すりこ木も紅葉しにけり蕃椒(トウガラシ) 宗因
唐辛子は1493年にコロンブスが、
南米よりもヨーロッパに持ち帰り
世界に広まったといわれています。
唐の名前がついていますが、
我が国への渡来は唐経由ではないようです。
辛子の語源は、大言海(大槻文彦 昭和7年~10年)によれば、
「気苛し(ケイラシ)」としています。
辛くて苛立つことの転換でししょうか。
出所のわからない渡来品には
当時唐の名を付けることが多かったようです。
長崎では唐との交流が多くあったことから、
音の通じる「唐枯らし」を忌み嫌い南蛮の名称で呼ばれ、
今でも南蛮というそうです。。
和漢三才図絵(寺島良安 正徳2年 1712年)は、
「タバコとともに南蛮から伝わった」とあります。
コロンブスはイタリア生まれですが、
スペイン女王イザベル一世の援助で航海の旅に出ています。
江戸時代に入ってからは、
南蛮はポルトガル人・スペイン人をさし
オランダ人は紅毛といいました。
日本への渡来はスペインからで、
「唐枯らし」説との合体でしょうか。
「天文十一年(1542年)ポルトガル人が持って来た」
(草木六部耕種法 佐藤信淵 文政12年 1829年)
「慶長十年(1605年 に対馬経由で朝鮮より渡来した」
(対州編年略 1723年)
具体的には文禄初期、加藤清正説もあります。
本朝世事談綺(菊岡沾涼 享保19年 1739年)の
『秀吉朝鮮征の時、初めて取り来る』
は大和本草説を取り入れたものと見えます。
文禄・慶長の役で最初に挑戦釜山に上陸したのは、
文禄元年四月です。
多門院日記の文禄二年二月二十八日の項に、
『赤皮ノカラカサ消肝了…辛事無類』
は唐辛子と思われますので、朝鮮説をとりますと、
僅か一年足らずの間に日本で広まったいたことになります。
逆の説もあります。
秀吉出兵のの折日本から持ち込んだ話です。
唐辛子を愛し、キムチの国を思うと意外な気もします。
俗説ですが、案外信憑性もあるのではと思ったりもします。
当時、諸外国と交易は日本の方が機会が多かったからです。