禅
詩篇 証道歌
参考 澤木興道 『証道歌を語る』 内山興正 『証道歌を味わう』
永嘉大師略伝
永嘉大師は唐の時代、温州、永嘉の人。子供の頃から坊主になり経、律、論の三蔵を全部習得し、天台止観円妙に精通し、行住坐臥には常に禅観にひたっていた。
達磨から受け継がれた仏教は六代目の慧能大和尚に至って世間に知れ渡っていた。永嘉大師は天台宗の坊主であったが左谿の朗禅師から策禅師とともに慧能に教えを受けに行ってこいと言われた。
永嘉大師は六祖慧能のまわりを三回まわって挨拶もしないで突っ立った。慧能は、出家者は礼儀をわきまえているはずだ。あなたは何処からやって来てそんな傲慢な態度をとるのか、とたしなめた。
永嘉大師が答えた。生命は無常迅速ですと。つまりわれわれ生命はそれ自体変化するし世界も変化して確かなものは何もありませんと。
六祖は切り返した。あなたは無常迅速と言うが、なぜ無生を体得し無速を体得しないのかと。つまり金の損得や社会的上下関係が作りごとであることを体得しているのに、無速、すなわち時間や変化と係りないところを、変わっていないという自分の意識を体得しないのかと。
これに対し永嘉大師は頭の分別を除いた、生きている実物の命には金も社会的上下も関係ありません。比較のない絶対の今の命には速い遅いという比較はありません。すなわちわれわれにはここに絶対の現在しかありませんと。記憶や記録による過去の思いも思い描く未来も妄想でしかなく現在の実物ではありせんと答えた。六祖はその通りその通りと感心した。六祖の弟子たちは愕然とした。
こうして永嘉大師は衣をととのえ礼を正してお別れの挨拶をした。六祖はなぜそんなに早く帰るのかと問うた。永嘉大師は私の身に速いとか遅いとかはありませんと答えた。六祖はその非動、つまり動不動を超えているところを誰が知るのかと問い返した。永嘉大師は、あなたの分別こそわたしを分別しているのではありませんかと答えた。
六祖が言った。あなたは無生の意、つまり作りごとのない命そのもの意味をよく心得たと。永嘉大師は言い返した。無生の命にどうして意味があるのでしょうと。六祖は返した。その意味と無意味を誰が判断するのかと。永嘉大師はじゃあ、あなたの頭の分別にも意味がありませんねと。六祖は嘆じて言った。大いによろしい。せめて一泊でも泊まっていきなさいと。
大師はその夜六祖のところで一宿した。策禅師はそこに留まった。大師は翌日山を降りて温江に帰った。いわゆる一宿覚である。その後大師のもとに仏教を学ぼうとする者があつまり真覚大師と尊称された。
本文
きみは見ないのか、すべての勉強をし終わって自己の他に何にもなく他を拠り所としない人を。作り事のないゆったりした人を。この頭では考えられない命を生きている風流の人を。妄想を除かず真を求めない人を。妄想も真実も頭に思い浮かべただけのものにすぎないのだ。頭ののぼせ上がりが消えれば何処にもない。根拠理由を考えてもどうにもならないでしょう。
手と足を閉じて坐禅すれば思いが湧き上がって来るのが分かる。これが無明の実性即仏性ということです。生命力があるから妄想煩悩が起こるのは当然です。自然の天地は否定出来ません。人権も社会的約束事にすぎない。当てにはならないということです。本来われわれの頭の中で考えるのは幻です。幻を幻と分かることが自分のみを拠り所にしていればよく分かります。
われわれは呆ける。もっと上手いことしよう、もっといい目に遭いたいと思って呆ける。この思いを手放しにすること。それが覚めると言うことです。おれはこれだけ貰えるなんて権利はない。全くの無一物です。無一物の命は何ものにも汚されない天真爛漫です。呼吸は生きている証です。その呼吸の力はどこから来るのか。おれの思い以上の力がはたらいているのだ。困ったって頭の中で思っているだけ。すべてが大自然に生かされているのだ。宇宙一杯なのですよ。
身の動きはあらわれては消える浮雲。心の動きはと言えば、貪り、怒り、愚かさの泡にほかならない。頭を手放しするのだから思いは起こってもまた消えるのです。命のことが分かれば自分の思いのことなどどうでもいい。刹那に消えるこの世の地獄。どんな怖しい思いが頭に浮かんでもまた消えてしまう。わたしが嘘を言って誑かしているのなら、みずからこの舌を抜いてやろう。
すぐに坐れば、施し施され適度の欲をもち辱めを堪えることもない。命に随って、することはして、乱れることなく常にこれを生活とすればこのいのちは円だ。われわれはこのはっきりとした現実という夢を生きて、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六趣をさまよう。しかし覚めてみれば空くうとして大宇宙もない。罪福もなく損益もないのだ。人間は好きを握り同時に嫌いを握る頭のシステムがあるだけです。戯論、修身の話ではないのだから、自他・善悪・好悪など二つに分かれたところで探し求めて何になる。今生きているという間違いのない事実に気づきなさい。
実際坐って自分の頭という塵鏡を手放しにしてみなさい。どんな思いが頭に去来するのかよく分かるはずです。欲ばかりでしょう。無念無想になりますか。生まれたことがないのですか。生まれたことがないなら生きるにあたってあれこれ思うこともないでしょう。パソコンを持ってきて問うてごらん。仏を求め功徳を施せばいつ仏になれるかと。命を持っているのにまだ何か欲しいのですか。自分だという思いをすべて放って捉まえてはならない。分別の止んだところに随って生活してごらん。何もかも常なるものはなく本当はすべてないのだ。すなわちこの世界一杯命でないものは何もないのだ。
信じても信じなくても自分は自分だ。間違いのない事実のみだ。あるものはある。ないも
のはないのだ。自分は自分を誤魔化せない。命は自分にあるのに外を探すな。まず自分が
煩悩の容れ物であると知りなさい。眼耳鼻舌身意の作用はあるとかないとかいうものではなく信じても信じなくてもある。大宇宙はひとつの明珠で煩悩の比較相対の頭では様々に見える。しかし見えたとおり思ったとおりが本物ではない。みんな煩悩という煙幕の中での
ことなのだ。水面の月が本当の月でないと知れば、鏡に映したみずからの影は本当の自分
でない。きみが思うみずからは本当のきみではない。きみ自身は絶対なのだから。他人の評価も同じことだ。すべて測ることができないのだから何に依りかかっても仕方ない。常にひとり行き常にひとり歩く。幸不幸のない命に遊びなさい。
その調べは古く心は清く風格はおのずから高い。貌はかじけ骨は剛くして人は顧みることがない。口には貧乏を言うが道は貧でない。いつも襤褸を着ているが心には価値のつけようのない命という宝を蔵めているのだ。物をよく用い縁に応じて惜しむことがない。命のはたらきは身心に自在に通じている。あなたの性・智・行が整い我痴・我見・我慢・我愛から目を覚ませば命は円です。自分の物差しを捨てるということです。すべて比較、相対でしかないきみの頭の欲心に他ならないのだから生活してゆけるだけの小欲で足るのを知るしかありません。欲心にはキリがないのですよ。どこまで追っても満足することはなくそのうち寿命がきます。このことが思いのうちにきちんと分かればこころ落ち着いていられる。上士は分かればそれを生活にする。中下はよく分かってもそれを生活にすることはない。ただみずからの間違った欲心を解きなさい。誰だ、外に向かって精進を誇っているのは。誰のためのことではない。
他人の謗りも非難も他人に任せておけばいい。実力があれば誹謗中傷されるものだ。他人の
口は火をとって天を焼くようなものでやがて疲れる。わたしは誹謗中傷を聴いて甘露を飲む思いだ。すぐにとけて思いは手放せられる。悪言が当たっているなら改める。当たっていないならそのままでいい。謗られて相手を怨むようではいけない。謗る人を哀れに思って慈悲を与えなさい。一切の作りものに掛からないよう眼の鞘を外してみなさい。妄想を外してみれば言葉はなくても通じます。禅定と智慧を透明にして有にも空にも我にも法にも滞らない。何かの説や思いに滞ったらもはや仏教ではない。頭は所有に執着するが本来は何も持っていない。すべて他人のことでなく自分のことだ。その仏法の極意に到達して分かったのは私だけではない。ガンジス川の砂の数ほどの仏が到達したのだ。
人は生まれて生きて死ぬ。何も持たずに生まれ何も持たずに死ぬ。生きて何か得られるも
のがあるとか何か功徳があるとかと思っている世間の人にはとても信じられない。何かあ
るはずだと思う。しかし仏法は何にもならないことをただするだけだと獅子が吼えれば百
獣はとても信じられない。二乗、縁覚も威厳を失ってしまう。天竜である六祖慧能だけが
なんともならない無所得の仏法をしずかに聴いて無上の喜びを感じるのだ。江海に遊び山川を渉って師を探し求めて参禅した。曹谿の六祖大和尚の道を分かって、生死の関わらないことが分かった。確かに思いは我が身可愛いさで一杯だし敵は憎い。しかしこのいのちが果てるときには我が身可愛いさも敵憎さもない。もともとすべては頭の思いという夢にすぎないのだから。
行いも坐るのも禅です。話しても默しても動いても静かにしていても命自体は安然です。恐怖心があるけれど死ぬときは恐怖心も死んでゆくのだから刀で斬られても毒薬を飲まされてもなんともない命だ。お釈迦様はかつて燃燈仏にまみえて長い間に辱めを忍ぶ仙人になった。われわれの頭は辱めを忍ぶことが難しいが命にとっては何でもないことだ。生きて思いは刻刻と輪廻して生死を繰り返す。ものみな生死を繰り返して悠悠と止まることはない。この命に気づいたらもろもろの栄辱に一喜一憂することがありますか。
命を鏡に映して何か障りがありますか。よく見なさい。この世に命でないものがありますか。われわれの煩悩という影がかかってもすべては命の風景です。命は天地いっぱいに透きとおっている。だからといっても物事は無常するだけではない。因果はあります。したいことをすれば災難に遭うのは当然です。空がよく有が悪いということも災難になる。溺れるのが嫌で火の中に飛び込むようなものです。たとえ真理であっても妄心と対立する真理をとるような取捨の心がはたらくなら真実をわざと偽ることになる。それを分からずに修行すると煩悩を片付けようと修行をはじめる。われわれは煩悩のお守りしかできないのです。これはよくってこれはいけないという考えではいけません。比較をなくしそれぞれに絶対というところを狙って生きなければ法財も功徳もなくなる。
仏教とは自己の命の教えです。他者とは関係ありません。仏教では信解せよとはよく分かって信じなさいということです。無量無辺の自分の命はこの人間の小さな頭ではとても届かないということを。自分が一生に何回呼吸しているのか分からないし心臓をはじめすべての器官を思い通りにすることもできません。そのことをわかって信じる。考えても仕方のないことを考え過ぎないということが大切です。いま生きている自分の命として頭をはたらかせることが大切です。
われわれ個個の脳の思いというのは思い固められた自我です。われわれ個個の命はそれぞれが天地一杯なのです。自分の思惑通りにいかないのが当たり前ということをよく知っておかなければならない。寿命も分からない。死ぬということも西洋的な理解ではこの世界から取り残されて死んでゆくという感じがしますが仏教では世界ぐるみの私がその世界観とともに消えてゆく。宇宙一杯の命が脳の結ぼれを解いて宇宙一杯になるということですから安心です。その志をもって生きるものを大丈夫と言います。ただわたしとあなたとは言葉という約束事を持ちますが実物の命は貸し借り出来ないものでそれぞれ自己ぎりの自己です。この自我が悪いということでもありません。こういう分かるところまでの分別知見を摩訶般若の力とも言います。言葉で分かることまでは分かる。これが真正の智慧が邪をくだくということです。
破邪と慈悲はまず自分の思いに与えるものです。そして美味しいものを食べたら皆にお裾
分けしたくなるものです。これを自利利他と言います。雷も太鼓も慈雲も甘露もすべて慈
悲のことです。また修行僧の性格でもあります。竜象とは雲水、修行僧のことです。こう
いう修行僧がいれば皆が発心します。命の力をいつも養い活き活きとはたらいて行き詰まりがない。仏教というのはわたしだけが悟って偉くなってやろうというものではありません。このわたしの実際の生き方の話です。わたしという個的生命もこの宇宙一杯の超個的生命があるから成り立つのです。それをわれわれの頭は自我の思いに思い固めて自分が可愛いと思う。これは幼稚な小人の思いです。思いはありますが思い以上のこの世に思いで量ることのできない命を生きているのです。われわれの頭によって思いあがってはいけません。そういう思い上がりが人間不信から戦争までを起こしているのです。
仏教とは大人の生き方です。一即一切、一切即一とはわたしという命が天地一杯の命と同じものだということです。われわれの意識はわたしのみが可愛いと思っているだけです。こういう思い上がりを手放ししたところに真の命があるのです。仏教では世間相場で考えれば損しかしません。「損は得、得は損」という。労働というのは金と働きの取引です。これは取引根性というだけのことです。われわれの命は何もしないようでいても働いている。これを働きと言います。損をしなさいというのはただ損をする。見返りが欲しいのは頭という一器官の話です。見返りを求めないでただ損をしなさいということです。損をしても何とかなるのです。よく考えてください。死ぬときは一切合切の損しかありません。われわれは宇宙一杯から宇宙一杯に帰ってゆくのです。これを仏教では帰命と言います。
計ることのできない大宇宙という超個的生命がわたしを生かし、あなたを生かしている。呼吸も心臓もわれわれの思いどおりにいかない命です。命というのはわたしの存在している場所にあって、対象にあるのではありません。人間の脳は自分が観察者になり他を対象として見る癖がある。そこに自分というものを入れて考えるから難しくなる。ここに足を着けているということは大宇宙一杯に足を着けているということだ。自己が生きていて全宇宙が生きている。自分の命は相対ではなく絶対でしょう。自分の命が絶対ならまわりの全てはやはり絶対です。ただ純粋に今生きる態度一つを自分で行なってゆくのが仏道です。仏教は命の法則です。宗教かそうでないかは分かりません。仏道とは命の法則を実際に体得する修行です。ここに宇宙一杯の命がある。自己の絶対の命がはっきり分かったら出会う物も人もすべて命なのだ。想像できない長い時間も思いを手放せばここにあるのです。
上司からは部下、部下からは上司。父からは子供、子供からは父。師からは弟子、弟子からは師。これは兼ね合いです。仏教の生き方は兼ね合いなしです。世渡りではない。われわれの頭は物事を分け比較するように出来ている。しかし科学でも分かるように真実は追求しただけ逃げてゆく。すべての概念は概念ではないとは、大きい、小さい、長い、短い、すべて比較の概念でしかありません。広大無辺は人間の概念では捉えることができない。この宇宙の大きさ、微粒子の小ささにはキリがありません。命を比較出来ないのと同じことです。命は虚空のようで果てしがありません。
われわれはそれぞれ自己の命として完結しています。頭の中身が何なのかと求めてみてもそれは固定したものではありませんから無駄なことです。何かを取ることも捨てることも出来ません。好きと嫌いを握っているだけです。時が経てば思いは変わります。それでいて命は同じです。何もかも隠すもの、隠せるものはありません。門はひらかれています。もし人が、何が分かったのかと訊くなら、この命の営みとして頭がはたらいているということです。
いのちを基にして思うときこの世が本当に是か非かあるいは順行しているのか逆行しているのか分かりません。悟るとはある意味で煩悩が煩悩でしかないとはっきり分かることです。と言っても生まれつきの性格は変わりませんし悟っても何か変わることはありません。
何にもならない、どうにもならないということだけが正しい認識です。これは決していい加減なことを言っているのではありません。
説法する自信は六祖慧能の坐禅という命から来ている。迦葉にはじまり二十八代菩提達磨に至って、江海をへて中国に入る。六祖慧能にいたって中国全土に広まった。後人が道を得るのは数かぎりない。坐禅は妄想を片づけ悟りを求めるものではありません。頭のなかには真実も妄想もあります。その真実を求めたり、妄想から逃げないことです。世間の人は妄想のなかに生きていてそれを妄想だと気がつかない。それでもって自分の見方を疑わない。自分の考えは全部自分可愛いさの貪欲、怒り、愚かさでしょう。願いが叶っても叶わなくてもどうでもいいのです。それは自分が死んでしまうという無常から離れている話でしょう。どうでもいいだと思うところがないとおかしいでしょう。どうしたってわれわれの頭は曇るのです。それを曇ったなと思うことが坐禅です。これが仏教です。だいたいみんなが虫のいいことを考え、それをやり遂げることが良いことなのだという価値判断をもっていることが、まさしく悪時世なのです。そしてそんな考え方の人は自分が一生もがいて苦しむだけなのだ。真実の命を見失うこと甚だしく、自分勝手の考えばかりしている。根本的に命を疑い名利や金に価値を見出すということはまさに魔の所為です。
思いは幻影、行為は現実、結果は化けて出る。つまり自業自得ということです。この言葉を
忘れずに何かあれば自分によく言い聞かせた方がいい。直ちに思いによって行動してはな
らない。よく思い上がりを覚まして、よく見定めてからでなければならない。自分がすべての責任をもつということです。他者を怨んでも仕方ない。地獄に落ちたら地獄を勤め上げるだけだ。しかしここに落ちるような業をつくらないためには如来の正法輪を謗ってはならない。如来とは命のことです。つまりどんなことがあっても精一杯生きるということです。
仏教の叢林では金も名利も求められません。良いとか悪いとかという頭の物差しを取り外しなさい。自己ぎりの自己です。他者とは関係ありません。何も得ることのないことのために何も得るところのない修行をしなさい。それが仏教です。ただ坐禅するだけです。坐禅してみせるのとは全く違います。坐禅ができるうちは何にもならない坐禅をする。それが獅子です。偽の何か得るための野狐の仏教ではありません。自分の考えなどに迷わされてはなりません。仏教を装って金や名利に走る妖怪にはなってはいけません。
仏教の話は宗教的教団の話ではなく自己の純粋な命の話です。円とは自己として「円として完結している」「加えることなし」ということです。決して物欲しさや野心の話ではありません。頓とは自己の行として「やっただけはやった」ということです。ごまかしはききません。坐禅をするのと坐禅をしてみせるのとは全く違う話です。全く他者とは関係のないことですから人情なしです。それがよく分からないのであれば直接にやって来て文句を言え、「直にすべからく争うべし」です。我を張って人と争うということではありません。断常とは断見と常見のことです。断見とは自分も世界も刻々変化している諸行無常ということです。常見とは因果歴然、原因があれば結果があるということです。これは矛盾しているようですが同時にあるということです。
時と場所により是と非は変わってきます。だからこれは是これは非と決まったということはありません。確かにわれわれ人間は物事を分別しますが分別を超えた命を生きていることを忘れてはなりません。竜女も成仏する話は『法華経』提婆品にあります。仏教では女というものは罪が重いことになっている。竜女というのは印度の竜族の娘のことで彼女が修行して成仏した。善星が陥墜する話は『涅槃経』にある。悟ったつもりになり迷いに落ちました。お釈迦さまの邪魔ばかりしたといいます。修行の狙いをはっきりさせようということです。
永嘉大師は天台宗の僧侶で若い頃から仏教の勉強をした。あらかた仏教書を読んだ。仏教を理解しようとして休むことを知らなかった。これでは実物なしの観念だけのものになる。だから師匠から「他の珍宝を数えて何の益かある」と叱られた。今度はひたすらに修行をした。宗教とはただ自己にとって何が大切なのかを教えるもの。人生というものをはっきりさせるものです。自分の人生をはっきりさせるということがなければ世間の目によく映るように裏表のある生活をするようになります。もう煩悩の虜です。何を修行するのか分からないといくら修行しても全部間違う。「円」とは自分に完結している命、「頓」とは修行しただけやったという実際の修行です。自分という疑いようのない命が仏教の修行によってはっきりと、ああ自分という命だなあと分かる。おれこそ悟りをひらくぞという話ではありません。人はすぐに競争ボケしたがる。「外道」というのは「仏法、つまり自分の命のことから外れた人」のことです。学歴も地位も関係ありません。教養でも学問でもありません。自分が持っていて忘れているこの命のことです。
思いすぎてはいけません。胃が悪くない時に胃のことを気にしないでしょう。また曲芸のような修行をありがたがる人もいる。思いは頭の分泌物です。適度がいいのです。考えすぎたら疲れるだけです。思わなければ何でもないことを思い煩ってはいけません。いつか死ぬんだけど今ここに呼吸している自分の命が確かにあるでしょう。人間はどうしても凡夫なんです。人生は生まれて生きて死ぬだけだと決まっているのに他にも何かあるんじゃないかと思ってしまう煩悩のトリックにすぐひっかかる。でも何かいいものがあるんじゃないかと思う。本当に何もないのですよ。人生は苦しい。苦しくない人がこの世にいますか。われわれはただ苦しむだけです。生きているから運がいい時と運が悪い時があるのは当然でしょう。しかし思い通りにならないでしょう。運が良くても悪くても生きているんだ。それなら生きているから安心でしょう。死んだら死もありません。生きているからいつか死ぬんだと頭が思うのです。死ぬ時にはそんな恐怖感も死にます。生死一如ってこのことですよ。
思わなければ何でもないのです。坐禅は適度に思う練習です。考えすぎない練習です。無念無想になるわけはないでしょう。そこを間違えるといけません。頭を手放しする練習をしておれはまた考えているなということにハッキリ気づき考えてはいけないと頭を手放しする練習を繰り返すことです。そこで何か偉いものになるように思うのも煩悩です。いくら坐禅しても偉くならない。この何にもならないのが坐禅です。適度に考える練習というだけです。適度に考えれば心配することなんてないのです。命のことは頭では分からないと気づくことです。頭の思いに振り回されない自分の命の修行です。頭のトリックにかかったらこれは頭のトリックだなと分かる練習です。
他人と何を競うのですか。自分を相対化させて他者と競って何の益がありますか。自分の命の世話だけで十分なのに、向こうばかり気にするのは比較ボケです。それぞれに絶対の自分の命だけしかないのに、物事を相対化させる煩悩の頭にニンジンというエサを思い浮かべさせて、自分の命をこき使っているだけです。そしてちょっとできたら得意になる。すぐ正気でなくなる。思いあがる。できる奴をみれば足を引っ張る。競争呆けに嵌っているのです。他者に勝ったとしても、生まれて生きて死ぬだけです。過去の偉人も死んだら自分が偉人だということも認識できません。そういうふうに考えるのは、みんな生きている人間の妄想です。対象を自分に持ってきて、自分が適度に満足すればいいんです。
われわれは常に頭で真と妄を対立させている。その対立そのものをやめてしまうことが根本です。われわれは真を求め妄を捨てようとする。世間の人々は妄想の中に暮らしている。世間相場はすべて妄想です。中途半端な道徳心ならあるが心から真実を求めるということはまずしない。それで煩悩に苦しみ、その苦しみから逃れるために宗教を求める。坐禅というのは煩悩を押さえ込んで悟りを求めることではありません。坐禅して悟りを得ようなんて見当違いですということを永嘉大師は言おうとしているのです。あれが良いこれが悪いという「おれの見方」というものを止めてしまえと言われているんです。それで「頭手放し」の練習が全てなのです。
しかし「頭手放し」で何もなくなってしまうのではありません。何も分からなくなってしまうのではありません。ただ全てのものが命の風景として頭に展開しているだけです。これが「有無ともに遣れば不空も空なり」ということです。こちら側に眼耳鼻舌身意という六根があるから向こう側にあるいろいろな存在が煩悩のたねとして現れてくる。普通こちら側の心とは別に、悩みのたねは向こう側にあると思ってしまうが、実はそうではない。事実は向こう側の対象それぐるみがこちら側の心の動きによって起こっているのだ。目の前に美人が現れたというのも、まずこちら側に色気があるからでしょう。色気がなければ美人もないでしょう。悩みと言っても悩みのたねがそこに決まってあるのだというのではない。それを悩みのたねとして受け取るこちら側の私の主観が働けばこそ悩みを持つのです。頭を手放しにすれば何もないのだ。
自分は人の役に立とうともしないで、しかも人から尊敬され、経済的にも豊かで生活したいなんて虫のいいことを考えるから悩まなければならない。虚栄心を満足したいだけなのです。名利や金に価値を見出すなんて魔の所業です。「思いは幻影、行為は現実、結果は化けて出る」。わたしたちはどんな思いでも湧き起こりますが、直ちにその思いによって行動してはならない。行動に移すには充分思い上がりを下げ、よく見定めてからでないとならないうことです。
悪い結果になるのはみんなその人の心が行為に移したことなのだから他人を恨んではいけない。怨訴したって誰も身代わりに責任を取ってくれない。自分が生きるということは自分が全責任を持つしかありません。地獄に落ちたら地獄を勤め上げるしかありません。他者が突き落としたと言ってもどうにもならない。他者を恨む暇に、今この状況でいかに生きるのかが大切です。如来とはこの自分の絶対の命のことです。われわれは悪い状況に陥るとすぐに「なんとかして逃れよう」とする。これが一番いけない。そこで精一杯に自己の命を生き抜く姿勢が大切です。結局、自己にあるのは自己の命だけなのですから。
他と関わりなく自己にあるのは自己の命だけだということを了解した上で自分の頭の思いを直ちに信じないことが大切です。どんなに辛くても生きている限り辛いのが当たり前です。頭の幻影に悩まされているだけです。どうあっても生きている自己の命です。頭の思いという一器官の思いで右往左往することはありません。金や名利の話は全く関係ないし、仏教で病気は治りません。勝敗もありません。われわれが思って餌になるものは何もありません。それでも疑うことのできない自分の命です。当然、頭の思いは金や名利や健康状態を考えてしまうのが当然です。それでもそれは自己の思いに過ぎません。このことがはっきりと分かることが獅子ということです。
勝敗を決するなど世間相場で生きているのを獅子とは言いません。自己ぎりの自己で生きるしかありません。生まれて生きて死んでゆくのみです。他に何かあるだろうとわれわれの頭は思ってしまうのが当然ですが他には何もありません。悟りもありません。「自分の存在価値は自分において見出している」というところで生きるのみです。「これでいいのだろうか」と思うことは多々あります。しかしこれも思いです。思いを否定するのではありません。思いを思いとして見てゆくだけです。ただ自分の命の面倒を見てゆくだけです。これが本当に命として生きるということです。それが分かったら何か特別な境地がするんだろうと思うのも幻影です。じゃあ頭なんて必要ないのかと言えばこれも妄想です。頭は頭という一器官として作用していますから。
自分の存在価値は他者の評価によって見出すのではなく自分によって見出すんです。「独り自ら遊ぶ」というのは兼ね合いの世間相場で生きるのではなく自己ぎりの自己で生きるということです。上には媚びへつらい下には横柄に振る舞うなんていうのではいけない。叢林では出世しようとか欲得で行動しようとか、そんな俗物どもは去ってしまいます。本当に自己の命だけに生きようという人間だけが後に従います。金や地位という餌に騙されないというのが獅子ということです。「親に仕える如く」というのは無条件、無報酬で仕えるということです。仏像はきちんと坐禅しているでしょう。宗派に関係なく坐禅という姿勢を忘れてはいけない。なぜなら手足口は比較的自分の頭の言うことを聞く。これを閉じた姿勢が坐禅だからです。それでもきちんと宇宙一杯の命ははたらいているということを体得するためだからです。立派な格好をしてその上もっともらしい仏法を説けば正真正銘の妖怪です。
自分の人生をはっきりさせる大事を見失っていればどんなに修行しても風塵の客です。つまり、自分の命がまさしく自分の命であるということをはっきりさせるのが修行です。「俺こそ悟りを開くぞ」と思っているのが二乗や縁覚ということです。これなら「俺だけ偉くなりたい」と頭がぼけているに過ぎません。そんな外れた狙いの修行ならやらないほうがいい。外道というのも「仏法という真実の命から外れた人」の意で「教養のある下劣な奴」のことです。「指を執して月と為す」とは月を見なければならないのに指を見ていると言うことです。これは「命の領域は頭では届かない」ということです。頭で幻想を捏造してばかりいるのが外道です。
「一法を見ざれば即ち如来」。一法を見ないとは頭を手放しにすることです。つまり「自己」という個体が大自然、大宇宙と続いているということです。自分が命なら周りの人も物もみんな命になるでしょう。頭の内容はどんなに親しくっても違うに決まっている。物事の概念も違う。また頭の概念は刻々変わってゆく。だからあの時は仲が良かったのに今は悪くなったりする。頭の内容で人を分けたってだめだ。自分と同じ命なのだからということがはっきり分からなければならない。でも「あの人は好き」「この人は嫌い」という思いがなくなるわけはない。この個体はこの個体だ。私は私だ。自己の思いを手放ししているときだけ思い以上の自己がここにあるんだ。この思いの相対にならない自己、命は宇宙一杯なんです。
この頭を手放した思い以上の自己こそ本当の自己なのだと、よく解れば、業障本来空だという。つまり一切を手放しにすれば悪業の障りは消えてなくなる。さもないと「須く宿債を償うべし」で「いままでの業障の借金をすべて返さなければならいぞ、ということです。欲得で生きても墓場が近づいて来るとみんな慌てる。仏法というのはそれを生きている間に思いを手放す。悪業を手放すということです。「飢えて王膳に逢えども」。食べることができなければ腹は膨れない。つまり頭手放ししなければ業障を持ったまま死ななければならない。頭手放しの行がなければ何ともならないということです。救いようがないということです。
勇施重を犯すという話は『浄業経』というお経の中に出てくる。勇施比丘という人は美男子で、人妻に恋され、恋に狂い、その後亭主が邪魔になって殺してしまった。彼は良心の呵責にたえかねて毗鞫多羅尊者に懺悔する。すると毗鞫多羅尊者は「一切諸法無自性、一切業障無生」と言った。つまりすべて本当は罪と決まったものはない。自分のやったことを頭手放しにすれば、すべて脱落するのだと言った。「生」とは作りごと。それを手放しするときは無生です。勇施比丘はこのときはじめて「無生」ということを悟った。彼は無生法忍を得てついに宝月如来になった。
「獅子吼無畏の説」というのはどっちにどう転んでも宇宙一杯、畏れるものは何もないということです。ただし同じ宇宙一杯のところへゆくのなら死んでからでは遅すぎる。生きているうちに行かねばならない。仏教という宗教は生きているうちに宇宙一杯のところに帰って活き活きと生きようというのが狙いです。生きているうちに宇宙一杯のところに帰らなければ人間の生き方として意味がない。生きている間に「おれが、おれが」という小さな俺の思いで行動せず、その思いを手放しにして宇宙一杯のところで行動しようというのが仏教徒として一番大事な根本精神です。
「獅子吼無畏」の説に対して「深く嘆いてばかりいてはっきりと分からないで何かを頑固に信じている」連中は「犯重の菩提を障うることを知って、如来の秘訣を開くことを見ず」です。普通われわれは煩悩は悪いものだと決め込んでいる。しかし必ずしも悪いことではありません。なぜなら煩悩もわれわれ人間のひとつの生命力だからです。この生命力を無視したり断絶したりするところに命の真実があるわけはありません。煩悩を生かすことが大切です。それが「如来の秘訣を開く」ということです。如来とは宇宙一杯の生命力のことです。この煩悩を元手にすべてを生き、生かそうという気持ちもはたらくべきです。
二人の坊主が淫殺を犯して優波離尊者に懺悔した。優波離尊者はその罪の重さを説いた。そこに維摩大士が現れて「優波離よ、お前の戒律は罪を深くするためにあるのか」とたしなめた。そして二人の坊主に懺悔して頭を手放しにしたらあらゆる罪は消えてなくなると言って聞かせた。『観普賢菩薩行法経』という経に「もし懺悔しようと思えば坐禅しろ。するとまるで太陽が昇ってくれば霜や露が消え去るように罪は消えてしまう」とあるとおりです。つまり坐禅して頭を手放しするということです。
この頭を手放したときには不思議解脱の力がはたらく。これは無量無辺の命の力がはたらくときなのだから、人間の思議を超えたものです。つまり頭を手放しにするというのが不思議ということです。そのとき命の力がはたらくからです。しかもそのはたらきたるや、ガンジス川の砂粒の数の如く無量無辺で極まりがない。これに対して四事の供養は匹敵しない。四事の供養とは、飲食、衣服、寝具、医薬を出家者に供養する事。次に黄金万両、次に粉骨砕身して自分の労力のありったけで供養する。それでも「未だ酬ゆるに足りず」。ただ一事、頭を手放しにするという一事だけで「百億を超ゆ」だけの値打ちがあるのだ。盤珪禅師のいう「不生の仏心ですべて整う」ということです。不生とは頭を手放しにすることです。
「法中の王もっとも高勝」。法とは、あらゆる存在、在りてあるもの、生きとし生けるもの、それがすべて「法」です。世間相場の偉い人になるなんて駄目なのだ。この命をいかに活き活きして生きるのか、を狙わなければならない。「出会うところわが命」としてすべてに対して自分の命を大切にする心で出会う。これが「法中の王」です。多くの仏たちと同じように、これこそが如来珠であることが自分によく解ったと永嘉大師は言っているのだ。われわれもこれを信受すれば、皆この命に相応して仏になれるのだと。
結局の話、世の中は複雑に見えるけれども生死という命なのだ。どっちにどう転んでも私が私の命を生きているだけしかない。死んだら生死もないのだから、心配は要らない。私の目の前には実は何もないのだ。きみというのも私の分身だ。物を取り扱ってもこれは他物ではない。私が私の命を取り扱うのだ。つまりどっちにどう転んでも自己が自己に生きる。だから「了了として見るに一物なし」「また人もなく仏もなし」。自己ぎりの自己であって、眼前には人も仏もないのです。宗教になんでも有り難がたがって、何か目の前に拝みたくなるもの、有難いものを置きたがっている善男善女では駄目だ。自己ぎりの自己を大切にする世界が真の宗教の世界です。『長阿含経』の『遊行経』にお釈迦さまが「自らに帰依せよ、法に帰依せよ、他に帰依するなかれ」と最後の言葉を言った。本当に生きるのにはこうでなければならない。自己の命はまったく無常です。これと言って摑むべきことは何もない。大千沙界の海中の泡です。一切の賢聖は電の払うが如し、とはこのことです。
たとえ世界の支配者が出て来ても、頭を手放しにするこの仏道の理がなくなることはない。太陽が冷たくなり月が熱くなっても、これらの説をどんな魔の衆も壊すことはできない。険しい山道を象はのしっと歩く。蟷螂がその鎌を振り立てても巨象の歩みを止めることはできない。つまり、人間の頭の思惑で、命の真実のあり方を遮ることなどできないのだ。巨象は兎の歩くような小道は歩かない。同じように真実の命を分かった小悟りなんて相手にしない。どうせ脳という馬鹿なもので管のなかから世間の蒼天を誹謗しても駄目だ。まだ分からなければきみのためにもう一度説いてやろう。
