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tablaboyの道日記

祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように

パートナーは、どういう基準で選んでいるのでしょうか。
顔でしょうか、身長でしょうか、収入でしょうか、将来性でしょうか、性格でしょうか・・
人それぞれですが、それはやはり潜在意識の波長と同調する人だと思います。
また、異性に憧れを持つ要因として、父親のイメージ、母親のイメージがあると思います。このお話のなかでは、「恋愛」についていろいろお話してくださっています。

第一章 魂からみた恋愛

 恋愛
                
「恋愛」という言葉には、ロマンチックなひびきがあり、若い人ならば誰もが素敵な彼氏、或いは彼女と熱烈な恋愛をしてみたい、と夢見る人が多いと思います。                     
 「恋に落ちる」とか「一目ぼれ]などという言葉があります。                    
 ある日、ある時、不思議な縁の赤い糸に導かれて、未知であった二人が巡り合い、心の中に密かに求めつづけてきた人が、いま現実に目の前に居る。そんな新鮮なショックをともなって、その人の面影が自分の心を占領してしまう。こうして二人が恋に落ちる。
 或いは、このような「一目惚れ」という形をとらず、長いこと身近な存在として見ていた人が、いつの間にか自分にとって大事な人として、心を占めていたことに気付き、恋愛感情に入ってゆく、ということもありましょう。
 いずれにしても人を愛するということは、その入自身の命を目覚めさせ、活性化します。細胞も生々としてきて、驚くべき変容が起ります。特に若い女性が恋をすると、まるで皮膚の内側から光が照り映えるよ与に、「あら!」と、驚くほど美しくなります。   
 また、恋する者の目には、あらゆるものが鮮やかに光り輝いて、自然も空気も、見馴れていたはずの風景までもが、新鮮に生きづくように見えてきます。恋をすると若返ります。
 だから恋愛は生の歓喜です。愛する者のすべてを受け入れようと、個から他者へと命がひろがっていきます。けれどそれはまた二人だけの世界をつくろうとします。                      
 こうした恋愛のありかたを、昔から小説や映画や芝居で美化し、純愛やな愛の物語りで、多くの人々に涙と感動を与えてきたのです。ですから若い人たちは、恋愛にいっそう憧れるのです。
 だからといって、誰もが恋愛できるのか、となると、そうはゆきません。恋はできるけれども恋愛というのは相手があってのことですから、いくら恋愛に憧れ、恋愛、恋愛と願ってみたところで、相手がいなければ恋愛の仕様もないわけです。
 ですから大方の人々は諦めて、誰かの紹介によってお見合いをし、結婚する、ということになるのです。
 「お見合いなんて嫌よ、私は絶対恋愛結婚をします。」
と宣言し、お見合いの話には一切耳をかさぬ女性もいます。だが、その女性が望むような素晴しい男性が現われてくれればよいが、いくら待っても理想の男性は現われてくれない。歳は容赦なくどんどんとってゆく、不安と焦りに耐え切れず、自分をごまかし、妥協して
理想とはほど遠い男と結婚に踏み切る、ということにもなり兼ねません。
 或いはまた、恋愛を美化し、空想を逞しくして、白馬の王子様のイメージを作り上げてしまったため、この世の男性は誰も彼もみんな貧乏たらしくて頼りなく、だれも自分の夢の男性像の規格に合わなくなって、結婚にますます縁遠くなってしまう女性もいるでしょう。こうして、誰もが恋愛を夢見ながら、夢が夢のままに終ってしまうことが多いのです。
 この世界に、何十億もの人類がいるというのに、選りに選って、二人が愛し合うということは、余程の縁があってのことです。

 擬似恋愛

 現在は昔と違って、男女の交際も自由な時代ですから、恋愛も自由です。自由なだけに節度というものも薄れて、簡単に好きになり、付き合ったかと思うとすぐ厭きてしまって、次々に相手を変えてゆきます。そして自分は情熱のおもむくままに恋に生きている、などと好き勝手なこどを言う人たちもいます。が、これは、ファッション感覚で恋愛ごっこをしているようなしのです。
 恋愛を恋愛する、要するに自分で勝手に恋愛感情をつくりだし、それに酔い痴れているようなものです。これは恋愛とはいえません。自分の感情を満足させるために、相手が自分のファッション感覚に合っていればよいのです。相手を好きだ、ど自分を錯覚させて恋
愛感情を楽しんだり、失恋して悲劇のヒロインを演じてみたりしている人たちもいます。
これは擬似恋愛で、恋愛とは似て否なるもの、つまり恋愛ごっこをしているのです。
  「へえー! あのご面相で…。」
と陰口たたかれながら`結構派手に`複数の男性と楽しく遊びまわっている行動派。
 「あの女性はあんなに美しいし魅力もあるのに、何故…。」
ふ、周囲の人々が不思議に思うほど、ポーイフレンド一人できない女性。美しいから恋愛できるというものでもないのです。
 男性でいえば、仕事もきちんどこなし、真面目で上らの受けもよく、見てくれも悪くないのに、女のひとに縁のない男性。
仕事も好い加減、遊びごどならなんでもOK、それでまた女性にもてもての男性もいるのです。現代は自由 な時代どいっても、恋愛のできる人、できない人、 それは昔も今も変りないのかもしれません。
こうして例をあげてみてきましたが、恋愛できるかできないかは、その人その人の性格的なものもあるでしょうが、やはり恋愛するには、それなりの因縁のある人同志が引きつけ合うことによって、起ってくるものだということです。
ところが、この因縁なるものが問題なのです。
何が問題なのかといいますど、その因縁が善い因縁であったなら、理想的なカップルとして、お互いに助け合い、愛し合える結びつきとなるでしょうが、もし悪い因縁での結びつきの場合、それは前生の生きかたの中で、何らかの貸し借りがあって、それを今生で清算しようとして、無意識のうちにお互いに引きつけ合うのです。それが結ばれるために。
 「好き、あの人でなければ…。」
という形をとるのです。
 まわりから見て「なんであんな人を」と思うような人を好きになり、周囲の反対を押し切ってまで結婚し、いざ一緒になって生活してみると、お互いのわがままが剥きだしにな。り、そこに過去世からの因縁生、つまり前生において、お互いに果たさねばならなかったものが、修正のために現われてきて、二人の問に様々な不調和な問題が起ってきます。それらの問題に対処し切れなくなって、縺れた揚句に離婚をする、といったことも多いのです。そういうことを考えますと、恋愛をロマンチックで素晴しいとばかりは言えません。

 只今欲楽中

 仏教では、現象世界における人間の愛の行為を業(現在の環境を決定し、未来の運命を定める善悪の行為)と観ています。何故なら肉体人間の行ずる愛は、すべて自己中心的なものだからです。
 そこで、人間の愛の行為を五つのありかたに分けて説いております。

愛・・・自己・血族・親族に対する血縁的愛情。
親愛・・・他者に対する愛。(友情)
欲楽・・・特定の人に対する愛。(恋愛)
愛欲・・・性的愛
渇愛・・・病的な執着になった愛。
 (新仏教辞典・中村 元監修・誠信書房)


 この人間の五つの愛のありかたについては、後でもっと詳しく「慈悲」についての話の時にしたいと思います。今は恋愛についてのお話ですので、この五つの中の真中の欲楽だけを取り上げてお話してみます。
 恋愛、つまり特定の人を愛する愛のことで、それを仏教では「欲楽」と謂っています。「只今恋愛中」なら、ロマンチックに聞えますが、「只今欲楽中」では、まったく夢もない、欲望まる出しのような感じで、熱も冷めてしまいます。
 現代では昔のような純情さは失われてきて、人間が功利的になってきていますから、愛する者のためには生命も捨てて、などと言ったら随分古風な、と思われるかもしれません。「愛はすべてを惜しみなく与う」ではなく、「愛はすべてを惜しみなく奪う」のが、大方の愛のありかたになっているのが今日です。
 恋愛は融合であり、新しい世界を創造する力がある一方、分離も破壊も内に秘めています。すべてを与え合えば愛の創造が生れ、愛するあまり性急に相手を貪り尽そうとすれば、やがて分離と破壊に至るのです。
 小説や映画や芝居の中で美化された恋愛をそのまま、この現実の世界にもってきて夢見ても、現実の世界では様々な柵や、因縁生に支配されていますので、夢見たような恋愛が成就することの可能性は、なかなか難しいのです。
 「只今、恋愛中」で燃えている人に、頭から水をかけるようなことを言って申しわけないことですが、恋愛という言葉の甘いひびきに酔わないで、もっと真実を観て、自分にふさわしい相手を選んで欲しい、と願っているわけです。


 

それは

人間は永遠に個性を持って生きつづけてゆくものである、ということを信じること、知ることだ

そうすると、生き方がまるっきり変わる

目標ができる

努力するにも、努力の仕方が変わる

じっくり努力できる

大きな目標を見出せる

この肉体の一生は、本で云うと、何万巻の中の一ページにすぎない

その一ページのなかで目標を達成できるわけがない

のんびり、じっくり、あせらず、あわてず、たのしく、自分を豊かにし愛を深める

そういう努力をすべきだ

バッハのようになりたかったら、こつこつ音楽の勉強をすればいい

芭蕉のようになりたかった、そういう感性を磨く努力をすればいい

ミケランジェロのようになりたければ、美しいものをたくさん見て、そういう勉強をすればいい

アインシュタインのようになりたければ、宇宙の神秘を想い、一心に物理の勉強をすればいい

道元のようになりたければ、正覚を目指して、常住坐臥、命がけで精進すればいい

なんでも自分の好きなことに、一生懸命命を燃やす

生命は悠久にして永遠なのだ
それは、感情想念をつかまないこと

それは自分ではない

大空に浮かぶ雲のように過ぎ去り、変化変滅してゆくもの

常に奥にある青空を観じること

本心が太陽のように輝いていることを信じることだ

信じるとは、成ることなのだ

やがて、自分の信じた世界が開けてくる

自分の可能性を信じるのだ

自分の中にある愛が爆発する日のあることを、深く信ずるのだ

汝が信ずるがごとく汝になれ

この潜在意識というものが、人間の運命を決めている思います。
 幽体にある習慣の想いによって、青写真がまずできあがり、それによって事故にあったり、病気になったり、お金持ちになったり、破産したり、素晴らし音楽家になったり、科学者になったり、幸せになったり、不幸になったり・・・
 みんな自分が自分で選択した人生をいきています。
 でも、変えたかったら? どうしますか。もう幽体に記録されてしまっている運命をどうしてかえたらいいのでしょう?
 そういうことをお話くださっています。


『潜在意識と本心の開発』

 いつの世も男女は惹かれあい、あるときは愛し合い、あるときは憎しみ合い、あるときは友となり、様々な転生の中で磨きあってゆくものだと思います。
 なぜ惹かれるのか、なぜ嫌いなのか、なぜ顔も見たいくないのか、なぜこんなに愛しいのか、なぜ・・
 男女というものはおもしろいものです。
 そこには魂の深い秘密があるのです。
 ある生では親子となり、ある生では恋人となり、またある生では兄弟姉妹となり、人間とはなにか、自分とはなにか、学んでゆくのでしょう。
 この「ぴーす」に連載されたお話の中で、先生は、様々な角度から男女の問題に洞察を、気づきを与えてくださっています。たのしんでくださいませ。

 

魂からみた恋愛・結婚・・はじめに

五井先生の御本はとてもやさしくて、何度読んでも潜在意識が光に満ち満ちてくるのを感じる。
下記抜粋は『明るい心』からですが、はじめてお読みしてから、もう25年以上もたつと思いますが、いまだに感動しますから、不思議です。
 楽しんでください。


"
 私は神さまを思いっぱなし

 この間、詩で "寝床の中で祈り" と書きましたけれど、私は祈らないんです。私は何もしないんです。みなさんは言葉で心の中で世界平和の祈りをやっているでしょう。ところが私は云わない。言葉でも心の中でも思わない。何故かというと、もう思い放しだから。神さまを思いっぱなしなのです。今更、神さまというほどの遠い仲じゃないです(笑)うんと苦しい時があります。みんなの想いが来て、心臓が苦しかったり、頭が割れるように痛かったりします。痛いけど私は神さまと呼ばないのです。呼ぶほど離れていないのです。もうピッタリ一つなのです。思い出すんじゃない、思い出すも出さないもない、そのままいつも神さまになっているんです。
ということは、自分のことはなくて、いつでも人のことばかり考えているんです。だからみなさんも自分のことは考えないで、ただいいと思うことを行なっていればいいんです。あとは人のことばかり思っていればいいんです。どうか夫が機嫌がいいように、と思えばいいし、どうか子供が元気でありますように、と思えばいい。人のことを思っていると自分のことを思っていると同じなのです。一人の人間が自分のことばかり思っていたら、元っこでしょう。一人の人のことを思えば二人に増えますよね。三人思えば三人にひろがる。百人思えば百人にひろがる。千人思えば千人にその人の命がひろがってゆくんです。二十何億思えば二十何億にひろがる。神界、霊界まで思えば宇宙にひろがる。そういう風にいつでも思っていればひろがるでしょう。ところがそのように一人一人思うわけにいかないから、世界人類の平和を祈るんです。


世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私どもの天命が完うされますように


簡単でしょう、けどなんていい言葉かと思うんですよ。実にすばらしい言葉、やさしくてわかりやすくて、やってごらんなさい。世界人類が平和でありますように、というと、自分が世界人類にひろがるような気がするから、自分は世界人類の一人なんだな、こう祈っていると世界人類がよくなるんだな、というふうに思います。
私どもの天命の中には、自分も入っているけれども、我じゃないです。金がもうかりますように、というんじゃないでしょう。天命というのは神さまの命が現われることでしょう。だから天命を完うせしめ給え、といえばそれは神さまのみ心よ現われ給え、ということです。世界人類の平和を祈り、日本の平和を祈り、天の使命が自分たちに、家族に現われますように、これだけの祈りでしょう。これは大したものですよ。それで「守護霊さま守護神さま有難うございます」とお礼をいうんです。こういう祈りは簡単なようだけれども、実に深い深いものなのです。"

今回のゲスト、前田日月さんに関する江原さんのお話の中に、竜体のことがありましたので、五井先生の詳しいお話をのっけました。
 この宇宙は、実は、素粒子の一粒に至るまで神々の顕われである、というのが真実だとおもいます。地震も台風も、もちろん神々の働きであり、浄化の姿ということです。

以下、とても興味深いお話ですので、お楽しみください。


五井昌久著「人類の未来」より
『先日或る人が、那智の滝の前で写した写真を持ってきて私にみせるのです。もっとも数年前に講師の斉藤秀雄さんが、その方の案内で那智参りをしてき、非常な霊体験をしてきていますので、私も一度那智ヘ行かねばならないな、と思っていたのでした。那智の滝は、私の守護の神霊である役の小角が行をしたことで有名になっている滝なので、遅かれ早かれ一度は行かねばならないところだったのです。
そこで、その方の差し出す那智の滝の写真を手に取ってみると、その瞬間、那智の滝の主神である、飛竜権現さんが、すうと私の霊体に統一してきたのです。そして、「何年も前からお待ちしている。是非近いうちにいらっしゃって下さい」とおっしゃるのであります。そういえば、その写真の方から、何年も前から、「先生、那智は先生ゆかりの地ですから一度まいりましょう」と誘われていたのであります。その写真の方は、ご自分もなんとなく気づかれてはいたようでしたが、飛竜権現さんの伝言を私にきかせていたわけなのです。そういうことは随分とあるもので、数年前の話、明治天皇が西郷南洲翁とお二人で、私の背後に立たれて「明治神官に一度詣ってもらいたい、使いを出すから」と或る日おっしゃられたのです。その頃から、明治神官の宮司の甘露寺さんが、そのお嬢さんは以前から私どもに見えておられたのですが、急に私に親しみをみせられて、「是非一度明治神宮にきて下さい。私がすっかりご案内する」とお嬢さんに伝言してこられ、私は一昨年の菖蒲時に娘たちをともなって神宮にお伺いし、一日丁寧なおもてなしを受けたのでありました。勿論私は明治神宮内のもろもろの障碍を、人に気づかれぬように浄めていたのです。その時、明治陛下と西郷翁の喜ばれた顔がはっきり浮びあがってまいりました。その後、甘露寺さんとは親しくおつき合いしておりますが、甘露寺さんの天皇家に対する素直な忠誠心は実に快いものでした。伊勢神宮に近年再度参拝してまいったのも、この関連性によるものなのです。八幡の八幡様(葛飾八幡宮)の神社の前にさしかかりますと、神社の奥から、はっきりした八幡様のお声で「貴方の家は、八幡に取ってあるから、他をみる必要はない。八幡だけを探しなさい」と聞えたのです。私はその足ですぐ八幡近辺を探し、現在の家が見つかり、もう二十年も住みつづけておりまして、何一つ不足なく、家内など、広からず狭からず、静かなところでいて、買物にも便利だ、と、もう建ってから四十年近くもなる家ですが、毎日喜んで住まわせていただいております。
こうした神霊との交流は書いていたらきりのないほどありますが、私どもの生活は、常に神霊の世界から見守られ、或いは見つめられているものでありまして、一つの事柄、一つの出来事というものも、肉体界だけででき上がったり、起ったりするものでは決してないのであります。ところで、那智の滝の話ですが、飛竜権現様の折角のおまねきなので写真の方の案内で、早速出かけることにしたのでした。私の旅行はどこヘ行っても、必ず会員さんとの対面や講演会がつきものですが、今回だけは、全く那智の滝だけを一つの目的として出かけたわけなのです。
紀伊勝浦の中ノ島というところで一泊したのですが、その夜中から朝の九時頃まで三月だというのに、まるで台風襲来のような烈しい風雨で、常識では、この海の中の離れ小島の旅館から、船に乗って岸につくのはとてもおぼつかない、と思われるほどでしたが、九時過ぎた頃、風雨ともにぴたりと止んで、みるみる青空がひろがり、島山の緑も生きいきとし、岩山もすっかり洗われて、なんともいえぬ、さわやかな風光になってまいりました。私の霊眼には昨夜来の風雨をもたらしたのは、私たちを迎えるための那智の主神を助けて働いている黒竜の浄めの働きだったのが、うつりました。
 私の神社や霊所巡りには毎回こういう浄めの働きが行われるので、案内の方も娘たちも、またお浄めがありましたね、と当然のことのようにいっていました。
那智につきますと、大きな杉の木立も霊気に充ちております。石段を昇って落下する滝の前に立つや、飛竜権現の竜体が、白髪白髭の老翁の姿に変り、破顔して私を迎えているのです。そしてその後に、勝浦で風雨の浄めをした黒竜の艶やかな姿がありました。私は印を結び拍手を打って、神霊との交流を終え、那智の滝を辞してきたのでしたが、滝行半ばで亡くなった人々や、滝に願を掛けている人々が、私の霊体の中で、暫く浄めの行をしておりましたが、やがて皆浄まって私から離れてゆきました。案内してくれた人の話では何度でもこの滝にまいっているけれど、今日のように水量が多く雄大な滝の姿はみたことがないということでした。
ここで、想い出しましたのは、ナイヤガラ爆布の大白竜のことでした。あの大白竜の使命はアメリカ、カナダを中心に地球そのものを浄める働きをもっておりましたが、この那智の滝の竜神の働きは、個人個人の魂魄の浄めを主にして働かれているということで、全く行場としては、最適なところであるのは確かです。
ここでいよいよ本題に入るのですが、私が皆さんに申し上げたいのは、この世の中には、五感に触れる、つまり眼に見え、耳に聞え、鼻にかぎ、手に触れ、意に感じる、という、そういうものだけではなく、六感以上の限りない波動のひびきで充ち充ちているということです。そして、そういう感覚を越えた、つまり空の奥のまた奥のと、老子講義で私が書いた奥の奥の世界に宇宙神のみ心の中心が存在するのであります。釈尊の般若心経は、そういうことをいっておられるのですが、一般の人にはわかりにくいでしょうから、私は五感に感じる世界、つまり普通の世界から、六感以上の世界、幽界や霊界や神界の世界、そして宇宙神のみ心の中心の世界ということを、わかりやすく書いてみようと思うのです。
宇宙神というのは、すべてのすべてであり、在りとしあらゆるものの原動力であり、生命の本源であり、大自然運行の原理原則でもあります。キリスト教的にいえば絶対者です。この絶対者は、絶対者そのままで、すべての働きをなさるわけではなく、種々様々な形に分れて、宇宙の諸々の存在活動や現象活動をなさるわけで、これを日本の神道では、一神である天御中主大神から、八百万神としてその働きを現わす命名がなされているのであります。一即多神なわけです。そしてこの神々の分け命として、人類が存在するわけで、人類は神の子といわれるのです。
神には大自然の運行を司る神から、各星々を司る神、金星なら金星の、地球なら地球の運行を司る主神という方があるのでして、ヨガなどでは、地球の主神を、地球霊王といっています。そしてその下に種々の霊的存在者がおりまして、人間の守護の神霊と事々に連絡を取って、この地球界に宇宙神のみ心をはっきり現わそうとしておられるのです。ところが大宇宙というものは、無限でありまして、宇宙神のみ心も無限に働き、無限の開発進化をしてゆかれるのでありまして、地球世界も今関発進化の途上にあるのであります。すべての物事は、完成されるまでほ未完成なので、地球の大調和状態が完成されていない現在、地球の人類も物事も不調和、未完成であるのは当然なので、今悪と現われ、不幸災難と現われ、誤りであるように現われていることも、ただそのこと、その人、その国のみの悪や不幸災難や不調和を取りあげて、あげつらっていても仕方のないことなのです。それはすぺて完成ヘの途上での現れの姿でありまして、未来の大きな完成はそうした、私流にいえば、消えてゆく姿によって、完成の姿が現われてくるのであります。』

『大叡智である宇宙神が、地球よりはるかに膨大である星々を、ただ単に地球の美化のために飾りつけておくようなことをなさるわけがありません。各星々にはそれぞれ主神があり、諸神善霊がそれぞれの天命を果して働いておられるのです。宇宙神のみ心を心とした主神方が大宇宙経綸のために、常に光明波動を交流しあっておられ、その下につかれる諸神善霊がそれぞれの持ち場でそれぞれの働きをしているのでありまして、竜神の働きというのはすべての流れを司どり、浄化作用の働きをしているのでありますので、水に縁のあるところには、大なり小なりの竜神の働きがなされているのであります。海にも河にも、湖にも池にも井戸にも、白竜、金竜、黒竜、青竜などそれぞれの持ち場での働きをされるので、天気の状態などにも、竜神の働きがなされているのです。すベては、宇宙に大調和をもたらすための働きなのでありまして、台風なども、台風そのものだけをみれば、被害甚大で困ったことのように思われますが、宇宙の運行や地球生物存在のためには大きなプラスになっているのです。ですから台風がなくても、それだけの浄化の働きを人間の側ですることができれぱ、台風が起る必要がなくなってしまうのです。イエスにしてもヨガの大聖者にしても相当の聖者になれば、祈りによって風雨を止めることができる、ということがよくいわれていますが、これは事実でありまして、その大聖の浄めの力によって、風雨によって浄めるだけの働きを、代ってするわけなのです。そこで風雨が止むということになるのです。それほどの大聖にならなくとも、多くの人々の真心こめた祈りによっては、天候を左右することができるのです。それは、多くの人々の祈りの力によって、大自然の浄めがなされるからなのであります。その理でまいりますと、地震などでも、多くの人々の祈りによってさけることができるということになります。何故かと申しますと、この大地にしても、根本は波動によって成り立っておりますので、波動によって成り立っているということは、あらゆる素粒子は、粒子でもあり、波動でもある、という科学の原理によって明らかなので、科学的な解釈でもあり、霊的な観方でもあります。祈りによる人間の心の光明波動、命の正しいひびきによって、波動から成り立っている地殻が正しく矯正されてゆくから、地震によって矯正してゆく必要がなくなるのであります。宇宙とか、大自然とかいうと、無知なる人々は、単なる物質存在とか、物質的動きとか思っているようですが、宇宙の運行や大自然の成り立ちは、すべて、神霊の働きによってなされているのでありまして、単なる物質的存在でも、物質の動きでもないのです。これは私などのように、常に神霊の世界との交流で働いているものには当然も当然も、普通の人が呼吸していると同じぐらい自然の想いなのであります。
この大宇宙は、宇宙神を中心として、各主神、諸神善霊の組合せや段階が厳密になされておりますので、私どもが自然の働きだとか、それは自然になるのさ、という、そういう自然という状態はこうした諸神善霊の働きによって、そうした状態が起っているので、唯物論者のいう、単なる偶然や智慧も意志を持たぬ動きとは全く違うのです。一定の定まった宇宙の法則とか自然律とかいうのでも、みな宇宙神や神々のみ心によってその法則が保たれ、自然律が保たれているのでありまして、引力と名づけ、斥力と名づけ、或いは原子の諸活動と科学的に解明されても、原子の活動そのものが、神々の働きによるのであります。五感で感じる世界では、この地球そのものも、人間というものも、みな物質とみえるのですが、実は、地球にしても人間にしても、ただ単に五感に感ずる物質体だけではなく、六感以上に感じる、つまり五感に感じるより微妙な波動圏の何重もの重なりによってなされているもので、これを私は人間は肉体の他に幽体、霊体、神体というものを纏っており、同時に各階層において生きているのである、といっているのであります。
神界、霊界、幽界と一口にいいますが、この各界ともにまた幾つもの階層がありまして、細かく分けたら数えきれぬほどのものです。そして、幽界なら幽界の或る階層だけにしか住むことができない生物がたくさんいます。その生物は勿論人間の五感ではみえぬ生物たちです。その生物たちは人間というものに非常に興味をもっていまして、折あらば人間の幽体にもぐりこんで、人間と同じような生活をしてみたい、と思っているのです。そこヘ人間のほうで、その生物たちと同じような下等な想念、つまり不純な性欲、虚栄心、権力欲、物質欲等々の、人間の高貴性から離れた想念を出しつづけていますと、いつかその想念の波に乗って、人間の幽体の中に入ってきて、自己の欲望を遂げようとするのです。
すると、まるで人間ではとてもできぬような、破廉恥の行為を平気でしたりするのです。神の子である真の人間性が、それらの生物の波動でかくれきってしまうのです。ですから人間は、常に自己の心を浄めるための祈りをすることが必要なので、人に知られぬからといって、いつも下等な想念で心を汚していてはいけないのです。人間の生活は常に種々な波動を受けていますので、時折りは様々な下等な想念も出てくることでしょうが、出てくる度に、これは消えてゆく姿と思って、神のみ心の高貴性のほうに想念をむけ変えるとよいのです。それが即ち消えてゆく姿で世界平和の祈りという方法なのです。
人間だから下等な想いが出ても仕方がないなどと思ったら、とんでもないことで、人間は本来神の子であり、生物中最高の存在者なのです。ただ長い間の習慣性によって、下等な想念が蓄積されてしまっているのです。そこで私は、そういう想念はすべて過去世からの神のみ心を離れた想念が消えてゆく姿として現われてくるのだから、消えてゆく姿と思って、世界人類が平和でありますように、と人類すべての平和を念願する高貴な想いの中に自己を入れてしまいなさい、そういう善い習慣に自己の想いを変えてゆきなさい、と説くのであります。
人間は最高の神のみ心から、光明そのものの生命波動が、霊、幽、肉と伝わって流れてきているのですから、常に蓄積された想念エネルギーを、神のみ心のほうに向けつづけて、神のみ心と同化した想いで、自己の生活をしてゆけば、その人の生活は神界の生活と同じような善いことのみの現われてくる生活となるのであります。人格も高貴なものとなるのであります。
 そういたしておりますと、幽界の生物のつけ入る隙もないので安泰の生活ができるのです。その他に幽界には、この世で誤った生活をして地獄に落ちている霊魂や、いまだ自己が死んで幽界にきていることを知らない人々などがおりまして、神の光をくらまして、神から遠く離れている 人々の肉体に憑依したり、人は好いが、神の真理を知らぬ幽体の波動圏の広い人に憑依したりするのです。これもやはり、神のみ心のほうに常に想いをむけていさえすれば、なんでもなく済んでしまいます。そこで、私は守護の神霊の存在を説き(拙著神と人間参照)常に世界平和の祈りをし、守護の神霊ヘの感謝をつづけていれば、憑依される恐れはない、と説いているのであります。』


このお話の中では、宗教や修養のエッセンス、『悟り』について、あらゆる角度から解説してくださっています。悟りとは、人間の心の奥底に備わっているもの、今から悟るのではない。「悟っている自分を思いだせばいい」、だけのお話。
ただ悟っている自分を忘れて久しい時間がたっているので、工夫が必要です。道が必要なのです。それが祈りの行であり、感謝行なのです。そして、だれもが共通認識として持っている『世界が平和でなければ困る。安心して生きれない。戦争があっては困る』という想いを、祈り言葉に結実させ、祈りに高めたのが『世界人類が平和でありますように』という言葉なのです。ということは、『世界人類が平和でありますように』と祈ろうとしたとき、その人は悟っている、悟りを示していることになります。そういう原理をわすれ、あんまり難しく考えて、いろんな宗教が時間の経過と共に現われ、お互いの優位を示そうとし、憎しみ、殺し合いをするようになってしまいました。
今の時代、もう一度、人間の精神の原点、本質に帰る必要があると思います。
そういうことを話して下さっています。参考になりましたら幸いです。


『悟りということについて』

これは、15歳くらいから追求し続けたテーマだった。
あらゆる瞬間を味わいつくし、あらゆる瞬間を楽しみ、あらゆる瞬間に創造し、あらゆる瞬間に感謝する。
人生の目的?
創造し、たのしみ、よろこび祝うこと
そうさせないのは、『比較競争』、『執着』、『把われ』、『恐れ』
最近はそれがよく見えるのだ。
オーラの泉「丸山弁護士」の巻をみてそんなことを思っていた。

人間ほど不可思議なる存在はありません。
死んだら終わりという人生観を持っている人には、この目に見える世界がすべてですから、それほど複雑ではありませんが、永遠に意識を持っていき続けるということを薄々でも感じている人にとっては、人間ほど不可解な生命体はありません。
自分の心がどこから来ているか、本当の心はどの心か。
本当に知っている人、体得している人は、そんなにたくさんはいないと思われます。それほど奥深い内容を持った生命体、生物が、人間というのでしょう。
この講話では、人間の本当の心(本心)と贋物の心(想念)の響きの違いを中心にお話くださっています。
すばらしい深い内容なので、皆様の本心開発の参考になりましたら幸いです。
それではお楽しみください。


『本心の律動と業想念の波動』