映画『ウィキッド 永遠の約束 Wicked: For Good』を観てきました。
※以下、ネタバレを含むので、結末がどうなるのかを楽しみたい、という人は読まないでください。私は結末が分かっていても楽しめるので、以下、構わずに書いていきます。
昨年に公開された『ウィキッド ふたりの魔女』の作りこみのすばらしさに圧倒され、後半を心待ちにしていました。
しかし、だいたい後半のナンバーが、前半のような華やかさを獲得しにくい、というのは多くのミュージカルが抱える問題でもあります。
『ウィキッド』は2部作にしたことで、前半と後半のカラーの違いが如実に表れたことで、観客を選ぶところがあるように思いました。
そして、第1部はエルファバの物語ですが、第2部はどちらかというとグリンダの物語で、いったい誰に物語の中心を置けばいいのか、分かりにくい面があったかもしれません。
反プロパガンダとしての映画
何よりも、日本人にはハードルの高い作品です。
まず、1900年に出版された児童文学『オズの魔法使い』、そして1939年の映画『オズの魔法使』を観て知っているという前提があります。
そのうえで、壮大なスピンオフといってよいミュージカル《ウィキッド》は、拙著『ミュージカルの解剖学』でもある程度くわしく書いていますが、この『オズの魔法使』のアメリカらしさを批判的にとらえる、という挑戦でした。
映画『オズの魔法使』が公開された1939年は、世界が戦争に向かうさなかでした。
同じ年に封切られた『風と共に去りぬ』と同様、故郷としてのアメリカへの「祖国愛」を強調する、プロパガンダ的な側面を持っています。
チャップリンの『独裁者』が公開されたのはこの翌年、1940年でした。
そして、映画『ウィキッド』には、この『独裁者』へのオマージュがあからさまに現れています。
そのひとつが、第1部でも第2部でもオズの魔法使いが地球儀の風船で遊ぶ場面です。
この瞬間に、ああ、オズの魔法使いはヒトラーのような独裁者を指しているのだとわかります。
そうすると、拡声器を利用し、ビラをまくマダム・モリブルはさしずめ、宣伝相のゲッベルスというところに落ち着きます。
こうなってみると、オズによる動物たちへの迫害が、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害に見えてくるのは、自然なことではないでしょうか。
第1部で山羊のディラモンド教授が連行されるとき、兵士たちは立派な口ひげを蓄えています。
これは第1次世界大戦以前のドイツ兵を想起させます。
しかし、これに気づいたところで、アメリカの映画やミュージカルが好む、絶対悪としてのナチス・ドイツ、というレッテルを貼ると、これまた危険な誤読になるのが『ウィキッド』の恐ろしさです。
オズの魔法使いがエルファバとグリンダに向かって、人々を束ねるには「共通の敵」をつくるのが一番いい、自分の故郷ではそうやってきた、と語るくだりがあります。
オズの魔法使いの故郷とは、すなわちアメリカです。
つまり、一見すると、わかりやすいナチス・ドイツのパロディかと思いきや、その同じことをアメリカはおこなってきた、という言外の批判がここに展開されています。
そして、それはまず9.11の同時多発テロで実現し、いま、やや失敗しつつありますが、イランにしかけた戦争でも同じことが起きています。
支配者は、民衆にとって都合のよい言葉を並べ、共通の敵をつくりだし、差別を助長し、その思考を奪っていく。
1939年の『オズの魔法使』が、愛国心、愛郷心をかきたてるためのプロパガンダとなっており、『ウィキッド』はそれを批判しているのです。
映画は強いメッセージを持つと同時に、民衆の心を動かす危険な装置となりかねない。
このことも『ウィキッド』のなかに、かなり分かりにくい形ですが現れています。
結婚式の直前、オズの魔法使いが回転のぞき絵(スリットから見ると、コマ送りの絵が残像によってアニメーションに見えるおもちゃ)で結婚式を祝う自分の絵を観ています。
理想のカップルの結婚をおぜん立てして、国民に自分を尊敬させるようにするという、青写真がこの回転のぞき絵にあらわれており、いわば「都合のよい世界」がこのミニチュア映画なのです。
この作品の監督は、きちんと、自分の主戦場である映画というものが、どれほど危険な使われ方をしてきたか、という批判をさりげなく忍ばせているのです。
この作品にあるのは、ある特定の悪意ではなく、世界のどこにもありふれるように存在している悪意の源がどこにあるのか、というテーマです。
それは、物事の表面しか見ずに、より権力のあるものの言葉を鵜呑みにして、思考を放棄する民衆にあります。
自分と異なる他者を遠ざけ、差別し、あるいは罵声を浴びせる、その小さな暴力性が群衆となったとき、独裁者はようやく本領を発揮するのです。
そして、それは時代や国が変わっても、おそらく変わらないだろうという、かなりペシミスティックな見解が『ウィキッド』の解答です。
ですから、この作品では、まずエルファバが肌の色によって差別され、動物たちが人間でないということで差別され、マンチキン国の人間が権力に従わないことで差別されます。
こうした、重層的な差別は、アメリカの社会においては根深いものですが、日本人にはあまり身につまされるように感じられない、これも『ウィキッド』を日本人が理解しがたい原因のひとつです。
しかも、この作品のペシミズムの最たるところは、弱者はさらなる弱者を探すということです。
異端分子のなかでも唯一無二の存在がエルファバだということで、彼女が弱者であった側からも差別され、孤立無援に陥っていく。
救いがありません(いや、実のところはフィエロと結ばれるのだから救いはあります)。
そうしたときに、グリンダのあり方がこの第2部の重要な鍵になってきます。
「善い」魔女グリンダの誕生
グリンダは、そこにいるだけで人々がうっとりし、金髪をゆらすだけで、感嘆の声をあげられる、カリスマ的な存在です。
彼女はエルファバと付き合ううちに、自分の中身のなさをつきつけられます。
絵に描いたような王子との幸せな結婚をだいなしにされ、感情的になり、間接的にエルファバのたった一人の肉親である妹のネッサローズが死ぬことになる、彼女がその可能性に気づいた時、グリンダは無傷ではいられなくなります。
それまでは、違和感に気づきつつも、それを覆い隠せるだけの虚栄が彼女にはありました。
しかし、自分の中にひそむ悪意や、思い通りにいかないフィエロという現実を体験した時に、彼女は変わり始めます。
それでも「善い good」存在として人々の前に立ち続けなければならない、この言葉の重みの変化に観客が気づかなければ、この作品を観たことにはなりません。
第2分でグリンダは「good」という言葉を商標登録してはどうだろうか、という軽佻浮薄な提案をします。
しかし、物語の終盤、エルファバとグリンダが歌う〈For Good〉の場面で、エルファバは魔法使いの象徴といってよい魔法書グリムリーをグリンダに渡します。
グリンダは読めないからと返そうとすると、エルファバは「学ぶのよ」と言います。
そして、「good」を単なる言葉のままにしてはいけない、と語ります。
この言葉の重みは途方もないものです。
そのとき、私たちは冒頭のナンバーの〈誰も悪人のことを嘆かない〉における、「善人は悪人を軽蔑する The good man scorns the wicked」のような言葉にあらわれる、「good」の空虚さに思い至るわけです。
(それが最後にリプライズされるフィナーレの皮肉!)
つまり、この「good」に中身を与えていくのは、グリンダしかいない、ということがエルファバから託された使命となります。
グリンダという孤独
私は、この映画の第2部を観たとき、ミュージカルでのグリンダとずいぶん違う印象を受けました。
その原因は、おそらく、グリンダを演じたアリアナ・グランデの圧倒的な表現力と、シナリオの変更にあります。
第1部の振り切った馬鹿っぷりに対して、第2部にはそうしたコケットな姿はほとんど見当たりません。
むしろ、第2部では彼女の幼少時代のエピソードが加えられ、魔法が使えないことのコンプレクス、そして、友だちに嘘をつくという苦い経験が、彼女の中で消えない傷となっていることが語られます。
(これが虚栄心の始まりだった、というふうに見えないところに注意しなければいけません。)
そこにあらわれる虹は、彼女の偽りの魔法を象徴するものとなり、第1部でのエルファバの〈Wizard and I〉の最後に輝く虹とは正反対の意味を担います。
もちろん、虹は『オズの魔法使』の挿入曲〈Over the Rainbow〉にもとづいていますが、その意味は夢や憧れといった、幸せなものではありません。
魔法使いから提供されるシャボン玉の乗り物でも、彼女がシャボン玉を割るたびに小さな虹が生まれます。
これも、魔法ではない乗物によって自らを魔法使いと偽るための、偽物の虹です。
それでは、最後の場面に浮かぶ虹は、どうか。
夕陽と同じ方向に浮かぶ虹は、物理的にはありえないものです。
それは誰の魔法なのか、それともそれも偽りの何かか、私たちに解答は与えられていません。
虹に話がそれましたが、彼女がフィエロとの婚約を公衆の面前で発表した時に歌う、〈Couldn't Be Happier〉は、ミュージカル版(オリジナル・キャストのレコーディング)よりも、はるかに繊細なナンバーになるよう、演出されていました。
最初のフレーズでは、たしかに自信をもって自分の幸せを歌い上げています。
私の本でいうと「ダイアローグ」の機能をもっています。
しかし、愛の二重唱であれば、かならずこの後にフィエロも同じ旋律を重ねて歌う「ユニティ」が必要ですが、それがありません。
さらにオズの民衆の心無い噂に腹を立てたフィエロと、自分の間に、どこかしっくりこないものが生まれていることを感じたグリンダが歌う、後半は、隣にフィエロがおらず、オズの民衆に向かって語りかける「ダイアローグ」になっています。
映像ではここで、舞っていた紙吹雪がほとんど静止に近い状態になります。
つまり、時間が止まったような感じを与えるわけで、私たちは彼女の語る言葉が、「ダイアローグ」なのに「モノローグ」のように感じられてきます。
「ダイアローグ〔モノローグ〕」という形は、ミュージカル・ナンバーでは孤独感を生みます。
なぜなら、表向きのものと心のうちにあるものとが離れており、語られる相手にはそれが分からない、という壁をつくりだし、私たち観客には、その壁の向こう側の心のうちが見えているからです。
アリアナ・グランデは、短く言葉を区切りながら、ささやくように歌います。
もちろん、紙吹雪からもわかるように、意図的な演出です。
紙吹雪が再び動き出す時、アリアナは声を張り上げます。
ですから、このささやくような言葉は、私たち観客にしかわからない彼女の内面の吐露だととらえられるわけです。
「すべての夢がかなうときに(幸せは訪れるのだから)、ねえ、そうでしょ When all your dreams come true, well, isn't it?」という言葉を、途切れがちに歌うとき、私たちはグリンダがそれを心から信じているというよりは、強いて自分に言い聞かせているように感じられます。
これによって、『ウィキッド』の第2部はほとんどグリンダの成長と決意の物語へと転じたのです。
そして、新たに加えられたナンバー〈The Girl in the Bubble〉は、この〈Couldn't Be Happier〉の歌い方を引き継いだモノローグで、彼女の置かれた状態、そして何をすべきか、ということを見事に描いたナンバーです。
差別や暴力から守られた「きれいな人生を送るきれいな女の子」は、シャボン玉の中にいてふわふわと空に浮かんでいる、それが弾けて、現実の世界に降りてきたら、という仮定を行い、彼女は泡が弾けてもよいころだと、自分の生き方を変える決意します。
しかし、このナンバーが追加され、そして、アリアナがそれをすばらしい表現で歌い上げたことで、グリンダという登場人物の重みが、ミュージカルよりもはるかに重いものへと変わったことが、この映画をやや分かりにくいものにしたようです。
これはハッピーエンドか
グリンダが自分の人生に欠けており、埋めがたい「実力」を自覚し、なおかつ民衆に嘘をつくことで、「善 good」を実行し続ける、よき支配者にならなければならない、という使命は、とても孤独です。
それに対して、これまでさんざんな目に遭ってきたけれども、エルファバは、フィエロというまたとない恋人の愛を受け、オズの民衆に「善」を伝え、行使する権能を放棄したのだ、と見えてきます。
自分が行なおうとしてきた「よいこと」がすべて裏目に出たことで、誰からも憎まれてきたエルファバは、かかしになったフィエロからだけは感謝されます。
自分が愛する人からだけは認められ、二人が「何もない」というオズの外側へと旅立ったとき、フィエロにとってよいのは、砂漠のような場所でも水も食べ物も必要ないということです。
エルファバはどうやってかはわかりませんが、まあなんとかするのでしょう。
そのように考えたとき、グリンダの孤独が際立ってきます。
彼女は愛する人を失い、頼りにする仲間もいないまま、この先もエルファバとの約束を果たすべく、「Glinda the Good」を維持し続けなければならない。
つまづくことの許されない、はてしない道を彼女は歩きはじめる。
それは、グリンダの幸せなのでしょうか。
シャボン玉としての映画
何かを知り、学んだとき、人は、自分自身の立ち居振る舞いが求められます。
「変わった changed」という言葉が繰り返されます。
それは、改心した、という言葉にも聞こえてきます。
はたして、そのような覚悟があるのか、と私たちに問いかけられている気もします。
それともフィナーレのバックで流れているような、何も知らないし、考えもせず、噂を鵜呑みにして、自身の責任を一切負わない民衆のように振舞うのか。
この映画を観たあなたは、それでもオズの民衆のように振舞えるのか、と私たちにつきつけてきます。
この映画の居心地の悪さは、フィクションでありながら、フィクションを否定するようにできているところです。
私たちは、友情や正義をあてにして『ウィキッド』を観ます。
ところが、ファンタジーの世界でありながら、そこにあるのは私たちの現実世界の寓話です。
一面的な政治批判でないことはすでに書きました。
独裁者を批判するのではなく、独裁者に思考を委ねる民衆を批判する、
それはそのまま私たちに返ってきます。
そして、シャボン玉のようなきれいな世界(フィクション)にうっとりとしているだけでいいのか、シャボン玉はそろそろ弾けていいのではないか、現実の世界に降りるべきなのではないか、
と私たちに問いかけているのです。
その一方で、エルファバのように、戦いから降りる、という選択肢も与えられています。
ただ、その先にあるのはこれも易しい道ではなく、何があるのかわからない、砂漠のような場所を歩き続ける、ということです。
そこにフィエロのような理解者がいれば、砂漠だろうとどこでも歩いて行けるでしょうが、さて、私たちには?
結局、この作品がハッピーエンドとしてどこか煮え切らないようにみえるのは、フィクションらしい幸福な結末を捨てているからです。
シャボン玉は弾けたのです。
この第2部には、いろいろと細かい点でツッコミたい部分もありますが、『ウィキッド』の根底をなすこうした問題提起を読み取らないまま、そうした枝葉をつつくのは、無理解の恥をさらすようなものです。
また、こういう批判的な主題、政治性や社会性を娯楽である映画に求めていない、という人もいるのだろうと思います。
しかし、そうした人に対して、この映画はこう語るのです。
「そろそろシャボン玉は弾けてもよい頃だ It's time for the bubble pop」と。