キューブラー・ロス著『死ぬ瞬間』① | 武狼太のブログ

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大学の通信教育過程で心理学を学んでおり、教科書やスクーリングから学んだことをメインに更新しています。忙しくて書けなかった、過去の科目についても遡って更新中です。

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キューブラー・ロス著『死ぬ瞬間』

 

■はじめに■
【1】文献『死ぬ瞬間』
【2】死の恐怖について

死ぬ瞬間①


【3】死と死ぬことについて
 ■1■「死の恐怖」は人間共通の感情
 ■2■悪性腫瘍の宣告について

→リンク:死ぬ瞬間② ページへ


【4】「死と死ぬこと」セミナーへの反応
 ■1■「死と死ぬこと」の各科統合セミナー
 ■2■医師の反応
 ■3■看護師の反応

→リンク:死ぬ瞬間③ ページへ

 ■4■聖職者の反応
 ■5■その他のスタッフの反応
 ■6■学生の反応
 ■7■患者の反応

→リンク:死ぬ瞬間④ ページへ


【5】「死と死ぬこと」セミナーへの考察

→リンク:死ぬ瞬間⑤ ページへ


【6】第一段階 否認と隔離
【7】第二段階 怒り
【8】第三段階 取引

→リンク:死ぬ瞬間⑥ ページへ


  【9】第四段階 抑鬱
【10】第五段階 受容

【11】希望

→リンク:死ぬ瞬間⑦ ページへ


【12】患者の家族

 ■1■末期疾患の現実へ家族はいかに応じるべきか

→リンク:死ぬ瞬間⑧ ページへ


 ■2■家庭の中の変化、家族への影響

 ■3■コミュニケーションの諸問題

 ■4■死の後の家族
 ■5■悲しみと怒りの解消へ

→リンク:死ぬ瞬間⑨ ページへ


【13】末期患者の精神療法

 ■1■心のドアを開けるインタビュー
 ■2■短期療法と集団療法の可能性
 ■3■言葉を超えた沈黙
【14】訳者のあとがきより(川口正吉)
■参考文献■

→リンク:死ぬ瞬間⑩ ページへ


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はじめに
数年前、祖母の介護中に読んだ河合隼雄さんの本を通じて、死生学に関心を持つようになり、以前から気になっていたキューブラー・ロス著『死ぬ瞬間』を読んでみました。

古い翻訳版の方を購入してしまったため、自分には少々分かりにくい言語表記もあったのですが、自分自身、改めて考えたり思うところがあったので、表記を一部変更しながら要約してまとめてみました。そちらをブログに載せてみました。

ここでは割愛してますが、書籍の中ではいくつかの事例の詳細が、かなり長文の逐語記録と共に記載されていますので、興味のある方は是非読んでみて下さい。

 

 

【1】文献『死ぬ瞬間』

著書:死ぬ瞬間 死にゆく人々との対話

著者:E・キューブラー・ロス(1926-2004、スイス出身、アメリカ精神科医) 

訳者:川口正吉

1969 出版

1971年 訳書出版 第一刷

1985年 訳書出版 第五十一刷

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関連著書:

『死ぬ瞬間』(1998年出版、訳者:鈴木昌

『死ぬ瞬間の対話』、『続・死ぬ瞬間』、『死ぬ瞬間の子供たち』、『新・死ぬ瞬間』、

『エイズ 死ぬ瞬間』、『死ぬ瞬間と臨死体験』、『人生は廻る輪のように』

『「死ぬ瞬間」の誕生』(著者:デレク・ギル、訳者:貴島操子)

 

▼意義

  ◎患者を1人の人間として見直す、率直な記録

    ・死にゆく患者の管理方法を教える教科書を目指したものではない

    ・死にゆく人の心理の完全研究を目指したものでもない

 

▼発端

  ・1965年秋 シカゴ神学校の学生4人のプロジェクトについて相談を受けた

  ・調査プロジェクト「人生における危機」

    人間が必ず直面する最大の危機 =「死」

    ⇒そう考えたが、裏付けを得ること、実験すること、データの収集が不可能

 

▼方法

  ・「死と死ぬこと」に関するセミナーの開催 (※詳細は後述)

  ・死にかかっている人に直接、話を聞くこと

    ⇒単なる学問的興味のためでも、生者の死生観に役立てるためでもない

    ⇒末期患者への理不尽な応対から生じた、やむを得ぬ一つの方法だった

  ★死にゆく末期患者が“平和と威厳”のうちに死ぬことを助けようとした

  ◎死の意味をあえて哲学的に探ろうとしない

    ⇒「死をいかに見るべきか」ではなく、実証的・即事的な捉え方をした

        「死がどう見られているか」「死にゆく心境と心理とはどういうものなのか」

 

▼結果

  ・インタビューした200人以上の患者のほとんどが、“平和と威厳”のうちに亡くなった

  ・死にゆく人との対話は、相互に満足を与える経験となった

    ⇒人間の心の働き、個性化した人間的側面について、より多くを学んだ

    ★人生の終焉についての怖れと気がかりとが、より少なくなった

 

 

【2】死の恐怖について

1960年代:大きな社会変化

▼過去

  ・疫病で斃れた人の数は甚大であり、乳幼児の死亡率は高かった

 

▼現在

  ◎医学の進歩

    ・予防接種の普及 →数多くの疫病がほぼ根絶

    ・抗生物質の開発 →伝染病の死亡率が著しく低下

  ◎進んだ育児と教育

    ・子どもの罹病率、死亡率の低下、生命に関わる小児科関係の病気が減少

      ⇒様々な障害、適応困難などの子どもの患者の増加

      ⇒老人の患者の増加

 

*「死」の恐怖を持つ人、情動問題に悩む人の増加

 

▼古の時代から「死は常に厭わしいもの」

  ◎無意識

    ・自分自身の「死」は起こり得ない、老齢による自然死は考えられない

      ⇒「死」とは、外部からの不当な干渉、恐ろしい出来事、報復や処罰と関係あるもの

        ★我々は無意識的に不死を信じる

      ⇒だが、隣人の死を考えることは出来る

    ・戦争、殺人事件、死亡事故のニュース

      ⇒無意識の心の密やかなところで、自分ではなかった、と喜ぶことさえ出来る

      ⇒不死を信じる無意識下の信念を支持してゆく

 

  ◎子どもたち: 身内の死に対して

    ▽かつての慣習

      ・家族の会話や議論に参加し、嘆き悲しむのは自分だけではないと知ることが出来た

      ・責任を分かつこと、哀悼に参加することを認められることで満足感を得られた

        ⇒「死を生の一部と見なす」ことができ、その成長と成熟を助けた

    ▽現在

      ・「あまりにも傷ましい」との想定と口実の下、死の場所から遠ざけられる

      ・信じがたい作り話や嘘を言われる:(例)「遠い旅行に出たのだよ」

      ・率直な質問や疑問に答えてもらえない

      ↓ 

      ☆敏感に何かおかしいと感づく

        *参加を許されない悲しみ、大人に対する不信感が高まる

        *遅かれ早かれ、子どもは家族情況の変化に気づく

        *解消されないままの悲しみが心の底に残り続ける

        *「死」を何か空恐ろしい、神秘的なことのように見なしていく

        ★極めて深刻な精神外傷的な経験となり得る

 

*「死がタブー視される社会」

 

▼重篤な患者

  ★患者の心情を、もっと思いやることが大切なのでは?

    ・休息と平安と人間的尊厳を求めても、聞き入れられない

    ・意見を述べる聴かれる権利、が忘れられている

    ・急患室への運搬: 騒音・照明・ポンプ・人声、その不快さは筆舌にしがたい

    ・急患室へ到着後: 患者は一個の物として取り扱われ始める

    ・検査確認後: 患者は科学的関心と財政投資の一個の対象物として扱われる

    ・否応なしに浸剤を注入され、輸血され、人工呼吸器を取り付けられる

  *患者を取り囲む病院スタッフは、正確に動き回って機器や数値に集中

    ⇒人間としての患者自身には全く関心がない

 

  ◎手術室における論理的根拠

    ・患者の生命を救った後で初めて、人間としての患者を考える

      ⇒初めから人間としての患者を考えれば、生命を救う貴重な時間を失ってしまう

      ⇒アプローチは、ますます機械化、脱人格化していく

    ★より孤独な、より機械的な、より非人間的な過程

    ・患者の要求に変化はない ←我々の対応が変化してきている

      *死にゆく人に対する、我々の自我防衛機制の発動か?

      *我々の内面に喚起する不安を排除、抑圧するための手段か?

      *我々の能力の欠如を、力量不足と失敗を、道徳性を、意識することへの怖れからか?

 

*患者は肉体的によりも情動的に、より多くの苦しみを持つように

 

▼死者への愛と憎しみ

  ★“嘆き”のプロセスは、常に“怒り”の性質を含んでいる

    ⇒しかし、「死者への怒り」を誰も認めたがらない

    ・仮装する、または抑圧する

    ・嘆きの長期化、または別の方法で怒りが現れる

  ★“嘆き”は恥でも悪いことでもない

    ※「評価」をしないことが重要