同じく「如是我聞」より
”「我は神から来た人である」という信念が祈りである。 ”
人間は一人で生きられるものではありません。
自分一人の力で生まれてこられるものでもありません。
守護の神霊(魂の家族)の援助と協力によって、生かさせていただいている、というのが事実だと思います。
それを自覚すること、想い起こすこと・・それが祈りということですね。
それに感謝をつけくわえれば、それも申し分ない祈りになります。
同じく「如是我聞」より
”「我は神から来た人である」という信念が祈りである。 ”
人間は一人で生きられるものではありません。
自分一人の力で生まれてこられるものでもありません。
守護の神霊(魂の家族)の援助と協力によって、生かさせていただいている、というのが事実だと思います。
それを自覚すること、想い起こすこと・・それが祈りということですね。
それに感謝をつけくわえれば、それも申し分ない祈りになります。
祈りは同調現象だと思います。流れに乗ること、法則に乗って命が輝いて働くこと、それを祈りと呼びます。
想念の干渉を受けない生命は、みな祈りそのままの姿ということができます。
以下は「如是我聞」からの抜粋です。
”祈りというのは、いのちが生き生きと活動することである。いのちが躍動せざるを得ないのである。だから、ただ座ったまゝで、何もしないということは、祈りというものをどこか考え違いをしているのである。”
祈りとはお願い事ではありません。
それは自我の放棄、神にひとたび命をお返しして頂きなおすこと。
以下は「聖なる世界へ」のよりの抜粋です。
”肉体人間として生きている自己の生命は、神の大生命の分生命なのだから、常に大生命からの智慧能力をいただきながら、天命を完うしてゆかねばなりません。そのためには、肉体人間として肉体生活に執着しているために起る 、様々の想念を常に消し去っておかねばならぬ、そこで、神様のみ心の中で、そういう想いを消していただこう、神様との一体化を祈りつづけよう、というような生き方をしてゆくことがよい、と私はいうのであります。人間は肉体人間としての無力感を感じることが当然なので、肉体人間では何事もなし得ない、という想いをはっきり表面に意識して、改めて、人間を生み育てていて下さる、大きな力に真向ってみるとよいのです。
一度肉体人間の能力の限界をはっきり認識しないと、どうしても、我の力みになって、自己の運命を損い、人類全体のマイナスをつくり出していってしまうのです。ですから昔から宗教的言葉としていわれているように、自我を放棄し、全託の気持になることが第一なのですが、それがなかなかできにくい。そこで必要になってくるのが、日々のたゆみない祈りの生活ということになるのであります
ご相談のありかた
恋愛、または結婚について、親御さんか、本人が直接来られるにしても、選んだ相手が、結婚に踏み切るには何か問題があるか、或いは相手の人間性に対して、何か不安を感じるものがあるからこそ、ご相談に来られるのだと思います。親御さんが相談に来られる場合は、そのほとんどが母親です。勿論、親として誰しも、子供の希望通りにさせてあげたい、と思うでしょうけれど、親の目から見て、果たしてうちの子にとって、この人でよいのだろうか、という不安や迷いがあるからこそ、ご相談に来られたのでしょう。
或いは、一応は賛成なのだが、因縁生的に見て、相性が善いのか悪いのかを確認したくて、来られる方もいます。いずれにしても私は、
「親御さんとしては、この結婚に対してどう思っていらっしゃいますか。」
と、まずお聴きします。何故なら、私が結婚しようとする二人の、魂的な相生を観て、善し悪しの答を先に出してしまって、もし、私の答えが、親御さんの意に反するものであったら、私の言葉に親御さんは戸惑うでしょうし、因われてしまいます。
また、もし、親御さんの意に反することを、答えとして言わなければならない場合でも、親御さんの気持を先に知っておけば、言葉の遣いようもあるというものです。
それは、本人が直接相談に来られた場合も同じで、
「親御さんは、あなたの結婚に賛成なのですか、それとも反対していらっしやるのですか。」と、必ず聴くことにしています。
なかには、もうすでに結婚の日取りまで決まって結納もかわしているのに、そのことを伏せて、相談される方もいます。
もし私が、
「この結婚は因縁的に観て、悪いご縁だからしないほうがよい。」
と言ったとしたら、どうするつもりなのでしょう。
一応お話の決まっているものに対しては、余程のものでない限り、私は賛成し、祝福をします。そして、できるだけ因縁の浄化を最小限で乗り越え、二人の結婚が幸せであるようお祈りをいたします。
例2 手鍋提げても
「私には好きな男性がいます。どうしてもその人と結婚したいと思って、そのことを両親に打ち明け、一度、彼を両親に引き合わせたんです。ところが後で、両親からものすごく反対されました。彼はとても善い人なんです。どうして駄目なんでしょうか。なんとかならないものでしょうか。」
縋るような気持で、彼女は私のところにやって来たのでしょう。できたら私の賛成を得て、両親に私から説得してもらいたいと思って、やって来たのかもしれません。
私は、彼女の差し出す彼の写真を見て、ご両親が強く反対する理由がわかりました。確かに善い人には違いないでしょうが、どこか男性としては線が弱いのです。彼女には気の毒ですが、両親の心配の想いを考えると、そのまま賛成するわけにはゆきません。
今までにも彼女とは幾度が会っていますし、年令は二十五・六、性格は明るく、確りした女性ですので、何故、両親が反対し、私も賛成できないかの理由を説明しました。
彼女の魂に比較して、男性の魂が幼いこと。二人の因縁生が引きつけ合って、それが恋愛感情となっていること。だから、結婚してからお互いの因縁生が引き出されてきたときに、彼女自身が苦労を背負わねぱならぬであろうことなど、いろいろと話して聞かせました。
「でも先生。私たちに因縁生があるとするなら、その因縁を避けないで、受けて立ったほうがよいのではないですか。私はこの人となら、どんな苦労をしてもかまいません。それに、私が彼のことを一生懸命祈って応援したら、彼は変ってきませんか。」
もっともな言葉です。さすがに頭の回転も早く、私 の話から因縁生のなんたるかもわかったとみえて、突込んだ質問をしてきました。
「そうですよ・・・あなたのおっしゃるとおりです。因縁生かあるなら、それを避けずに真面に受けて立ち、その問題を乗り越え、そこから何かを体験を通して学ぶことができたら、あなたにとっては、その因縁生は卒業だし、あなたの霊性(人間を生かしている本質的なもの)も、それだけ高くなっていくのですよ。
しかし因縁生の消し合いというものはヽそう簡単なものではないのですよ。今はあなたが彼を好きになったから、それこそ昔の言葉で『手鍋提げても』と、思っているのでしょう。どんな苦労もこの人のためなら厭いません、などと思っているでしょうけど、肝心の亭主は頼りない、わがままで自分勝手な生きかたをし、うだつがあがらない。そんな人を見ていて、『私はあなたを愛しています。愛しています』などと言っていられるでしょうか。
こんなはずじゃなかった、あんなに好きで愛していますと言っていたのが、今は諦めと憎しみに変って、いっそのこと別れようか、でも、子供がまだ幼い、仕事を探して生きてゆく自信もない。それを考えると別れるにも別れようがない。因縁生の結びつきには、こんなケースが多いのですよ。それに、因縁生の結びつきとわかったのなら、その因縁生に引き摺られ、再び同じ過ちを繰り返さないようにすることが、知恵というものですよ。
因縁生というものは、その人の過去世に果し得なかったことや、或いは、愛と調和に惇る行為が、因とな って蓄積されていて、それが縁に触れて結果として、今生に現われたものですから、それを再び同じような形で繰り返していたのでは、そのことによって起ってくる苦しみや悩みごとを、再び新しい因として自分の中に取り込んでしまう、ということになるでしょう。
自分の中に取り込んだ因、つまり、苦悩のエネルギーは、どこかで出して浄化しなければ、その人をますます不幸にしていきますからね。ですから、それらを修正し、浄化するべく、未来に、或いは生れ変った次の生に、様々な問題となって起ってくるのですよ。
これが輪廻転生といわれ、生れ変りを繰り返していくことになるのです。
恋愛結婚がすべてそうだと言うわけではないのですけどね。なかには善いご縁の結びつきもありますけど・・・。」
「私たちの場合はどうなんでしょう。」
「善い縁とは言えないから反対しているんですよ。善い結びつきというのはね、魂の大きさが釣合いがとれているのです。」
「私が一生懸命彼のために祈ったら、彼の魂は大きくなりませんか。」
「うむ・・・それはちょっと無理ですね。例えば今生で三〇の大きさの魂に生れてきたとしますよ。その人のためにあなたが一生懸命祈ったからといって、その人の魂がすぐに五〇に大きくなる、などというものではないのですよ。魂が大きくなるということは、その人がどれだけ今生での体験を、無駄にせず生かしてきたかによるのです。勿論、あなたが彼のために一生懸命祈れば、その愛と祈りのバイブレーションが、相手の霊性に共鳴を起し、早く目覚めてゆくチャンスをつくることにはなります。しかし、体験を生かすかどうかはあくまでも本人の心構えによるものですからね。それよりも、あなたが彼のために一生懸命祈れば、あなた自身の因縁生が浄化され、あなた自身が変るということなのですよ。あなたが変るということは、あなたがその因縁生に支配されなくなり、覚めた目で、彼とのありかたが考えられてきますから、彼とは無理にも結婚しなくともよい、という心境になるかもしれませんよ。」
「うーむ・・・わかりました。でも辛いな・・・どうしても駄目なんでしょうかね・・・。」
と、まだ未練が断ち切れません。それも当然でしょう。頭では成る程と理解できても、感情ではまだ納得できないのです。
「ご両親も私も、あなたの結婚にただ反対しているのではないのですよ。あなたには幸せになってほしいのです。
年輪を重ねた人の、人を見る目というものは、あなた方若い人の見かたよりも、もっと深い見かたをしているものですよ。苦労させたくない、悲しい思いをさせたくない、という親心があるから反対もするのです。あなたの想いが自由にならないからといって、私の幸せを邪魔するもの、といった目で親御さんを見てはいけませんよ。」
彼に対する想いを断ち切ることが辛いのでしょう。
彼女の目から涙が溢れ出てきました。
「それでもなお、あなたが彼と結婚したいのであれば、結婚しなさい。ただし、自分に責任を持つことですよ。どんな問題が起ってきても、それを乗り越えてみせる。その覚悟があればそれこそ、因縁生を見事に生かし、あなたは素晴しく、人間的にも成長するでしょう。結婚するもしないも、決めるのはあなた自身ですからね。」
「よく考えてみます。ありがとうございました。」
そう言って、彼女は帰ってゆきました。
以下は「運命を恐れるな」からです。
”祈ることは、つねに神のみ心の中に住んでいることになりますので、神我一体の行といえば、真実の祈りであると答えてもよいくらいのものです。自己の運命を恐れる想いがあったら、運命を恐れる気持が次第に消えて、その想いごと、私のいう世界平和の祈りの中に入れてゆけ運命を神にゆだねる、という気持に変ってゆくのであります。祈りと神さまの在り方についてここでまた、世界平和の祈りの話をいたしますが、世界平和の祈りは、単にこの地球界だけの調和の祈りではなく、大宇宙そのものの調和を祈る祈りなのです。
もっとも大宇宙の調和は神さまのみ心そのものの現れでありますので、そのままで調和しているわけなのですが、地球なら地球の人類というものが、神さまの生命エネルギーを、神のみ心を離れた、肉体人間としての想念で自分たちの気まま勝手に使いはじめ、今日にいたる不幸災難を地球世界に現出させているわけです。
その神のみ心と人間の想いとの距離が業というわけで、この業想念を消し去ってしまわなければ、神様の大調和のみ心が完全な現れ方をするわけがありません。祈りというのは、神さまのみ心のなかに、神さまと離れている人間の想念波動を入れきって、神と人聞との心の距離を取りのぞく方法なのです。
世界平和の祈りは、その最も具体的な祈り言によって現わされたもので、祈りそのもののなかで、同時に大調和の神のみ心をそのままこの地球に現わしている祈りなのです”
祈りという現象については、まだ多くの方によく知られていない、と思うことが随分あります。祈っている人いない人、宗教に興味がある人ない人、また精神世界やニューエイジに興味がある人ない人にも、祈りの本当の意味、あり方を、五井先生のご本の中から、シリーズとして紹介してゆきたいと思います。
祈りとは #1
”祈りとは、神にすべてを託して自己の本心を開発する方法です。そうしますと 祈りによって自然と道は開かれてゆきます。そういう生き方をしていますと、その場その時々その一瞬一瞬がその人にとっては天命を完うしていることになってゆくのです。”
ユーチューブでハイフェッツの演奏するバッハの無伴奏バイオリン・シャコンヌをビデオで見たのだが、すばらしくて感動して、涙が自然に出てくる。深~い神の御心の音楽なのだ。
畏敬の念が湧いてくる。
神々しいまでの演奏、音楽だった。
誰でも聞けるので是非聞いていただきたい。
子供のころからいい音楽、いい芸術に接することは、とても大きな意味がある。
音楽によって、どれだけ感情を純化できるかわからない。
どれだけこの世に貢献しているか計り知れない。
また、理屈ではなく、神々しいものが存在することは、人間の魂に憧れを抱かせ、高志を抱かせ、自ずと美意識を養うことができる。
美はあらゆるものに先んじて、人とし ての『徳性』そのものだのだ。
すばらしきかなハイフェッツ
youtubeから (36M位のファイルです)
私は、昔から明治維新の本を読むのが好きで、なかでも山岡鉄舟さんが大好きで、故大森曹玄禅師にもお手紙を書いたことがある。
師の本の中の一冊『山岡鉄舟』にこういう一説がある。
「鉄舟の剣が慈悲の剣であるというのは、ただ単に生涯人を切らなかったというようなことではない。
彼は人が剣の極意を問うたとき、
『観音様に預けてあるから聞いていらっしゃい』と答えたという話であるが、彼の剣こそ、まさしくその「施無畏」の剣である。
「施無畏」というのは、観音経に出ている言葉で、観音菩薩は「怖畏急難の中に能く無畏を施す」とあるそれである。
無畏とは、畏れ無しということで、不安も動揺もないこと、
したがって、それは絶対の安心を与えることにほかならない。
殺伐の剣が、その絶対安心の観音の境に至れば、剣の道は極まったものといってよいであろう。」
沢木興道師の「観音経講和」にはこう書いてある。
「人々に本当の信仰があれば、怖畏急難の中においてよく無畏を施し給う。
浅草の観音さまの額には、この文句が書いてある。
明治時代に釈元恭という坊さんがあった。山岡鉄舟の玄関番をしていた頃、鉄舟に対して剣道の極意を問うたところが、
鉄舟「それは浅草の観音さんにある」と答えた。
そこで元恭、毎日浅草の観音さんへ行ってみたが、どうにも分からない。
鉄舟に聞くと、
「あんな大きな物がどうして分からぬのか」との答えである。『施無畏』という額がある。あれが剣道の極意だ」
「☆地球交響曲の監督、龍村仁さんのお姉さんの和子さんがインドに行ったときのことである。
和子さんはダライ・ラマと謁見し、ヨガの瞑想法を学ぶ予定だった。
ところが毎晩和子さんの夢にマザー・テレサが現れる。
和子さんはマザーに呼ばれたような気がして、カルカッタのマザーテレサ・ハウスに出かけて奉仕活動をすることを決意する。
マザーテレサ・ハウスでの3日目、死を待つ家で奉仕活動をしているときのことだった。
ここは昼夜問わずカルカッタ中の道路や側溝で死にかけている人達を連れてくる場所だ。
和子さんは外から担ぎ込まれてきた女の人の面倒をみることになった。
女性は骨と皮だけで、衣服はボロボロだ。
右胸が破裂していて、生の癌が出ていた・・・
和子さんはその女性の体を洗った。
髪を洗った。
新しい服を着せた。
ベッドに寝かせた。
その女性はその間もずっーと痛み苦しんでいた。
苦しみで顔はゆがみ、恐ろしい形相になっていた。
もはや食物は受け付けずない。
僅かに水を飲むことができるだけだった。
和子さんはその女性に一晩中付き添った。
彼女が苦痛でウーンウーンと大きな唸り声を絶えず出す。
和子さんが背中をさすってやると楽になるのか静かになる。
そのうちその女性は手を差し伸べて、和子さんの手を握った。
そして和子さんを見つめて何かを言った。
言葉が判らなくても和子さんにはその女性が言いたいことがわかった。
「ありがとう」
この女性が和子さんに何度も何度も同じ言葉を繰り返すうち、不思議な現象がおきた。
末期の痛みと苦しみで、恐ろしいほど歪んでいた顔が徐々に静かで平和な表情に変わり始めたのだ。
そして幸せの顔に変わったのだ。
今のこの女性にあるものは「感謝」だけだ。
「感謝」はする方もされる方も「感謝」になる。
この女性からの「感謝」に感謝する「幸せ」に和子さんの涙が止まらなくなった。
ああ、命をかけてこの事を私に教えてくれるため、この女性(ひと)は私の前に現れたのだ。そしてマザーはこのことを学ばせるために私をここへ呼んだのだ。」
五井先生のご本にはこう書いてある。
「 ここでちなみに、法華経の中の観世音菩薩普門品を取りあげて説明してみましょう。釈尊と無尽意菩薩との問答形式になっていて、観世音菩薩のこのを説明しているのがこの普門品です。易しく書いてみます。
全章すベて、観世音菩薩の救済力の偉大さについて書かれているのですが、どういう救済力なのか、その幾つかを挙げてみましょう。先ず最初に、何故観世音と名づけるのか、と無尽意菩薩が聞くのです。すると釈尊は、
″善男子、若し無量百千万億の衆生有りて、諸々の苦悩を受けんに、是の観世音菩薩を開きて、一心に名を称せば、観世音菩薩、即時に其の音声を観じて、皆解脱することを得しめん″
という言葉につづいて、観世音菩薩の名を保つ者は、火にも焼かれない。大水にあっても、その名号を称すれば、浅き処を得る。また羅刹鬼の国に落ちても、その中の一人でも、名を称えれば、羅刹の難を解脱することができる。そういうように、人の心に応じて、救済の力を発揮するので、観世音と名づけられた。
と釈尊は説明なさるのです。そして、その救済の力はあらゆる所、あらゆる事柄に及んでいるのであることを事細かく説き明かしておられるのです。
″若し復人有りて、当に害せらるベきにい臨みて、観世音菩薩の観を称せば、彼の執る所の刀杖、尋いで段々に壊れて、解脱することを得ん″
この言葉などは有名で、浪曲にまで取り入れられて口々に伝えられています。
羅刹に悩まされた時、鎖につながれた時、賊に襲われた時、中の一人の人でも南無観世音菩薩の名号を称えれば救われる。釈尊は、観世音菩薩摩訶薩威神の力、巍巍たること是の如し、と言っておられます。」
「 釈尊が、でたらめに、観音様の力を称えるわけがありません。これはあに観音様ばかりでなく、神々はすべて、大いなる力をもっておられるのです。私はこうした人類救済の為に働かれる神々のみ名を総称して、救世の大光明と称え、守護の神霊ヘの感謝と共に、世界平和の祈りを、瞬時もかかさず、祈りつづけているのであります。
観音様は三十三身に変じて、人に対するということですが、神々は如何なる人々にもいらっしゃるので、如何なる人々をも、神の子として拝む時、その人は、観世音菩薩の姿を、その人の前に現わすのであります。
大臣にも下僕にも、観世音菩薩はいらしゃるのです。そして、その観世音菩薩を拝みきることのできる人は、どんな人の中からも、どんな事柄の中からも、救いを体得できるし、神のみ心を摂取できるのであります。
神様はご自分の生命を細かくわけて、各星々に人類として誕生なさったのです。地球人類もその一つです。ですから、ご自分のみ心を、人類の中ですっかり現わしきろうとなさっているのです。ところが、神のみ心そのものと、物質的肉体を纏った人類というものとの微妙さが、あまりにも距離があり過ぎて、神と肉体人間との間に何らかの中間的つながりを働かせないと、人類は永劫に神のみ心を現わしきるわけにはゆかなくなるばかりでなく、地球共々滅び去ってしまわねばなりません。
その中間として、人類に援助の力をさし伸べているのが、守護神、守護霊なのであります。観世音菩薩という名もその守護神の一つのひびきに名付けられた名称なのです。
神様の名というものは面白いもので、その形態に名付けられたのではなく、その働きに付けられたものなのです。そうした守護の神霊がそれぞれの働きの面で人類の加護をなしつづけているのです。
私は、一口に守護神と申しておりますが、詳しくは、救世の仕事そのものにたずさわっている守護神と、各個人個人の守護をしつづけている守護神とがあって、地球ばかりでなく各星々の完成を助けて、大宇宙の運行に寄与しているのであります。
個人個人の専属の守護神といっても、常に救世の神々と連けいして働いているのです。いづれにしても、宇宙大神は大愛なので各守護の神霊や天使たちによって、人類を救わずにはおかないのです。そのことを我々人間は、よく知って神の大愛に感謝しながら、生きていかなければならないのです。人間が、神々に感謝しながら、そして、地球の平和を築き上げて行く、もっとも易しい方法が、日々瞬々刻々おかれた生活環境の中で、世界平和の祈りをなしつづけてゆくことなのです。」
本当に、すべての存在の中に観世音菩薩(守護の神霊)を観じ、祈りに入れば、その人は無畏怖の人、絶対なる安心立命の境地に至る、に間違いない。
また、世界平和の祈りは、個人の救われ即人類の救済、に貢献している。今は、地球維新の時代だ。地球以外のはるかはるかに進化した文明との交流が始まろうとしている。その足音を感じるのだ。
世界人類が平和でありますように
昔からいじめの問題はあると思うが、最近は家族につながりが希薄になって、十分な愛情を受けて育つ子供が少なくなっていると思う。
それが弱い子供を創っている。
愛はまさに魂の栄養、滋養、生きる意味そのものでもあるのだ。
その愛が十分注がれない子供の心は、もやしのようにひょろひょろになる。
また、学校が、「人間はいかに生くべきか」、「いかにして愛深い人間になるか」という最重要課題をないがしろにして、肉体生活の安穏だけを考慮した教育をしてきた結果でもある。もうこの辺で、新たな方向を探すべきだろう。
以下が和尚の言葉だが、意味深い。
”愛は心の栄養だ。
今では、心理学者達がそのことを発見している。
もし子供が愛を与えらなければ、その子は自分の中に縮みこまって、弱くなってしまう。
あなたはその子にミルクを与えてもいい。
薬を与えてもいい。あらゆるものを与えてもいい。
が、愛を与えてはいけない。
抱きしめてはいけない。
キスをしてはいけない。
あなたの身体の温かさを感じさせるために近くに抱き寄せてはいけない。
そうすると、その子はどんどんどんどん弱くなってゆく。
その子は生き延びるより死んでしまう可能性の方が高くなる。
何が起こったのか?
何故?
ただ抱きしめ、キスし、暖かさを与えるだけで、
どうしてか、子供は心が満たされるのを感じ、
受け入れられていることを感じ、
愛されていることを感じ、必要とされていることを感じる。
子供は、自分は生きるに値するのだ、と感じ始める。
子供は、人生にある意味を感じ始める。
いいかね、我々は、まさにその子が子供の時から愛に飢えさせている。
我々は、子供が必要とするだけの愛を与えていない。”
生きる意味を失えば、死を考えるに決まっている。
家族が緊密に結びついている社会では、どんなに劣悪な環境のなかでも、自殺は起こりえないと思われる。
大人が愛に満ちた社会を創らない限り、大人一人一人が、愛を放射していかない限り、戦争、暴力、自殺、いじめ、あらゆる犯罪はなくならない。
すべては愛の不足ゆえの自己防衛の姿なのだ。
いじめは、われわれ大人たちに『愛に充ちた社会を創りなさい』とい神からの警鐘であるかもしれない。
因縁生による恋愛
私が「魂からみた恋愛・結婚」の話をすすめていくなかで、是非、多くの方々に解っていただきたい願っていることは、これは、よくある恋愛論のように、恋愛を讃美することではなく、むしろ恋愛は、そのほとんどが過去世からの、お互いの因縁生によって起こってきているものだ、ということです。
勿論、その因縁生が善いご縁のものであるならば言うことはありません。が、この世界はまだ、様々な人間関係のなかで、お互いの因縁生を浄化しながら、自分を、またこの世界の意識をも高めていこうとしている段階の世界なのですから、理想とするような恋愛も結婚も、なかなか得難いのです。むしろ、因縁生の浄化のための恋愛や結婚が多いのです。
そして、その因縁生は、過去世において何らかの形でお互いに関係を持っていた人同志が、そのときに望みを達し得なかったとか、責任を果し得なかった、或いは争い合った仲だったとかの貸し借りがあって、それを果し、浄化するべく、再び今世に巡り合ったのですから、どうしても引きつけ合うのです。
ですから、ただ好きだから、といって結婚したとしても、お互いの因縁生がどのような形で、二人の結婚生活に様々な問題となって現われてくるかわかりません。そのときに、その人がその問題にそう対処してゆけるか、ということが大事なことなのです。
それには恋愛という甘美な相の奥にあって、そうした感情作用する大きな力があることを、知らなければなりません。
そこで、因縁生による恋愛のありかたを、幾つか例をあげてお話してみましよう。そのほうが具体的にどういうものかわかると思います。
例1 どうしても面倒みたい
ある地方から、五十代も半ばと思われるご婦人が、私を訪ねて来ました。
「突然のことで申しわけありませんが、娘のことで思いあまってご相談にあがりました。
娘は現在二十六才になります。先日私の知人から、娘にどうか、といって縁談のお話を頂きましたのですが…。」
そう言って、バッグの中から二枚の写真を取り出しました。それは娘さんと、相手の男性の写真です。私はその写真を手にとって見たとき、まず男性の写真から受けた感じは、たいへん真面目な確りした性格で、将来性もあります。
また、一方のお嬢さんも、性格的にはなかなか確りしたものを持ち、優しさもあり、良いお嬢さんです。二人の魂の釣合いもとれています。
そこで、「このお話は是非おすすめになったらよいと思います。」
と、言いますと、
「はい。私共もそれを望むのですが、実は、娘には好きな男性がいまして、どうしてもその人と結婚したい、と申しまして、この方とのお話にのってこないのです。」
と、言って、もう一枚写真を、私の前に置きました。その彼の写真から受ける印象は、確かにお母さんか心配するように、顔立ちはなかなかの男前ですが、なんとなく頼りない感じです。
「この男性は、お嬢さんの魂と比較すると、かなり幼ないから頼りないはずですよ。もし結婚したら、お嬢さんの持っていらっしやる良い運勢が、この男性によって殺がれる形になり、苦労すると思いますが・・。」
「はい。この男性は、実は私の娘と同じ職場の人なのですが、仕事も出来ないし、あまり評判の良い人ではありません。娘もそのことはよく承知しているようですが、それでも、と言うのです。」
「このような男性を、お嬢さんが好きになったということは、この男性とお嬢さんとの過去世における、なんらかの因縁があって、好きというより、この男性のことを放つとけない、面倒を見たい、お世話をしたいのであって、彼が頼りない存在であるから尚更、そういう感情に動かされるのですよ…。」
「はい。どうしても娘の気持を推し測るとそのように感じられます。」
「こうした因縁生を押しきって、もし二人が結婚したとします。恋愛中は、お互いが自分の善いところを見せ合っていますからうまくいきますが、いざ結婚して一緒に生活し、裸で向き合うようになると、過去世の因縁生か引き出されてきます。いろいろと問題が起ってきたときに、頼るべき彼が頼りにならない。それに、女性の魂に比較して、男性の魂のほうが小さい場合、これは本来からすれば逆の形になります。現代のこの世界はまだまだ男性主導で、社会も家庭も成り立っていますから、女性は夫に頼ろうとします、ところが夫がそれに応えられない、それどころか逆に妻に依存する形になります。
頼りない夫、しかも自分の好き勝手ばかりやって、迷惑をかけ、妻にとっては世話のやける人、となりかねません。 また男性にしてみると、無意識のうちにも奥さんの魂の大きさが圧力となります。
しかし男だから負けまいとする気負いもあり、なんとなく自分の魂に見合った女性を求め、安心感を得ようとするなど、いろいろな問題が起ってきて、離婚という形にもなりかねないのです。
何もすべての恋愛結婚がそうだ、ということではありませんが、一つの例としてあげてみたのです。」
これでは折角、素晴しい男性とのお見合いの話が出ていても、お話のすすめようがありません。
そこで私は、このご婦人に、
「お嬢さんの将来の幸せを考えたら、やはり反対すべきで、ご両親がはっきりと反対の意志表示をして、その間に、出来るだけこの二人の因縁生が浄化されるよう祈って、お嬢さんとも話し合ってごらんなさい。」
と言って、そのご婦人を帰しました。
それからまた数ヶ月経って、そのご婦人が再びご相談にこられました。
そして、
「私たちも随分、娘の気持が変ってくれるようお祈りもし、説得もしたのですが、どうしても娘の気持が変ってくれません。私たちもほとほと困ってしまって、娘の気持を考えると哀れですし、娘もさぞ苦しんでいると思います。私たちも辛いのです。」
そう言って涙ぐんでいます。
「そうですか・・・お嬢さんは魂も大きく確りした性格ですから、ご自分の意志を変えようとなさらないのでしょう。魂の幼い人が自我を張るのと違います。その彼とは余程深い因縁があって、どうしても彼の面倒をみたいのでしょう。それだったらもうここらで、彼との結婚を許してあげなさい。これ以上どちらかが譲らなければ、親娘の縁を切ってもということになるといけませんからね。
ただし、結婚に対する責任は、お嬢さんに持たせることです。結婚してからいろいろと問題が起ってきたときに、自分の責任においてそれを乗り越えてゆく力とするようにさせるためです。でも、どうしても別れる、というようなことになった場合は、それ見たことか、と突っぱねたり、あんなに反対したのにと責めたりしないで、黙って受け入れてあげなさい。大きな体験をしたと思ってね。
このお嬢さんなら魂が確りしているから、自分の成長の糧にしていけるかもしれませんよ。」
その私の言葉で、そのご婦人も、娘さんの結婚に対して観念したようです。
何か月も親娘共に悩み苦しんできたのでしょう、将来に対する不安はあるものの、決心したことによって、心のわだかまりが解けてきたのでしょう。来られたときと違って幾分明るい顔になって、帰ってゆかれました。
このお嬢さんの場合、彼に大きな借りがあるのでしょう。例えば、前世においては親子の関係で、成人になるまで子供を育てなければならない義務があるのに、何らかの事情から子供を手放すとかで、その責任を果たせなかった場合、それが因縁生となって今世、このような巡り合わせによって引きつけ合い、どうしても一緒になって因縁生を果したいのです。でもそうした因縁生のことは当人同志はわかりません。ただ好きだから、どうしても一緒になりたいのです。
だがいざ結婚してみると、様々な因縁生が浄化のために出てきて、
「こんなはずではなかった」と悔むのです。
そんな苦労はさせたくない。
だから反対もするのです。