私は先に、普遍存在としての霊魂、言い換えれば神、からの啓示を否定してしまえば、人間の持ちうる宗教の少なくともその半分を失ってしまう、と申しました(本ブログ・その71) 。 その文意は、啓示には、天啓、神託、開示、密語、その他、多くの同義語がありますから、人により、宗教により、こうした別のことばを充てるのが相応しいことになります。 人間を超える存在から人間に与えられる啓示を大切にしたいと思います。
そのことは、反面、人間の方から神に向かう神学と宗教を否定してしまうなら、これまた人間のもちうる神学ないし宗教の後半分を捨てることになってしいます。実は、そのことを皆様に問 いかけたかったのです。人間が人間を超える存在の啓示を求める探求行為を同様に大切にしたいと思います。
人から神への方向の神学を能動神学と呼び、神から人への神学(神教というべきか)を受動神学と呼び、この二方向の神学をいずれも、私たちは同等に大切にするのがいいと思うとの検討も本ブログで試みました(その32)。
その点、何度も引き合いに出しますが、「神は人の敬によって威を増し、人は神の徳によって運を添う」という御成敗式目のことば(本ブログ・その06他)は、神と人との相互関係性についての人としての信心を、これ以下の言葉数では表現しえない最小限の言葉で表現しえていると思います。 私は、はるか遠い昔から続く神道神学が、この一言に結晶しえた神探求の歴史と実績を持つことを、日本人としての精神的誇りとも支えともして、大切にしていきたいと思います。 人から神へ、そして神から人へ、この双方向において、神と人は相互に働き合う、この信心を、日本人は何千年から何万年にわたる日々の生活のなかで、確認してきたのだと、私は思います。
啓示神学に対する自然神学という対比構図は、神と人との関係の歴史と可能性に対して、公正さや公平さにおいて問題がある、ということも論じました(本ブログ・その06)。
なぜ、そのことにこだわるか、検討しておきます。パスカルの『覚書』のなかの、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神にして、哲学者と学識者の神にあらず」という言葉をどう解釈するかの問題になります。
この言葉は一見説得力があります。しかし、その通りですとして、神学研究をその先へ進めることを止めてしまうなら、それは神学の現実認識や公正さにおいて問題が残るからです。この言葉は、旧約聖書や新約聖書の神のみが真の神だという主張のようにさえ響きます。万人がそれで承服するでしょうか。 パスカルに、それでは、「イエスの神はどうなのですか」と問いたいです。 パスカルは、
旧約聖書の「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。」とモーセが聴いた神の言葉(『出エジプト記』3:15)を踏まえているわけですが、新約聖書には、イエスが十字架にかけられて死ぬ直前、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と神に向かって叫んだ場面(『マタイ』27:46)があります。 イエスがこのように呼びかけた神は、どういう神でしょうか。
モーセに語りかけた神は、はっきりと、「イスラエル人の神」と名のっています。それに対して、イエスが訴えかけた神は、イエスからすれば、そういう限定を超えているのではないでしょうか。
イエスのことばとして、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」(『マタイ』5:45)とあります。この神は、公平性・公正性の広さや大きさにおいて、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とは違うと思います。
そして、イエス自身、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(『マタイ』7:7)と言っています。
この言葉は、哲学者の神や学識者の神ばかりでなく、漁夫の神、農夫の神が、あるいは、ローマ人やギリシャ人の求める神など、その例示をどんどん並べてゆけば、日本人その他世界中の諸々の人々の求める神が、イエスが十字架上で「エリ」と呼びかけたその同じ神に通じうることを意味してはいないでしょうか。