今年は熊が人家の近くに出るというので、
ニュースを毎日のようにみます。
同時に、熊を殺すのはかわいそうだ、という苦情がたくさん寄せられているとも言います。
それは熊に出会って、襲われてからでも言えるか、自問してから言ってほしいところです。
(もちろん私は襲われていませんし、苦情も言いません)
登山を趣味にしていると、熊ではありませんが、鹿の防護柵をよく見ます。
鹿が増えすぎているのです。
こういうときに、私はふと思うのです。
日本の森の大半は、長い年月人が入り、手を入れたり、狩りをしたりしてきました。
動物たちは、それこそ縄文時代くらいから1万年をかけて、
狩られても大丈夫な増え方を身につけてきたのではないかと思うのです。
それは、人間が動物をかわいがり、管理する、という上段に構えたありかたではなく、
人間も森のはしっこで生態系の一部として生きてきたのが日本人ではないか。
生きているのだから、食べるときもあり、ぶつかればどちらかが死ななければならないこともある、
そういうことを描いたのが、宮沢賢治の『なめとこ山の熊』です。
昔はなめとこ山にうじゃうじゃといたという熊をかたぱっしから撃っていったのが、
小十郎という男で、熊と対話し、熊からも好かれていたという。
それは、人間だという偉そうなふるまいではないからです。
逆に都会からやってきた偉そうにふるまう人間は、山猫に食べられそうになり、
恐怖で顔がくしゃくしゃになったまま、都会に戻ります。
小十郎は最後、熊に襲われて死にます。
熊のほうが「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」といいます。
私には、人と生き物とはそういうものではないか、と思えてなりません。
人里に来てしまう熊は、熊としての尊厳を忘れている。
領分のちがうところに来たのだから撃たれても文句は言えない。
だから、人間が山にはいって、熊に襲われたとしたら、
それは領分のちがうところに来たのだから文句は言えない。
私は山に登るときはいつもそう考えています。
もちろん、出会わないに越したことはないので、
鈴を鳴らし、ときどき手を叩いたり声をあげたりしています。
人のいないマイナーな山はほんとに怖いのです。