鈍にして渋なることを自覚しつつも、一言付け加えておきます。それは、啓示とはいかなるものかについて、世界の諸宗教が、理解し合う日が来ることを切に願うがゆえです、と申しておきます。
『日本書紀』において、「かみ」と訓読されていることばの最初の記事は、巻第一 神代上の「故、天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖、其の中に生れます」の「神聖」であり、「神聖」ということばが「かみ」と訓読されていること、これが『日本書紀』に最初に出てくる「かみ」であることを前々回(本ブログ・109)、話題にしました。
これは、神と人との関係記述としては、人からすれば、神の存在を人がはっきりと認識し、経験したことを記したことばです。この場面は、言い換えれば、神の顕現を記録したものです。ということは、世界的な宗教間対話の席において、神学用語を使って表現するならば、それは、エピファニーと呼ばれる場面の記録でもあります。もし、エピファニーということばが、特定の宗教色を強く感じさせるとしたら、別の言い方にかえて、テオファニーと呼ばれる場面です。
人によっては、神道神学においては、啓示はない、と認識しているかも知れません。しかし、それは、神道についての根本的な誤解をしていると言わなければなりません。
また、人によっては、日本の神道においては、啓示があるとしても、それは、せいぜい自然的啓示どまりだ、と言うかもしれません。
では、自然啓示は、それ以外のどんな啓示と対比して、そう言うのでしょうか。神の自己啓示、特殊啓示などとくらべて言うのでしょうか。
私はお聞きしたいです。自然啓示は、啓示であるからには、神からのものではありませんか、と。啓示は、人間に対する神由来の知であり、予告や約束であり、戒めであり、怒りであり、教訓であり、宣言であり、などでしょうが、一つの例外もなく、神のもの、であるときに、啓示ということばを使うのではないでしょうか。
そうであれば、神の啓示(神託、預言、開示、黙示など、数多くの呼び方があります)は、すべて、神と人との関係においては、決して無時間的なことではなく、少なくとも人間側のこととしては、一つ一つの啓示は、いつか、どこかで、だれかに示された個別の啓示であるという出自は動かしようもありませんし、それが間違いだというのであれば、啓示論はやる必要もありません。
「天先づ成りて地後に定る。然して後に、神聖、其の中に生れます」という記述は、神代のこととしかなっていないわけですが、歴史上の時間特定ができないこと、平成○○年のことなどとなっていないことは、啓示の伝承として、少しも、その啓示経験の価値を下げるものではありません。世界のいくつかの啓示伝承と比べてみても同然です。 この啓示記録は、たった一回のことではなく、ただ一人の経験でもないかもしれません。この秋津島に生きていた何千何万人もの人々が、幾歳月にもわたって共有してきた神認識と経験を集約することばとして読むべきかもしれません。遠き日々のご先祖の皆さまのかみに対する確信の結晶語として読むのはどうでしょうか。