米林監督の『借りぐらしのアリエッティ』を久しぶりに観ました。

 

公開当時に映画館に行ったはずなのですが、

そのときよりも、随所に良さが感じられました。

 

なんといっても、樹木希林が声を入れた家政婦のハルさん、

当時もよいと思いましたが、実に姑息で執念深くていいキャラクターでした。

ああいうキャラクターを描けたらいいな、と思います。

 

あとは、大竹しのぶによるお母さん、

ああいう心配症で、とにかく問題を引き起こしがちだけど、

楽天的でもあり、家族思いでもある、ああいうキャラクターを描けたら、

どんなにいいかと思います。

 

翔の無知ゆえに生じる身勝手さや、

最初はアリエッティを単にかわいい愛玩的な存在としてしかみていないのが、

その見方がしだいに変化していく。

死と隣り合わせにしながら無気力に生きてきた自分と、

必死に生きようとするアリエッティとの対比もよく描けています。

 

最後の「君は僕の心臓の一部だ」という台詞は、

健康な人間からすれば、あまりに芝居がかった臭い言葉ですが、

手術を明後日に控えた心臓病の少年にとっては、

それが自然な言葉なのだとも思えます。

 

物語は、異なる種族の出会いと別れ、主人公の成長、

非常にオーソドクスな主題で、分かりやすい。

 

Xをみていると、それぞれの登場人物が身勝手でくそだ、

といったようなことを書く人がいて、ちょっと驚きました。

 

考えてもみてください。

無難な性格の登場人物しか出てこないドラマの何が面白いのか。

 

これはもう古代ギリシアの哲学者プラトンの『国家』から論じられていることです。

理想の国家では、ことさらに嘆いたり怒ったりする人物が出てくる作品や、

そうした調子をあらわす音楽を追放することになっています。

 

ソクラテスの面白いのは、そうして残された中庸な調子で、

節度をもった登場人物しか出てこない物語は、

理想の国家にはふさわしいが、つまらない作品だと言っていることです。

追い出しておきながら、つまらない、というのですから

ソクラテスも演劇(叙事詩)の面白味がどこにあるのかはよくわかっている。

 

『借りぐらしのアリエッティ』が、窃盗だという難癖もつけられていましたが、

昔の感覚で言えば、「拝借」とか「失敬」とかでしょうか。

人間が気づいたり、困ったりするものを奪うことはありません。

 

そういうことに難癖をつける人は、

たぶん子供のつまみ食いにも窃盗罪を押し付けることでしょう。

人間性のさもしさがにじみ出ています。

 

しかし、そうしたさもしい人間のさもしさも、

ひとたびキャラクターというものに落とし込むことで、

見るにたえるものにするのが、演劇でありフィクションです。

 

現実に存在する、そうした耐え難い人間性が、

フィクションであるがゆえに、ハルさんのように、

愛らしいものにすらなる。

(逆にいえば、現実において、それは耐え難い存在だということです)

 

もとはといえば、翔が語りかけたり、

ドールハウスのキッチンを彼らに“プレゼント”したせいで、

アリエッティらは住む場所を追われることになります。

しかし、そうした迷惑を顧みず、翔とアリエッティの間には、

恋愛の芽生えのようなものが生まれる。

 

それは現実においては、出来すぎた話かもしれません。

しかし、死を間近にしてきた少年は、

自分より弱いものには優しくできる、そのエゴイズムは、

小さなアリエッティの健気な強さによって、

生きることの意味を教えられ、成長する。

 

アリエッティは、恐ろしいだけだった「人間」が、

場合によっては概念的な恐ろしさだけであったかもしれないと気づく。

持ち前の優しさが、大きいとはいえ病弱なものにたいする同情となる。

 

その意識がぶつかりあうのが、庭での議論です。

そのように考えていくとき、物語としてはごく自然な理由づけと、

そういうことが起きてもおかしくはない、という説得力になります。

 

人間とは、ずうずうしくもあり、身勝手でもあるが、

同時にそうしたエゴイズムでは片づけられないものを持っている。

言葉にしてもよさそうなものを言葉にしない奥ゆかしさが、

『借りぐらしのアリエッティ』にはありました。

今更ながら、YOASOBIの《夜に駆ける》の歌詞を読み解いてみたいと思います。

 

読み解くといっても、

この作品がオンライン上に投稿された小説『タナトスの誘惑』をベースにしていて、

自殺願望の強い女性と、それを止めようとしながら次第に死に引きずられていく青年の話であるということなどは、あまりに自明のことですから触れません。

 

とはいえ、《夜に駆ける》のほうでは、歌詞に明確に死を選ぶようには書かれていません。

直接「死ぬ」という言葉も出てきません。

それゆえに、みごとなバランス感覚から歌詞が作られていると思うのです。

綱渡りをするような危ういバランスを「言葉」がどのようにつくりだしているのか。

 

内容よりも、そのレトリックと言葉のイメージという観点で読み解いていきたいと思うのです。

 

沈むように溶けてゆくように

二人だけの空が広がる夜に

 

前奏を持たずに歌いはじめる最初の2行は、

力学的にとらえると、非常に面白い効果をともなっています。

 

まず、「沈む」「溶ける」というのは、「水」に関わる動詞です。

これらの水に関わる動詞による直喩は、「空」という対極の位置を指し示します。

 

次に、動詞のベクトルを見てみましょう。

「沈む」は、下向きのベクトルで、主体となる物質の重みを意識させます。

「溶ける」は、中心から四方に拡散していくようなベクトルを考えておきましょう。

そして、「沈む」に対して「溶ける」は、物質が見えなくなっていくことを意識させます。

 

そこに2行目の「広がる」も、やはり四方に拡散していくイメージ、

しかし、そこには星や月、雲といったものが感じられません。

それは「二人だけの空」という限定が働いているからです。

 

ちなみに、ここには「ように」と「夜に」という韻を踏んでおり、

メロディもそのことをふまえて同じ音、同じリズムになっています。

 

さて、つぎの4行です。

 

 

さよならだけだった 

その一言で全てが分かった 

日が沈み出した空と君の姿 

フェンス越しに重なっていた

 

小説を読んでいなくても、

「君」が飛び降り自殺を図ろうとしているのはわかります。

それは、「さよなら」と「空」と「フェンス越し」という言葉の連想作用です。

 

飛び降りる、すなわち、下向きのベクトルが、言葉にはなっていないけれども

聴き手のイメージにはあらわれています。

 

その一歩手前の宙づりの状態、しかし、彼女はフェンスの「外側」に立っている。

 

日が「沈む」という緩やかな下向きのベクトルでできているのは、

冒頭の「沈むように」と呼応しています。

 

さて、この調子で読んでいくと終わらないので、間をはしょっていきます。

 

いつだってチックタックと

鳴る世界で何度だってさ

触れる心無い言葉うるさい声に

涙が零れそうでも

ありきたりな喜びきっと二人なら見つけられる

 

「チックタック」に対して、「だって」というリズムの重なりが、

時計の針のような音の効果を生んでいます。

そして、時計の秒針の刺々しいイメージが、

「心無い言葉」と呼応し、刺さるような痛みを生みだします。

そして、秒針の円運動、すなわち下がっては上がるという反復は、

日常の営みを象徴し、

そこに「涙が零れる」という下向きのベクトルが忍び込みます。

 

騒がしい日々に笑えない君に

思い付く限り眩しい明日を

明けない夜に落ちてゆく前に 

僕の手を掴んでほら 

忘れてしまいたくて閉じ込めた日々も 

抱きしめた温もりで溶かすから 

怖くないよいつか日が昇るまで 二人でいよう

 

この部分は、対比というレトリックが重要な役割を果たしています。

「騒がしい」という音の過剰と、

「笑えない」という音のなさ、という対比、

そして「眩しい明日」と「明けない夜」という対比。

 

もちろん、「明けない夜」とは死を意味しており、

ここにも「落ちてゆく」という下向きのベクトルがしのばされています。

それに対して、希望を持たせようとする「僕」の言葉には「日が昇る」という

上向きのベクトルがあります。

 

ここで「溶かす」という動詞は、彼女の不安や痛みといったものを

消すという、「僕」にとっての希望をもたせた他動詞です。

しかし、この後に出てくる歌詞では、この拡散のイメージは、

別のニュアンスを担っていきます。

 

騒がしい日々に笑えなくなっていた 

僕の目に映る君は綺麗だ 

明けない夜に溢れた涙も 

君の笑顔に溶けていく

 

ここで笑えなくなっているのは「僕」のほうであり、

いわば生と死に向かうベクトルが逆になっていることに気づかされます。

フェンスの向こう側に立ったときに、

はじめて「僕」は「君」と向きあったと言えるわけです。

 

そして、涙は「零れる」のではなく「溢れる」ため、

下向きのベクトルを内包しつつも宙づりの状態であり、

それは「溶けていく」、比喩的な拡散のイメージの側へと向かっていきます。

 

変わらない日々に泣いていた僕を 
君は優しく終わりへと誘う 
沈むように溶けてゆくように 
染み付いた霧が晴れる 
忘れてしまいたくて閉じ込めた日々に 
差し伸べてくれた君の手を取る 
涼しい風が空を泳ぐように今吹き抜けていく 
繋いだ手を離さないでよ 
二人いま、夜に駆け出していく


そのうえで、この最後の部分を読むと、

「沈む」という言葉は出てきても、

「霧が晴れる」という拡散のイメージへと収束してきます。

 

そして、風が空を「泳ぐ」ように「吹き抜けていく」という動詞は、

横向きのベクトルをともなっています。

「僕」にとっての死のイメージは、落下というものではなく、

さりとて空に飛んでいく上向きのものでもなく、

吹き抜ける風のような、横向きのベクトルへと変化している。

 

原作の小説が「夜空に向かって駆け出した」という、

「空」という上向きのイメージを残すのに対し、

《夜に駆ける》では、より抽象的な「夜」にしたところにも、

このベクトルのイメージにとって効果的になります。

 

もうひとつ、1番の歌詞では「生」の側にいる「僕」が手を差し伸べるのに対し、

2番の歌詞では「死」の側にいる「君」が手を差し伸べる、という動作の向きの違いにも注意を向けておくべきでしょう。

生と死の力関係は、動作のベクトルが逆転することで

 

 

そして、最後に、この歌詞全体において、

助詞の「に」が非常に重要になっていることを指摘しておきたいと思います。

 

最初の2行の「夜に」には、ふつう「時間」の意味を読みとります。

そのあとに出てくる「明けない夜に」は、死の隠喩ですので、

まるで「場所」、目的地のように感じられます。

そして、タイトルの「夜に駆け出して」の「に」は、やはり時間ではなく、

目的となる方角を指しています。

 

しかし、その方角が「夜」というきわめて抽象的な名詞であることで、

どの向きか分からないものになります。

「駆け出す」という横向きのベクトルが、

言葉の字義的な意味のベクトルから、より抽象的なものへと変貌するのです。

 

しかも、「いま」「駆け出していく」というのは、

まだ駆けだしていない、駆けだす直前の状態を意味します。

原作の小説が「駆け出した」という完了の意味をともなうのに対し、

歌詞を聴く私たちには、その行為の直前の状態で、宙づりのまま、

短い後奏で終わります。

 

こうして考えてみると、

はっきりと彼らが飛び降りたのではなく、

その直前で言葉を締めくくっているところに、

大きな余韻を生み、想像力の余地をつくりだしていることに感じ入ります。

 

そして、具体的で生々しい描写を外して抽象的にし、

「夜空」の「空」をも外して「夜に駆ける」という

軽やかなイメージに昇華したところが、この詩の優れたところです。

 

おそらく、そうした抽象性が、若い世代にも受け入れられたのでしょう。

そして、自死を考える心境というのは、案外、具体的なものではなく、

こうした抽象化された言葉の世界なのかもしれません。

 

作詞者がベクトルを意識して書いているとは思いませんが、

原作を読み、そこに「飛び降り」というイメージがあったとき、

「↓」を意識せずに書いたはずはありません。

 

そうした動作のベクトルで読むと面白い歌詞が、

他にどのくらいあるのか、考えてみる価値はありそうです。

映画『ウィキッド 永遠の約束 Wicked: For Good』を観てきました。

※以下、ネタバレを含むので、結末がどうなるのかを楽しみたい、という人は読まないでください。私は結末が分かっていても楽しめるので、以下、構わずに書いていきます。

 

昨年に公開された『ウィキッド ふたりの魔女』の作りこみのすばらしさに圧倒され、後半を心待ちにしていました。

しかし、だいたい後半のナンバーが、前半のような華やかさを獲得しにくい、というのは多くのミュージカルが抱える問題でもあります。

 

『ウィキッド』は2部作にしたことで、前半と後半のカラーの違いが如実に表れたことで、観客を選ぶところがあるように思いました。

そして、第1部はエルファバの物語ですが、第2部はどちらかというとグリンダの物語で、いったい誰に物語の中心を置けばいいのか、分かりにくい面があったかもしれません。

 

反プロパガンダとしての映画

何よりも、日本人にはハードルの高い作品です。

まず、1900年に出版された児童文学『オズの魔法使い』、そして1939年の映画『オズの魔法使』を観て知っているという前提があります。

 

そのうえで、壮大なスピンオフといってよいミュージカル《ウィキッド》は、拙著『ミュージカルの解剖学』でもある程度くわしく書いていますが、この『オズの魔法使』のアメリカらしさを批判的にとらえる、という挑戦でした。

 

映画『オズの魔法使』が公開された1939年は、世界が戦争に向かうさなかでした。

同じ年に封切られた『風と共に去りぬ』と同様、故郷としてのアメリカへの「祖国愛」を強調する、プロパガンダ的な側面を持っています。

 

チャップリンの『独裁者』が公開されたのはこの翌年、1940年でした。

そして、映画『ウィキッド』には、この『独裁者』へのオマージュがあからさまに現れています。

そのひとつが、第1部でも第2部でもオズの魔法使いが地球儀の風船で遊ぶ場面です。

この瞬間に、ああ、オズの魔法使いはヒトラーのような独裁者を指しているのだとわかります。

そうすると、拡声器を利用し、ビラをまくマダム・モリブルはさしずめ、宣伝相のゲッベルスというところに落ち着きます。

 

こうなってみると、オズによる動物たちへの迫害が、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害に見えてくるのは、自然なことではないでしょうか。

第1部で山羊のディラモンド教授が連行されるとき、兵士たちは立派な口ひげを蓄えています。

これは第1次世界大戦以前のドイツ兵を想起させます。

 

しかし、これに気づいたところで、アメリカの映画やミュージカルが好む、絶対悪としてのナチス・ドイツ、というレッテルを貼ると、これまた危険な誤読になるのが『ウィキッド』の恐ろしさです。

 

オズの魔法使いがエルファバとグリンダに向かって、人々を束ねるには「共通の敵」をつくるのが一番いい、自分の故郷ではそうやってきた、と語るくだりがあります。

 

オズの魔法使いの故郷とは、すなわちアメリカです。

つまり、一見すると、わかりやすいナチス・ドイツのパロディかと思いきや、その同じことをアメリカはおこなってきた、という言外の批判がここに展開されています。

 

そして、それはまず9.11の同時多発テロで実現し、いま、やや失敗しつつありますが、イランにしかけた戦争でも同じことが起きています。

支配者は、民衆にとって都合のよい言葉を並べ、共通の敵をつくりだし、差別を助長し、その思考を奪っていく。

 

1939年の『オズの魔法使』が、愛国心、愛郷心をかきたてるためのプロパガンダとなっており、『ウィキッド』はそれを批判しているのです。

映画は強いメッセージを持つと同時に、民衆の心を動かす危険な装置となりかねない。

このことも『ウィキッド』のなかに、かなり分かりにくい形ですが現れています。

結婚式の直前、オズの魔法使いが回転のぞき絵(スリットから見ると、コマ送りの絵が残像によってアニメーションに見えるおもちゃ)で結婚式を祝う自分の絵を観ています。

 

理想のカップルの結婚をおぜん立てして、国民に自分を尊敬させるようにするという、青写真がこの回転のぞき絵にあらわれており、いわば「都合のよい世界」がこのミニチュア映画なのです。

この作品の監督は、きちんと、自分の主戦場である映画というものが、どれほど危険な使われ方をしてきたか、という批判をさりげなく忍ばせているのです。

 

この作品にあるのは、ある特定の悪意ではなく、世界のどこにもありふれるように存在している悪意の源がどこにあるのか、というテーマです。

それは、物事の表面しか見ずに、より権力のあるものの言葉を鵜呑みにして、思考を放棄する民衆にあります。

自分と異なる他者を遠ざけ、差別し、あるいは罵声を浴びせる、その小さな暴力性が群衆となったとき、独裁者はようやく本領を発揮するのです。

 

そして、それは時代や国が変わっても、おそらく変わらないだろうという、かなりペシミスティックな見解が『ウィキッド』の解答です。

 

ですから、この作品では、まずエルファバが肌の色によって差別され、動物たちが人間でないということで差別され、マンチキン国の人間が権力に従わないことで差別されます。

こうした、重層的な差別は、アメリカの社会においては根深いものですが、日本人にはあまり身につまされるように感じられない、これも『ウィキッド』を日本人が理解しがたい原因のひとつです。

 

しかも、この作品のペシミズムの最たるところは、弱者はさらなる弱者を探すということです。

異端分子のなかでも唯一無二の存在がエルファバだということで、彼女が弱者であった側からも差別され、孤立無援に陥っていく。

救いがありません(いや、実のところはフィエロと結ばれるのだから救いはあります)。

 

そうしたときに、グリンダのあり方がこの第2部の重要な鍵になってきます。

 

「善い」魔女グリンダの誕生

グリンダは、そこにいるだけで人々がうっとりし、金髪をゆらすだけで、感嘆の声をあげられる、カリスマ的な存在です。

彼女はエルファバと付き合ううちに、自分の中身のなさをつきつけられます。

 

絵に描いたような王子との幸せな結婚をだいなしにされ、感情的になり、間接的にエルファバのたった一人の肉親である妹のネッサローズが死ぬことになる、彼女がその可能性に気づいた時、グリンダは無傷ではいられなくなります。

それまでは、違和感に気づきつつも、それを覆い隠せるだけの虚栄が彼女にはありました。

しかし、自分の中にひそむ悪意や、思い通りにいかないフィエロという現実を体験した時に、彼女は変わり始めます。

 

それでも「善い good」存在として人々の前に立ち続けなければならない、この言葉の重みの変化に観客が気づかなければ、この作品を観たことにはなりません。

第2分でグリンダは「good」という言葉を商標登録してはどうだろうか、という軽佻浮薄な提案をします。

 

しかし、物語の終盤、エルファバとグリンダが歌う〈For Good〉の場面で、エルファバは魔法使いの象徴といってよい魔法書グリムリーをグリンダに渡します。

グリンダは読めないからと返そうとすると、エルファバは「学ぶのよ」と言います。

 

そして、「good」を単なる言葉のままにしてはいけない、と語ります。

この言葉の重みは途方もないものです。

 

そのとき、私たちは冒頭のナンバーの〈誰も悪人のことを嘆かない〉における、「善人は悪人を軽蔑する The good man scorns the wicked」のような言葉にあらわれる、「good」の空虚さに思い至るわけです。

(それが最後にリプライズされるフィナーレの皮肉!)

 

つまり、この「good」に中身を与えていくのは、グリンダしかいない、ということがエルファバから託された使命となります。

 

グリンダという孤独

私は、この映画の第2部を観たとき、ミュージカルでのグリンダとずいぶん違う印象を受けました。

その原因は、おそらく、グリンダを演じたアリアナ・グランデの圧倒的な表現力と、シナリオの変更にあります。

 

第1部の振り切った馬鹿っぷりに対して、第2部にはそうしたコケットな姿はほとんど見当たりません。

 

むしろ、第2部では彼女の幼少時代のエピソードが加えられ、魔法が使えないことのコンプレクス、そして、友だちに嘘をつくという苦い経験が、彼女の中で消えない傷となっていることが語られます。

(これが虚栄心の始まりだった、というふうに見えないところに注意しなければいけません。)

 

そこにあらわれる虹は、彼女の偽りの魔法を象徴するものとなり、第1部でのエルファバの〈Wizard and I〉の最後に輝く虹とは正反対の意味を担います。

もちろん、虹は『オズの魔法使』の挿入曲〈Over the Rainbow〉にもとづいていますが、その意味は夢や憧れといった、幸せなものではありません。

 

魔法使いから提供されるシャボン玉の乗り物でも、彼女がシャボン玉を割るたびに小さな虹が生まれます。

これも、魔法ではない乗物によって自らを魔法使いと偽るための、偽物の虹です。

 

それでは、最後の場面に浮かぶ虹は、どうか。

夕陽と同じ方向に浮かぶ虹は、物理的にはありえないものです。

それは誰の魔法なのか、それともそれも偽りの何かか、私たちに解答は与えられていません。

 

虹に話がそれましたが、彼女がフィエロとの婚約を公衆の面前で発表した時に歌う、〈Couldn't Be Happier〉は、ミュージカル版(オリジナル・キャストのレコーディング)よりも、はるかに繊細なナンバーになるよう、演出されていました。

 

最初のフレーズでは、たしかに自信をもって自分の幸せを歌い上げています。

私の本でいうと「ダイアローグ」の機能をもっています。

しかし、愛の二重唱であれば、かならずこの後にフィエロも同じ旋律を重ねて歌う「ユニティ」が必要ですが、それがありません。

 

さらにオズの民衆の心無い噂に腹を立てたフィエロと、自分の間に、どこかしっくりこないものが生まれていることを感じたグリンダが歌う、後半は、隣にフィエロがおらず、オズの民衆に向かって語りかける「ダイアローグ」になっています。

 

映像ではここで、舞っていた紙吹雪がほとんど静止に近い状態になります。

つまり、時間が止まったような感じを与えるわけで、私たちは彼女の語る言葉が、「ダイアローグ」なのに「モノローグ」のように感じられてきます。

 

「ダイアローグ〔モノローグ〕」という形は、ミュージカル・ナンバーでは孤独感を生みます。

なぜなら、表向きのものと心のうちにあるものとが離れており、語られる相手にはそれが分からない、という壁をつくりだし、私たち観客には、その壁の向こう側の心のうちが見えているからです。

 

アリアナ・グランデは、短く言葉を区切りながら、ささやくように歌います。

もちろん、紙吹雪からもわかるように、意図的な演出です。

紙吹雪が再び動き出す時、アリアナは声を張り上げます。

ですから、このささやくような言葉は、私たち観客にしかわからない彼女の内面の吐露だととらえられるわけです。

 

「すべての夢がかなうときに(幸せは訪れるのだから)、ねえ、そうでしょ  When all your dreams come true, well, isn't it?」という言葉を、途切れがちに歌うとき、私たちはグリンダがそれを心から信じているというよりは、強いて自分に言い聞かせているように感じられます。

 

これによって、『ウィキッド』の第2部はほとんどグリンダの成長と決意の物語へと転じたのです。

 

そして、新たに加えられたナンバー〈The Girl in the Bubble〉は、この〈Couldn't Be Happier〉の歌い方を引き継いだモノローグで、彼女の置かれた状態、そして何をすべきか、ということを見事に描いたナンバーです。

 

差別や暴力から守られた「きれいな人生を送るきれいな女の子」は、シャボン玉の中にいてふわふわと空に浮かんでいる、それが弾けて、現実の世界に降りてきたら、という仮定を行い、彼女は泡が弾けてもよいころだと、自分の生き方を変える決意します。

 

 

しかし、このナンバーが追加され、そして、アリアナがそれをすばらしい表現で歌い上げたことで、グリンダという登場人物の重みが、ミュージカルよりもはるかに重いものへと変わったことが、この映画をやや分かりにくいものにしたようです。

 

 

これはハッピーエンドか

 

グリンダが自分の人生に欠けており、埋めがたい「実力」を自覚し、なおかつ民衆に嘘をつくことで、「善 good」を実行し続ける、よき支配者にならなければならない、という使命は、とても孤独です。

 

それに対して、これまでさんざんな目に遭ってきたけれども、エルファバは、フィエロというまたとない恋人の愛を受け、オズの民衆に「善」を伝え、行使する権能を放棄したのだ、と見えてきます。

 

自分が行なおうとしてきた「よいこと」がすべて裏目に出たことで、誰からも憎まれてきたエルファバは、かかしになったフィエロからだけは感謝されます。

自分が愛する人からだけは認められ、二人が「何もない」というオズの外側へと旅立ったとき、フィエロにとってよいのは、砂漠のような場所でも水も食べ物も必要ないということです。

エルファバはどうやってかはわかりませんが、まあなんとかするのでしょう。

 

そのように考えたとき、グリンダの孤独が際立ってきます。

彼女は愛する人を失い、頼りにする仲間もいないまま、この先もエルファバとの約束を果たすべく、「Glinda the Good」を維持し続けなければならない。

 

つまづくことの許されない、はてしない道を彼女は歩きはじめる。

 

それは、グリンダの幸せなのでしょうか。

 

シャボン玉としての映画

何かを知り、学んだとき、人は、自分自身の立ち居振る舞いが求められます。

 

「変わった changed」という言葉が繰り返されます。

それは、改心した、という言葉にも聞こえてきます。

 

はたして、そのような覚悟があるのか、と私たちに問いかけられている気もします。

それともフィナーレのバックで流れているような、何も知らないし、考えもせず、噂を鵜呑みにして、自身の責任を一切負わない民衆のように振舞うのか。

 

この映画を観たあなたは、それでもオズの民衆のように振舞えるのか、と私たちにつきつけてきます。

 

この映画の居心地の悪さは、フィクションでありながら、フィクションを否定するようにできているところです。

 

私たちは、友情や正義をあてにして『ウィキッド』を観ます。

ところが、ファンタジーの世界でありながら、そこにあるのは私たちの現実世界の寓話です。

 

一面的な政治批判でないことはすでに書きました。

独裁者を批判するのではなく、独裁者に思考を委ねる民衆を批判する、

それはそのまま私たちに返ってきます。

 

そして、シャボン玉のようなきれいな世界(フィクション)にうっとりとしているだけでいいのか、シャボン玉はそろそろ弾けていいのではないか、現実の世界に降りるべきなのではないか、

と私たちに問いかけているのです。

 

その一方で、エルファバのように、戦いから降りる、という選択肢も与えられています。

ただ、その先にあるのはこれも易しい道ではなく、何があるのかわからない、砂漠のような場所を歩き続ける、ということです。

そこにフィエロのような理解者がいれば、砂漠だろうとどこでも歩いて行けるでしょうが、さて、私たちには?

 

結局、この作品がハッピーエンドとしてどこか煮え切らないようにみえるのは、フィクションらしい幸福な結末を捨てているからです。

シャボン玉は弾けたのです。

 

 

この第2部には、いろいろと細かい点でツッコミたい部分もありますが、『ウィキッド』の根底をなすこうした問題提起を読み取らないまま、そうした枝葉をつつくのは、無理解の恥をさらすようなものです。

 

また、こういう批判的な主題、政治性や社会性を娯楽である映画に求めていない、という人もいるのだろうと思います。

 

しかし、そうした人に対して、この映画はこう語るのです。

 

「そろそろシャボン玉は弾けてもよい頃だ It's time for the bubble pop」と。

 

 

生成AIによる作曲に関する学生レポートをいくつか読んでいる中で、

気になった言葉がありました。

それは「生成AIは音楽の民主化を進めた」というものです。

一人ではなく、複数のレポートでそのような言葉がありました。

 

要点をまとめると、生成AIを活用することで、

作曲の技術、音楽の知識が無い人でも、

よい作詞と作曲ができるようになる、ということを「民主化」と呼んでいるらしいのです。

 

そこには次のような含意があります。

「作曲や音楽は専門性をもつ一部のアーティストによって閉ざされており、

一般の人が踏み入れることのできない王宮のようなものであったのが、

生成AIが革命を起こし、王宮の壁を壊し、すべての人の所有物へと変えた」

といえるものです。

 

しかし、音楽も作曲も、そのような要塞じみた閉鎖性をもって存在していたことは、

少なくとも戦後80年の歴史のなかでただの一度もありません。

人はなにかを口ずさめば歌えますし、手を叩けばリズムもできます。

そのへんのお茶わんや食器を叩いたって音の異なる様々な豊かな音で遊ぶことができます。

 

ギターやキーボード、ハーモニカ、それほど高額でない楽器を手にすれば、

練習すればコードくらいは弾けるようになりますし、

もう少し勉強すれば、作曲だってできます。

日本の歴代のシンガーソングライターのいったい何割が、

音大などの専門教育を受けて音楽をやっているのでしょうか。

 

その点で、少なくとも戦後の民主主義の日本のなかで、

音楽は常に民主的に存在しています。

義務教育で音楽は必修ですし、演奏する機会も、楽譜を覚える機会も均等に与えられています。

 

それでは、なぜ、ここにいたって、

生成AIによる作曲が「民主化」などといわれているのでしょうか。

それは「だれでもできる」ということを、

あたかも素晴らしいことであるかのように、

カモフラージュしているからにほかなりません。

 

民主主義国家の日本において(それが健全に機能しているかはともかく)、

「民主」という言葉は、重要な概念として価値を与えられています。

民主主義において最も重要な条件のひとつが「基本的人権の尊重」です。

 

つまり、一部のアーティストが、「音楽を創る」という技術を専横するのは、

理想の民主主義国家において、ふさわしくなく、

多くの専門性を持たない人たちの基本的人権を踏みにじっている、

と考えているということになります。

 

しかし、ここまで読むと分かる通り、ここには道理が通りません。

むしろ、経験と研鑽を重ねて、自分の才能に形を与えてきた、

クリエイターの基本的人権が軽んじられていることは明らかだからです。

 

私は最前、茶碗やコップを叩いたって、音楽にできる、と言いました。

しかし、生成AIを使って「音楽」をつくりたい、と言う人にとって、

茶碗やコップでは「音楽にならない」と考えているのでしょう。

彼らにとっては、音楽とは、楽器の楽音によるプロのポップスのような、

「かっこいい音源」の作成を意味します。

 

すでに、音楽の選別が始まっています。

それはあえて「民主化」という言葉になぞらえて政治的な文脈に落とし込むなら、

音楽の「選民思想」です。

 

それだけでなく、生成AIによる作曲が可能になっていくなかで、

人の役割は何かというと、「コマンドを与える」ということに落ち着きます。

出てきた曲が気に入らなければ、修正するコマンドを作成し、再び書き込みます。

何度かトライする間に、「いい感じの曲」になるという寸法です。

 

しかし、ここのどこに「民主」的なものがあるのでしょうか。

曲と詞じたいを作り出すのはAIの側です。

「曲を作る人」は、要するに、AIに指示をした、命令をした人だということです。

何かに命じ、自分では何の努力もせずに結果だけを待って、それを判定する。

それは、「民主」どころか、生成AIを隷属化させた「専制」ではないでしょうか。

 

つまり、ここには「民主主義」の思想の抜け殻だけがあり、

その実態は、一人一人が独裁者としてふるまいたい、という願望が横たわっているのです。

 

自分の手を汚さずに、思いのままに欲望(粛清、建築、軍備拡張etc.)を叶えていく“独裁者”と、

自分の手を汚さずに、思いのままに欲望(作曲)を叶えていく“民主的な個人”の間に

どれほどの違いがあるのでしょうか。

 

 

生成AIの作曲について、「民主化」という言葉を使う人間のいかがわしさが少し分かってきたことと思います。

もう一つ、これが「民主化」ではない、ということを現実の問題に即して主張しておきます。

 

それは、こうした生成AIによる作曲のサーヴィスを受けられるのは、

スマホやパソコンを所有し、インターネットの料金を払える人に限られているということです。

また、生成AIの音楽ソフトの中には、料金が発生するものがあります。

したがって、お金がある人だけのもの、だということができます。

それは「だれでもできる」という言葉には当てはまりません。

 

「民主化」とうそぶく人たちは、スマホの料金が払えない人なんてこの世にいない、

と思っているのではないでしょうか。

 

 

もっとも、「生成AIは音楽の民主化」と言っている人たちの多くが

プロフェッショナルな音楽家と同等の音楽が作れるとは思っていない、

ということは記しておくべきでしょう。

 

しかし、今日ほど、そしてこれからの世の中ほど、

プロフェッショナル、という言葉の価値が下落していく時代はないのかもしれません。

プロフェッショナルは決して技術の専横でもなんでもありません。

 

もちろん、クラシック音楽のような世界だと、

多くのプロの音楽家が比較的裕福な家庭の出身であることは間違いなく、

その点ですでに音楽と向きあう機会や、

その素養となる文化資本が均等ではないことは確かです。

 

しかし、この国で、基本的人権が遵守されているとすれば(されていることを願うばかりですが)、教育の機会は均等に与えられています。

義務教育の中で音楽に触れる機会はあります。

 

もういちど最初の疑問に戻りますが、

いったい何をもって生成AIの作曲を「音楽の民主化」ということができるのでしょうか。

 

人間が、自分の考えることを形にするために、知識を蓄え、技術を磨き、

絶え間ない研鑽を積むことでようやく形にする、という行為が保証されている、

それが基本的人権の尊重だと思います。

 

生成AIを使用するうえで、あくまでそれが素材にすぎず、

それを利用し、価値あるなにかを生み出すことができるのなら、

それはその人が積み上げてきた技術が優先されているとみるべきです。

 

生成AIが作った曲が、「人間の作る音楽とそん色ない」という言い方が、

これもよくみられるようになってきました。

同時に「生成AIの作る曲のおかしさを人間が判断できない」という言い方が成立している、ということに気づいている人はどのくらいいるのでしょうか。

 

人は自分を基準にします。

そのとき、自分に区別ができない、という能力の低さを認める代わりに、

対象を誉めることで、自分がそこに評価を与えている、という能力の高さをアピールする機会へとすり替えます。

 

あるいは、この先(今すでに)このようなことが起こりえます。

生成AIのつくる、どこか不自然な音楽やイラスト、映像の「気持ち悪さ」を

鑑賞の対象としていく、という美的判断です。

「気持ち悪さ」は十分、美的な対象になりえます。

それは、上に述べた、能力の低さの対極にあります。

生成AIの制作物の「気持ち悪さ」に価値を見いだしているからです。

そこには、人間の創作物の自然さとの対比を客観的に判断する能力が発揮されています。

 

 

しかし、この「音楽の民主化」云々の言説をみていると、

そういう「気持ち悪さ」の楽しみを共有することではないのです。

 

それは民主主義という言葉を隠れ蓑にした、専制的な思想の目くらましです。

これを成長期の学生たちの学習に取りいれる、というのがいかに危険なことかわからないでしょうか。

命令しかできない、一人だけの王国の絶対君主を育てることに、

どんな意味があるのでしょうか。

 

 

衆議院選挙を間近に控えた今日、

この「音楽の民主化」という言葉が、日本の民主主義の危うさ、

日本人の民主主義というものに対する意識の低さをあらわす、

よいひな型になっているように思えます。

今年教えた授業内容をもとに学生にレポートを書かせてみたところ、

「知」に対する意識のありようが大きく変化している、

もっといえば、「知」を必要としなくなってきている、という感じがした。

いや、もっといえば、「知」が何か、それがいるものかどうなのかもわからない、

というのが適切だろうか。

 

それはやはり、生成AIの弊害というべきものであろう。

「生成AIとうまくつきあっていく」という言葉を麗々しく持ち上げるのは、

生成AIの誕生以前に人生の半分以上を生きてきた人間の言葉である。

初期教育から生成AIを利用してきたという人間がどうなるのか、ということについては

まったく答えが出ていない。

 

しかし、答えは出ていなくとも、大学生のレポートを見ていれば、

それがいかに「知」というものを後退させているか、ということは一目瞭然なのである。

 

まず彼らは図書館に行かないため、あるジャンル、分野に関してどの程度の本があるのか、

ということが分量・総量として把握できていない。

いわば、暗闇から何本かの手が飛び出してきて、探している情報の断片を渡され、

それがすべてだと思っている、にすぎない。

 

ある著作の「分厚さ」に対する感覚がない。

すべてが同じ重さの画面としてしか、その著作は存在していない。

 

これはきわめて危険なことである。

紙の本の優れているところは、全体を物質的な量として見ることができる、というところにある。

 

知識は、手にかかる書物の重さによって、またページの感触と、指で押さえる位置と厚みによって視覚と触覚が紐づけられる。

視覚のみ、しかも平坦で形態的には何らの変化ももたらさない言葉やイメージの羅列は、

決して記憶にとどまることはない。

 

しかし、学生のかなりの数が、そのような「質量」としての知識を必要としていない。

検索するか、ChatGPTに尋ねれば答えてくれるからだ。

それがどのような「質」の情報なのかは何も分からないまま、

ただそれを受けいれていく。

いや、受け入れていくのではない、右から左へと流していくのである。

 

「知」はどのような意味をもつのか。

この文章を書こうと思ったのは、学生のレポートに対する様々な思いもさることながら、

高校生に生成AIを使って作詞・作曲をさせてみた、という報告論文を参考文献にあげていたレポートを読んだことにある。

 

その学生のレポートの出来不出来はここでは関係ない。

その論文に書かれていたことを、簡単に言ってしまえば、

ある大学で、学生たちに自分が書きたい、と思った条件を記して、

AIに作詞させ、作曲させたところ、

彼らは自分が気に入る作品ができたといって、

「創造性」を獲得できる、「作詞・作曲」という行為のハードルが下がり、

教育的にはプラスになる、というのである。

 

しかし、ここのどこに「創造性」があるのだろうか。

「作曲」のハードルは下がるにちがいない。

しかし、その下がったハードルはそもそもハードルを越えた、といえるのだろうか。

彼らは「作曲」していないのだ。

ゴーストライターを使って作曲していた懐かしの佐村河内と何が違うのか。

自分で飛ばないハードルに何の意味があるのだろうか。

 

しょせんそれは玩具で遊んでいるにすぎない。

自分の思い描く何か漠然とした思いを書くと、代わりに答えを出してくれる玩具である。

ここでいう創造性は、ようするに「自分の思う何か漠然としたイメージ」を書いた、

ということにすぎない。

佐村河内か。

 

作詞にはレトリックと語彙の「知識」が必要であり、

作曲には和声やリズムに対する「知識」が必要である。

 

その論文執筆者は、さまざまなアーティストが生成AIの使用について肯定的な評価をしているという一方的な評価のみを出している時点で、論文の客観性に問題があるのだが、

そうしたアーティストたちの人生の大半が生成AIを用いずに音楽の膨大な知識をもっている、ということを全く考慮に入れていない。

 

音楽には膨大な歴史と知識の積み重ねがある。

アーティストや芸術家は自分なりに学び、積み重ねてきた知識の上に立って、

そこに新たな作品をまた積み上げていく。

そういう長い営みの上に成立している。

 

生成AIはそうした知識の上澄みをとり、

無難なものを提示するにすぎない。

そこには意思も歴史もない、空虚な音の集合があるばかりである。

 

しかし、ここまで書きながら、ふとこういう思いにもかられる。

歴史では、これまでにさまざまな技術を「古くなったもの」として捨ててきた。

そのために忘れられた技術もまた膨大にある。

私がもっている音楽の知識といっても、たとえば、初期の記譜法や旋法による作曲、

オルガヌムなど、ほとんど扱えない。

しょせんは近世以降の知識を「知識」だといっているにすぎない。

 

私が口角泡を飛ばして創造性のための知識、と訴えているものは、

長い歴史から見れば、ある局面の終末期の現象にすぎないのかもしれない。

楽典の知識はもはや古くさい形骸にすぎず、生成AIのつくりだす、

脈絡のない音の連続、あるいは古くさいお決まりの和声進行によるそれっぽい音の連続を

おもしろがり、広がっていき、スタンダードになるときがやってこようとしているのかもしれない。

 

それは、私にとって音楽と言えるものではない、

というだけで、世間はそんなこととは関わりなく、そうしたものを受けいれ、

喜ぶのは、もしかしたら歴史の必然なのかもしれない。

 

ヨハン・セバスティアン・バッハの音楽が彼の晩年には時代遅れの産物だったように、

私は趣味の異なる時代の境目に立っているのかもしれない。

 

中世の神学的な知識が、やがて大半の人から忘れられたように、

私があるべきもの、と信じている知識はすでになくても困らないものなのかもしれない。

 

しかし、私には「知」を必要としない時代の生き方がわからない。

機械学習と生成AIにとにかく仕事の情報を流し込み、

それが生みだす言葉や情報を右から左へと忙しく流し続ける生き方に、

どんな充実が生まれるのだろうか。

死ぬ前に自分の人生を顧みた時、自分は何をしたと言えるのか。

そこにおける「知」とは、情報の入力のしかた、流し方、それだけである。

解釈は必要ない、なぜなら生成AIがより的確な判定をしてくれるからである。

 

そのために、流し続けることで生じたお金で、

生きがいを買い求めるのかもしれない。

おそらくそれが推し活というものの正体なのではないかとも思われる。

自分でなくてもいい仕事をやり続ける苦痛を、

快を購入することでそこに「生きる意味」を見いだそうとする。

 

推し活によって得られる「知」がある。

推しの情報はどんな些細なものでも知っておきたい、という欲求である。

だが、その「知」もやがて必要とされなくなる時がくるかもしれない。

そうなったときには、何が残されるのだろうか。

 

情報がとにかく映り続け、移り続ける刺激だけが、

生きる意味となっていく。

そこには、人としての「判断」はいらない。

判断には「知性」が必要だが、すでにそれは失われて久しい、

となっているからだ。

 

そして、頼るべきAIが電源を落とし、サーバーがダウンしたら使えなくなる、

電波の届かない場所では使えなくなる、

そんな単純なことにすら思いつかず、右往左往するのである。

 

世界には、自分の知恵と判断でしか生きられない場所がやまのようにある。

しかし、彼らがそこに出向くことはできない。

自分で檻の中に入っていることにすら気づかずに、

飼いならされ、餌を与えられて、死んでいくのである。

 

私にとって「知」とは自由になるために必要なものだ、

ここまで書いて、ようやくこんな当たり前の結論にたどりついた。

だが、この過程こそを楽しんでいるのであって、

こんなくだらない時間の使い方は生成AIには絶対できないことなのである。

 

合理性や効率という言葉が、何を失うことにつながるか、

教育はそれを教えるべきなのだが、

世の中の流れは完全に逆方向に向かっている。