法橋太郎のブログ -5ページ目
記憶のトルソ
ひとりが蹲っているとき、もうひとりは走ら
なければならなかった。おお、記憶のトルソ
よ。頭のない、腕のない、脚のない、なまめ
かしく捻じれたその胴さえもないおまえ。い
なくなったおまえのために、ひとりが蹲り、
ひとりが走るのだ。おまえの血は、われわれ
のなかにも巡っているのだ。
幻の馬。幻のおまえ。柔らかな土のうえに残
されるその馬蹄形の足跡。いなくなったおま
えに弔いの鐘もなく、死に拮抗するようにし
てはじめて生きえたおまえが荼毘にふされる。
あまたの中世の甲冑の山の頂でおまえの亡骸
が燃えさかる。
おまえが生きた足跡も、日々の雨のなかで消
えてゆく。蹄鉄、鐘、甲冑の鼻を突くような
金臭さだけがあたりに漂う。ひとりは蹲った
まま石化し、ひとりは走り去ったまま風とな
る。石はまた風化して、風だけが風と戯れる。
ひとびとの行きかう瀝青とコンクリートの裏
側に駆け走る馬、登楼の鹹い鐘、赤く染まっ
た甲冑。おまえのいないすべての都市という
荒野のなかで、風だけが孤独に生き残るのだ。
記憶のトルソ。ひとりの生きた痕跡。そのた
めにまた、都市の中央でひとりが蹲り、ひと
りが走らなければならなかったのだ。
水霊のめぐり
岩壁の罅の入ったところどころから、沁みだ
してくる薄い水のヴェール。陽に輝いている
水の岩壁。おれは工事中の駅の構内にいても、
その罅より湧きだす水を視ることができる。
てのひらで触れれば、落ちくる流れのなかに
おれの熱いてのひらを冷たく覆う水。すべて
あたらしい水として、おれのてのひらから飛
び散って、わがいのちを純粋に熱くする。
生きているあいだは、目的を持ってもよいだ
ろう。穢れのない目的を。われわれの根底に
あるいのち。いのちのちから。われわれは奇
妙なことだが、一瞬の永遠を生きつづけてい
るのだ。馬鹿な楽しみは楽しみでも何でもな
い苦い過去になる他はない。生死と言えばそ
れまでなのに、みずからのいのちに目覚める
ことなく哀れに死んでゆくひとたちよ。
地息する場所をたどり、ああ、岩肌づたいに
ながれくる水の音が聞こえる。その水は足も
との岩場の隙をはげしく零れおちていって、
また視界から消えるが、われわれのいのちを
潤すためにまた何処からか、眼の見えるとこ
ろへと経めぐって来るのだ。
如水
そこで待ち構えているものが何であろうと、
わがこころはやや幅ひろい葉の一点に陽のか
がやきを宿し、葉脈にそって流れ、ひととき
は人などの行為によって澱んでいたとしても、
すぐに澄みわたる。澄みわたって地に落ち、
地の水となり、水脈に繫がりあつめられ、お
まえのそのみちびき合わせた両の掌のなかに
憩うことができる。
その掌の器がどんな形をしていたとしても、
その器のなかにたやすく収まり、揺られれば
その揺れに伴って揺れ、またその器から撥ね
跳んで、あるいは零れて、もとの地面に落ち
こぼれて、その地面のなかに浸みこみ戻って
ゆくこともできる。
おまえを取り巻く環境が、ガラス瓶の破片を
めぐらせた壁であったとしても、わがこころ
は地表から蒸発しておまえの肺臓をうるおし、
雨のごとく降りそそぎ、そのガラスの破片を
光らせて、あらたなる歓びを、おまえのその
眼に見出させよう。
わがこころは生命の躍動と静けさをともに持
ちあわせて、いつでもおまえの周りにある。
いやそればかりでなく、わがこころの水はお
まえがもとより持ちあわせていた、おまえの
水とさえひとつになって揺れることができる。
流れてゆき、円になって渦巻くようにその中
心をめざしては、水底ふかくに誘われて、ま
た荒れた地の周縁へと運びもどされ、その角
張った荒地に接して、その表面から深部にい
たるまでを、緩慢な、ときに鋭いあざやかな
動きで磨くのだ。
そうしておまえとおれはおもだった夢の区別
をなくし、さまようこともなくして互いにみ
ちびかれて、それぞれの場ではたらくひとり
の思いの事柄を洗いながしてゆく。ひとりひ
とりの夢と夢の間際からあきらかに目覚めて、
その明瞭な無によって整えられた標準とされ
るこころの水をみずからに受けとるのだ。
困難
──M・エックハルトに捧ぐ
おれはその山を一段一段登ってゆく。その谷
を一段一段降りてゆく。険しい山も谷も身心
みずからのものとするとき、身心の奥底。奥
底なき奥底。それがおれの身心の奥底になる。
神仏の奥底をわが奥底とするための身心の撥
無。
本来この身心もおれの所有ではない。みずか
らのものは何もない。神仏にことごとく見放
されたと思うとき、むしろその神仏の力を払
ったところ、空にこそ、神仏の力は満ち溢れ
るのだ。
困難のない人間はどこにもいない。山や谷は
何処にでもある。都市の真中にもある。どん
な時でも、われわれは思考の窮極、神仏の力
のなかにある。神仏の力は、どこにでもある。
神仏の力より逃れるのは不可能なのだ。
われわれは、困難を超えるごとにその力を増
してゆく。原石が磨かれて、真の宝石の光を
うるためには、何度となく困難に打ちひしが
れなければならない。
それまでは、実際、生きるということを知ら
ないのと同じことなのだ。無知な脳髄でこの
世が測れるだろうか。困難に輝いてはじめて
その人間の真価が明白となる。困難の底深く
生きるとき、われわれは神仏の空に内より満
たされているのだ。
紙の表裏
われわれは進歩しているのか、退歩している
のか分からないが、おのれに与えられた時間
を生きねばならない。損得盈虚は時間の常だ。
深く生きるということなら、すこしは判る。
じっくり硬い土に根をつけるには、どうして
も時間が必要になってくる。何事もひとつの
道を貫くほかないのだ。損と得とは一枚の紙
の裏表。どちらにも学ぶべきところがある。
死んだら灰になる人生に特別なこととて、も
ともとないのだ。あるいは、すべてが特別な
ことだ。ただ生きているという不思議。老い
るという不思議。死ぬという不思議。生まれ
てきたという不思議。それをまえもって考慮
に入れられない不思議。もう同じ時間を二度
と生きないことだけが確かなことだ。
一枚の紙を破くとき、破けるのは損や得だけ
ではない。考えようとするすべてが破けるの
だ。そもそも、考えるというのは何なのか。
脳髄の一作用である。おこがましくも卑しい
われわれが考えるというのは、どうしても卑
しいことに違いない。それでも考えるという
ことは、考えるという欲望に依っているのだ。
ろくな考えでもない考えを考えるほど馬鹿ば
かしいことはない。おれの考えもその範疇に
入る。その愚にもつかぬ考えをよく見れば、
何のことはないひとときの妄想にしくはない。
たとえ考えであっても、すぐに消えてしまう
ものだ。その馬糞のような考えを握ってしま
う慣習のあるひとの多さ、ともに凡夫である。
伽藍堂試論
伽藍堂。中空がある構造。われわれがそれぞ
れに考えたり、思ったりするものがその中空
を漂う。外部から入ったものが、内部で変容
する。そこには何もないから、何物にでもな
りうる。見たり聞いたりしたものが、その中
空で処理されて、また外部に投影される。
その処理のされ方は、ひとによって全く違う
し、思い通りになるものでもない。語と物と
の規定がひとによって、異なってくるのは当
然のことなのだ。ただわれわれの物事の捉え
方の構造自体は誰にとってもほとんど同じよ
うなのだ。
すなわちわれわれは妄想と厳然たる現実を行
き交って、それぞれの妄想がらみの現実を生
きているのだ。妄想を妄想として認識すると
き、われわれの考えや思いというものが、妄
想がらみの現実と結びついているのだと自覚
せしめられる。
逆に言えば、その妄想という癒着を外して、
現実を見るとき、現実は現実として、明瞭に
現れてくるのだ。われわれの馬鹿さ加減は妄
想と現実とを短絡に結びつけるところから来
ている。脳髄に思うことと現実とは違うもの
なのに、それを一連の作用のように思い違い
をしてしまう。
人生はゲームではない。みずからをいかに深
めるかにあるのだ。中道を求むとはそういう
ことだ。白に非ず黒に非ずを求めることだ。
しかしわれわれの脳髄はゲーム化を欲するの
だ。白黒を明確にしたいと欲するのだ。
ところが誰もが例外なく生まれれば死ぬのだ。
死んだものに白黒も勝敗もない。このゲーム
化を欲する脳髄ぐるみ、機能しなくなるとい
う現実がまさに自分自身にあることを、脳髄
は嫌う。生きてゲームを継続したいと欲する
からだ。
われわれはまず死ぬということを考え抜いて、
生きなければならない。しかし、残念ながら
伽藍堂の構造をもった脳髄であるから、考え
抜いても答は出てこないのだ。ゲーム的論理
でゆけば、他ならぬ自分自身が死ぬとはっき
り分かって、はじめてみずからがゲームの単
に一齣でしかなかったと認識するのみだ。
どうやら、また伽藍堂の堂堂めぐりの季節が
やって来たようだ。妄想と現実をまぜこぜに
している人間たち。それがわれわれの凡庸な
姿なのだから、とり立てて悲しむ必要もある
まい。しかし志とは死をも含めて一生を貫く
ものではなかったか。惜しむらくはそれのみ
だ。
荒地
季節はなくなりはじめていた。高層ビルが林
立するなかに、見えない荒地がわれわれの心
をむしばむ。たとえばそれは車の排気音から
始まった。地階を歩く早朝の孤独な足音。そ
れともわれわれの盲目がひどくなったのか。
見えない密室に隠されてゆく老人や病人それ
に屍。しずかに配られる紙幣。暗渠に流れこ
む透明な汚水。避難民キャンプの薬物実験。
奪われる臓器。稚拙化する感情。短絡な行為。
建物が美しく見えるのみで、何も変わってい
ないこの地上。荒地。浮かびあがるほど軽く
なった老人の威厳と忘れられたおのれの死。
まるで何もなかったように一日が明けた。列
車が鼓動のように規則正しく走った。おれが
知っていた地球は急速に年老いた。世界が均
衡を取り戻そうと紙幣の密度を高めた。狂っ
たトラックが走り抜けていった。時間は歪ん
でいた。世界の柱は真直ぐに立っていなかっ
た。詩はいかにして屹立するのか。詩もまた
荒地にあった。あらたなる言葉の焦土。おの
れの内面を外部の物事に擬えてゆく。あえて
敷衍すると、詩の謀叛とは目立つことのない
その足もとの雑草のようなものだ。
言葉よ、野草のしなやかな屹立を模倣せよ。
誠実に言葉を伝えようとするとき、そこには
ゆたかな飲める水が零れおち、踏みしだく青
草はさらに青くなるのだ。直土にそって低く
葉をひろげて露霜にも耐えるのだ。言葉の羅
列だけが見える瀝青の道路のわきからも、地
上をうがつのだ。皮膚を切る具体的なカミソ
リ草の葉のように風にその葉を戦がせよ。青
くさい言葉におのれの血をにじませよ。そこ
に一本の川と川原石とを呼んで来い。そこで
寒さに耐える火を起こせ。その火に映りだす
顔たちのうちで穏やかに言葉を発せよ。あざ
やかに低くとよもす光を発せよ。
妄想試論
現実は現実として思考の外部にある。しかし
それを受けとめる思考の内部の現実は少なか
れ、妄想に浸蝕されている。内部の現実、し
かしそれは内部の自己と、自己のなかの他者
という妄想に、すぐにとって代わられる。外
部と内部。それは一種の機縁であり、それに
ついて、あくまで妄想が脳髄のなかで作動し
ている妄想であるのだと自覚できるか、でき
ないかということが、この世で明晰にものを
見る指標となるのだ。たいていのひとは自分
の考えであると、この脳髄の作用を信奉して
疑うことがまずない。
脳髄のなかの現実、妄想を妄想としてはっき
り知覚すること。それが分かってはじめて、
外部を処理できるのだ。幻想の握手。幻想の
笑顔。幻想の別れ。それら幻想に包まれて脳
髄は生きている。あくまで脳髄の独壇場であ
る判断や感情の起伏、理解に手足と顔は作用
するのだが、脳髄を生かしめている全体のい
のち、われわれの呼吸や胃や腸、血流などは
ふだん意識から除外されている。全体のいの
ちがなければ、われわれは生きることができ
ないというのに。
生の全体性。これがわれわれの本来の姿では
あるが、多分にそれらが欠落されている日常、
われわれは見ることができなくなっているの
だ、現実さえも。だから、そこから脳髄の妄
想を妄想としてとりだす時間が必要になって
くるのだ。妄想が、妄想だと分かれば、妄想
でないところの現実が剔抉されるのだ。剔抉
された現実もまた妄想ぐるみであったかと、
判るのだ。
独房
鉄の扉が閉まった。外から閂を掛け、錠を閉
める音がした。壁のなかのまた壁。緩やかだ
った空間の密度が一気に高くなった。閉じ込
められた檻のなかの乾燥と陰鬱な毒虫の這う
タイル。それとほぼ同じ高さのビニールマッ
トにおれは横たわっていた。あらゆるものか
ら低くおれは眠らなければならなかった。拳
一個がどうにか入る壁際の鉄格子。時間は与
えられた分量だけの水で測られるのだ。
時間はすでにとまっていた。コンクリートの
天井の高さだけがおれの慰めだった。それか
らイメージが枯渇していった。干乾びた川ば
かりが脳裏に浮かんだ。干乾びた川には、テ
ーブルや椅子、あるいは皿などが半ば沈みこ
んでいた。もっとも、そのことに気づいたの
は、歌のとびっきり上手な女の子が収監され
てからのことだった。彼女の歌声が、おれの
干乾びた川を振動させたのかもしれなかった。
ちょうどパズルのワンピースを当て嵌めてゆ
くようにそのとき、おれの脳髄に組み立てら
れてゆくものを感じた。彼女の歌声に伴って、
時間が生まれ、それら家具や什器から水が沁
みだしたのだ。水は沁みだし、やがて流れだ
した。上流から下流へと、それとわかるほど
の一本の川ができた。それを感じるまで、こ
こで死ぬことがあれば、おそらくおれは悪霊
になるだろうとさえ思っていたのだ、一歩さ
えも踏み出すことのできないあの独房のなか
で。
時間の蛇
力を嵩にきて、卑劣な脳髄を持つもの。群猿
の王。その王の見えない杖。その杖に捲きつ
いた時間の蛇。聖俗の区別なく、時間の蛇は
らせん状に、しかし容赦なく群猿の王を滅ぼ
す。俗物は怯え、聖人は受けいれる。生死と
もに時間の恩寵なのだ。
時間の蛇が支配する世界。群猿の王。蒼いそ
の脳髄で、未来に餌を置いている。目的化す
る手段。偽りの口実。罠にかかっているとも
知らずに、すでに罠にかかっている群猿の王。
本来、目的などはないのだ。ならば、手段も
かりそめのものなのか。
目的化する手段。群猿の王の首を刎ねる。世
界の顛倒は汗まみれの蒼い脳髄だ。杖をふっ
て時間の蛇を叩きおとしても同じことだ。時
間の蛇は何処にでもいて、われわれの時間は
計られている。
しかし時間の蛇もまた脳髄の所産なのだ。わ
れわれが頭をからにするとき、時間の蛇は脱
皮する。それではじめて時間の蛇を支配する
ことができるのだ。杖に残された抜け殻がそ
の証左となる。見えない杖をふって、その抜
け殻を払い落とす。その見えない杖をつたっ
て永遠の水が落ちてゆく。

