最近、というよりもおそらくずっとそうなのですが、
炎上という現象の正体はなんだろうかといつも考えます。
フワちゃんが芸人のやす子にX上でした発言がとても炎上しているのもそのひとつでした。
おとなげない発言でしたし、完全に場所とタイミングを間違えていたのは確かなことです。
それよりも、今ふと思ったのは、このやりとりは、言葉の論理としておかしいのではないか、
という点です。
「やす子オリンピック 生きてるだけで偉いので皆優勝でーす」
に対して「おまえは偉くないので、死んでくださーい 予選敗退でーす」
という言葉は、論理として対応していない。
やす子は、「生きている」という理由で「偉い」と評価し、
そこに「優勝」という結果をもたらしています。
しかし、フワちゃんは、「偉くない」という理由で、「死んでください」としている。
論理的に整合性がとれているなら、「死んでいる」から「偉くない」となっているはずです。
「偉くない」から「死ぬ」という論理は成立しないはずなのです。
順序が逆なのです。
むしろ、この非論理性を問題にした方がよい。
ところが、ほとんど誰もこのことを問題にしていないのではないでしょうか。
逆に、やす子にたいしても「死んだ人は偉くないんかい」というくらいのツッコミをだれかしてもよかったと思います。
もちろん、これらはしょせん言葉遊びの範疇です。
それはともかく、私は炎上させる人たちに対する疑問のほうが大きいのです。
発言の内容というよりも、結局のところフワちゃんに対してふだんから面白くないと思っている人たちが、機会を得て叩いたにすぎず、やす子に対して心から同情しているわけでもないのではないか。
「死んでください」と言った人間に対して、「お前が死ね」「見たくない」「テレビから消えろ」という発言をする人間はどんぐりのせいくらべでしょう。
私などは、ああ、またやらかしたな、うまいことを言ったつもりでスベったな、
というくらいの感じです。
馬鹿をみて、馬鹿だな、といっていられるくらいの心の余裕があるほうがいいでしょうし、
自分だってその馬鹿からたいして違いはしないのです。
だいたい、私がフワちゃんに直接関わることはないのですから、他人事です。
私自身に関わることなら、言ったことを後悔させるために全力を尽くしますが。
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この炎上というものを考えると、そこには言葉の一面的な判断がつきまといます。
たまたま、さっきネットニュースで女性のフリーアナウンサーが、「ご事情あるなら本当にごめんなさいなんだけど。夏場の男性の匂いや不摂生してる方特有の体臭が苦手すぎる。常に清潔な状態でいたいので1日数回シャワー、汗拭きシート、制汗剤においては一年中使うのだけど、多くの男性がそれくらいであってほしい…」という投稿をして炎上し、事務所を解雇されたということで、気になったのでした。
これでなぜ異性の名誉棄損になるのか、私には理解できない。
きちんと「ご事情があるなら」と断っているし、「多くの男性」だから「すべての男性」という極端なものの言い方になっているわけでもない。
たとえば、世の中には病気や生来のものもあるでしょうし、
汗だくになる現場で働いている人もいます。
でもそういう人は「ご事情」のある人たちなのだから、この投稿の意図からは外れているのです。
あるいは、女性も含めて体臭を気にしろ、といえばよかったのでしょうか。
この発言に不快さを覚えた人たちを推し量るに、この言葉に「義務」を感じたからだろうと思います。
なぜ、そういう義務感を感じさせるかというと、私は体臭を気にして頑張っているのだから、
他の人もそうするべきだ、という比較がされていることにあります。
人と人を比較すると、だいたいろくなことになりません。
この場合は、「苦手すぎる」という主観をまず提示したうえで、比較し、自分を上位においた結果、対象となる「多くの男性」を見下したかのような印象を与えたということになります。
逆に、ここにかみつく人たちと言うのは、自分が比較され、下に見られたのだということへの反発であり、それは潜在的な男尊女卑の思想をもっているとも言えます。
これが問題になるというのなら、消臭剤や洗剤のCMも問題があることになるのではないでしょうか。
少年やお父さんの服や足跡がばい菌だらけで臭いの元になっていたり、
漂流して上陸した汚い芸人を、白衣のイケメン(?)が漂白してきれいにする、
といった内容はなぜ問題にならないのでしょうか。
こうしたCMの場合、その商品の購買者の過半数は女性だと思われます。
逆にいえば、同じように思っているから買うのです。
男性たちが、なぜこうしたCMに反発しないかというと、メッセージの着地点が異なるからです。
臭いや汚れが取れる○○という商品を売ることが目的のCMは、購買者にめがけてメッセージを発しています。
臭いの原因を作り、それを苦にしていない人は、これらの商品を買わないから、
メッセージが目と耳に入らない、ということです。
ここまできたら、私などは自分が汗臭くある権利を主張するよりも、
臭くならない努力をしているほうが、利点が大きい気がするのです。
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ところで、膨大に発信されるXの言葉のほとんどが何の反応もなく、問題にもならない中で、
こうした言葉が問題になる、というのには内容よりも、論理とレトリックが関わっているのだなと実感させられます。
論理が破綻しているものをみると、どこがおかしいか言えないけれど、何かおかしい気がしている、というのがフワちゃんのケースです。
「おまえは偉くないので」といったときに、人は発信者のフワちゃんにたいして「おまえは偉いのか」とつっこみたくなっている。
ということはこれも比較が問題になっているのか、そうか。
フワちゃんはやす子に対して「おまえは偉くない」といえる立場に立っていることが、
言葉から分かるようになっている。
それに対する反感なのでしょう。
そして、アナウンサーのケースは、うかつに自分と他人を比較し、相手を下にしたことが、反感を買ったという例になります。
最近よく見かける「マウントをとる」ことになります。
比較するときは自分が下になるようにしておいたほうが、得が大きいことを知っておくべきでした。
自分より下になる人を示すのではなく、自分より上になる人を持ち上げたほうが得なのです。
こうして考えると、炎上のたいていは自分と他者の比較が含まれ、
そのときに自分が上に立っており、相手を下にみている、ということが原因になっていることがわかります。
フワちゃんもアナウンサーも謝罪していましたが、結局のところ、本質がどこにあるのか気づいていない。
比較なのです、そして、相手よりも自分に重きを置いたときに、炎上の火種がうまれる。
比較された方は、怒りだしてわざわざその比較の天秤に載りにいく。
そして、自分のほうが重いのだと言って、ふんぞりかえる。
私からしたら、どっちもどっちです。
わざわざ比較の天秤に載りに行くこともないのに、と思います。
ただ、わざわざ火種を作る必要もないのに、とも思います。
発信力のある人は、「比較」を発言の判断基準においてみると
リスクマネージメントにつながるのではないかと思います。