蛤の荷よりこぼるるうしほかな  正岡子規


市隠月令(村田了阿 文化の頃 1804年~)に、

『二月、田螺売… 栄螺… 

雛の花いけ売など皆春めきてよし、蛤売もよし』


二月頃の売り声は心地よいものとしていますが、


百安楚飛(安永8年 1779年)では、

『元日の夜… 蛤を商う者おびただしく入り込み、

売り歩く声引きもきらず』 と都の喧騒ぶりを伝えています。


江戸の商家などでは、正月の祝いの席の膳に蛤を出したのでしょうか。


柳花通誌(秀山人 天保15年 1779年)に、

『二階に触れ、娼妓此湯い入てより、

物衣装を着て祝ひの膳にづはる。

蛤の吸い物を出して屠蘇雑煮を祝ふ』


とあり、吉原でも年中行事の一つです。


『十ばかり明るみへ出す夜蛤』(万句合 明和2年)


『二つ三つあかるみへ出す夜蛤』(万句合 明和4年)


蛤の行商は何故か夕方より、宵にかけての

商いが多かったようです。


『はまぐりをつぶてになげる潮干狩』(万句合 明和5年)


『蛤にひらめの交じる大あたり』(万句合 川傍柳2)


潮干狩のシーズンには江戸っ子は

老若男女を問わず楽しんだようです。


蛤は焼蛤、吸い物など殻付調理の他に、

俳諧歳時記栞草(馬琴 嘉永4年  1851年)に、

『摂州住吉の洲ざき、蛤多し。漁者とりて殻を捨て、

其肉を升に盛り市にうる。酢和して是を膾とす』


『居酒屋の出口へ通ふ千鳥焼き』(柳多留 120)

千鳥焼きは剥き身を数個串に刺し味噌を付けて焼きます。


江戸でも剥き身の料理はありますが、その多くは


『是切りの蛤升へ入れて売り』(俳諧武玉川27)

殻付での商いが多いようです。


その値は、守貞万稿(喜田川守貞 天保6年 1853年成立)に

『小蛤大略一升価銭二十文ばjかり、

京阪は五六十文あるいは百文』

とあり、江戸での商いは廉価で大変だったようです。


蛤といえば時雨煮です。

その他に例外として、青柳も時雨煮を使用します。


東海道名所図会(寛政9年 1797年)に、

『松毬を焙り旅客を饗てなす。桑名の焼き蛤はこれなり。

時雨蛤、秋より春まで漁す。


初冬の頃美味なるゆえ時雨蛤の名あり。溜豆油にて製す』 


とあり、そのはかに、烏丸大納言光弘説もあります。

東へ下る途中桑名で食べた焼き蛤を忘れることが出来ず、

街道に落ちる時雨を見て古歌の、


『神無月ふりみ降らずみ定めなき、

しぐれは冬のはじめなりけり』

ちなんで名付けた説です。


元和二年(1616年)と伝えられており、

この年の十月一日は新暦の十一月九日、

やがて来る冬の訪れを予感させるような冷たい雨。

首をすくめながら暖かい焼き蛤を思い出したことと思います。


蛤の語源は、

江戸時代の「燕石雑誌・瓦礫・名言通・紫門和語類衆等」

多くの書物は(浜栗)の義としています。


唯一、東雅(新井白石 享保2年 1717年)は、

『ハマは浜、クリは石の義。石が地中にあるのに似ているから』

としています。