妄想試論
現実は現実として思考の外部にある。しかし
それを受けとめる思考の内部の現実は少なか
れ、妄想に浸蝕されている。内部の現実、し
かしそれは内部の自己と、自己のなかの他者
という妄想に、すぐにとって代わられる。外
部と内部。それは一種の機縁であり、それに
ついて、あくまで妄想が脳髄のなかで作動し
ている妄想であるのだと自覚できるか、でき
ないかということが、この世で明晰にものを
見る指標となるのだ。たいていのひとは自分
の考えであると、この脳髄の作用を信奉して
疑うことがまずない。
脳髄のなかの現実、妄想を妄想としてはっき
り知覚すること。それが分かってはじめて、
外部を処理できるのだ。幻想の握手。幻想の
笑顔。幻想の別れ。それら幻想に包まれて脳
髄は生きている。あくまで脳髄の独壇場であ
る判断や感情の起伏、理解に手足と顔は作用
するのだが、脳髄を生かしめている全体のい
のち、われわれの呼吸や胃や腸、血流などは
ふだん意識から除外されている。全体のいの
ちがなければ、われわれは生きることができ
ないというのに。
生の全体性。これがわれわれの本来の姿では
あるが、多分にそれらが欠落されている日常、
われわれは見ることができなくなっているの
だ、現実さえも。だから、そこから脳髄の妄
想を妄想としてとりだす時間が必要になって
くるのだ。妄想が、妄想だと分かれば、妄想
でないところの現実が剔抉されるのだ。剔抉
された現実もまた妄想ぐるみであったかと、
判るのだ。