災害と石碑 | 前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト

災害と石碑

東日本大震災から11年。ついこの間のように感じられるのですが、考えてみればアラフォーだった私がアラフィフになり、自分の手のシミを見て月日の経過を実感しているところです。
まずは、犠牲となった方々のご冥福をお祈り申し上げます。

さて、地方自治や行政を研究する立場となり、特に勤務地周辺でいろいろな記念碑などをじっくりと観る機会が増えました。

日本は災害多発国であり、村の鎮守の森や海岸近くの公園、河川の堤防の脇などにさまざまな災害を記念する石碑が建立されています。

東日本大震災でも、津波被害を中心にたくさんの石碑が建立されました。

最近、私が衝撃を受けたのは広島県内に多数点在する水害碑です。

広島の土砂災害というと平成30年7月豪雨による土石流が全国的に有名ですが、有史以来、多数の水害に襲われ、無数の方々が犠牲になってきました。

学術論文をいくつか検索してみると、広島県内には主な水害碑だけで約40*あり、なかには川から遠く離れた集落を山崩れが襲った、という事象も少なくなく、水害や関連する土砂災害の激烈さを痛感させられます。

災害を記憶にとどめるための石碑の歴史は古く、1380(康暦2)年11月26日(『三岐田町**史』による)建立の康暦の碑(康暦の碑)が有名です。正平南海地震によるものとされているそうですが、碑文には地震や津波に関する記述はなく、喪失した部分もあり、まだまだ全容はわかっていないそうです。

いずれにしても、石碑の特徴は600年以上前のものが現存することでもわかる保存性の高さです。
また、石碑はものにもよりますが、視認されると「これはなんだろう」と人々の関心を引き付け、災害に対する関心を高めてくれます。

日本全国には、古くは数百年前の石碑があり、人々に注意を促しているわけです。まさに後の人々を思う先輩方の思いやりであり、あるいは次の犠牲を出さないように、という叫びなのかもしれません。

一方で、メンテナンスが行われないと、内容を読むことが困難になったり、なかには材質の関係で文字が消えてしまうケースもあります。
もちろん、昨今の災害碑は基本的に堅牢な材質で建立されているケースがほとんどのようです。

昨年、私は江田島市切串地区を訪問した際、大歳神社の敷地にある昭和20年水害慰霊碑が目に留まり、そこに記された内容やその後文献からわかった大きな被害に衝撃を受けました。
これは敗戦から1か月後に日本列島を襲った枕崎台風による土砂災害の慰霊碑です。午後8時に大洪水がおき、一瞬にして山崎病院を含む91戸の家屋が流失。死者は145人と記録されています。
当時を振り返る朝日新聞の取材記事によると、原爆で被災した避難者が海を越えて切串地区の病院、学校、寺院等に収容され、その数は地域の人口の1割に上ったそうです。

実はこの切串地区も平成30年7月豪雨においても重傷3、軽傷1、さらに大きな物的被害に見舞われています。
のどかな瀬戸内の島の風景は本当に気持ちよく、無言で語りかけてくる石碑の存在感が不気味ですらありました***。

東日本大震災関連の石碑では、私は仙台市の荒浜の観音像わきにある石板の犠牲者名簿に大きな衝撃を受けました。荒浜を含む七郷地区の犠牲者は189名にのぼり、なかには小さなお子さんの名前も多く、わが子と同じ生年のお子さんもおられました。それだけで胸が締め付けられます。また、そこには交通整理中に津波にのまれて殉職した渡辺巡査部長の名も刻まれていました。
心が痛くてたまらない石碑ではありますが、これを見た人々に身を守ろうという決意と、行動変容が生まれれば、少なくとも石碑が存在する大きな意義があるのでしょうね。

3月11日はぜひ、一人ひとりが震災を振り返り、防災の心がけを思い出し、行動を少しでも改善する、そんな日にできればと願うばかりです。街歩き、観光などで石碑を目にする機会があると思います。災害慰霊碑を見つけたら、裏面までじっくりとご覧になられるといろいろなことがわかり、本当におすすめです。

*藤本理志・小山耕平・熊原康博『広島県内における水害碑の碑文資料』(広島大学総合博物館研究報告)
**徳島県にかつて存在した町。現在の美波町。
***石碑の裏面は名簿であるため掲載は控えます。