋根を結んで蜘蛛の巣がはられていた。
今は蜘蛛の季節。蜘蛛の巣の緊張感が秋の緊張感をつくる。
ちょうど本を読むのにも疲れてきており、なにげなく窓を開け、その蜘蛛と完璧なまでの幾何学を持つ巣をみた。何も考えない。ただ見ていただけ。
家の前には道路がある。先は行き止まりで車はほとんど通らない。僕の部屋の軒下にできている蜘蛛の巣を無意識にも他のところにも探していたのかもしれない。道路を挟んで駐車場と駐車場の屋根を結んで蜘蛛の巣がはられていた。
今は蜘蛛の季節。蜘蛛の巣の緊張感が秋の緊張感をつくる。
小さい時から部屋で遊ぶことが多かった。弟と動物のぬいぐるみで遊ぶのだ。僕の親友はネズミ色のクマの「クーくん」。弟はパンダの「パンパン」。その他にもペンギンの「ペンペン」、大きく細長い胴体をした白色の猫(そう、ネバーエンディングストーリーのフッフールのような)は「おかあさん」、ちょっと大きめのペンギンは「お兄さんペンギン」、その他にも様々なぬいぐるみが、上記の通りそのまんまな名前を僕たちにもらって、子ども部屋で生活していた。
冬になると「寒いから」と言って、ベッドの中に潜り込ませ一緒に寝た。決して僕らが寒いからではない。ぬいぐるみ達が寒かろうと思っての行動である。
時にはぬいぐるみの目が取れそうになる。そんな時は病院に連れて行く。ほとんどの場合、入院となる。病院といってもそこは実際のお母さん(人間)のタンスの中で、お母さん(人間)が外科医として気が向いたときに手術をして(裁縫して)もらえれば、退院となる。一週間の場合もあるし、半年ほどかかるときもある。すべては医者の気分次第。
そんな子ども時代の一番の夢は親友「クーくん」としゃべることだった。
一緒に寝て、一緒にご飯食べて(食べさせていた)、一緒にテレビを見て、お風呂から出るのを待ってもらい、まるでアツアツカップルの新婚生活のような蜜月を過ごしていた。いつも寝ようして、布団に入り、目を閉じて考えることは「早くぬいぐるみがしゃべれるようになる機械ができないかなぁ・・・」ということだった。その機械の完成図も頭の中に浮かんでいた。たい焼き機のような鉄板にクーくんを入れて、バッタンと挟む。そしてその鉄板を拡げると・・・。
結局、いまだにその夢は叶わずにいる。僕も大きくなり、クーくんと過ごす時間がしだいに減ってきた。さすがにもうぬいぐるみでは遊べない(世間の目が!)。
でも今考えてみると、あの頃僕はすでにクーくんとしゃべっていたんじゃないかなと思うときがある。クーくんの声も僕の頭の中では響いていた。クーくんをはじめパンパンやペンペン、その他大勢のぬいぐるみたちがどんどん物語を作って僕ら兄弟を楽しませてくれた。
「クーくん、ありがとうも言わずにいつのまにか手放してしまったね。ごめんね。ありがとう」やっぱり今でもクーくんとしゃべってみたい。きっとまた、いろいろな話をしてくれるに違いない。
冬になると「寒いから」と言って、ベッドの中に潜り込ませ一緒に寝た。決して僕らが寒いからではない。ぬいぐるみ達が寒かろうと思っての行動である。
時にはぬいぐるみの目が取れそうになる。そんな時は病院に連れて行く。ほとんどの場合、入院となる。病院といってもそこは実際のお母さん(人間)のタンスの中で、お母さん(人間)が外科医として気が向いたときに手術をして(裁縫して)もらえれば、退院となる。一週間の場合もあるし、半年ほどかかるときもある。すべては医者の気分次第。
そんな子ども時代の一番の夢は親友「クーくん」としゃべることだった。
一緒に寝て、一緒にご飯食べて(食べさせていた)、一緒にテレビを見て、お風呂から出るのを待ってもらい、まるでアツアツカップルの新婚生活のような蜜月を過ごしていた。いつも寝ようして、布団に入り、目を閉じて考えることは「早くぬいぐるみがしゃべれるようになる機械ができないかなぁ・・・」ということだった。その機械の完成図も頭の中に浮かんでいた。たい焼き機のような鉄板にクーくんを入れて、バッタンと挟む。そしてその鉄板を拡げると・・・。
結局、いまだにその夢は叶わずにいる。僕も大きくなり、クーくんと過ごす時間がしだいに減ってきた。さすがにもうぬいぐるみでは遊べない(世間の目が!)。
でも今考えてみると、あの頃僕はすでにクーくんとしゃべっていたんじゃないかなと思うときがある。クーくんの声も僕の頭の中では響いていた。クーくんをはじめパンパンやペンペン、その他大勢のぬいぐるみたちがどんどん物語を作って僕ら兄弟を楽しませてくれた。
「クーくん、ありがとうも言わずにいつのまにか手放してしまったね。ごめんね。ありがとう」やっぱり今でもクーくんとしゃべってみたい。きっとまた、いろいろな話をしてくれるに違いない。
ある夏のことでした。
少年はひまわりが大好きでした。
お風呂場の隣にある花壇にひまわりの種を植えました。
ひまわりはグングン大きくなりました。
お風呂場の窓のあたりに元気よく花を咲かせていました。
ある日、少年はお風呂の窓を開けてそのひまわりを見ようとしました。
しかし、ひまわりは窓とは反対側を向いていて少年と顔を合わせてくれませんでした。
「なんでこっち向いてくれないんだろう」
「こんなに大好きなのに・・・」
少年はお母さんに尋ねました。
「ひまわりさんはどうして僕の方を向いてくれないの?」
お母さんは少年にこたえました。
「ひまわりさんはね、太陽さんが大好きなんだよ」
少年は遠く高くにある太陽を見ながら思いました。
「大きくなったら太陽になりたい」
少年が大きくなった今でも、その思いは途絶えることはありません。
「いつか太陽になりたい」と。
少年はひまわりが大好きでした。
お風呂場の隣にある花壇にひまわりの種を植えました。
ひまわりはグングン大きくなりました。
お風呂場の窓のあたりに元気よく花を咲かせていました。
ある日、少年はお風呂の窓を開けてそのひまわりを見ようとしました。
しかし、ひまわりは窓とは反対側を向いていて少年と顔を合わせてくれませんでした。
「なんでこっち向いてくれないんだろう」
「こんなに大好きなのに・・・」
少年はお母さんに尋ねました。
「ひまわりさんはどうして僕の方を向いてくれないの?」
お母さんは少年にこたえました。
「ひまわりさんはね、太陽さんが大好きなんだよ」
少年は遠く高くにある太陽を見ながら思いました。
「大きくなったら太陽になりたい」
少年が大きくなった今でも、その思いは途絶えることはありません。
「いつか太陽になりたい」と。
いつ頃から子どもの頃持っていた純真な気持ちは失われていくのだろう。今朝、クラスの子どもが「歌えバンバン」を朝の会で歌っていた。僕は教室の一番後ろの端に用意されて席でその歌を聴いていた。不覚にも目頭が熱くなってしまった。全く感動なんかする歌詞でも曲でもないのに。
その歌声はみずみずしく生命力にあふれ、明るく元気だった。子どもたちは男の子も女の子も上に伸び上がるようにして大きな声で歌っている。歌っている本人たちが一番気持ちが良さそうだった。「この子たちの将来はどんなだろう」、そう思うと胸がいっぱいになった。とっても幸せな人生を送る子もいるだろう、明るく生きていく子もいるだろう。そういう子ができるだけ多くであってほしい。願わくは全員。しかし必ずこの中から苦しい思いをする子も出てくるだろう、人に裏切られる子もいるだろう、どうやってもうまくいかない子もいるかもしれない。
この小学生のような「こころ」を持っていられないのはわかってい る。わかっているのだが僕はやはり人間の「こころ」はどんどん失われていっているように思う。知らず知らずのうちに、気づかぬうちに。
僕も例外ではない。しかし今日の朝、子どもたちの歌声によってその「こころ」を思い出す機会を得た。歌は気持ちを乗せる。中学校・高校と重ねていく内に今日聴いたような、小学生のような歌声は戻ってはこない。「それはそれで大人になったのだよ」で済ませたくない。
その歌声はみずみずしく生命力にあふれ、明るく元気だった。子どもたちは男の子も女の子も上に伸び上がるようにして大きな声で歌っている。歌っている本人たちが一番気持ちが良さそうだった。「この子たちの将来はどんなだろう」、そう思うと胸がいっぱいになった。とっても幸せな人生を送る子もいるだろう、明るく生きていく子もいるだろう。そういう子ができるだけ多くであってほしい。願わくは全員。しかし必ずこの中から苦しい思いをする子も出てくるだろう、人に裏切られる子もいるだろう、どうやってもうまくいかない子もいるかもしれない。
この小学生のような「こころ」を持っていられないのはわかってい る。わかっているのだが僕はやはり人間の「こころ」はどんどん失われていっているように思う。知らず知らずのうちに、気づかぬうちに。
僕も例外ではない。しかし今日の朝、子どもたちの歌声によってその「こころ」を思い出す機会を得た。歌は気持ちを乗せる。中学校・高校と重ねていく内に今日聴いたような、小学生のような歌声は戻ってはこない。「それはそれで大人になったのだよ」で済ませたくない。
自分が小学校4年生の時はこんなだっただろうか?小学校での教育実習が始まった。4年2組に入り一ヶ月実習をしていく。4年2組といえば、僕がこの小学校に転校してきた時に入ったクラスだった。そして今回もそのクラスに入る。偶然だろうが、偶然で済ませたくない気分である。
クラスの子どもたちを見るととても小さい。僕も大きい方じゃないのだが、それでもやはり小さく感じる。自分が小学4年生の時、自分の意識では自分はもっと大きかった。でもそれは妄想だろう。おそらく今日であった子どもたちと同じくらいの大きさでウロチョロしていたんだろう。何かそのギャップに戸惑いながらもどんどん僕の体によじのぼってくる子どもたちが、かわいくてしかたがない。
クラスの子どもたちを見るととても小さい。僕も大きい方じゃないのだが、それでもやはり小さく感じる。自分が小学4年生の時、自分の意識では自分はもっと大きかった。でもそれは妄想だろう。おそらく今日であった子どもたちと同じくらいの大きさでウロチョロしていたんだろう。何かそのギャップに戸惑いながらもどんどん僕の体によじのぼってくる子どもたちが、かわいくてしかたがない。
あらゆるものは二度作り出される。はじめは知的創造。その次に物的創造である。僕らのこころの中には人生を創造するための計り知れない能力と可能性がある。人生に対してどのようにビジョンを持つか。
つぎにそのビジョンと同様に重要なものが自制心である。これは物的創造へと向かう課程でなくてはならない。自制心はビジョンを具現化するために必要なあらゆることを行う上で必要となる自己犠牲のことである。つまり自分の意志の力なのである。ここで言う自制心、つまり自己犠牲は「これをするには嫌々ながらそうするしかない」ということを言っているのではない。「ピアノを弾きたいービアノの練習をする」「絵描きになりたいー絵を描く練習をする」「プロ野球選手になりたいー野球を練習する」「ワールドカップに出たいーサッカーの練習をする」というようなことを自制心を発揮して取り組むことをいう。テレビを見る時間が減るかもしれない、友達と遊ぶ時間が減るかもしれない。そこを乗り越えるのが情熱である。
テレビを見るよりも友達と遊ぶよりも自分は「ピアノを弾きたい、絵描きになりたい、プロ野球選手になりたい、ワールドカップに出たい」ということに絶え間ない情熱をこころに持っていれば自制心が働く。つまり情熱とは自制心を働かせる燃料なのだ。燃やし続ける限り自制心は働く、そして自分の持つ理想のビジョンへと近づいていくのではないだろうか。
自分の持つビジョンが自分だけの独りよがりに陥らないように常に自分の内面と対話し、自分の中にある良心を見つけていきたい。「世のため、人のため」という道徳に従ったビジョンは決して道をあやまらない。そこに自分がこの世界に生まれてきた意義を発見するのである。
どんなに理想的な目標であってもそこにたどりつくプロセスを着実に踏んでいけば昇っていけると思う。ただ、その梯子が異常に長く、上の階が見えない。目標が見えないと不安になる。ひょっとしてこのままずっと梯子が続くだけではないだろうか。別の階に着くのではないだろうか。理想を持ち、それに向かうプロセスにいかに具体的なそして現実に即した方法を考え出せるか。本当の理想主義者はとてつもないほどの現実主義者なのである。
つぎにそのビジョンと同様に重要なものが自制心である。これは物的創造へと向かう課程でなくてはならない。自制心はビジョンを具現化するために必要なあらゆることを行う上で必要となる自己犠牲のことである。つまり自分の意志の力なのである。ここで言う自制心、つまり自己犠牲は「これをするには嫌々ながらそうするしかない」ということを言っているのではない。「ピアノを弾きたいービアノの練習をする」「絵描きになりたいー絵を描く練習をする」「プロ野球選手になりたいー野球を練習する」「ワールドカップに出たいーサッカーの練習をする」というようなことを自制心を発揮して取り組むことをいう。テレビを見る時間が減るかもしれない、友達と遊ぶ時間が減るかもしれない。そこを乗り越えるのが情熱である。
テレビを見るよりも友達と遊ぶよりも自分は「ピアノを弾きたい、絵描きになりたい、プロ野球選手になりたい、ワールドカップに出たい」ということに絶え間ない情熱をこころに持っていれば自制心が働く。つまり情熱とは自制心を働かせる燃料なのだ。燃やし続ける限り自制心は働く、そして自分の持つ理想のビジョンへと近づいていくのではないだろうか。
自分の持つビジョンが自分だけの独りよがりに陥らないように常に自分の内面と対話し、自分の中にある良心を見つけていきたい。「世のため、人のため」という道徳に従ったビジョンは決して道をあやまらない。そこに自分がこの世界に生まれてきた意義を発見するのである。
どんなに理想的な目標であってもそこにたどりつくプロセスを着実に踏んでいけば昇っていけると思う。ただ、その梯子が異常に長く、上の階が見えない。目標が見えないと不安になる。ひょっとしてこのままずっと梯子が続くだけではないだろうか。別の階に着くのではないだろうか。理想を持ち、それに向かうプロセスにいかに具体的なそして現実に即した方法を考え出せるか。本当の理想主義者はとてつもないほどの現実主義者なのである。
ミヒャエル・エンデのファンタジー。物語の呼びかけに応え、本の中に入り込んだ少年の冒険物語である。作者の思想や抱いているファンタジーをここまで一つの壮大な物語として落とし込めるのかと感心させられる。おそらく小学生や中学生の時にこの物語に出会っていたならば純粋に冒険の物語として読むことができただろう。この物語の中でもまだ完結していない物語が随所に埋め込まれている。その物語の続きを想像し、ワクワクするような気持ちでベッドに入ったかもしれない。
今日、この本を読み終えてみてストーリーや登場する様々な怪獣、お城、家などこの世にはありえない設定を抵抗なく受け入れることができたことがうれしかった。もうすっかり失ってしまい、諦めていたオモチャがひょっこり段ボールの底から出てきたような感覚だ。
大学時代にはよく読んでいた小説も最近ではめっきり読まなくなった。すぐに役に立つ本を読んでいるというわけではないのだが、自分の関心の ある歴史であったり、思想であったりを述べていたり解説していたりするものばかりを読んでいた。物語やファンタジー、ストーリーを創作した小説など創造性のある本から離れていた。
創造性のあるものからはさらなる創造が生まれるのか。ファンタジスタになったかのような強い心が湧いてきた。
今日、この本を読み終えてみてストーリーや登場する様々な怪獣、お城、家などこの世にはありえない設定を抵抗なく受け入れることができたことがうれしかった。もうすっかり失ってしまい、諦めていたオモチャがひょっこり段ボールの底から出てきたような感覚だ。
大学時代にはよく読んでいた小説も最近ではめっきり読まなくなった。すぐに役に立つ本を読んでいるというわけではないのだが、自分の関心の ある歴史であったり、思想であったりを述べていたり解説していたりするものばかりを読んでいた。物語やファンタジー、ストーリーを創作した小説など創造性のある本から離れていた。
創造性のあるものからはさらなる創造が生まれるのか。ファンタジスタになったかのような強い心が湧いてきた。
キャッチボールの基本は相手の胸に向かってボールを投げることである。小学生の時から散々言われてきた標語のような台詞である。なぜ相手の胸に向かって投げなければならないのか?それは相手が捕球しやすいようにする為である。さらに考えると目標がさらに変わってくる。相手の右肩に向かって投げるのである。そうすれば捕球した後、相手はそのまま投げる体勢に入れる。
夕方、近くの公園に行き友達とキャッチボールをした。公園のフェンスのさらに向こうに見える空はやさしい橙色をしていた。秋の緊張感のある空気がボールを抵抗なく加速させる。相手のグローブに収まるまでのボールの軌跡が居合いで空間を一刀両断したような爽快感だ。
僕らがキャッチボールをするのは何年ぶりだろう。お互いに相手の胸に向かって投げようとしているがなかなかいかない。あの頃はほとんど逸れなかったのに。相手の胸に向かって投げるという最低限の基本もままならない。でも僕らはとても楽しかった。相手のことを思いやって投げるというキャッチボールの基本を超えて、ボールを投げる、捕るというキャッチボール自体を楽しんだ。キャッチボールは楽しい。なぜだろう。とても気持ちがいい。キャッチボールの基本が自明の理として既に僕らの中で定着し、それ自体を楽しめるようになってきたのだろうか。
キャッチボールが持つ魅力に気づき始めた。どんな人としても楽しいものだ。相手が子どもであれ、女性であれ、おじさんであれ、気持ちが通じ合う感じを味わえる。よく言われ、使い古されたような感情をやっぱり感じているのである。
今はもう高校生・大学生の時のように遠くに思い切り投げるということはできなくなった。長時間投げ続ける体力もなくなっているだろう。野球の練習の一環としてのキャッチボールはもうできない。しかし丁度心地よい距離で、話が出来る距離でするキャッチボールをこれまでの野球をやってきた遺産として宝物のように大切に感じる。野球は続けられなくとも、このキャッチボールだけは続けていきたいと切に願うのである。
夕方、近くの公園に行き友達とキャッチボールをした。公園のフェンスのさらに向こうに見える空はやさしい橙色をしていた。秋の緊張感のある空気がボールを抵抗なく加速させる。相手のグローブに収まるまでのボールの軌跡が居合いで空間を一刀両断したような爽快感だ。
僕らがキャッチボールをするのは何年ぶりだろう。お互いに相手の胸に向かって投げようとしているがなかなかいかない。あの頃はほとんど逸れなかったのに。相手の胸に向かって投げるという最低限の基本もままならない。でも僕らはとても楽しかった。相手のことを思いやって投げるというキャッチボールの基本を超えて、ボールを投げる、捕るというキャッチボール自体を楽しんだ。キャッチボールは楽しい。なぜだろう。とても気持ちがいい。キャッチボールの基本が自明の理として既に僕らの中で定着し、それ自体を楽しめるようになってきたのだろうか。
キャッチボールが持つ魅力に気づき始めた。どんな人としても楽しいものだ。相手が子どもであれ、女性であれ、おじさんであれ、気持ちが通じ合う感じを味わえる。よく言われ、使い古されたような感情をやっぱり感じているのである。
今はもう高校生・大学生の時のように遠くに思い切り投げるということはできなくなった。長時間投げ続ける体力もなくなっているだろう。野球の練習の一環としてのキャッチボールはもうできない。しかし丁度心地よい距離で、話が出来る距離でするキャッチボールをこれまでの野球をやってきた遺産として宝物のように大切に感じる。野球は続けられなくとも、このキャッチボールだけは続けていきたいと切に願うのである。
「持続可能な開発のための教育の10年」始まっている。2005年3月26日に文科省主催でそのシンポジウムが行われた。その時基調演説を行ったのが、この本の著者であるアーヴィン・ラズロ氏である。氏はハンガリーのブダペスト生まれのピアニスト・哲学者・未来学者である。世界賢人会議「ブダペストクラブ」も主宰している。
世界を理解する方法は様々である。個人の洞察、神秘的な直観、芸術、詩、宗教の信仰などである。現在世界を説明するのに最も信頼性の高い示唆を与えてくれるのが「科学」である。氏は著書の中で「万物の理論を探求することは現実的である。たとえ物理的な世界のすべての法則とすべての定数を説明する式が見つかったとしても、一つの式が世界の現象をすべて説明できる可能性は低いだろう。だが、式ではなく、概念体系であれば、それは可能である」と述べている。
ここに大きなパラダイムの変換を見るのである。世界は式で説明がつくものとされる「科学」の考え方を超えて世界を説明するための「万能の理論」を探求しているのである。
今日、科学の最新の発見によって数々の新しい「場」が再発見されてきている。その場は何千年もの間、神秘主義者、予言者、賢者そして哲学者が存在すると主張してきた「場」である。ほとんどの科学者がそのような「場」は神話にすぎない、あるはずがないとしてきたものが、科学の力によって存在が証明された。
世界の見方、価値観は今まさに激動の変革を始めた。この荒波を超えていく為に「知」というものがキーワードになってくる。世界の「知識」ではない。世界を「知ろうとする心」である。
世界を理解する方法は様々である。個人の洞察、神秘的な直観、芸術、詩、宗教の信仰などである。現在世界を説明するのに最も信頼性の高い示唆を与えてくれるのが「科学」である。氏は著書の中で「万物の理論を探求することは現実的である。たとえ物理的な世界のすべての法則とすべての定数を説明する式が見つかったとしても、一つの式が世界の現象をすべて説明できる可能性は低いだろう。だが、式ではなく、概念体系であれば、それは可能である」と述べている。
ここに大きなパラダイムの変換を見るのである。世界は式で説明がつくものとされる「科学」の考え方を超えて世界を説明するための「万能の理論」を探求しているのである。
今日、科学の最新の発見によって数々の新しい「場」が再発見されてきている。その場は何千年もの間、神秘主義者、予言者、賢者そして哲学者が存在すると主張してきた「場」である。ほとんどの科学者がそのような「場」は神話にすぎない、あるはずがないとしてきたものが、科学の力によって存在が証明された。
世界の見方、価値観は今まさに激動の変革を始めた。この荒波を超えていく為に「知」というものがキーワードになってくる。世界の「知識」ではない。世界を「知ろうとする心」である。