魂からみた恋愛・結婚 #1・・・恋愛 | tablaboyの道日記

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祈りによる世界平和運動、祈り研究をライフワークとし、音楽、散歩が趣味です。音楽に関する記事、スピリチュアリティーに関する記事、祈りに関する記事、随時アップしてゆきますので、楽しんでください(^^♪ 世界人類が平和でありますように

パートナーは、どういう基準で選んでいるのでしょうか。
顔でしょうか、身長でしょうか、収入でしょうか、将来性でしょうか、性格でしょうか・・
人それぞれですが、それはやはり潜在意識の波長と同調する人だと思います。
また、異性に憧れを持つ要因として、父親のイメージ、母親のイメージがあると思います。このお話のなかでは、「恋愛」についていろいろお話してくださっています。

第一章 魂からみた恋愛

 恋愛
                
「恋愛」という言葉には、ロマンチックなひびきがあり、若い人ならば誰もが素敵な彼氏、或いは彼女と熱烈な恋愛をしてみたい、と夢見る人が多いと思います。                     
 「恋に落ちる」とか「一目ぼれ]などという言葉があります。                    
 ある日、ある時、不思議な縁の赤い糸に導かれて、未知であった二人が巡り合い、心の中に密かに求めつづけてきた人が、いま現実に目の前に居る。そんな新鮮なショックをともなって、その人の面影が自分の心を占領してしまう。こうして二人が恋に落ちる。
 或いは、このような「一目惚れ」という形をとらず、長いこと身近な存在として見ていた人が、いつの間にか自分にとって大事な人として、心を占めていたことに気付き、恋愛感情に入ってゆく、ということもありましょう。
 いずれにしても人を愛するということは、その入自身の命を目覚めさせ、活性化します。細胞も生々としてきて、驚くべき変容が起ります。特に若い女性が恋をすると、まるで皮膚の内側から光が照り映えるよ与に、「あら!」と、驚くほど美しくなります。   
 また、恋する者の目には、あらゆるものが鮮やかに光り輝いて、自然も空気も、見馴れていたはずの風景までもが、新鮮に生きづくように見えてきます。恋をすると若返ります。
 だから恋愛は生の歓喜です。愛する者のすべてを受け入れようと、個から他者へと命がひろがっていきます。けれどそれはまた二人だけの世界をつくろうとします。                      
 こうした恋愛のありかたを、昔から小説や映画や芝居で美化し、純愛やな愛の物語りで、多くの人々に涙と感動を与えてきたのです。ですから若い人たちは、恋愛にいっそう憧れるのです。
 だからといって、誰もが恋愛できるのか、となると、そうはゆきません。恋はできるけれども恋愛というのは相手があってのことですから、いくら恋愛に憧れ、恋愛、恋愛と願ってみたところで、相手がいなければ恋愛の仕様もないわけです。
 ですから大方の人々は諦めて、誰かの紹介によってお見合いをし、結婚する、ということになるのです。
 「お見合いなんて嫌よ、私は絶対恋愛結婚をします。」
と宣言し、お見合いの話には一切耳をかさぬ女性もいます。だが、その女性が望むような素晴しい男性が現われてくれればよいが、いくら待っても理想の男性は現われてくれない。歳は容赦なくどんどんとってゆく、不安と焦りに耐え切れず、自分をごまかし、妥協して
理想とはほど遠い男と結婚に踏み切る、ということにもなり兼ねません。
 或いはまた、恋愛を美化し、空想を逞しくして、白馬の王子様のイメージを作り上げてしまったため、この世の男性は誰も彼もみんな貧乏たらしくて頼りなく、だれも自分の夢の男性像の規格に合わなくなって、結婚にますます縁遠くなってしまう女性もいるでしょう。こうして、誰もが恋愛を夢見ながら、夢が夢のままに終ってしまうことが多いのです。
 この世界に、何十億もの人類がいるというのに、選りに選って、二人が愛し合うということは、余程の縁があってのことです。

 擬似恋愛

 現在は昔と違って、男女の交際も自由な時代ですから、恋愛も自由です。自由なだけに節度というものも薄れて、簡単に好きになり、付き合ったかと思うとすぐ厭きてしまって、次々に相手を変えてゆきます。そして自分は情熱のおもむくままに恋に生きている、などと好き勝手なこどを言う人たちもいます。が、これは、ファッション感覚で恋愛ごっこをしているようなしのです。
 恋愛を恋愛する、要するに自分で勝手に恋愛感情をつくりだし、それに酔い痴れているようなものです。これは恋愛とはいえません。自分の感情を満足させるために、相手が自分のファッション感覚に合っていればよいのです。相手を好きだ、ど自分を錯覚させて恋
愛感情を楽しんだり、失恋して悲劇のヒロインを演じてみたりしている人たちもいます。
これは擬似恋愛で、恋愛とは似て否なるもの、つまり恋愛ごっこをしているのです。
  「へえー! あのご面相で…。」
と陰口たたかれながら`結構派手に`複数の男性と楽しく遊びまわっている行動派。
 「あの女性はあんなに美しいし魅力もあるのに、何故…。」
ふ、周囲の人々が不思議に思うほど、ポーイフレンド一人できない女性。美しいから恋愛できるというものでもないのです。
 男性でいえば、仕事もきちんどこなし、真面目で上らの受けもよく、見てくれも悪くないのに、女のひとに縁のない男性。
仕事も好い加減、遊びごどならなんでもOK、それでまた女性にもてもての男性もいるのです。現代は自由 な時代どいっても、恋愛のできる人、できない人、 それは昔も今も変りないのかもしれません。
こうして例をあげてみてきましたが、恋愛できるかできないかは、その人その人の性格的なものもあるでしょうが、やはり恋愛するには、それなりの因縁のある人同志が引きつけ合うことによって、起ってくるものだということです。
ところが、この因縁なるものが問題なのです。
何が問題なのかといいますど、その因縁が善い因縁であったなら、理想的なカップルとして、お互いに助け合い、愛し合える結びつきとなるでしょうが、もし悪い因縁での結びつきの場合、それは前生の生きかたの中で、何らかの貸し借りがあって、それを今生で清算しようとして、無意識のうちにお互いに引きつけ合うのです。それが結ばれるために。
 「好き、あの人でなければ…。」
という形をとるのです。
 まわりから見て「なんであんな人を」と思うような人を好きになり、周囲の反対を押し切ってまで結婚し、いざ一緒になって生活してみると、お互いのわがままが剥きだしにな。り、そこに過去世からの因縁生、つまり前生において、お互いに果たさねばならなかったものが、修正のために現われてきて、二人の問に様々な不調和な問題が起ってきます。それらの問題に対処し切れなくなって、縺れた揚句に離婚をする、といったことも多いのです。そういうことを考えますと、恋愛をロマンチックで素晴しいとばかりは言えません。

 只今欲楽中

 仏教では、現象世界における人間の愛の行為を業(現在の環境を決定し、未来の運命を定める善悪の行為)と観ています。何故なら肉体人間の行ずる愛は、すべて自己中心的なものだからです。
 そこで、人間の愛の行為を五つのありかたに分けて説いております。

愛・・・自己・血族・親族に対する血縁的愛情。
親愛・・・他者に対する愛。(友情)
欲楽・・・特定の人に対する愛。(恋愛)
愛欲・・・性的愛
渇愛・・・病的な執着になった愛。
 (新仏教辞典・中村 元監修・誠信書房)


 この人間の五つの愛のありかたについては、後でもっと詳しく「慈悲」についての話の時にしたいと思います。今は恋愛についてのお話ですので、この五つの中の真中の欲楽だけを取り上げてお話してみます。
 恋愛、つまり特定の人を愛する愛のことで、それを仏教では「欲楽」と謂っています。「只今恋愛中」なら、ロマンチックに聞えますが、「只今欲楽中」では、まったく夢もない、欲望まる出しのような感じで、熱も冷めてしまいます。
 現代では昔のような純情さは失われてきて、人間が功利的になってきていますから、愛する者のためには生命も捨てて、などと言ったら随分古風な、と思われるかもしれません。「愛はすべてを惜しみなく与う」ではなく、「愛はすべてを惜しみなく奪う」のが、大方の愛のありかたになっているのが今日です。
 恋愛は融合であり、新しい世界を創造する力がある一方、分離も破壊も内に秘めています。すべてを与え合えば愛の創造が生れ、愛するあまり性急に相手を貪り尽そうとすれば、やがて分離と破壊に至るのです。
 小説や映画や芝居の中で美化された恋愛をそのまま、この現実の世界にもってきて夢見ても、現実の世界では様々な柵や、因縁生に支配されていますので、夢見たような恋愛が成就することの可能性は、なかなか難しいのです。
 「只今、恋愛中」で燃えている人に、頭から水をかけるようなことを言って申しわけないことですが、恋愛という言葉の甘いひびきに酔わないで、もっと真実を観て、自分にふさわしい相手を選んで欲しい、と願っているわけです。