前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト -34ページ目

中国地方にもマチュピチュあり!?

東洋のマチュピチュは竹田城。では、中国地方のマチュピチュはというと、山県郡安芸太田町の井仁の棚田である、という説が。行ってみたところ、ちょうど田植えの真っ盛りでした。
珍しく石積みの棚田には、水を行き渡らせるための工夫と命の気配がいっぱい。寒いと思って調べたら、なんと海抜450m~550mもあるんですね。そしてここは、太田川の源流地域に当たります。324枚もの水田があるとのことですが、棚田百選に選ばれたここでさえ、一部は花畑になっており、棚田を残すことの大変さを痛感させられます。
経済効率を超えて生き残る棚田の姿からは、地域の方々の大変な努力を感じます。
ちなみに、棚田交流館は休校(昭和50年)になってしまった井仁小学校跡でした。休校時、児童数は3人になっていたそうです。

















連休前半は恐羅漢山(おそらかんざん)へ

GW前半は、以前からの課題だった中国地方の名山、恐羅漢山(おそらかんざん)を踏破。「北斗の拳」っぽい山名の山ですが、その由来はというと、修験者(羅漢)も遭難を恐れるほど深い山である、とかアイヌ語のオソルラカンとか、諸説あるもののよくわかりません。
山自体は一見、中国山地らしい穏やかな山容ですが、周囲には深い渓谷が刻まれています。稜線には豪雪地帯らしい瑞々しいブナ林が広がります。
麓のスキー場は八重桜が満開で、たくさんのキャンパーがいました。
ここは展望が良いのも特徴で、特に隣の旧羅漢山の上の岩場からの景色は最高です。もっとも、どの山に登っても見えている山は登ったことがある、もちろん、ひとめでわかる、という首都圏と違い、ほとんどが「はじめまして」の山なので、地図を見ながら一つひとつ確認しました。
例年、連休は丹沢表尾根と決めていたのですが、岩場の渋滞が通例で、それと比べるとガラガラの中国山地は密にならずに大変穏やかなひと時でした。
ただ、登り始めが11時近かったので、遠くの山が見えなかったのが残念。
今回登ったのはスキー場から恐羅漢山に直登し、旧羅漢山を往復、その後、夏焼峠へ周回するという一番ポピュラーなコースでした。スキー場沿いの急な登山道を一気に稜線まで登るのですが、高度差は大したことがないので、家族連れにもお勧めの山です。山慣れしている人ならド楽勝かと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウサギたちの島でのひととき

少し前のことですが、ウサギの島で知られる大久野島に行ってきました。
世間的にはモフモフのウサギと戯れられる島、というイメージが強いのですが、先の大戦中は毒ガスの研究が行われた島でもあり、島には重苦しい雰囲気が漂います。
忠海港に車を置き、島へは船で渡ります。
瀬戸内の旅の代名詞はショートクルーズですが、この日はあいにくの天気でした。
島に着くと確かにそこはウサギだらけ。
観光客がペレット型の餌をウサギに与えています。
まず、小さな島内を散歩してみることに。
この日は残念ながら毒ガス資料館はお休みでしたので、とりあえずペレットを買い求めて給餌に参戦。
すると、ものすごい数のウサギが集まってきました。
ウサギは食いだめできない生き物なので、観光客が少ない悪天候の日には餌が少なくてウサギたちも必死らしいです。
野生と言いつつ、観光客の入りの都合に餌を左右されるウサギたち。
なかなか考えさせられますが、ウサギたちが餌を食べる様子は愛くるしいです。
また、キャベツを持ち込んでいる人がいましたが、実はここのウサギはアナウサギなので、その生態からするとキャベツはあまり良くないとのこと。実際、普段の食べ物は「草、樹皮、根」とのことで、それに成分を似せてあるペレットを与えるのが無難かな、と思います。
それから、けがをしたり、その跡があるウサギが結構多いのですが、カラスに襲われることが多いようです。
そして、カラスが目当てにしているのは人が持ち込んだ餌。そう考えると餌の問題というのは一筋縄ではいかないことが分かります。
いずれにしても、ひとときのウサギたちとの邂逅の後、再度船で島を出ましたが、癒しとともに、いろいろと考えさせられるひと時でした。

ちなみに、島内に宿泊すると夜のウサギの生態を観察できるとのこと。今度は泊まってみようと思います。













比治山陸軍墓地にて

比治山陸軍墓地を訪れました。
戦前、祖国防衛のために戦った陸軍の兵士たちが眠る墓地を、1941年、軍部は高射砲陣地を構築するため、忠魂碑一基を建て納骨堂に遺骨をまつり、墓地を取り壊す計画を立て、工事が行われました。しかし、原爆投下と敗戦で工事は途上で放置され、1945年9月の枕崎台風等により、墓石は谷間に押し流され、倒壊した納骨堂からは遺骨が散乱し、そのまま放置されるという惨状となりました。
米国は1947年にABCC(原爆傷害調査委員会)を海に近い宇品に設置し、原爆の人体に対する影響についての調査にとりかかったものの、災害による被害の恐れのない比治山陸軍墓地敷地への移転を強行しました。その際、壊された墓石、掘り出された遺骨は南側斜面の谷間に放置されました。また、米軍の指示によりこの点の報道は一切許されなかったといいます。
米国に忖度する日本政府も遺族の度重なる陳情を放置しました。情けないことです。
比治山陸軍墓地が現在の姿に整理されたのは、岩田日出子さんという方がボランティアで仲間たちとともに谷間に捨てられていた墓石や遺骨を拾い上げ、今の形に並べ直すという活動によるもの。現在3,533基の墓石が並べられていますが、1000基ほどは所在不明となっています。
ロシアによるウクライナ侵略を目の当たりにし、あらためて戦前の弱肉強食の国際社会で祖国防衛のために戦った方々への感謝の思いがつのります。
また、米軍は日本兵の墓石や遺骨を放り出し、放置する一方で、フランス兵やドイツ兵の墓には手を付けていない、という事実を目の当たりにして、あらためて当時の人種差別にふつふつと怒りがわいてくるのです。もちろん、ここに眠るフランス兵、ドイツ兵には何の責任もありませんが、その墓地の対照的な状況が残念です。
比治山陸軍墓地は今なお国有墓地とは認められず、公園扱いとなっているのも非常に失礼な話です。
瀬戸内海や江田島、宮島が目の前に広がる絶景のベンチもあります。広島旅行の際に、ぜひとも足を運んでいただければと思う次第です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

広島の街と原爆遺構

最近、核武装論がかまびすしいのですが、広島の街を歩いていると、原爆ドームに代表される遺構が各所にあるとともに、本当にたくさんの原爆被害者の碑が建てられています。女学校、鉄道員、樹木…その一つひとつが語りかけてくるのは当日の様子であり、後世の人々に伝えたいことであり、それらが一体となって私たちに語りかけてくるのです(私の勤務先も多数の犠牲者を出しています)。

岸田総理は広島出身の人でも今広島に住んでいる人でもありませんが、幸い、お父さんやご自身の選挙の関係で広島の空気感を知悉しておられます。

今の総理が岸田さんでよかった、と思うのはその点です。

私はいわゆる「にわか」ですが、広島の町を歩く中で、そんな歴史的なたくさんの遺構に触れ、最近活気づいている核武装論者の無知、無神経を強く感じます。

核兵器がある種の外交手段として活用されてきた経緯はあるでしょう。しかし、ほんの少し前に外国によって国土に落とされた我々がそれを安易に(落とす落とさないではなく、外交手段としての活用も含めて)使おうとするのかどうか、考える際に、どうぞこの町をゆっくりお歩きください、と強く思うのです。

広島の平和大通りには、各県の被爆者の方々が寄付した県木の森がありまして、京都の枝垂桜と鳥取の梨が満開でした。ちなみに埼玉はもちろん欅です。