伽藍堂 | 法橋太郎のブログ

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ポエム 第九回歴程新鋭賞受賞

2021年アラブ語圏にてゴールデンプラネット賞受賞

伽藍堂試論

 

伽藍堂。中空がある構造。われわれがそれぞ

れに考えたり、思ったりするものがその中空

を漂う。外部から入ったものが、内部で変容

する。そこには何もないから、何物にでもな

りうる。見たり聞いたりしたものが、その中

空で処理されて、また外部に投影される。

 

その処理のされ方は、ひとによって全く違う

し、思い通りになるものでもない。語と物と

の規定がひとによって、異なってくるのは当

然のことなのだ。ただわれわれの物事の捉え

方の構造自体は誰にとってもほとんど同じよ

うなのだ。

 

すなわちわれわれは妄想と厳然たる現実を行

き交って、それぞれの妄想がらみの現実を生

きているのだ。妄想を妄想として認識すると

き、われわれの考えや思いというものが、妄

想がらみの現実と結びついているのだと自覚

せしめられる。

 

逆に言えば、その妄想という癒着を外して、

現実を見るとき、現実は現実として、明瞭に

現れてくるのだ。われわれの馬鹿さ加減は妄

想と現実とを短絡に結びつけるところから来

ている。脳髄に思うことと現実とは違うもの

なのに、それを一連の作用のように思い違い

をしてしまう。

 

人生はゲームではない。みずからをいかに深

めるかにあるのだ。中道を求むとはそういう

ことだ。白に非ず黒に非ずを求めることだ。

しかしわれわれの脳髄はゲーム化を欲するの

だ。白黒を明確にしたいと欲するのだ。

 

ところが誰もが例外なく生まれれば死ぬのだ。

死んだものに白黒も勝敗もない。このゲーム

化を欲する脳髄ぐるみ、機能しなくなるとい

う現実がまさに自分自身にあることを、脳髄

は嫌う。生きてゲームを継続したいと欲する

からだ。

 

われわれはまず死ぬということを考え抜いて、

生きなければならない。しかし、残念ながら

伽藍堂の構造をもった脳髄であるから、考え

抜いても答は出てこないのだ。ゲーム的論理

でゆけば、他ならぬ自分自身が死ぬとはっき

り分かって、はじめてみずからがゲームの単

に一齣でしかなかったと認識するのみだ。

 

どうやら、また伽藍堂の堂堂めぐりの季節が

やって来たようだ。妄想と現実をまぜこぜに

している人間たち。それがわれわれの凡庸な

姿なのだから、とり立てて悲しむ必要もある

まい。しかし志とは死をも含めて一生を貫く

ものではなかったか。惜しむらくはそれのみ

だ。