『葬送のフリーレン』が、前評判の高さにたがわず、すばらしく、毎週楽しみにしている。
何よりも面白いのは、この作品が物語のおしまいから始まっていることだ。
魔王を倒すという目的を果たしたあとの世界は、本来であれば「いつまでも平和に暮らしましたとさ」で済む1行分の世界であるが、終わったあとのほうがずっと長い、というヒンメルの言葉どおり、この作品では「時間」が主題となっている。
エルフのフリーレンは、勇者ヒンメルが亡くなり、死者と会うことのできるというエンデを目指して旅をする。
過去の足跡を新たな仲間とともに旅をする、というきわめてゆったりとしたテンポの物語で、これが人気なのだからおもしろい。
大事なのは「時間」の表現であり、それが少年マンガらしからぬ味わいの深さを出している。
原作のマンガからして台詞が少ない。
必要なものは絵で見せていくというスタンスが何よりもよい。
(私にとってのマンガはなによりも、絵とコマの運びである。
台詞のないマンガは成立しても、台詞だけのマンガは成立しない。)
第1話をみると、台詞のないコマで、フリーレンがヒンメルたちと別れた後にどのようにすごしていたのかが描写されている。
言葉による説明がないおかげで、私たちはフリーレンがこれまでと変わらず、時間をだらだらと過ごしていたことが分かる。
そして、その間にヒンメルは年老い、50年後に再会したときには老いぼれている。
ヒンメルの葬儀の場面でフリーレンが後悔を口にするとき、私たちは手前にあった彼女の時間の過ごし方を思い返すようになっている。
その数コマがあるからこそ、彼女の後悔の大きさを推し量ることができるのである。
それがなく、50年後、というふうになっていたら、おそらくその後悔の効果は半減している。
アニメはそれに輪をかけてすばらしい。
原作に忠実な、とは何を意味するかということを体現する作品で、
コマとコマをつなぐ部分にアニメならではのカットをはさむところに、
監督の演出の妙が現れている。
無言のコマを省略せずにカットで見せるだけでなく、まず遠景に山を置いたカットをタイムラプスのようにすることで「数十年」をあらわしておく。
これによって、エルフの日常が年単位であることを伝えている。
そして、ヒンメルに再会し、エーラ流星を見に行こうとして、
ヒンメルが支度をする場面では、原作にはないカットが挿入されている。
それはヒンメルが、戸棚に飾られた冒険時の服と剣を見ている、というカットで、
フリーレンが「ヒンメルまだ?ハゲなんだからこだわったって意味ないよ」というせりふに対し、「ハゲなりのこだわりがあるの」と答える場面のあいだをつなぐ。
原作だと、自称イケメンのヒンメルが年老いても変わらないことを示す意味が与えられているだけだが、アニメでは、支度ではなく、その戸棚を見ているうちに時間が経ってしまい、
言い訳をしている内容に意味が変わる。
そこにあるヒンメルの万感の思いは、台詞になっていない。
しかし、台詞にならないおかげで、私たちはヒンメルの感慨を想像することができる。
そして、葬儀の場面の手前には、空になった戸棚がある。
棺に収まった遺体に着せられ、剣は手に握られている。
原作では教会の中で泣くフリーレンは、アニメでは埋葬にあたって初めて泣く。
アニメのほうがマンガを読むためにかける時間よりも尺が長い、むしろ、尺を長くとることで、じわじわと喪失感が生まれていくことを暗示する。
これは、マンガとアニメの違いがどこにあるのか、という問いに、
模範的に答えてくれている。
それは、読む時間と見る時間の違いである。
監督は、この作品の本質が「時間」であることを、よく理解しており、
どのように原作を守りながら、より「時間」のもつ奥行きを表現するのか、ということを実行している。
回を重ねてから、最初のほうを見返すと、いくつもの発見がある。
とりわけ、フリーレンに対するヒンメルの思いは、原作以上にしっかりと描かれている。
鏡蓮華の指輪をプレゼントする第14話は、鐘の響きで始まる。
それは、この回の最後で、あたかもプロポーズをするかのように指輪をはめるヒンメルの描写にも流れるが、第1回の葬儀でもやはり弔鐘が響いており、その次の場面で、その指輪を手にしているカットがあったことと結びつけられる。
また、といって延々と書くことがあるのだけれど、
原作の第2話で、エーヴィヒの魔導書の解読をハイターがフリーレンに依頼するとき、
「まあ、不死とはいわず、ほんの少し、ほんの少しでいいから時間が欲しくなったのです。」というせりふを口にする。
このとき、原作では1ページの3分の2ほどの大きさのコマで丁寧にハイターの表情が描写されている。
一方で、アニメでは台詞の半分はハイターを見つめるフリーレンを映し、残りの台詞では4分の3ほど背をむけたハイターの姿をやや引き気味に映している。
これなども、マンガとアニメの見せ方の違いをよく表している。
マンガでは、やはりここは表情を見せなければいけないコマで、これによってフェルンを思う老ハイターの真面目な性格が読みとれる。
しかし、アニメであれば、声の演出が入るうえに、音楽の効果もある。
エヴァン・コールの音楽の魅力を語ればこれも何千字あってもたりないが、
ここでは小さくクラリネットのソロでしんみりと演奏させている。
そうした演出を加味すれば、顔をアップにするよりも、今度は表情を想像させたほうが、観客を引き込みやすいと判断していることは明らかだ。
OPはこの作品の前提となるインフォメーションを含み、
EDは観終わったあとの余情を引き出す。
作画も丁寧で、戦闘場面もCGの処理に頼らずに作画でみせ、アニメーターの職人芸を堪能できる。
声優も、大げさなせりふがないぶん、調子や間合いなどに微妙な表現が求められている。
日本のアニメーション技術の水準の高さが存分に発揮された作品で、何度でも見返してしまう。