私は、昔から明治維新の本を読むのが好きで、なかでも山岡鉄舟さんが大好きで、故大森曹玄禅師にもお手紙を書いたことがある。
師の本の中の一冊『山岡鉄舟』にこういう一説がある。
「鉄舟の剣が慈悲の剣であるというのは、ただ単に生涯人を切らなかったというようなことではない。
彼は人が剣の極意を問うたとき、
『観音様に預けてあるから聞いていらっしゃい』と答えたという話であるが、彼の剣こそ、まさしくその「施無畏」の剣である。
「施無畏」というのは、観音経に出ている言葉で、観音菩薩は「怖畏急難の中に能く無畏を施す」とあるそれである。
無畏とは、畏れ無しということで、不安も動揺もないこと、
したがって、それは絶対の安心を与えることにほかならない。
殺伐の剣が、その絶対安心の観音の境に至れば、剣の道は極まったものといってよいであろう。」
沢木興道師の「観音経講和」にはこう書いてある。
「人々に本当の信仰があれば、怖畏急難の中においてよく無畏を施し給う。
浅草の観音さまの額には、この文句が書いてある。
明治時代に釈元恭という坊さんがあった。山岡鉄舟の玄関番をしていた頃、鉄舟に対して剣道の極意を問うたところが、
鉄舟「それは浅草の観音さんにある」と答えた。
そこで元恭、毎日浅草の観音さんへ行ってみたが、どうにも分からない。
鉄舟に聞くと、
「あんな大きな物がどうして分からぬのか」との答えである。『施無畏』という額がある。あれが剣道の極意だ」
「☆地球交響曲の監督、龍村仁さんのお姉さんの和子さんがインドに行ったときのことである。
和子さんはダライ・ラマと謁見し、ヨガの瞑想法を学ぶ予定だった。
ところが毎晩和子さんの夢にマザー・テレサが現れる。
和子さんはマザーに呼ばれたような気がして、カルカッタのマザーテレサ・ハウスに出かけて奉仕活動をすることを決意する。
マザーテレサ・ハウスでの3日目、死を待つ家で奉仕活動をしているときのことだった。
ここは昼夜問わずカルカッタ中の道路や側溝で死にかけている人達を連れてくる場所だ。
和子さんは外から担ぎ込まれてきた女の人の面倒をみることになった。
女性は骨と皮だけで、衣服はボロボロだ。
右胸が破裂していて、生の癌が出ていた・・・
和子さんはその女性の体を洗った。
髪を洗った。
新しい服を着せた。
ベッドに寝かせた。
その女性はその間もずっーと痛み苦しんでいた。
苦しみで顔はゆがみ、恐ろしい形相になっていた。
もはや食物は受け付けずない。
僅かに水を飲むことができるだけだった。
和子さんはその女性に一晩中付き添った。
彼女が苦痛でウーンウーンと大きな唸り声を絶えず出す。
和子さんが背中をさすってやると楽になるのか静かになる。
そのうちその女性は手を差し伸べて、和子さんの手を握った。
そして和子さんを見つめて何かを言った。
言葉が判らなくても和子さんにはその女性が言いたいことがわかった。
「ありがとう」
この女性が和子さんに何度も何度も同じ言葉を繰り返すうち、不思議な現象がおきた。
末期の痛みと苦しみで、恐ろしいほど歪んでいた顔が徐々に静かで平和な表情に変わり始めたのだ。
そして幸せの顔に変わったのだ。
今のこの女性にあるものは「感謝」だけだ。
「感謝」はする方もされる方も「感謝」になる。
この女性からの「感謝」に感謝する「幸せ」に和子さんの涙が止まらなくなった。
ああ、命をかけてこの事を私に教えてくれるため、この女性(ひと)は私の前に現れたのだ。そしてマザーはこのことを学ばせるために私をここへ呼んだのだ。」
五井先生のご本にはこう書いてある。
「 ここでちなみに、法華経の中の観世音菩薩普門品を取りあげて説明してみましょう。釈尊と無尽意菩薩との問答形式になっていて、観世音菩薩のこのを説明しているのがこの普門品です。易しく書いてみます。
全章すベて、観世音菩薩の救済力の偉大さについて書かれているのですが、どういう救済力なのか、その幾つかを挙げてみましょう。先ず最初に、何故観世音と名づけるのか、と無尽意菩薩が聞くのです。すると釈尊は、
″善男子、若し無量百千万億の衆生有りて、諸々の苦悩を受けんに、是の観世音菩薩を開きて、一心に名を称せば、観世音菩薩、即時に其の音声を観じて、皆解脱することを得しめん″
という言葉につづいて、観世音菩薩の名を保つ者は、火にも焼かれない。大水にあっても、その名号を称すれば、浅き処を得る。また羅刹鬼の国に落ちても、その中の一人でも、名を称えれば、羅刹の難を解脱することができる。そういうように、人の心に応じて、救済の力を発揮するので、観世音と名づけられた。
と釈尊は説明なさるのです。そして、その救済の力はあらゆる所、あらゆる事柄に及んでいるのであることを事細かく説き明かしておられるのです。
″若し復人有りて、当に害せらるベきにい臨みて、観世音菩薩の観を称せば、彼の執る所の刀杖、尋いで段々に壊れて、解脱することを得ん″
この言葉などは有名で、浪曲にまで取り入れられて口々に伝えられています。
羅刹に悩まされた時、鎖につながれた時、賊に襲われた時、中の一人の人でも南無観世音菩薩の名号を称えれば救われる。釈尊は、観世音菩薩摩訶薩威神の力、巍巍たること是の如し、と言っておられます。」
「 釈尊が、でたらめに、観音様の力を称えるわけがありません。これはあに観音様ばかりでなく、神々はすべて、大いなる力をもっておられるのです。私はこうした人類救済の為に働かれる神々のみ名を総称して、救世の大光明と称え、守護の神霊ヘの感謝と共に、世界平和の祈りを、瞬時もかかさず、祈りつづけているのであります。
観音様は三十三身に変じて、人に対するということですが、神々は如何なる人々にもいらっしゃるので、如何なる人々をも、神の子として拝む時、その人は、観世音菩薩の姿を、その人の前に現わすのであります。
大臣にも下僕にも、観世音菩薩はいらしゃるのです。そして、その観世音菩薩を拝みきることのできる人は、どんな人の中からも、どんな事柄の中からも、救いを体得できるし、神のみ心を摂取できるのであります。
神様はご自分の生命を細かくわけて、各星々に人類として誕生なさったのです。地球人類もその一つです。ですから、ご自分のみ心を、人類の中ですっかり現わしきろうとなさっているのです。ところが、神のみ心そのものと、物質的肉体を纏った人類というものとの微妙さが、あまりにも距離があり過ぎて、神と肉体人間との間に何らかの中間的つながりを働かせないと、人類は永劫に神のみ心を現わしきるわけにはゆかなくなるばかりでなく、地球共々滅び去ってしまわねばなりません。
その中間として、人類に援助の力をさし伸べているのが、守護神、守護霊なのであります。観世音菩薩という名もその守護神の一つのひびきに名付けられた名称なのです。
神様の名というものは面白いもので、その形態に名付けられたのではなく、その働きに付けられたものなのです。そうした守護の神霊がそれぞれの働きの面で人類の加護をなしつづけているのです。
私は、一口に守護神と申しておりますが、詳しくは、救世の仕事そのものにたずさわっている守護神と、各個人個人の守護をしつづけている守護神とがあって、地球ばかりでなく各星々の完成を助けて、大宇宙の運行に寄与しているのであります。
個人個人の専属の守護神といっても、常に救世の神々と連けいして働いているのです。いづれにしても、宇宙大神は大愛なので各守護の神霊や天使たちによって、人類を救わずにはおかないのです。そのことを我々人間は、よく知って神の大愛に感謝しながら、生きていかなければならないのです。人間が、神々に感謝しながら、そして、地球の平和を築き上げて行く、もっとも易しい方法が、日々瞬々刻々おかれた生活環境の中で、世界平和の祈りをなしつづけてゆくことなのです。」
本当に、すべての存在の中に観世音菩薩(守護の神霊)を観じ、祈りに入れば、その人は無畏怖の人、絶対なる安心立命の境地に至る、に間違いない。
また、世界平和の祈りは、個人の救われ即人類の救済、に貢献している。今は、地球維新の時代だ。地球以外のはるかはるかに進化した文明との交流が始まろうとしている。その足音を感じるのだ。
世界人類が平和でありますように