音楽が終わったら、
When the music's over,
同じ目線で撮らせていただいた
慶喜公は写真マニアだったらしい
こう言っては失礼だけれど、面白い人だなぁと思う
大村益次郎のこの銅像は、日本初の西洋式銅像だという
新しもの好きだったという慶喜公は、御自身が写したその大村益次郎像の写真もあるくらいだから、明治の世になっても、わだかまりを持って世の中というものを見てはいなかったのでは?
と、ふとそんな気がしてならない、、
東京裁判
そもそも 東京裁判 における A〜C級 は、罪の重さのランク付けではないらしい
え?そうなの??みんな知ってた??? 僕は反省しきりだよ...
ニイタカヤマノボレ1208
「英霊」
乃知人雖亡 英靈未嘗泯
乃ち知る人亡ぶと雖も、英霊未だ嘗て泯びず
すなわち、当時を知る人々が亡くなっても、英霊たちが滅んだことは、いまだかつてない
幕末の水戸藩士、藤田東湖の 「正気 (せいき) の歌」 より採られたのだとか
靖国神社
日光や木曽などから名木を集め、尾張藩の棟梁伊藤平左衛門の設計になるという本殿や千木に鰹木は、いつ拝しても素晴らしい、また、いつ来ても厳粛な気持ちに
A級 (*1) 戦犯の合祀は決定事項としてすでにあって、最終的に実施したのが幕末四賢侯のひとり松平春嶽公のお孫さんが宮司を努められていた時のよう
合祀する、合祀しないを判断する上で、そもそもの創建の主旨もそうだけれど、東京裁判 の結果をどう考慮するのか?
そもそもの創建の主旨だとしても、じゃあ西郷さんはどうして合祀されてないのか?官軍という括りとそもそもの神道との関係にどうもしっくりこないものがあるんだよなぁ...
とか
日本人の個々の死生観も絡んでくるから、何かの公的な決め事でどうこう言うのも何か違うんじゃない?
とか、
それでも以前、
「奇襲に成功せり、トラトラトラ」
この電文の実物を併設の遊就館で目にしたときは、こころが震えたね、その歴史の持つあまりの大きさに
いろいろと考えさせられる
その 結論 云々よりも、
考え続けることにこそ意味があり、また、大切なことなのかもしれないなぁ...
御朱印
「みたままつり」 は、時の宮司さんが、民俗学者である柳田邦男氏に相談されたところ、賛意を示されたことからはじまったという
この時は、あえて芝愛宕神社の御朱印帳に、阿弥陀様の御縁日にいただいた
靖国神社
「靖国」 とは、「国を安 (靖) らかにする」 という意味で、中国の歴史書である 「春秋左氏伝」 (*2) 第六巻僖公二十三年秋にある 「吾以靖国也」 より採られ、明治天皇により命名された
*1:
まったくもって誤解をしていたよ、、反省... A級の意味するところは 「平和に対する罪」 のことで、各級は 犯罪の種類 を表し、また、A級はそれまでの国際法にはなく急造されたものだったようだ、ようは戦勝国が日本を裁くために急遽作ったっていう話なんだなぁ、、
後出しじゃんけん的な法律で裁くわけだから変な話ではあるよね、勝てば官軍、なんでもござれ?と、皮肉を感じなくもない
*2:
伝孔子編纂の歴史書 「春秋」 の代表的な注釈書のひとつ
歴史を調べていくと、...
点と点が、目には写らないところで、線でつながっているんだろうなぁ... と気付かされることがある
でもひょっとしたら (いやきっとそう?) 初めから平面でつながっていて、単に知らないだけ、気付かないでいるだけなのかもしれない?
と、考えさせられる
こういう 発見 に出会えるところも 散策 の楽しみで
みたままつり
大村益次郎像の周りには盆踊りの輪が出来ていた
ちばてやさん、松本零士さん
応援してます、稀勢の里、このときはまだ大関だったんだぁ、、
お~、赤レンジャー、誠直也さん☆
明けて
ほ~千家尊祐さんかぁ森田健作さんの名前もあるね
A級戦犯合祀後は昭和天皇が不快感を示されて以降、皇室方々の参拝はない
各神社との関係がわかって興味深い、皆さんの県の護国神社はあるだろうか?
島津肇子 (*3) さんに、、甘利さんの名前もあった、こういうのは各社各人との関係がわかって興味深い、阿南、北白川、、
*3:次のブログにて
無心
何ものにもこだわりの無い心
音楽が終わったら、
When the music's over,
明かりを消そう
turn out the lights.
When the music's over / The Doors
■関連ブログ■
靖國神社1 (幕末明治期ゆかりの神社巡り②)
靖國神社2