柏餅さげて子供を見せに来る  三木智子


端午の節句に男の子のお祝いとして柏餅を供える風習は、

今では定着していますが起源ははっきりしません。


端午の節句の始めは貴族社会の行事だったようで、

守貞慢稿(喜田川守貞 嘉永6年 1853年)巻之二十七に、

『天平十九年五月、詔して、昔は端午の節には菖蒲おもって蘰とす。

以来すでにこの事停めたり。


今より後、菖蒲の蘰にあらずは宮中に入るゝこおなかれ、云々。

また「延喜式」に曰く、五月五日、天皇、騎射ならびに、

走馬を観るさなわす』と記されています。


世事百段(山崎美成 天保4年 1843年)に、

『端午の日に、柏の葉の餅を包みて、互いに贈るわざは、

江戸のみにて、他の国には聞こえぬ風俗にして、


しかもまた古き世のならわしにもあらざるや。

ものに見えたる事なく徳元が、

「俳諧初学抄」に、五月の季に見えず。

かかれば嘉永より後のことか』とあり、


歯がため(天保3年 1783年)にも、

『いずれの季よせにも載せず。

江戸にては、端午の節句に(柏餅)製し宿す。

畿内の粽に等し』とあります。


当時の歳時記では、

季題として取り上げていなかったようで、

江戸後期から始まった風習のようです。


『柏餅の起源は、天明年間(1781年~)に

江戸に現れたとする説がある。

また、室町後期に、市中で売られていたとする説。

中期の宝暦年間(1751年~)とする説もある』

(たべもの語源事典 岡田哲 東京堂出版)


『新撰類聚往来」に、「菓子者…煎餅、柏餅、粽…」とあるから、

室町時代末期には、すでに市中に売りひさがれていたことが分かる』

(事物起源辞典 衣食住編 朝倉治彦他 東京堂出版)

と記載されていますがはっきりしません。


守貞慢稿によれば、

『米の粉を練りて円形扁平となし、二つ折りとなし、

間に砂糖入赤豆餡を挟み、

柏葉大なるは一枚を二つ折にして之を包む。

小なるは二枚以て包み蒸す。


江戸にては砂糖入味噌も餡にかへ交る也。

赤豆餡には柏葉表を出し、

味噌には裸をだして標とし』


とこの頃にはこったものも現れます。


江戸神田旅籠町御成通亀屋の柏餅が有名だったようで、

『形小色何貫賞足、喰来第一味噌宜』

と狂歌に詠まれています。

(事物起源辞典 衣食住編 朝倉治彦他 東京堂出版)


柏の葉は棒手振が売り歩きました。


『五六人目で柏の葉女房買い』(川傍柳)

とつつましく安値を選び、

家庭でも小豆餡だけでなく味噌餡もつくりました。


『柏もち味噌を入れると仕舞なり』(川傍柳)


江戸年中行事(享保3年 1719年)に、

『柏餅 かしははめでたきもの也、

神代はこの葉に供物を盛り…

ときは木の中に葉の広きは、かしはのみ也、

めでたき葉なればこそこれを用ゆと也』


と、目出度い葉と記しています。