治水神社 [岐阜県] | カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

カーツの歴史散策&御朱印作庭  庭は眺めるものではなく、       出てみるものなのだ、、

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電光影裏斬春風

知っているようで知らない歴史の裏側をそっと、

御朱印帳をたずさえぶらり、ふらり、、つれづれに、、、

日々徒然に

境内には島津久光公のお孫さんになる津島忠承氏揮毫の碑も立っていた
その長男忠廣氏の夫人になる肇子さんは、北白川宮永久王 (*1) と同妃祥子様の第一女子にして元皇族


そう繋がるのか...

って、なぜそう思ったかって、、

こういうつながりを発見出来て、この日も散策冥利に尽きる一日だったよ◎



玉垣改築事業奉賛者ご芳名一覧
鹿児島神宮
薩摩隼人会一同
西郷南洲東京顕彰会


治水神社

元帥伯爵東郷平八郎揮毫による社名碑


鳥居


拝殿正面


拝殿を背に


丸に十字紋


神紋


神紋と家紋の関係



宝暦の治水事業とは
江戸幕府が宝暦年間に薩摩藩に命じた治水事業で、参勤交代と同じく地方の外様大名外様大名の財力を削ぐ狙いがあったようだ
その薩摩藩側の総責任者が御祭神となっている平田靱負その人で、工事の遅れや費用、その治水事業で亡くなったものたちへの責任を取り事業完遂後に自害したという



桑名と薩摩
平田靱負をはじめ治水事業で亡くなった
人たちの弔いや埋葬については、幕府を恐れるあまり多くのお寺はその対応を拒否したようだが、中には手厚く弔ったお寺もあった、そのひとつが桑名の海蔵寺さんになる
桑名藩と薩摩藩はこの頃から、こういったつながりがあったんだねぇ、、幕末のことだけみれば不思議を通り越して奇妙な感じにさえなるけれど、幕末期の戊辰戦争最中にあっても、同じく薩摩藩と戦った会津藩とは少し状況を異にするのは、こういうつながりがあったからなんだなぁ
その海蔵寺さんでは今でも毎年、平田靱負の命日である五月二十五日に 「薩摩義士追悼特別法要」 が執り行われているようで


宝暦治水観音堂1


宝暦治水観音堂2



津島忠承氏揮毫による服部辰次郎碑


拝殿側面




本殿側面


木漏れ日



御朱印
宮司さんがいらっしゃる場合は (午前中) 、御朱印帳に直に書いていただける
この日は色々と興味深いお話をうかがうことが出来たよ



治水神社
御祭神:治水の神、平田靱負正輔大人命 (ひらたゆきえまさすけうしのみこと)
神紋は、”丸に十文字”の島津氏の家紋に同じ、今ひとつは御祭神の平田靱負家の家紋"丸につり二つ引両"
岐阜県海津市海津町油島



境内ではまだ目にしていない碑もあり、再訪を期す
宝暦治水工事の後に植樹された日向松の松原は千本松原ともいわれているようだ
その松原は、故郷鳥取の砂丘の防砂林を思い出させ、どこか郷愁を誘う景色だ

境内マップ


*1:北白川宮能久親王 (奥羽越列藩同盟の盟主にして最後の輪王寺宮) の第三王子になる北白川宮家を継いだ北白川宮成久王の第一王子


油島千本松締切堤



靖國神社 みたままつり
島津肇子さんの名前があったのを覚えていたんだなぁ



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