蜜柑摘み昔は唄をうたひしに  山口波津女


『紀伊国屋みかんのように金をまき』(柳多留14)


『吉原を丸で買ったは文左衛門』(柳多留14)


『沖は暗いのに白帆が見える

あれは紀の国みかん船』と歌われ、

蜜柑といえば何かと話題の多いのは

紀伊国屋文左衛門です。


紀伊名所図会によれば、

暗夜の狂騰を蹴って江戸へ蜜柑を運び、

五万両という莫大な利益を得たといいます。


時は元禄(1677年~1704年)の事です。


時化の中を危険を危険を冒してまで

江戸へ蜜柑を送ったのは、

当時江戸で行われていた鞴祭に起因するのかも知れません。


十一月八日に、鍛冶・鋳物・箔打ち・石職の人たちが、

火防や商売繁盛を願った風習です。

隣近所へ蜜柑やお膳をくばり、

夜明けには蜜柑をまいたといいます。


元禄十六年間の十一月八日を新暦に置き換えますと、

十一月はわずか二回。

残りは十二月出その内十五日杉は十一回もあります。


冬の熊野灘・遠州灘は常に危険がともないます。

文左衛門も船が江戸へ着くまでは

気の休まることはなかったと思います。


一代で財を築き一代で使い果てたという

話題の多い御仁ですが、

江戸へ蜜柑を運び商売になると考えたのは

先駆者がいました。


寛永11年(1643年)紀州灘原村の藤兵衛が

蜜柑四百籠を江戸へ船でおくり、

一籠半が一両で売れ利益を得たといいます。


徳川家康は陣中見舞いに来た信勝家臣飯田半兵衛に、

令状を出しています。


天正十年(1582年)9月十日の日付です。

『両度まで珍物送り下され候

遠路のところ御座候

蜜柑一箱これを進獻 次に馬一疋…』とあります。


天正十年九月十日は新暦の十月十日です。

当時としては極早生が自慢だったのでしょうか。


家康は権力者として入手方法にこだわり、

文左衛門は需要のタイミングに

生きがいを感じていたのでしょうか。


蜜柑の語源は、

『①ユカン(柚柑)の訛りか(古事記伝)

 ②その味からミツカン(蜜柑)の儀(古今要覧稿』

(日本語源辞典 前田富祺監修 小学館)


『この類では、古く「柑子」が伝来し

「かうじ」という字音語で呼ばれ、

中古・中世「今昔物語」や「徒然草」に見られるように、

おいしい果物として大切にされた。


後に「蜜」のように甘い果汁の新品種が伝えられ

「蜜柑」と呼ばれた。

当時はミツカンと音読されることが多かったが、…』

(精選版 日本国語大辞典 小学館)

と記されています。