法橋太郎のブログ

ポエム 第九回歴程新鋭賞受賞


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いのち

 

聡明な王子がいた。門からいたずらに外に出

て、世間というものを知ってから、かれは苦

行を重ねた。肉体の痛みで精神の痛みをやわ

らげる日がつづいた。

 

精神の痛み。それが何なのか、いつも考えて

いた。そこでまさしくみずからが考えたり、

思ったりしていることに気づいた。それを止

められれば、精神の痛みはなくなるのではな

いのか。通りがけの女の手に抱えられていた

乳白色のミルク壺が光った。

 

大きな樹のもとに静かに坐って、みずからの

精神の動きを観察した。考えや思いが次次と

湧いて出ては、変わっていった。過去のこと

も、現在のことも、未来のことも、脳裏をか

けめぐっては、また変わってゆく。

 

摑みどころのないこの精神の動きは、その摑

みどころのなさゆえに、根拠は欲望に根づい

た妄想であったと知った。根拠をなくせば、

すべて妄想であるはずだ。

 

呼吸がかれの胸をふくらませた。汗がかれの

顎から滴った。かれは妄想にまかせて、それ

に捉われないでいた。やって来ては去ってゆ

く考えや思いは、何処から来て、何処に去っ

てゆくのか。

 

頭の思いは、有るにはあるが、無いと言えば

ない。われわれが妄想に捉われていることは、

はっきりした。この妄想があるからこそ、そ

れを除けば、一切空ということが分かるのだ。

 

この考えや思いが無いならば、われわれにあ

るのは、いま生きている、生かされているい

のちの他に何もない。すべての生きとし生け

るものは、ひとしく同じ原理をそなえている

いのちではないのか。

 

一切衆生悉有仏性。山川艸木悉皆成仏。生き

ているかぎりすべてのものがいのちに保たれ

ているのだ。平等でもなく、勝ってもなく、

劣ってもいないいのち。他のひとびとは、そ

れに気づいていないだけなのだとかれは知っ

たのだ。大地に腰を落ち着けてじっと坐るか

れの頭上で、五月の青い風が大きな樹の葉を

ことごとく揺らした。

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ライフワーク

               F・H氏に

 

かれは大学を卒業後、フリーターを経て、都

銀の不動産会社に採用された。よく働き、行

政書士等の資格をとった。定年を了え六十三

まで勤めた。それと同時に禅の修行を積んだ。

 

七十を過ぎて、みずからが生まれ育った街の

中心地にちいさな家を買って、妻と別居した。

禅仏教の学習と神戸震災の朗読や傾聴、宮沢

賢治の読書会、その他ボランティア活動など

のライフワークを実行するためだったらしい。

夜九時には就寝して、午前三時には起床する。

起床するとまず風呂に入り、そのあと、家の

拭き掃除等、家事をはじめるか、みずからの

勉強をする。

 

妻と子供たちには、すでに遺書をのこしてい

る。かれの妻はその突然のような、別居によ

って、ひどく悲しんでいるらしい。娘たちも

同様で、かれを非難するが、かれは死ぬまで

に自分がしたいことを自由に貫こうとしてい

る。

 

戦後、貧しい時代に育ったかれは、身に着け

た、否、身につけねば生きてこられなかった、

様ざまな生きる技術をライフワークに活かし

ている。かれはみずからを多動性障害だと言

っているが、しょっちゅう、身体を動かして、

歩くのはとても速い。今日もまた家にいない。

何処に行くともなしに、自在にそのいのちの

まま動いているのだ。

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天子の使徒 二

                              K・W氏に

 

福原跡に仮寓してから二ヵ月が経とうとして

いる。季節は穀雨に入った。明け方はまだ寒

い。おまえからの返事はまだ来ない。おまえ

のことだから、こころ動かざること、勝たざ

るを視ること猶勝つがごとし。みずからを省

みて直くんば、千万人と雖もわれ往かん、と

気を練っているのかもしれない。

 

天子の使徒よ、そのこころ、おのずから気宇

壮大なり。おれの量れるところではない。お

れには、いつも朗らかに笑うおまえの声が聞

こえてくるばかりだ。季節の移り変わりは早

い。健康には十分留意してほしいと願う。そ

ちらでは、まだ鶯の声が聞こえるだろうか。

 

天のこの民を生ずるや、先知のひとをして、

後知のひとを覚さしめ、と伊尹、孟子の言葉

をこころに刻んでいるのかもしれない。おそ

らくそうだろう。いつ戻ってくるのかは知れ

ないが、おまえはひそかに思っているはずだ、

われは天民の先覚者なりと。

 
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パペットの交差点

 

車の行き交う交差点をことほぐために青きも

のなき都市の泥濘をゆく。おれの志はいまだ

変わらず。中身のない暗愚の人びとの多さに、

いまさらながら愕かされる。泥濘の脳髄たち

がいたずらにこころなき口をひらく。自己を

深めることもなく、まるでテレビでも視るよ

うに、その対象をあざける類の口吻をして。

 

思い断ち切るすべをも知らず、短きあいだの

人の世に、もはや神仏のことわりを求めるこ

となく、歌謡曲を口ずさみながらの時間つぶ

し。鬱憤のはけ口にすぐに消えてしまうおの

が言葉のまた脆弱さ。暗愚の王は知らぬ存ぜ

ぬとから言葉を吐く。

 

おお、おまえ暗愚の王よ、おまえは仕組まれ

たパペットの生死を生きるしかないというこ

とにまだ思い及ばないのか。経済のひとつの

椅子に凭れかかって、いかさま道化を演じつ

づけよ。この世のひとつの駒。この世のひと

つの歯車として。

 

鏨で叩き割られた墓がおまえの背に建ってい

るが、この世で量れない活字の運命が歩むこ

ろには、おまえも野山の土のなか。ひと摑み

の灰と骨だ。この世は夢でさえなくなる。お

れは志を貫くだけだ。おまえは何を貫くのか。

ああ、また暗愚の旅びとが行く。自己をも極

めようとせず、あのあおぐらき骨壺のなかへ

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烏原幻想

 

水平にかかった物干し竿に雨粒がならび、余

分に雨水を受けたところから、水滴になって

地上へと垂れ落ちていった。

 

雨が降りだすすこしまえに、古い印象の鵯越

駅がおれの眼には、何故か赤く残っていた。

鄙びたその山中の駅付近におれは、まるで隠

者がこれから向かう、さらなる通過点のよう

な鉄錆びた明るさを感じとっていた。外から

見えるプラットホームには山を散策してきた

数人のひと。踏切を渡ったまわりに点在する

店のようなもの。

 

そこからさらに下って、烏原貯水池を通った。

藪椿の花がいくつか地に落ちているので、見

あげればまだ樹に残っている花。貯水池の碧

がわずかな風になびいて、水面の一部が黒く

撥ねているように見られた。

 

おれはこころの安寧を得た。鶯が啼いていた。

まえを歩いていたおまえがその声を口笛でま

ねると、また貯水池の向こう側から、応える

ように鶯が啼いた。空はわずかに曇り、そこ

を歩くおれたちにも少しばかりの翳りが感じ

られた。

 

おれは昨晩、西の空に月が出ていたのを思い

出しながら、盲目な猿の集団が、群れている

からこそ呆けて、様ざまな情報をいたずらに

展開しているのは何故かと考えていた。そこ

に悪意があろうとなかろうと、やはり集団に

なったことでの迷妄に支えられる猿の性を思

わずにはいられなかった。

 

いくつもの砕けた石の坂道を下りながら、足

もとへの注意を怠らず、それらすべてのこと

について、いくらか断片的な考えが浮かんで

は消えた。

 

おまえの早い脚に着いていくことに気を配り、

それらを考えること自体のおれの思いが断た

れて空虚になっているのが、はっきりと分か

った。

 

線香を生業にして暮らしたという、その線香

を練ったという臼が貯水池の堤防に埋められ

ている。それらの思いも貯水池の底になった

烏原の村のように、水没したと言い残される

だけの実体の摑めないわが妄想へと繋がって

いた。

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空白のニルヴァーナ

 

ひとつの状況は鳩の来る公園で始まった。郵

便夫が、鞄からとりだした封筒の封を切って

いた。届くことのない郵便物が、個人的な指

先で開封されてよいものかどうか。地鳴りの

ような音をたてて、車が行き過ぎた。

 

空白の三年、そのまえの空白の五年。おれは

言葉を求めてさまようことなく、こどもたち

と別れを告げることもなかった。太陽がふた

つないのと同様に、一通の手紙は戻ってくる

ことがなかった。

 

ひとつの家郷から、もうひとつの家郷へ。さ

らにもうひとつの家郷へ。つまり何処にもな

い家郷。何処にでもある家郷。得るものは何

もなく、失うものはおれの身心のみだった。

見たものがすべて整わないままに、何も摑ま

ない手のなかに、祈りを包んでいた。

 

祈りは育つ途中のしるべであり、太虚に他な

らなかった。平等でなく、劣ってもいず、勝

ってもいないひとつの生命力のかたちとして、

わが身心はあった。指を折って数えられるも

のは何ひとつない。

 

食事と眠りと安らかな活動。思っていること

を勘定に入れることはなかった。過去のこと

はもう何処にもない。探しあぐねることもな

い。他人とは一切のかかわりのない天地に生

きているのだ。好むひともなく、憎むひとも

ない。おれはひとつのフィルターに過ぎない。

 

ここでは手に触れるものが、草木のかたちを

していないので、春の雨に虚空を迷う塵埃が

そそぎとられて、路からコンクリートの溝に

流されて、下にくだってゆく。虚空はひとと

きのきよらかさをとりもどし、われわれの気

管をとおって呼吸させるのだ。
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無明の水甕

 

埋立地の倉庫に並び積まれている水甕。もは

やこの世に存在したかどうかも忘れ去られて

いる腐った水の溜まった水甕がある。

 

流行歌を唄うくらいの罪悪感の伴わない集団

的暴力のために、悪徳の貨幣を受けとるもの。

悪徳にかんして抑制をもたないのは、妄執に

かんする悪弊が脳髄の、つまりはそれが世間

の見本となってしまっているからだ。

 

水滴が一粒ひとつぶ落ちる。やがては大きな

水甕いっぱいになる。清水でも腐った水でも

それは同じこと。清水の水甕になるか、腐っ

た水の水甕になるか、どちらにせよ、そのも

のの人生がかかわっているのだ。

 

いま在るということは、いずれ遠からず無く

なることだ。みずからの人生を選ぶのはおの

れ自身なのだ。死ぬときになって、罅割れた

悔恨をする羽目になるのだ。

 

短い、とても短い人生で腐った水の溜まった

水甕になって破棄されるその数は非常に多い。

そんな水甕が埋立地の倉庫に山となって並べ

積まれているのだ。真実ははるかな過去から

不滅であり、不滅の電球がその倉庫にそれら

の水甕を照らし出している。

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合掌のてのひら

              ──K・Mへ

 

生を捨てる。死を捨てる。いかさまのこの世

に別れを告げる。妄想の死に、あるいは妄想

の死後に別れを告げる。ひとびとのフェティ

シュな欲望。かませもののための玩具の勲章

と暴力の札束。この世の飾りから立ち去って、

おれは徒歩で歩む。

 

さあ、おまえの欲しいものは揃っている。好

きなだけとって行け。おまえの黄金の玩具箱

を限りない欲望で満たせ。ギャングストーカ

ーよ、ノイジーな音を高らかに掲げよ。欠け

た甍のような無知と虚偽で成り立つおまえた

ちの生き方が問われることはないのだから。

 

うんざりする虚栄の咲きほこる地上の光。失

われた闇夜のなかでの享楽。舌先に飾る屈辱

の言葉。見えなければ許されるレーザー光線

という拷問を楽しめ。偽善者たちのみずから

を正当化して騙る正しい悪。それでも、おま

えは満足することがない。貪欲はさらに貪欲

をむさぼるからだ。

 

青嵐のなかで、さらにまたおれのなかの青嵐

のなかで掌を合わせるものがいる。生死を捨

てて生きる。それが最上の安楽だ。生理的な

ことを除いて、みずからの頭に浮かぶことが

ほとんど妄想だと分かるからだ。生死を捨て

て生きるいのち。この生きているいのちだけ

が本物だ。あとは妄想として、永くこころに

残すことはない。

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愚者の問われ方

 

生を離れ、死を離れて、生きているいのち。

おれたちは苔の生えている石でできた手洗

い場所で、手を洗い、その水を飲んだ。草

原に寝そべって遊んだ。おれたちはそれぞ

れどんな未来が拓けているのか、話したは

ずだ。

 

それが今になって、いったい自分の人生で

何が起こったのか整理するのはすこぶる難

しい。分からない暴力ばかりのこの世で、

われわれは夢を見つづけているようだ。

 

お金について語る人の多いなか、おれは真

実を求めてさまよった。われわれはただ生

きて死ぬだけの存在なのだが、その生き方

が問われているのだ。

 

どのように生きるべきか、おれは興法寺に

行くまでの最後の石段を息せき切って登っ

たものだ。自分にされて嫌なことを他人に

しないことが法で決まっている。それは怒

りと貪りと愚かな行為だからだ。

 

行為がすべてを物語る。苦しみといっても、

楽しみといっても、結局のところ、生きて

いるあいだのことなのだ。死んだつもりで

考えてみろ。

 

苦楽をともに捨て、また善悪、生死をとも

に捨てて生きてゆくことが最上の生き方な

のだと知る。興法寺の水に到るまではほん

の少しだが苦しく厳しい坂道を、足もとに

気を付けて、また仰ぎ見て歩くのが楽しみ

だったのだ。

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消えることのない火

 

右手にあった、失った池を思いながら、そ

の白壁の塀のぬかるんだ細道をいつも歩い

ていた。白壁の塀はすっかり剥がれ落ちて、

黄土色に剥がれ、さらに深く灰色に剥がれ

ていた。失った友、失った家郷。

 

その白壁から柘榴の樹が一本あって、おれ

の眼を楽しませていた。柘榴の花を遠めに

見て、また近寄って、柘榴の実を見ていた。

去年は無くなった柘榴の実を見た。変貌す

る景色のなかで、おれは不変異のこころの

ままでいる。

 

この町の住人もすっかり変わり、時代を経

てまた変わってゆくのだろう。おれが見た

ものも、見なかったものも変化をやめない。

この世の倣いの変化だけが引き継いでゆく。

 

キーボードを打ちながら、おれの記録がす

べて虚辞とみなされても、それが変化する

ことはない。この世に生まれるかぎり、ひ

とびとの人生の行く末はすでに決まってい

る。

 

ひとびとの身心、また山川艸木、白壁にさ

え変わる変化そのものは不変なのだ。白壁

の塀の黄土色に剥がれ落ちたところには組

み入れられた藁と細い竹ひごを十字に編ん

でいるのが見えた。

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