竜体、憑依のお話・・オーラの泉を見て | tablaboyの道日記

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祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように

今回のゲスト、前田日月さんに関する江原さんのお話の中に、竜体のことがありましたので、五井先生の詳しいお話をのっけました。
 この宇宙は、実は、素粒子の一粒に至るまで神々の顕われである、というのが真実だとおもいます。地震も台風も、もちろん神々の働きであり、浄化の姿ということです。

以下、とても興味深いお話ですので、お楽しみください。


五井昌久著「人類の未来」より
『先日或る人が、那智の滝の前で写した写真を持ってきて私にみせるのです。もっとも数年前に講師の斉藤秀雄さんが、その方の案内で那智参りをしてき、非常な霊体験をしてきていますので、私も一度那智ヘ行かねばならないな、と思っていたのでした。那智の滝は、私の守護の神霊である役の小角が行をしたことで有名になっている滝なので、遅かれ早かれ一度は行かねばならないところだったのです。
そこで、その方の差し出す那智の滝の写真を手に取ってみると、その瞬間、那智の滝の主神である、飛竜権現さんが、すうと私の霊体に統一してきたのです。そして、「何年も前からお待ちしている。是非近いうちにいらっしゃって下さい」とおっしゃるのであります。そういえば、その写真の方から、何年も前から、「先生、那智は先生ゆかりの地ですから一度まいりましょう」と誘われていたのであります。その写真の方は、ご自分もなんとなく気づかれてはいたようでしたが、飛竜権現さんの伝言を私にきかせていたわけなのです。そういうことは随分とあるもので、数年前の話、明治天皇が西郷南洲翁とお二人で、私の背後に立たれて「明治神官に一度詣ってもらいたい、使いを出すから」と或る日おっしゃられたのです。その頃から、明治神官の宮司の甘露寺さんが、そのお嬢さんは以前から私どもに見えておられたのですが、急に私に親しみをみせられて、「是非一度明治神宮にきて下さい。私がすっかりご案内する」とお嬢さんに伝言してこられ、私は一昨年の菖蒲時に娘たちをともなって神宮にお伺いし、一日丁寧なおもてなしを受けたのでありました。勿論私は明治神宮内のもろもろの障碍を、人に気づかれぬように浄めていたのです。その時、明治陛下と西郷翁の喜ばれた顔がはっきり浮びあがってまいりました。その後、甘露寺さんとは親しくおつき合いしておりますが、甘露寺さんの天皇家に対する素直な忠誠心は実に快いものでした。伊勢神宮に近年再度参拝してまいったのも、この関連性によるものなのです。八幡の八幡様(葛飾八幡宮)の神社の前にさしかかりますと、神社の奥から、はっきりした八幡様のお声で「貴方の家は、八幡に取ってあるから、他をみる必要はない。八幡だけを探しなさい」と聞えたのです。私はその足ですぐ八幡近辺を探し、現在の家が見つかり、もう二十年も住みつづけておりまして、何一つ不足なく、家内など、広からず狭からず、静かなところでいて、買物にも便利だ、と、もう建ってから四十年近くもなる家ですが、毎日喜んで住まわせていただいております。
こうした神霊との交流は書いていたらきりのないほどありますが、私どもの生活は、常に神霊の世界から見守られ、或いは見つめられているものでありまして、一つの事柄、一つの出来事というものも、肉体界だけででき上がったり、起ったりするものでは決してないのであります。ところで、那智の滝の話ですが、飛竜権現様の折角のおまねきなので写真の方の案内で、早速出かけることにしたのでした。私の旅行はどこヘ行っても、必ず会員さんとの対面や講演会がつきものですが、今回だけは、全く那智の滝だけを一つの目的として出かけたわけなのです。
紀伊勝浦の中ノ島というところで一泊したのですが、その夜中から朝の九時頃まで三月だというのに、まるで台風襲来のような烈しい風雨で、常識では、この海の中の離れ小島の旅館から、船に乗って岸につくのはとてもおぼつかない、と思われるほどでしたが、九時過ぎた頃、風雨ともにぴたりと止んで、みるみる青空がひろがり、島山の緑も生きいきとし、岩山もすっかり洗われて、なんともいえぬ、さわやかな風光になってまいりました。私の霊眼には昨夜来の風雨をもたらしたのは、私たちを迎えるための那智の主神を助けて働いている黒竜の浄めの働きだったのが、うつりました。
 私の神社や霊所巡りには毎回こういう浄めの働きが行われるので、案内の方も娘たちも、またお浄めがありましたね、と当然のことのようにいっていました。
那智につきますと、大きな杉の木立も霊気に充ちております。石段を昇って落下する滝の前に立つや、飛竜権現の竜体が、白髪白髭の老翁の姿に変り、破顔して私を迎えているのです。そしてその後に、勝浦で風雨の浄めをした黒竜の艶やかな姿がありました。私は印を結び拍手を打って、神霊との交流を終え、那智の滝を辞してきたのでしたが、滝行半ばで亡くなった人々や、滝に願を掛けている人々が、私の霊体の中で、暫く浄めの行をしておりましたが、やがて皆浄まって私から離れてゆきました。案内してくれた人の話では何度でもこの滝にまいっているけれど、今日のように水量が多く雄大な滝の姿はみたことがないということでした。
ここで、想い出しましたのは、ナイヤガラ爆布の大白竜のことでした。あの大白竜の使命はアメリカ、カナダを中心に地球そのものを浄める働きをもっておりましたが、この那智の滝の竜神の働きは、個人個人の魂魄の浄めを主にして働かれているということで、全く行場としては、最適なところであるのは確かです。
ここでいよいよ本題に入るのですが、私が皆さんに申し上げたいのは、この世の中には、五感に触れる、つまり眼に見え、耳に聞え、鼻にかぎ、手に触れ、意に感じる、という、そういうものだけではなく、六感以上の限りない波動のひびきで充ち充ちているということです。そして、そういう感覚を越えた、つまり空の奥のまた奥のと、老子講義で私が書いた奥の奥の世界に宇宙神のみ心の中心が存在するのであります。釈尊の般若心経は、そういうことをいっておられるのですが、一般の人にはわかりにくいでしょうから、私は五感に感じる世界、つまり普通の世界から、六感以上の世界、幽界や霊界や神界の世界、そして宇宙神のみ心の中心の世界ということを、わかりやすく書いてみようと思うのです。
宇宙神というのは、すべてのすべてであり、在りとしあらゆるものの原動力であり、生命の本源であり、大自然運行の原理原則でもあります。キリスト教的にいえば絶対者です。この絶対者は、絶対者そのままで、すべての働きをなさるわけではなく、種々様々な形に分れて、宇宙の諸々の存在活動や現象活動をなさるわけで、これを日本の神道では、一神である天御中主大神から、八百万神としてその働きを現わす命名がなされているのであります。一即多神なわけです。そしてこの神々の分け命として、人類が存在するわけで、人類は神の子といわれるのです。
神には大自然の運行を司る神から、各星々を司る神、金星なら金星の、地球なら地球の運行を司る主神という方があるのでして、ヨガなどでは、地球の主神を、地球霊王といっています。そしてその下に種々の霊的存在者がおりまして、人間の守護の神霊と事々に連絡を取って、この地球界に宇宙神のみ心をはっきり現わそうとしておられるのです。ところが大宇宙というものは、無限でありまして、宇宙神のみ心も無限に働き、無限の開発進化をしてゆかれるのでありまして、地球世界も今関発進化の途上にあるのであります。すべての物事は、完成されるまでほ未完成なので、地球の大調和状態が完成されていない現在、地球の人類も物事も不調和、未完成であるのは当然なので、今悪と現われ、不幸災難と現われ、誤りであるように現われていることも、ただそのこと、その人、その国のみの悪や不幸災難や不調和を取りあげて、あげつらっていても仕方のないことなのです。それはすぺて完成ヘの途上での現れの姿でありまして、未来の大きな完成はそうした、私流にいえば、消えてゆく姿によって、完成の姿が現われてくるのであります。』

『大叡智である宇宙神が、地球よりはるかに膨大である星々を、ただ単に地球の美化のために飾りつけておくようなことをなさるわけがありません。各星々にはそれぞれ主神があり、諸神善霊がそれぞれの天命を果して働いておられるのです。宇宙神のみ心を心とした主神方が大宇宙経綸のために、常に光明波動を交流しあっておられ、その下につかれる諸神善霊がそれぞれの持ち場でそれぞれの働きをしているのでありまして、竜神の働きというのはすべての流れを司どり、浄化作用の働きをしているのでありますので、水に縁のあるところには、大なり小なりの竜神の働きがなされているのであります。海にも河にも、湖にも池にも井戸にも、白竜、金竜、黒竜、青竜などそれぞれの持ち場での働きをされるので、天気の状態などにも、竜神の働きがなされているのです。すベては、宇宙に大調和をもたらすための働きなのでありまして、台風なども、台風そのものだけをみれば、被害甚大で困ったことのように思われますが、宇宙の運行や地球生物存在のためには大きなプラスになっているのです。ですから台風がなくても、それだけの浄化の働きを人間の側ですることができれぱ、台風が起る必要がなくなってしまうのです。イエスにしてもヨガの大聖者にしても相当の聖者になれば、祈りによって風雨を止めることができる、ということがよくいわれていますが、これは事実でありまして、その大聖の浄めの力によって、風雨によって浄めるだけの働きを、代ってするわけなのです。そこで風雨が止むということになるのです。それほどの大聖にならなくとも、多くの人々の真心こめた祈りによっては、天候を左右することができるのです。それは、多くの人々の祈りの力によって、大自然の浄めがなされるからなのであります。その理でまいりますと、地震などでも、多くの人々の祈りによってさけることができるということになります。何故かと申しますと、この大地にしても、根本は波動によって成り立っておりますので、波動によって成り立っているということは、あらゆる素粒子は、粒子でもあり、波動でもある、という科学の原理によって明らかなので、科学的な解釈でもあり、霊的な観方でもあります。祈りによる人間の心の光明波動、命の正しいひびきによって、波動から成り立っている地殻が正しく矯正されてゆくから、地震によって矯正してゆく必要がなくなるのであります。宇宙とか、大自然とかいうと、無知なる人々は、単なる物質存在とか、物質的動きとか思っているようですが、宇宙の運行や大自然の成り立ちは、すべて、神霊の働きによってなされているのでありまして、単なる物質的存在でも、物質の動きでもないのです。これは私などのように、常に神霊の世界との交流で働いているものには当然も当然も、普通の人が呼吸していると同じぐらい自然の想いなのであります。
この大宇宙は、宇宙神を中心として、各主神、諸神善霊の組合せや段階が厳密になされておりますので、私どもが自然の働きだとか、それは自然になるのさ、という、そういう自然という状態はこうした諸神善霊の働きによって、そうした状態が起っているので、唯物論者のいう、単なる偶然や智慧も意志を持たぬ動きとは全く違うのです。一定の定まった宇宙の法則とか自然律とかいうのでも、みな宇宙神や神々のみ心によってその法則が保たれ、自然律が保たれているのでありまして、引力と名づけ、斥力と名づけ、或いは原子の諸活動と科学的に解明されても、原子の活動そのものが、神々の働きによるのであります。五感で感じる世界では、この地球そのものも、人間というものも、みな物質とみえるのですが、実は、地球にしても人間にしても、ただ単に五感に感ずる物質体だけではなく、六感以上に感じる、つまり五感に感じるより微妙な波動圏の何重もの重なりによってなされているもので、これを私は人間は肉体の他に幽体、霊体、神体というものを纏っており、同時に各階層において生きているのである、といっているのであります。
神界、霊界、幽界と一口にいいますが、この各界ともにまた幾つもの階層がありまして、細かく分けたら数えきれぬほどのものです。そして、幽界なら幽界の或る階層だけにしか住むことができない生物がたくさんいます。その生物は勿論人間の五感ではみえぬ生物たちです。その生物たちは人間というものに非常に興味をもっていまして、折あらば人間の幽体にもぐりこんで、人間と同じような生活をしてみたい、と思っているのです。そこヘ人間のほうで、その生物たちと同じような下等な想念、つまり不純な性欲、虚栄心、権力欲、物質欲等々の、人間の高貴性から離れた想念を出しつづけていますと、いつかその想念の波に乗って、人間の幽体の中に入ってきて、自己の欲望を遂げようとするのです。
すると、まるで人間ではとてもできぬような、破廉恥の行為を平気でしたりするのです。神の子である真の人間性が、それらの生物の波動でかくれきってしまうのです。ですから人間は、常に自己の心を浄めるための祈りをすることが必要なので、人に知られぬからといって、いつも下等な想念で心を汚していてはいけないのです。人間の生活は常に種々な波動を受けていますので、時折りは様々な下等な想念も出てくることでしょうが、出てくる度に、これは消えてゆく姿と思って、神のみ心の高貴性のほうに想念をむけ変えるとよいのです。それが即ち消えてゆく姿で世界平和の祈りという方法なのです。
人間だから下等な想いが出ても仕方がないなどと思ったら、とんでもないことで、人間は本来神の子であり、生物中最高の存在者なのです。ただ長い間の習慣性によって、下等な想念が蓄積されてしまっているのです。そこで私は、そういう想念はすべて過去世からの神のみ心を離れた想念が消えてゆく姿として現われてくるのだから、消えてゆく姿と思って、世界人類が平和でありますように、と人類すべての平和を念願する高貴な想いの中に自己を入れてしまいなさい、そういう善い習慣に自己の想いを変えてゆきなさい、と説くのであります。
人間は最高の神のみ心から、光明そのものの生命波動が、霊、幽、肉と伝わって流れてきているのですから、常に蓄積された想念エネルギーを、神のみ心のほうに向けつづけて、神のみ心と同化した想いで、自己の生活をしてゆけば、その人の生活は神界の生活と同じような善いことのみの現われてくる生活となるのであります。人格も高貴なものとなるのであります。
 そういたしておりますと、幽界の生物のつけ入る隙もないので安泰の生活ができるのです。その他に幽界には、この世で誤った生活をして地獄に落ちている霊魂や、いまだ自己が死んで幽界にきていることを知らない人々などがおりまして、神の光をくらまして、神から遠く離れている 人々の肉体に憑依したり、人は好いが、神の真理を知らぬ幽体の波動圏の広い人に憑依したりするのです。これもやはり、神のみ心のほうに常に想いをむけていさえすれば、なんでもなく済んでしまいます。そこで、私は守護の神霊の存在を説き(拙著神と人間参照)常に世界平和の祈りをし、守護の神霊ヘの感謝をつづけていれば、憑依される恐れはない、と説いているのであります。』